「ごめん、今日は幸さんがお孫さんの結婚式で泊まりなんだ」 夕食は外食にした。ファミリーレストラン、とまではくだけてないが、こぢんまりとした家庭風のレストラン。今日は飲まないから、と惣哉が車を出した。 車をガレージに入れて。当然のように案内されたお屋敷の中。そう、どう考えても千雪にとっては「家」と言うより「お屋敷」だった。 幸さん、というのはこの家の古株のお手伝いさん。他にも通いの人が何人かいるらしいが、そのものは5時になると引き上げる。幸さんだけが住み込みなのだ。千雪も何度か、副理事長室で電話を受けたことがあった。60歳代後半と言う年齢に思えないしゃきっとした話しぶりが気持ちいい。 夜の10時と言う時間に惣哉が自ら鍵を開けて、家に入ることは珍しいのだという。今日は父親である学園理事長が出張で北海道に行ってしまったし、居候の朔也は予備校の集中講座で午前様になるという。
「あの、…副理事長さん…本当に、宜しいのでしょうか? 皆様がお留守の間に、勝手に上がり込んで…」 その申し訳なさそうな声にくるりと惣哉が振り向いた。 「…千雪」 どきり、とする。何故か、2人きりの時…この人はいつの間にか自分のことを呼び捨てにしている。とても自然に、ずっと前からそうだったように。 「学園を出たんだから、その呼び方はやめなさい」 …そんな、威圧的な言い方しなくたって… きつい口調も決して嫌いではない。でも、頭ごなしに言われるとやはりカチンとくる。別にわざと言ったわけではないのだ…千雪にとって、目の前にいる惣哉は「副理事長さん」と学園に着任してから1学期間、呼び続けて来た人間なのだから。つい口が滑っただけじゃないか。 少しむくれて上目遣いに覗き込む。惣哉の目は笑っていた。千雪の何もかもを受け入れてしまう、そんな感じだ。
1階がパブリック・スペースで、2階がおのおのの個室になっているようだ。 これもまたカーペットを敷いてある装飾性の高い階段を上がる。この手すりは何で出来ているんだろう? 白くてすべすべしている。途中の踊り場に大きめの花瓶があって、小柄な千雪の身長と同じくらいの枝が活けてある。こう言うところからして庶民からはかけ離れている気がする。 一番上まで上がって、振り返ると、階段の下には広々とした大広間があった。 …小体育館位あるんじゃないかしら…? 「あのね、昔はここでパーティーもしたらしいよ。もっとも亡くなった母が子供の頃の話なんだけどね…」
まあ、学園周辺のこのあたりは昔からの高級住宅街。見渡す限り立派な建物ばかりだったが、やはり学園理事長宅のここはその中でも際だっている。外から見ただけでもかなり凄いと思っていたが、こうして初めて足を踏み入れてみるとそのスケールには付いていけない。 でも学園は日本でも屈指の総合グループ企業「一籐木グループ」の事業の一環で運営されていると言うことだ。学園の最高学年、高等科の3年生にそこの娘が在籍している。千雪のような地方出身のお上りさんでもひとめで判別できる育ちの違いがあった。緩くウエーブした漆黒の髪、闇を集めた瞳に陶器のような白い肌。すんなり伸びた手足。おっとりと優雅に振る舞うその様は女性の目から見てもうっとりとしてしまう。
学園理事長の家がこんなだったら、彼女の自宅は一体どんななんだろう?
「…ふ…」 「惣哉…さん?」 「何?」 「やっぱり…申し訳ないですよ…皆さん、いらっしゃらないのに。ちゃんと、ご挨拶して、それからじゃないと…」
ここにいる千雪と惣哉。この2人の関係は学園の職員と学園の副理事長、更に千雪はわけあって惣哉の秘書をしているので部下と上司、と言う組み合わせになる。どうしてその2人が、こうして惣哉の家の中を歩いているのか、と言うと…話は今日の朝に遡る。
………
それが。 理事長が惣哉にその旨を話してしまったらしく、計画が崩れてしまった。千雪としては、惣哉には告げずに去りたかった訳なのだが。
「君じゃなきゃ、駄目なんだよ」と言われて。 「…離さないよ」と抱きしめられて。 それから。
何度、唇を触れ合ったのだろう。…額に、頬に、首筋に…襟元に。背中に腕を回したままで惣哉の唇が届く所全てに無数に落とされていく新しい熱。 ほうっと上気した身体にうつろな瞳が閉じる。白くなった視界で、ぼんやりと考える。 …この人と。 この人と、自分が…こんな風になってはいけないのに。仕事上の付き合いで、終わりにしようと思っていたのに。
