TopNovel>薄ごろも・33


…33…

 

「お止めください、その……まだ無理です」
  はだける胸元を必死にたぐり寄せようとするが、背後からがっちりとした腕に羽交い締めにされてしまえば、どうすることもできない。
「なにをそんなに躊躇っている、薬師はもう大丈夫だと言っていたぞ」
「でも……だからといって」
  甘い誘惑に一度取り込まれてしまえば、もう後戻りなどできなくなる。そんなことは百も承知でありながらも、なお抵抗を続けるのにはそれなりの理由があった。
「そろそろ皆が起き出す刻限です。それなのに……」
  障子戸の向こうには溢れんばかりの朝の日差しが満ちあふれている。白い紙越しにそれは寝所の奥まで届き、艶やかな髪も滑らかな素肌もすべてをあからさまにしようとしていた。
「夫婦が睦み合うことに、なんの遠慮がいるものか。むしろ、皆が歓迎してくれるぞ」
  そう言って、なおも首筋に顔を埋めてくる。湧き上がってくる欲望と咲は必死に戦っていた。
「殿、それならば昨夜は……」
  もう、これ以上は無理だというところまで追い詰められたのだ。荒々しい行為の名残が、まだ肌に深く残っている。
「一晩寝たら、またお前の肌が恋しくなったのだ。少しの間、大人しくしていればいい」
「そっ、そんな……」
  ひとつのしとねで休んでいれば、あっという間に囚われてしまう。かといって、夫がいない寝所など咲にはもう信じられなかった。
「ほら、だんだん善くなって来ただろう……?」
  柔らかい泉に指を差し込まれ、ゆっくりとかき混ぜられる。抵抗する言葉とは裏腹に、自分の内壁はその動きをしっとりと受け入れてしまうのだ。
「……あっ、ああっ……!」
  特に感じやすい部分を執拗にさすられ、咲は堪えきれず喘ぎ声を漏らす。心も身体もすべて暴かれている、だからもう逃れようがないのだ。
「ほら、こんなに欲しがっているじゃないか」
「……えっ、やぁっ……、……っ!」
  あっという間に軽く達してしまい、あまりの恥ずかしさに肌が朱く染まる。咲の内壁は夫の指をしっかりと呑み込んでいた。
「ほら、このままでは我慢できないだろう。こんなに身体を火照らせたまま、夜まで待つことができるのか?」
  そんなの無理に決まっている。咲はせめてもの抵抗をみせるため、なにも言わずに唇を噛みしめた。
「……強情な奴め」
  夫の声はあまりに甘い。甘くて、咲のすべてを絡み取ってしまう。
「ああ、殿……」
  仰向けにしとねに縫い止められ、片足を高く持ち上げられる。夫の欲望を受け入れるため、咲は軽く腰を浮かせた。不安定な姿勢になることで、さらに結合部分への刺激が強くなる。
「善いのだな、今朝はずいぶんときつく締め付けてくるじゃないか」
「……はい……」
  数え切れないほど身体を重ね合ってきた。それでもまだ、その瞬間には信じられない想いが湧き上がる。あのとき夫が自分を追ってきてくれなかったら、このような朝を迎えることもなかった。そのとき自分は……そう思うとたまらなくなる。
  夫の幸せを願うためには自分の幸せを諦めるしかないと覚悟を決めていた頃、それでも心のどこかで愛を受け止めることを望んでいた。本当は欲しかったのだ、他のなにを犠牲にしても。
「さっ、咲、駄目だ。そんなに……したら……」
  夫自身が咲の中で大きく跳ね上がる。一番深い部分で熱い欲望を受け止めながら、咲は自分の身体と心が同時に満ち足りていくのを感じていた。
「子ができたな」
「……え?」
「そんな気がする」
  夫はさらりとそう言うと、咲に口づける。しかし、そのような爆弾宣言を素直に受け取れるはずもなかった。
「そ、それは……困ります」
「どうしてだ?」
  咲が視線を逸らすと、夫はすぐさま顔を近づけてあとを追ってくる。
「めでたいことではないか」
「でっ、でも……」
  そのとき、渡りの向こうから複数の足音が聞こえてきた。今からでは衣を改める時間はない。咲はハッとして寝間着の前を合わせる。
  髪を手櫛で整える間もなく、表の間との間を仕切る襖が開いた。
「……ははーっ!」
  ゴムまりのように弾みながら、幼子が飛び込んでくる。咲が両腕を広げて招き入れるのも待てず、胸元に勢いよく抱きついてきた。
「おはよう、岐斐(キイ)。昨夜はよく眠れましたか?」
  咲が生えそろったばかりの艶やかな赤髪を撫でてやると、幼子はくすぐったそうに肩をすくめる。
「おはようございます。兄上、姉上」
  続いてやってきたのは、美津である。彼女は幾人もの侍女を従え、さらにその腕には赤子を抱いていた。
「そろそろ姫君がお目覚めですので……お連れ申し上げました」
  あれから二年、彼女もずいぶんと大人びて落ち着いてきた。もっとも、人の妻となれば相応の立ち振る舞いが必要になるだろう。最初は戸惑うばかりであった乳母としての役目も、次第に板についてきたようだ。
  いつの頃からか、彼女は咲のことを「咲さま」ではなく「姉上」と呼ぶようになっていた。
「ありがとう、昨夜はよく眠りましたか?」
  母の香りを察して、はやくもむずかりだした赤子を受け取りながら、咲は聞く。美津はちらりと館主の方をうかがってから答えた。
「まあ……姫君よりは若君の方がくせ者でありましたね。それでも仕方ございません、兄上のご命令とあらば。姉上を独り占めなさいたくて若君と張り合っていらっしゃるのですから、本当に情けない限りです」
「うるさい、朝からお前の小言など聞きたくないぞ。それよりはやく朝餉を運んでこい」
  夫は面白くなさそうに言うが、美津はまったく動じない。
「はい、かしこまりました」
  美津が侍女を引き連れて出て行ってしまうと、あとは幼子の歓声だけが残った。
  生まれたばかりの妹に母の膝を占領されてしまった彼は、仕方なく今度は父親の方にまとわりついている。お陰で夫は着替えもままならず、ずいぶんと困っている様子だ。
  赤子に乳を含ませながら、咲はそんなふたりの様子を眩しく見守る。
  こんな毎日を当たり前のように過ごすことのできる今が、本当に素晴らしいと思う。

