…30…
あれはきっと、自分の中にある疑惑を振りほどきたかったのだ。
額に残るけだるさにさいなまれながら、甲斐はなかなか瞼を開けることができなかった。
木戸の向こうで、小鳥のさえずりが聞こえる。もうとっくに夜が明けている。それなのに、身体は鉛のように重くしとねに沈んでいた。
……駄目だ、まだ目覚めることができない。
ずるずるとふたたび眠りの中に吸い込まれそうになったとき、表から荒々しく木戸を叩く音がした。
「……兄上、兄上っ! いらっしゃったら、ここを開けてください……!」
美津の声だった。
いつになく慌ててる様子で、その動作にも落ち着きがない。余程のことがなければ取り乱すような妹ではないはずなのに、どうしたのだろう。
ふと不安が胸を過ぎり、ハッと目が開いた。寝所は天窓から注ぎ込む光で白く満たされている。
「……あ……」
喉の奥からかすれた声がした。
――妻が、いない。
自分の傍らにはもちろん、となりのしとねにも、当然あるはずの姿がなかった。甲斐は自分の置かれた状況が掴みきれず、のろのろと身体を起こす。寝間着を羽織っただけの上体が冷ややかな気に包まれて、一気に震え上がった。
素肌には、まだ昨日の荒々しさが残っている。
感情の赴くままに互いを求め合った、あてどない時間。途中からは躊躇いも不安も消え、行き着く場所を探してどこまでも漂っていた。
妻は相当に辛かったと思う。それを十分わかっていても、止まることはできなかった。
すれ違いを続け、大きく離れていったふたつの心。もしももう一度しっかりと重ね合うためには、生半可な決意で臨むことはできない。
彼女の方もそれがわかっていたのだろう。こちらが少しでも躊躇の色を見せて身体を引けば、自分の方から寄り添ってくる。そのいたいけな姿が愛おしくて、たまらなくなった。
自分が大きな過ちを犯してきたということは、すでに身をもって思い知っている。
だが、妻はそんな愚かな男をすべて受け入れ、許してくれるのだ。肌を重ねることで、はっきりとそれを感じ取ることができる。
何度目かの精を妻の中に吐き出したあと、震える身体をしっかりと抱きしめて眠りについた。
……そう、確かに。妻はこの腕の中にいたはずなのだ。
「兄上――」
「わかった、すぐに開ける」
気持ちは落ち着かないままであったが腰を上げ、寝間着を軽く整える。表の木戸には鍵が掛かったままだった。
「――どうした?」
なるべく動揺を見せないように心がけた。しかし、それでも声の震えは隠しようがない。
「その……咲さまがいらっしゃらないのです」
すでに方々を探し回ったらしく、草履が泥に汚れていた。
「咲が……?」
「村の者たちから言付けがあったので、お目覚めになったらすぐにお伝えしようと夜明けと共にこちらに参ったのです。そうしたら履き物が見当たらないので、きっと外にいらっしゃるんだろうと思ったのですが……いったい、どちらへ」
「裏山にも畑にもいないのか?」
思い当たる場所はすべて見回っただろうから、わざわざ確認するまでもないだろうとは思う。美津もすぐに頷いた。
「……そうか」
そこで、甲斐は改めて寝所を見渡す。すると、手で抱えられる程の小さな行李がいくつかなくなっている。昨日の午後までは確かにこの場所にあったはずだ。
美津も躊躇いつつ、縁から上がってくる。そして、勝手知ったる場所を控えめに確認して回っていた。
「兄上……咲さまの菅笠がありません! それから、山歩き用に新しく作った草履も……!」
甲斐は思わず自分の耳を疑っていた。
そんなはずはない。自分たちは昨夜、固く結ばれたはずだ。そこに至るまでは長い道のりであったが、やっとすべてを分かち合うことができたと思った。
今朝目覚めたら、もう一度今までのことを詫びよう。そして、この場所からやり直すんだと決めていた。
美津はその場にへなへなと座り込むと、呆然と壁を見つめている。
「……どうした?」
甲斐の問いかけに、彼女は大きく頭を振った。
「咲さま、村の者たちにこの時期の山歩きのことをあれこれ訊ねていたそうなんです。聞かれた者も始めは不思議に思った様子ですが、行商の者や自分たちが往来する苦労を労ってくれているのだと判断したとか。……でも」
人一倍責任感の強い妹だ。自分がなにも察することができなかったことを後悔しているのだろう。ここでさらに不安を煽ってはならない。
