TopNovel>薄ごろも・34


…34…

 

 波留の到着を告げられたのは、昼餉が済んで程なくしてからであった。
  子供たちの世話を美津や使用人たちに任せ、咲は夫と共に客間に向かう。長い渡りを進みながら、なんともたとえようのない気持ちと戦い続けていた。
これから対面する客人とは、良好な関係にあったとはいえない。それぞれの立場があったのだから仕方ないとは思うが、ほとんど敵対していたと言いきってもいい。
  人目につかない奥底の部分で繰り広げられる攻防。
  一番の策士であったのは、彼なのかもしれない。後になって考えてみれば、その片鱗は随所に窺えた。
  しかし……今となっては、そのことを掘り返したくはない。すべては過去に葬り去った出来事、暗い感情に引きずられて今の幸せに影を落としたくはないと思う。とはいえ、わだかまりをすべて消し去ることができるかと言われればそれも難しかった。
  どうにか、この場だけでも乗り切らなければ……。
  人の親となり、今や地主の館の女主人としての地位を揺るぎないものにしている。我が身ひとつであてもなく漂っていたあの頃とは違う。己を信じてくれる人たちのために、強くならなければ。
  春の日差しに温かく温んだ気が、さらさらと流れていく。
  思えば、初めてこの館にやってきた折、案内役の波留に連れられてきたのがこれから向かう客間である。
  あれから三年、今度は迎え入れる立場になるとは。それを思うと、なんとも不思議な心地になる。
「……咲」
「はい」
  先を行く夫がふと立ち止まったので、咲も同様に歩みを止める。彼はゆっくりと振り返ると、こちらの顔を覗き込んだ。
「案ずることはない、すべては上手くいく」
  その言葉に、咲は淡く微笑みを返す。
  この人と寄り添って過ごした日々、この温かい言葉に何度励まされたことであろう。
  新しい物事に着手すれば、必ずしも順調に進むばかりではない。幾度となく壁にぶち当たり、解決策も見つけられないまま途方に暮れることも少なからずあった。
  人の上に立ち多くの意見をまとめる立場であるなら、時として辛い決断を迫られることもある。遠く未来までを見通せば致し方ないと思うことでも、その瞬間には多くの痛みが伴った。
  しかし、どんなときにも咲の背後には揺るぎない支えが控えている。陰となり日向となり、明るい場所へと導いてくれるのだ。
  自分はひとりではない。
  ただそれだけのことが、どんなに嬉しかったことか。
「さあ、行こう。遠路はるばるやってきた客人をいつまでも待たせるわけにはいかない」
  その言葉に、咲は静かに頷いた。