 あの朝。
  ふたりして見るも無惨な泥だらけの姿となり館に舞い戻ると、出迎えた美津は腰を抜かさんばかりに驚いていた。それでもあれこれと訊ねることもなく、静かに対処してくれたのが有り難かった。
  身体を清めて衣を改めたところで、一息つく間もなく大臣家へ文を書くようにと言われる。心乱れて落ち着かないままでは文面も浮かぶはずがなく、夫の言葉をそのまま書き留めるしかなかった。
  その後しばらくはどうなることかと気を揉んだが、大臣家では他にもさまざまな問題ごとを抱えているらしく、咲のことになどあまり構っていられない様子。しつこく問いただせることもなく、どうにかやり過ごすことができた。
  離れ館の御方の顛末は、あまり思い出したくはない。館主である夫の口から里に戻るように告げられた御方は、しばらくは荒れ狂って手も着けられない様子だったという。咲の元にも恨み言を書きつづった文が日に何度も届いた。さすがに胸が痛んだが、どうすることもできない。
  咲はすでに知っていた。自分の大切なものを守るためには、ときとして誰かと戦わなくてはならないということを。誰も傷つくことなくすべてが手に入る幸運などあり得ない。夫が自分を選んでくれた以上、その想いにはなにをしても応えたかった。
  騒ぎは正月を跨いでひと月以上続いたであろうか。最後は実家の方から迎えの者がやってきて、ようやく事態は収拾した。その様子を黙ったまま見守っていた侍従頭の波留も、一行が引き上げるのと時を同じくして館を去っていった。
  ちょうどその頃、咲は自分が懐妊していることを知ったのである。
  月満ちて生まれたのは男子で、村は喜びに沸いた。近隣の村々からも次々と祝いの品が届けられる。
  夫はその後も精力的に水路の整備をはじめさまざまな事業を先導し、今や誰からも一目置かれる存在となっていた。もちろん、その立場に甘んじることなく、いつも堅実に次に打つべき手を考えている。そんな夫を側で支えることのできる自分を咲はとても幸せだと感じていた。

 そう、これ以上の幸せなど願うことはないのだ。

 ふたたび迎えた芽吹きの季節に、咲は美しい庭をゆっくり見渡していた。
  この身ひとつで山を上がってきた三年前、自分にはなにもなかった。でも今は違う。家族があり、守るべき人々がたくさんいる。本当に夢のようだ。
  そろそろ、薬草畑では春先の収穫が始まる。水路の整備が進んだことで、さらに良質のものが穫れるようになっていた。刈り取ったものが乾く頃には、幾人もの行商人が山を越えてくることだろう。
  染め物も、山を必要以上に荒らさないように考慮しているため、そう量はこなせないが、農閑期の村人の副収入として定着しつつある。急いては事をし損じる、そう肝に銘じて、これからものんびりと進めていくつもりだ。

 そのような折り、珍しい客人が館を訪れることになった。その名を夫の口から聞いたとき、咲は少なからず驚かされる。
「……波留が?」
「ああ、久方ぶりに顔を見せてくれるらしい」
  ひっそりとどこかに姿を消していた男が、ふたたびこの土地を訪れる。夫はなんでもないように振る舞っているが、咲はどこか落ち着かない心地になった。

 

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