…31…
刹那、白い背中が大きく揺れた。そして、そのままずるりと倒れ込んでしまう。
予想だにしなかったことに驚いて、足を滑らせてしまったのだろう。
菅笠の下、白い顔がこちらをチラと振り向く。しかし、次の瞬間にはなにもなかったかのように立ち上がり、山道を登り始めた。
「咲っ、聞こえないのか!? 咲っ、……咲……!」
覚えたばかりの歌声を必死に繰り返す春告鳥のように、甲斐は必死に妻の名を呼び続けた。だが、彼女は二度と振り向くことはない。それどころか、山を登る足はさらに真剣さを増したようにも見えた。
妻が、この土地から出て行こうとしている。
その事実を目の当たりにし、目の前が真っ暗になる。あれほどまでに民のことを想い、心を砕いてきたはずの彼女が、どうして皆の信頼を自ら裏切ろうとするだ。
妻の気持ちがわからない、昨夜は身も心もひとつに溶け合うことができたと思ったのに、それもこちらの一方的な思いこみであったのか。
――このまま、黙って見逃すべきなのか。
多くを望まない妻が、初めて真に願ったことなのだ。それならば、黙って受け入れる他ない。
そうは思うが、どうしても納得がいかない。どうしても行くというのなら、それでもいいだろう。しかし、なにも伝えないまま終わりにしていいものなのか。
甲斐はその場にしっかりと立つと、大きく息を吸って吐いた。今このときに取るべき行動を誤ったら、一生を後悔のうちに過ごすことになる。
足の裏にぐっと力を込める。甲斐はそのまま山道を一気に駆け上がった。
山歩きは子供の頃から得意だった。どんなぬかるんだ道であっても、自分に味方してくれると信じられる。杖など使わずとも、どんどん足は先に進む。
妻の背中が瞬く間に近づいてくる。こちらの足音も、すでに耳に届いていることだろう。しかし、彼女はそれでも歩みを止めることはない。三歩に一歩は足を滑らせながらも、果敢に前に進もうとしていた。
甲斐は一度、道を逸れる。そして、一気に妻を追い越し、その行く手を遮った。
「……っ……」
突然のことに驚いた、妻の足下が滑る。彼女は泥の中に膝をついて倒れ込み、すでに元の色がわからなくなるほどに泥にまみれた裾を恨めしげに見つめた。
地に着いたままの腕を掴み、強引にこちらへ引き寄せる。
「どうして、出て行く」
腕を取られたまま、妻の身体は一瞬大きく揺らいだ。すぐには顔を上げようとしない。ふたりの間を凍り付いた気がさらさらと流れていく。
「西南の大臣様より、お召しがございましたので」
妻はこちらを見ないまま、それでもはっきりそう告げた。どうしていまさらそんなことを訊ねてくるのかと言わんばかりの口調だ。
甲斐はすぐに、先ほど目に焼き付けた文の内容を反芻する。確かにその言葉どおりであった、急ぎ暇を告げて大臣の館に戻るようにと綴られていた。
「……お前は、あの者の言うことになら、なんでも従うのか!? そのように根無し草のようにふらふらと生きていて、なにが楽しいのだ……!」
深い憎悪は今も甲斐の根底に息づいていた。西南の大臣を許すことはできない、あの者こそが諸悪の根源だ。もしもわずかばかりの温情を持ち合わせてくれたなら、両親も長兄も命を落とすことなどなかったのだ。せめて彼が、民衆の嘆きに耳を傾けるだけの度量をわきまえていたのなら。
「大臣様のお言葉は絶対です。一度お決めになったことを、覆すことなどできません」
妻の声は凛としていた。すでに覚悟を決めているのだ、そのことがはっきりと伝わってくる。ゆっくりと顔を上げる、その瞳には揺るぎない色が宿っていた。
「その手を離してください。わたくしは日が昇りきる前に、山を越えなければなりません」
無理にでも束縛を振りほどこうとする妻に対し、甲斐はさらに握りしめた手に力を込めた。
「そんなことはさせない、お前は私の妻だ。こんな身勝手な行動を許すことなどできるか……!」
どうにかして思いとどまらせたい、そう願いつつも方法がわからない。口から飛び出すのは、方向違いの言葉ばかりだ。
「口で言っても聞かないなら、力ずくでも連れ帰るぞ。どうして、そのように強情なのだ、そこまで私の妻であることが嫌なのか……!」
すべては自分に責任がある、最初に妻を突き放したのは自分の方だ。なにひとつ、寄り添う努力もせず、それでもいつまでも側にいてくれるのだと信じ切っていた。
なんて浅はかであったのだろう。人としての心を持っているならば、あの状況に耐えきれるはずもない。それなのに、妻に限って自分を裏切ることはないと高をくくっていたのだ。
妻は真っ直ぐな眼差しでこちらを見つめている。やがて、昨夜は絶えず甘い喘ぎを漏らしていた口元から、思いがけない言葉がこぼれた。