「あの者のことだ、またなにか思いついたことをひとりで実行に移そうとしているのだろう。そのように心配せずとも、すぐに戻ってくるだろう」
「……兄上」
「私も急ぎ支度をして、馬を走らせてみよう。また、無茶をされると厄介だからな」
こちらを見上げる美津の眼差しは、未だに不安の色を濃くしたままだ。
「急ぎ、朝餉の膳を運んでくれるか?」
努めて明るく声を掛けると、彼女は力なく頷いた。
美津の背中を見守ってから、甲斐は衝立の影で寝間着を脱ぎ捨てる。
いきなりこんな事態に巻き込まれるとは思っていなかったが、きっと大事はないだろうと自分に強く言い聞かせる。今まで妻に対して不審の念を抱いたことは何度もあった。しかし、そのすべては杞憂に終わっていたではないか。
妻は疑ったことを本当に申し訳なく思ってしまう程に、いつも自分のことを想ってくれていた。今回もそうであるはずに違いない。
「……?」
枕元に畳まれていた着替えを広げると、一通の書状が出てくる。それは、西南の大臣家より妻に届けられたものであった。
なにかの手違いで紛れてしまったのだろうか。妻宛の文を断りもなく読むことはできない。そう思って、そのまま見過ごそうとした。
しかし、次の瞬間。
文はまるで自分の意志でも持っているかのように、ぱらりと大きく開く。
人を人とも思わない無骨で非情に書き殴った墨文字。これは西南の大臣の直筆に違いない。
あの者は上に立つ立場にあるに関わらず、ほとんどの書状を自らの筆でしたためる。確かにこの威圧的な文字構えは他の誰にも出せないものであろう。
感情の赴くままに書き殴ったかのように見える筆致であるが、それでも彼の文は読みやすい。年少の頃より相当の手習いを受けたのだということはすぐにわかる。
「……えっ……」
目の前に突きつけられてしまえば、否応にもその内容を確認するしかない。
一読して、甲斐は言葉を失っていた。
馬が進めるのは山道の入り口までだ。
そこまでの道中でどうにかたどり着けないかと期待したが、それはなかった。
いったい、いつの間に出て行ったのだろう。かなり無理をさせたのだから、すぐには動くのも困難だったはずだ。どこにそんな気力が残っていたのか、それがわからない。
甲斐は馬から下りると、木の枝に手綱を結んだ。そして、そのままためらいなく山に分け入っていく。
美津に行き先は告げなかった。それがわかれば、彼女はまた心配をする。朝餉の膳を手にやってきた妹に、すぐに戻るからと声を掛けた。
――しかし、どうして。
さまざまな気持ちがせめぎ合い、今も収拾がつかないままだ。当然とも思えるし、意外とも思える。ただひとつわかっているのは、このまま妻を行かせるわけにはいかないということだけだった。
こちらは馬で追いかけてきたのだ。女子の足になら、追いつくまでにはもうあまり掛からないはずである。
その予想どおりに、つづら折りの道をどんどん分け入っていけば、すぐに白い背中が遠くに見え隠れするようになった。
「……っ」
声を上げようとして、すぐに思い直す。向こうは慣れない足下に必死で、追っ手が迫っていることも知らない。それならば、もう少し追いついてからのほうがいい。
遠目に見ても、杖の使い方すらおぼつかない。平地暮らしに、冬の山道が辛いはずはないのだ。しかし、甲斐にとっては勝手知ったる場所。目をつむったって、駆け抜けることができる。
妻はまた一歩進む、でもすぐに足下が滑り引き戻される。それでも懲りることもなく、また一歩踏み出そうとした。
これから日が高く上がれば、凍り付いていた泥がわずかに溶け、さらに歩きにくくなる。そのことも事前に村人から聞いていたのだろう。だから、こんな早朝を選んだのだ。
白い手袋にも無数の泥が飛んでいる。妻は、初めて甲斐の目の前に現れたその時と同じ装いをしていた。こうして眺めていると、まるで来たばかりの道を引き返しているかのようだ。
――こうなることを、自らが望んでいたとは。
ふたたび、絶望が胸をどす黒く染め上げようとする。しかし、甲斐はそれを必死に振り払い、自分のすべての想いを込めて、妻の名を呼んだ。
「――咲っ!」
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