「お久しぶりにございます」
  深々と頭を下げたその者は、記憶の中にある姿よりもいくらかすっきりとして見えた。
  二年以上も年月を重ねたというのに、むしろ以前よりも若々しくなったように思える。
  なにより、自分を見上げる瞳の色が以前とはまったく違うことに、咲は少なからず戸惑っていた。
「若様……いえ、御館様のご活躍は遠き土地におりましても風の噂で聞いておりました。しかし、実際にこの土地に舞い戻ってみて……百聞は一見にしかずということを改めて思い知りました」
  そう言ってかつての主を見つめる眼差しは、どこまでも穏やかである。
  咲はそっと傍らの夫の方へと振り向いた。その横顔からは動揺は窺えないが、次の言葉を軽く思案しているようにも見える。
  そのことを察したのであろう、波留はふたたび神妙に頭を垂れた。一呼吸置いてから、彼は懐より折りたたまれた文を取り出す。
「こちらをお預かりして参りました」
  目の前に差し出されたものを見て、咲は夫と顔を見合わせる。
  夫が先に腕を伸ばし、その文を手にした。
  ぱらり、と乾いた音が相変わらず簡素なしつらえの客間に響き渡る。
「……これは?」
  しばらく読み進めた夫は、怪訝そうに首を傾げた。その表情を見上げる波留の口元に微かな笑みが浮かぶ。
「奥方様にも、是非」
「……?」
  しかし、夫から手渡されたそれをひと目見たとき、咲の方が大きく揺れた。
「……ど……どうして……」
  心の奥に封印していた感情が、堰を切って溢れ出す。身体が大きく震え、敷物の上で姿勢を保つことすら難しくなった。
  忘れることなどあるはずもない、懐かしい文字。その文面を追う前に、目の前が涙で霞んだ。
「どうした、……大丈夫か!?」
  すぐに異変に気付いた夫に優しく揺り起こされても、咲は頬を伝う雫を留めることができない。
「……何故……どこでこれを……」
  夫が訝しげな態度を取ったのも無理はない。そこに並んでいたのは、ありきたりな挨拶の文面だった。たぶんこれをしたためた本人は、いきなり目の前に現れた波留をすぐには信用できなかったのだとわかる。物静かな、でもどこまでも思慮深い人だったことを思い出す。
  しかし、綴られた内容などはこの際どうでも良い。肝心なことは、どうして目の前の男がこれを持っていたかということだ。
  咲の動揺ぶりを見ても、波留は驚くどころかむしろ、安堵の表情を浮かべている。
  かつて侍従頭であったころよりは質素な身なりをしているが、その姿が彼をさらに快活に見せていた。
「咲……何故泣く」
  ひとり状況の掴めていない夫は、咲と波留を交互に見つめながら訊ねてくる。
  何度かかぶりを振り、咲は震える唇を微かに動かした。
「これは……わたくしの母がしたためた文です」
「お前の……母親? それは、どういうことだ」
  無理もない、夫と心が通じたあとにも咲は自分の家族のことを話題に上げることはなかった。
  行方知れずになった家族がいると知れば、夫はどんなに手を尽くしても探し出そうとするだろう。しかし、必ず再会が果たされるとは思えない。もしも悲しい事実が待ち受けているのだとしたら、知らずに過ごす方が幸せかもしれないと考えた。
  恐ろしかったのだ、真実を知ることが。
  咲の脳裏には、未だに目の前で斬り殺された親父さんの姿が焼き付いている。
  忘れたくても忘れられないあの光景を思い出すごとに、多くの望みは抱かない方がよいのではないかという気持ちが大きくなった。
  こちらの気持ちが落ち着くのを待って、波留はふたたび口を開く。
「お暇をいただいたものの、里に戻るのも気が進まず、私は仕事を求めて様々な土地を転々としました。そうしているうちに、ついには大臣様のお屋敷にたどり着いたのです。そこで働くうちに、かつて奥方様がどのような境遇にあったのかを知ることになりました」
  そこまで告げたところで、波留は大きく顔を歪めた。その後、彼が口にしたのは、咲が都に上がる前のほんのしばらくの間を一緒に過ごした女人様付きの侍女の名である。
  まさか今になってその名を耳にするとは思っていなかった。咲の喉がこくりと鳴る。
「あなたが……母を捜してくれたのですか?」
  文には聞いたこともない土地の名が記されていた。どこにあるのかも、どのような場所なのかもわからない。そこに至るまでが、簡単なものであったとはとても思えなかった。
「せめてもの……罪滅ぼしと思いまして」
  波留はポツリと言葉を落とした。
「御母上もご兄弟も皆ご無事でいらっしゃいます。御母上は越冬で少しばかり体調を崩されていましたが、もう少し陽気がよくなれば長旅にも耐えられるようになりましょう。すぐにこちらに呼び寄せられるよう、手配させていただきます」
  それから彼は、しっかりした眼差しで咲を見つめた。
「すぐに文をしたためてください。即刻、引き返してお渡しいたしますので」
  そうは言われても、文面など思いつくはずもない。
  溢れるのは涙ばかり。咲はようやく自分の心がすべて元に戻ったように感じていた。
  いたわるように肩を抱いてくれる夫の手のひらから伝わる温もりが、咲を優しく包み込む。
「ようやく……お前から昔話を聞くことができそうだな」
「……はい」
  大きく頷いた咲の頬を、また一筋の雫が流れていった。

了(20131118)

 

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