「これが……皆が幸せになれる唯一の方法です」
「え……」
「なかなかお許しが出ずに、暇が掛かってしまいました。でも、ようやくそれも終わります。この先は、皆が納得する幸せを手に入れることができます……長いことお待たせをして、申し訳ございませんでした」
いったい、どういうことなのだ。妻の言葉の意味がさっぱりわからない。
しかし、妻の方はそんな甲斐の戸惑いこそが理解できないらしい。一点のよどみもなく澄み切った濃緑の瞳がわずかに揺れた。
「望まれない存在であることはわかっておりました。初めてこの土地を訪れたときの皆の戸惑いの理由も、すぐに察することができました。それなのに……わたくしひとりの力ではどうすることもできず、このように無駄な時間を過ごすことになってしまいました。どんなに厭われようと、当然です。わたくしは、あなた様にとって招かれざる客でしかなかったのですから」
すべての感情を取り払おうと努力しているようだ。それでも、かすかに声が震える。それが妻の中にある躊躇いであってくれればと甲斐は願った。
「それは……お前のことをなにも知らなかったからだ。それに館の者も村の者も、一様に私に従っていたまでではないか。今では皆がお前を頼りにしている、もしもなにも告げずに出て行かれたりしたら、残された者たちはどんなに嘆くだろう。それもわからないほど、お前は薄情者なのか」
妻の口元がかすかに歪む。しかし、次の瞬間には柔らかい微笑みの表情に変わった。
「あなた様には、大切な御方がすでにいらっしゃるではありませんか。わたくしなどいなくなったところで、誰が嘆くことがございましょう。わたくしという邪魔者が消えれば、今度こそ皆の心に真の幸せが舞い降りるはずです」
「……大切な……?」
それは目の前の妻をおいて他にはいない。心から欲し、ようやく手に入れた宝なのだ。どうしていまさら、手放すことができる。
戸惑う甲斐を目の前にしても、妻の表情は揺るがない。すでにすべてを受け入れてしまった心は、森の奥の湖のように静かで波風ひとつ立っていなかった。
「わたくしが訪れる前にすべてを戻すことができれば、それでいいではありませんか。確かに失った時間は二度と戻ってはきません。それでも……この先は誰も憂うことなく過ごせるでしょう」
「咲、それはどういう――」
「離れ館の御方と、どうかお幸せになってください」
妻の腕が、甲斐の手をすり抜ける。その言葉がなかなか受け取れずにいるうちに、妻は甲斐の横をすり抜けようとした。
「離れ館の……どうしてそのようなことを言うのだ」
確かに誤解されるような振る舞いはしてきた。でも、最近でははっきりと改めたではないか。あの侍従長がなんと言おうが、甲斐は二度とあの館で夜を過ごすつもりはなかった。誰にどう思われようと構わない、自分の気持ちに素直にならなくては。
「皆が望んでいることではありませんか、世の倣いでもそうなることが当然です。いまさら、誰が異を唱えることなどございましょう」
こちらに背を向けたまま発せられる言葉に、少しの乱れもないことが辛かった。
それほどまでにお互いの心の溝は深いものになっていたのか。もうなにを告げたところで、妻の心には響かないのか。
嫁いで間もなく夫である長兄を亡くした義姉を譲り受けることは、周囲の皆の暗黙の了解ではあった。しかし、初めからあまり気の進まぬことであったのも事実である。
確かに義姉は生まれも育ちも非の打ち所がない女子であったが、どんなに時を過ごしても心を寄り添わせることはできないと思った。そうはいっても、皆が決めたことには素直に従うしかない。そんな諦めの気持ちもどこかにあった。
しかし、今は違う。妻という存在に出会ってしまったことで、甲斐の心は大きく塗り変わってしまった。そのことに初めは反発もした。どうしても受け入れがたい事実であった。それでも……認めざるを得ない。
心が千々に乱れることで、怒り任せの言動をしてしまった。そのことを責められればなにも反論はできない。それでも、今このときに一番大切に思うその人を見誤りはしない。甲斐の心に住んでいるのは妻だけだ。
どうしても欲しいものが目の前にあるというのに、それを手に入れることができない。今度こそ、永遠に失ってしまうのか。
「お前も……それで幸せになれるのか?」
妻が自分の前から消えてしまう、その先の未来にはなんの希望も見いだせない。
彼女の手にする杖が一瞬動きを止める。しかし、すぐに次の場所にそっと差し入れられた。
「わたくしは……自分の幸せなど、とうに諦めております」
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