TopNovel>薄ごろも・32


…32…

 

 次の一歩を踏み出しながら、咲の心は大きく乱れていた。
  どうして、夫はここまで食い下がってくるのだろう。自分の体裁を守りたいのだろうか? しかし、大臣様よりの書状があれば、すべてが解決するはずだ。
  戸惑いが先に立ち、つい本音が口をついて出てきてしまった。駄目だ、これ以上口を開くわけにはいかない。もうすでに自分の行き先は決まっている。西南の大臣様が戻れと仰るのなら、戻るまでだ。
  しかも、今回のことは咲の方から願い出たことでもある。いまさら、すべてを覆すことなどできるはずもない。そのようにして、戻り道を塞ぐことで、どうにか気持ちを繋ぐことができたのだ。
  離れ館の御方と夫との関係が明らかになったあと、どうしたら自分がこの地を去ることができるか必死で考えた。自分のために誰かが不幸になることなど、二度とあってはならない。
  目の前で事切れた親父さん、どこかに行方知れずになってしまった家族。あのときの恐怖がふたたび目の前に現れるのはどうしても嫌だ。その前に自分の力でどうにかしたいと思った。
  ある日、館の使用人たちの噂話が耳に飛び込んできたのである。それが、咲にとっての転機となった。
『どうして奥方様にはいつまで経っても御子ができないのだろう。あんなに細い身体では、子を宿すことも無理なのでは……?』
  ああそうか、その手があったではないか。
  夫は決して自分に触れようとはしない。だから子が出来ぬのも当然なのであるが、表向きは仲の良い夫婦を装っているため、皆は違った見方をしているらしい。
  とにかくは半年を待とう、そして大臣様にお伺いを立てればいい。いつまでも子ができなければ、正妻としての地位は危ういものになる。そのような話は尾ひれを付けて広がるもの、いずれは咲を送り込んだ大臣様の醜聞にも繋がりかねない。
  咲が多産の家系であることを、大臣様はご存じであるようだ。それならば、次の使い方を考えてくれるに違いない。あちらから見れば、子が出来ぬ理由は夫側にあることは明らかで、しっかりした跡取りにも恵まれないのならそのうちに血筋も途絶えるだろうと判断されるかも知れない。
  閨の真実など、誰も知り得ぬことだ。それならば、いくらでもねつ造することが可能である。
  最初は、ただ息を潜めて時の経つのを待つつもりであった。しかし、ひとつの場所に長く住めば、その土地のことがいろいろと見えてくる。痩せた土地に手を焼く農民たちの嘆きを見るにつけ、少しでも状況が改善することはないだろうかと心を砕くようになっていた。
  途中からは、大臣様からのお許しが出るその日を祈るような気持ちで待っていた。館の者や村人たちと次第にうち解けていけば、次第に別れが辛くなってしまう。もしかしたら、夫が心を変えて自分を見てくれる日が来るのではないか。そんな淡い期待がふと湧いてきて、慌てて打ち消した。
  ようやく、ようやくおしまいになるのだ。もうこれ以上は、引き留めないで欲しい。
  すべてを諦めたはずだったのに、やはり別れは辛い。生木を裂かれるような心の痛みはこの先、一生消えることはないと思う。
「ならば、昨夜のことはどう説明するのだ?」
  祈るような気持ちでいる咲に対し、夫は容赦なく言葉を投げかけてくる。
  自分の言葉が、どんなにか深く咲の心をえぐるのか、まったくわかっていないようであった。
  咲はなにも答えなかった。すると、夫はさらに畳みかけてくる。
「お前が、男を知らぬ身体であったことをどう説明するつもりだ?」
  さらに一歩踏み出そうとした咲の足が止まる。まさか、気づかれてしまったのだろうか。そうだとしても、黙って通り過ぎてくれればいいのに。
  あまりにも無粋な言葉に襲われ、咲は身体が溶けてしまうほど恥ずかしくなった。
「それは……わたくしが、その程度の女子であったということです」
  わざわざ説明するまでもないと思う。都に上がっても、西南の大臣様や女人様が望むような働きはすることができなかった。華やかな皆様の影でひっそりと過ごしていたのだ、我が身に幸運など訪れるはずもない。
  しかしどうして、今ここでそのことを明らかにする必要があるのだろう。
「いや、都でのことだけを言っているのではない。大臣家に上がった女子ならば……通るべき道があるはずだ。そのことを、私が知らないとでも思っていたのか」
  咲はぎょっとして振り返っていた。何故、そのようなことまで言われなくてはならないのだ。
  夫は真っ直ぐに自分の方を見ている。心まですべて、見透かそうとでもするように。
  西南の大臣様が好色であることは広く知られている。見目美しい女子ばかりを館に上がらせ、次々に閨に招き入れる。都に上がっている末の若様の下に送り込まれる女子は、一部の例外を除いては事前に「味見」されることが決まっていた。もしも運良くその女子が孕めば、息子の子として通そうと思っていたようであるから末恐ろしい。
  咲にも都に上がる前と下がったあと、二度閨へのお召しがあった。しかし、どちらのときにも月のさわりがあり、難を逃れたのである。ご命令とはいえ、女人様の夫君と関係を持つなど、なんと恐ろしいことか。咲は自分の幸運に心から感謝していた。