…春。 ほころびかけた桜の並木。「藤野木学園」に初めて足を踏み入れた。 教師になりたい、と言う夢は小さい頃から持っていた。教員養成の名門と呼ばれる大学に合格したもつかの間、父親が発病した。最初はちょっと忘れっぽくなったかな、と言うぐらいだったのが、帰省するたびに症状が進む。とうとう退職まで半年残して職場を解雇されてしまった。 「千雪は、先生になりなさい」 そんな時、卒論の担当教授から話があった。学園で1学期の間だけの代理教員を捜している、と。父の夢と自分の夢、一瞬でいいから叶えてみようと思った。 …並木のひと枝の…日向の所だけが満開に花開いていた。それを見上げていたのだろう、柔らかい髪の男性がこちらに気付いて振り向いた。眼鏡の奥からふわりと微笑む。小さい会釈。 かなり離れた距離で、言葉を掛け合うこともなかったが、一瞬で彼の全てが胸に焼き付いていた。ここの職員かと思ったが、その後の顔合わせの席で、彼が学園の副理事長であると知った。
少し距離が近づいたと思うと現れる壁。あまりに違う世界の住人。自分が近くにいるから、物珍しいから相手をしてくれているんだと思っても、それでも側にいたいと願ってしまう。でも背伸びしても背伸びしても届かない。 …きれいなラベンダー色のワンピースを着たすらりと長身な女性。妖艶な微笑み、惣哉自身も男性の中で決して背の低い方ではないが、そんな彼と並ぶとしっとり似合っていた。
…惣哉の甘やかな言葉を受け入れたい自分。でもそんなことをしてはならないと制する自分。千雪の心が2つに大きく割れた。
「…10時から、打ち合わせが入っていらっしゃったでしょう? もう、着替えて御支度して行かれないと…」 いつもの彼の整然とした身支度にどれくらいの時間がかかるのか、千雪には分からなかった。でも時計は8時を回っている。ここから惣哉の家までは歩いて20分かかるから、もうギリギリだ。 「…あ、そうか」 「じゃあ…」 「君も、着替えて…ちゃんと出勤するんだよ?」 「はい?」 「あの…副理事長さん、私昨日付けで退職してます。もう、学園の職員じゃないです」 不思議そうに言葉を返す千雪に惣哉が笑って答える。 「あのね、あの届けはまだ理事長の机の中。受理してないって、そう言ってたよ。君がいなくちゃ、あのおいしいコーヒーも飲めないじゃないか、まとめて欲しい書類もあるんだ。さ、急いで」 急いで、と言われても…。 「でも、このお部屋…午前中に引き渡さなくちゃいけないんです。後に入るひとがいらっしゃるんですもの。荷物自体はほとんどないし、家財も友達に譲ってしまいましたから、それはいいんですが…私、もう今日から住むところ、ないんです。…友達も突然じゃ困るだろうし…一応、実家に戻ります。月末に父が一端戻りますから、部屋を片づけて…」 「…なら、ウチに来ればいいじゃない。ゲストルームあるし…父だって、君が来てくれたら大歓迎だと思うよ」 「…は?」 「え、いいです…そんなご迷惑は掛けられません。皆さんだって、お困りになりますよ、赤の他人がいきなり行ったら…」 申し訳ないにも失礼にも程がある。必死で辞退しても惣哉はただゆっくりと微笑むばかり。 「だって。朔也だって…ある日突然、父が連れてきたんだよ、見たことのない高校生と同居することになったんだからね。それに較べたら、千雪はみんなと顔なじみだし…そんなにあれこれ考えることないでしょう? ほら決まり。ちゃんと学園に来ないと、打ち合わせをサボって迎えに来るよ?」 打ち合わせをすっぽかされては大変だ。 とりあえずは今夜だけご厄介になって、明日のことはまた考えよう。ただでさえ、昨日はほとんど寝ていない。…その時の千雪にはそれだけ考えるのがやっとだった。
………
「ここ、親戚が泊まりに来たときに使って貰うところで、一応片づいている筈なんだけど…」 ドアを押し開けると、壁のスイッチに手をやる。天井に埋め込まれたふわりと甘い白熱灯の明かりが室内に満ちた。 「…広い」 招かれるままに入ったのはいいが、数歩進んで立ちすくんでしまう。 今までの全てが千雪の理解の範疇を越えていたが、今回はもう、どうしたものか。このゲストルーム、一体何畳の広さがあるのか見当が付かない。もしかしたら千雪が今日まで住んでいたアパートのワンフロア、4部屋分が入ってしまうのではないだろうか? 無駄に広い空間。突き当たりは天井までの大きな窓に同じく天井からカーテンが掛かっている。フチ飾りが付いた、たくさんひだの入ったものだ。 右手の奥に大きめのベッド。左手奥に小さな机とチェスト。その手前に副理事長室にあるのより豪華な応接セットがある。左手の壁はきれいな飾り棚が腰までの高さで作りつけられ、その一角は暖炉になっている。火が使われるのかどうかは疑問だが、ただのゲストルームにこんなしつらえがあるのは信じられない。 右手側は奥にさらに部屋があるらしい。 「…簡単なバスルームとパウダールーム、それからクローゼット。電磁調理器も付いてるから、お湯も沸かせるよ」 「あ、それから…二つ手前の階段の上がってすぐが朔也の部屋だから。個室には鍵がかかるから、ちゃんとかけてね。あいつも一応健全な高校生だから…」 惣哉にしては珍しい話題だ。思わずくすりと笑いをこぼすと、カチャリ、と音がして鍵を閉めて見せた。 「凄いですね…それで、開けるときは…あの、どうやって…」