  夫がひどく忌まわしい者として自分を扱うのには相応の理由があったのだ。それがわかれば、もう辛いことはなにもない。
「……お話はもうよろしいでしょうか?」
  咲は夫に背を向けると、さらに先に進もうとした。早くしないと道がぬかるみ、足を取られて完全に動けなくなってしまう。
「いや、まだだ」
  山歩き用に短くした裾から出た足首を掴まれる。咲はふたたび泥の中に膝をついていた。
「なっ、なにをなさるのですか……!」
  これほどまでにひどい仕打ちはないだろう。泥の中に倒れ込んだのだからそれほどの衝撃ではないが、衣は無惨に汚れてしまっている。恨みがましく振り向いた咲に、夫は覆い被さるように身体を寄せてきた。菅笠が強引に払いのけられる。
「どうして、私に身を任せた。あのように哀れなことを口にして……情けを掛けられたのはむしろ私の方ではないのか?」
「……えっ……」
  ものの数にも入らぬような女子とのことなど、忘れてもらえると思ったのに。咲は唇を噛んだ。
  このたび、大臣様の館に戻れば、今度こそ大臣様の閨へ上がらなくてはならないだろう。そのときに自分が生娘だということがわかれば、夫が大臣様の意に反したことがばれてしまう。それは咲の望むところではなかった。
  夫に対しては、どんな些細なことであっても疑いの目を向けられたくはない。そのためには、大臣家に戻る前にどうしても男を知る必要があった。
  夫を利用してしまったことには、かなりの責任を感じている。それでも、他の方法を取ることは考えられなかった。
  ――初めては、やはり心から愛した相手に捧げたい……。
  館仕えの女子としては、あまりに虫のいい話であるとは思う。しかしこの先も大臣様の「駒」として扱われる身であれば、一夜だけの夢を見ることは許されるのではないかと考えた。
  初めてお目に掛かったあの瞬間から、咲は夫に恋をしていた。決して叶うはずもないと知りながら、時が経つにつれて想いは募るばかり。些細な優しさを与えられるだけで、心が震えた。指先が直接触れたときには、あまりの嬉しさに気が遠くなりそうになる。
「そっ、それは……」
「私を憐れむあまり、返事も出来ぬと言うのか」
  夫の腕がぬっと伸びてくる。殴られるのかと思った次の瞬間、きつく抱きしめられていた。
「やっ、……離してくださいっ!」
「お前が嫌だと言っても、無理にでも連れて帰る」
  どんなに強く藻掻こうとも、夫の腕は緩まない。それどころか、さらに強く抱きすくめられてしまう。
「駄目ですっ、これは大臣様のご命令ですから! もしも逆らったりしたら、あなた様にも、この里の者たちにも被害が及びます。結局は、誰のためにもならないのですから……!」
  必死に叫びながらも、心のどこかで願ってしまう。
  このまま、この腕の中で事切れることができればいいのに。そうすれば、誰も不幸にならずに済む。
「ならば、改めて大臣家へ文を届ければいい。腹に子が出来たから帰れないと書け」
「えっ、そんな……まさか」
  あまりのことに、咲は息を呑んだ。
  大臣様を欺くことなど、できるはずがないじゃないか。そのようなことをして、ただですむはずもない。
「私はもう、お前のことを手放せない。今までのことは本当にすまなかったと思っている。どんなに恨まれても仕方ない、だからこの先は私を恨みながらでもいいから側にいてくれ。お前のことは、私が守る。なんとしても守る……!」
「でっ、でも……そんな。離れ館の御方は……」
「あちらは、そろそろ里に引き上げていただくつもりだ。その方がご本人のためでもあると思う。波留は同郷の者として当然異を唱えるだろうが、それならば彼も一緒に帰してしまおう」
  夫はいったいどうしてしまったのだろうか、咲はもう訳がわからなくなっていた。
「いけません、そんなことはできるはずありませんから……」
  自分が愛されるはずはない、大切にしてもらえるなにも持ち合わせてはいないのだから。いつかこの身をしっかりと根付かせる、そんな場所を探していた。しかしそれは、ここではないどこかでなくてはならない。
  誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなど欲しくない、自分が我慢すればすべてが上手くいくのだから。
「駄目だ、お前を行かせることなどできない――」
  顎を掴まれ、強引に上向きにさせられる。夫の顔があっという間に近づいてきて、唇を奪われていた。
  昨夜の甘やかな時間の再演が始まる。咲の抵抗はあっという間にどこかに吹き飛んでいた。
  舌を強く絡ませ、互いの唾液が口内を行き交う。あまりにも生々しく妖艶な行為が、永遠に封印しようとした恋心を強引に呼び覚ましてしまう。 
「お前は私のものだ。どこに逃げようとも、必ず連れ戻す」
  熱い眼差しに射貫かれて、頑なな決心もたちどころに溶け出してしまう。愛しくて愛しくて、誰よりも側にいたいと願った人が、自分を強く求めてくれる。
  なんて素晴らしいのだろう。これが、夢でも幻でもすがってしまいたくなる。
「帰るぞ」
  抵抗できるだけの気力など、もう残ってはいない。咲は夫の胸に己のすべてを預けていた。

 

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