―と、その時。
いきなり…無言のまま、背後から抱きしめられた。両腕が締め付けられて自由がきかなくなる。 「…ふ…」 自分の胸の前に回った惣哉の腕が小刻みに震える。小柄で華奢な身体はきゅっと固くなっていた。 「…千雪」 いきなりの行動に、頭はパニック状態になった。よくよく考えれば、家族と同居の家屋とはいえ、今は皆出払っているのだ。でもまさか、昨日の今日で…こんな風に出てくるとは夢にも思わなかった。 「朝の続き、させて」 「ま…待ってください! ふ…じゃなくて、惣哉さん!? こんないきなりは困ります、…あの…本当に…心の準備というものが…」 必死に身体をよじって抵抗したが、力の差は歴然としていた。朝の続きの唇の動きが千雪の耳元を捉える。一点に止まって強く吸い上げる。 「…あ、痛っ…!」 でもそんな彼女には構うこともなく、惣哉は舌の先ですうっと首筋を辿る。左の腕は千雪の脇の下を通ってしっかりと支えていたが、空いた右腕は無意識なんだろうか、めくれ上がって空間の出来たオーバーブラウスの裾からそっと進入してきた。探る手つきで少しずつ這い上がる。細い肩ひものタンクトップの下、素肌の感触を楽しみながら、登っていく。 「…いいね?」 もう一度、念を押す声。 でも、借りにここで拒否の言葉を述べたとしても、聞き入れて貰えはしない。それはただ、これからの行動を確認するだけの言葉だった。
軽い力で抱き上げられる。必然的に視線が絡み合う。千雪にとって辛いのは、どんなに自分の口が異議を唱えようにも、この瞳に見つめられてしまったら…どこまでその意志が通せるか分からない所だった。 実際、重なってくる惣哉の唇に反応することしかできない。確かめるように舌が差し込まれる。抵抗も出来ない。曖昧に開かれた歯の間から器用に滑り込むそれは千雪のものを誘う。身体を触れ合うよりもさらに艶めかしい感触。舌を絡め、絡み取られる一連の動作は、内臓が絡み合っていくように、もうどうしようもなく直接的だ。 「…あ」 普通の家では考えられないほど遠い天井を背に、惣哉がネクタイを緩めて、優しく微笑む。いつの間に上着を取ったのだろう。気が付くと自分もブラウスは身につけてない。どこかで滑り落ちてしまったようだ。 「千雪…」
前髪をゆっくりとかき上げられ、額に唇が落ちてくる。いつもはきちんと流れている彼の前髪が額に落ちて、もともと年齢より若く見える表情がもっと近くなった気がした。自分の方も「中学生? 高校生?」と言う感じで、実際に惣哉も最初は在校生と間違えたぐらいだったのだが、まあ、自分の姿はこの際、見えないから。 ひとつ落として、ゆっくり熱を移す。一度離すと、丁寧に髪を梳いて優しくこちらを見つめる。額の次はこめかみ、目尻、頬、耳元…何度も何度も飽きることのない動作が続く。柔らかいクッション材の上で身体がふわふわと落ち着かない。惣哉の瞳に自分が映るたびに、たとえようのない幸福感が押し寄せてきた。 …この人と、いるのだ。そう言う気持ち。 まだ、心のどこかで疼いている…疑問符はぬぐい去れない。どうして惣哉が自分をこうして抱きとめているのか、その理由が分からない。 見つめられるのは嫌じゃない…とても、嬉しい。 自分を職員の一人として、名前も覚えて貰えなかった頃からこの人に優しく微笑みかけられるのが好きだった。副理事長室で…仕事をしていると名前を呼ばれて。顔を上げると、優しい瞳がこちらに向いていて。くすぐったくて、恥ずかしくって…手のひらの上に春の花びらをたくさんかき集めたみたいに、やさしくてもどかしくて…切なかった。 一息で消えてしまう幸福。惣哉は…ずっと一籐木グループの時期後継者と称されている「一籐木咲夜」を見ていたのだ。10年もの間ボディーガードを務めていると、表面上はそう言う関係だった。でもそうじゃない…千雪はずっと惣哉の事を見ていたのだから、惣哉の視線の先に、心の中に誰がいるのか何て分かっていた。そして「三鷹沢朔也」の登場により、彼の想いが儚く散ってからも…惣哉はずっと咲夜のことが忘れられなかったのだ。 …今も…そうじゃないのか? 惣哉は咲夜を想い続けているのではないか? 強く抱きしめられても、まだ、信じ切れない。 「…千雪…」 知らないうちに頭が浮き上がる。首が苦しくなって、自分の腕を彼の首に回した。
後編へ(020213)
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