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TopNovel並木別館>ささやかな揺らぎ・後




…終章・『ささやかな揺らぎ』・後編…

 

 

 シルクのタンクトップの上から柔らかい動きで胸元を探っていた右手が、やがて肩ひもを外す。露わになった肩に広げた手のひらが這っていく。するっと背中に入り込むと、一瞬、あれ、と言う疑問の動きをした。

「…あの…」
 喉の奥で笑った拍子に舌がほどける。真っ赤になって、笑いを堪えながら小さく囁いた。

「これ、前開きなんです…外しましょうか?」
 こんなことまで言っていいのか分からなかったが、やはりフロントのホックは慣れないと外しにくい。惣哉が下着の形を見た瞬間にそこまで分からなかったのが、嬉しいような、おかしいような…何とも言えない気分になる。

「…あ、ごめん…」

 甘いムードが一気に現実に戻って、何だがホッとした。このままだと、深いところまで引きずり込まれそうな気がしていた。

 千雪は惣哉に回していた腕を外すと、小さな手のひらを胸元まで運び、パチッと音を立ててホックを外した。いつもなら気にも留めない微かな音が、何か違う特別なものを外す様に部屋に響く。それに驚いて手を止める。そこに惣哉の両手が重なった。

 

「いいよ、ありがとう…」
 優しく手首を掴まれて。丁度胸を隠すように覆われていた両手が静かに剥がされた。それと同時に胸元を覆っていた淡いピンク色の布が音もなく流れる。

 自分で働きかけた行為なのに、本当に恥ずかしくて、惣哉の視線から逃れるように横を向いた。鼻先にシーツの澄んだ香りが広がる。それに意識を集中したくても、惣哉の微かな呼吸が耳に入ってきてしまう。

「…きれいだね」
 吐息混じりの声が胸元で響く。次の瞬間、惣哉の右手が千雪の小振りだが形の良い胸全体をそっと包み込んだ。

「あ…うんっ…」
 背筋を何かがさあっと降りてゆく。

 5本の指先が麓から頂へゆっくりと往復する。左手は千雪の右手をしっかりと絡め取り、唇は首筋から鎖骨へ浮き出た骨の形を辿る。舌を滑らせるのが艶めかしくて、切ない。堪えていても食いしばった唇がいつの間にかほどけて、甘い声が漏れる。更に歯を食いしばると、千雪の唇に惣哉の指がすうっとなぞられた。彼の指先は音楽家のそれだ。バイオリンが一番得意だと言っていたが、ピアノも弾けるそうだ。様々な楽器を巧みに奏でる指が千雪を支配する。繊細な動きに溺れそうになる。

「何で我慢するの? …もっと声を聞かせてよ…?」
 口調は優しく滑らかに、意地の悪い事を言う。

 泣きたい気分になって、さらに上下の唇をきつく結ぶと…そこに彼の唇が吸い付いてくる。

「…や、そんなこと…」
 思わず、身をよじる。自由になった手が無意識にシーツを掴む。のけぞると更に存在が露わになる胸元。そこに最初の唇が一瞬だけ降りた。

 

 惣哉は優しい。自分を本当に大切に扱ってくれる。…でも。

 

 自分を支配し始めた大きな力にどんどん飲み込まれて行きながら、その一方でひたひたと忍び寄る影に追いつめられる。相反する2つの世界。その間で、千雪の心だけが哀しく揺れていた。

 

「…あ、やめ…!」
 舌で転がされた胸の先を思い切り吸い上げられる。一瞬背筋を走った戦慄に、泣きそうな悲鳴を上げた。その後、すうっと彼女の頬に涙がこぼれた。

「…千雪…?」

 甘い喘ぎとは違う声に気付いて、我に返った惣哉は千雪の顔を覗き込んだ。青ざめた頬に幾重にも涙が流れ落ちる。

「どうしたの? …ごめん、本当に嫌だった? …やめる?」
 濡れた頬に唇を押し当てた後、少し乱れた髪を梳いて優しく語りかける。

「千雪…」
 返事がないのに、心配したのか、もう一度優しく名前を呼ぶ。どうしていいのか分からなくて、寝返りを打ってうつぶせになる。シーツに顔を埋めて、かすれる涙声で言った。

「…ないで…」

「え…?」

「…そんなに、優しくしないで…」
 白い背中が大きく震える。突っ伏したまま声を殺して呻く。

 

「どうして、そんなこと言うの…?」
 不思議そうな疑問形。惣哉は上体を起こすと、千雪の側に寄って、髪を優しくなでた。

 しばらく室内には小さな嗚咽だけが聞こえていたが、それがだんだん小さくなり、呼吸が整ってきた。

 

「…だって…私、初めてじゃないし…そうなのに、副理事長さんは優しくて…申し訳なくて…何だか…」
 そこでもう一度涙が溢れて来た。白いシーツがぼやける。

「…千雪…?」

「…私じゃない人が…相手にされているみたい…」

 

 

 …咲夜じゃないのか…? この人が思い描いているのは一籐木咲夜ではないのが? 届かない想い人への満たされぬ想いを…自分に向けているだけじゃないのか…?

 そうじゃなかったら、自分が相手にされるわけがない。この人の笑顔を、優しさを自分が受け止める理由がない。それでもいい、そう思いたいのに…自分の中の惣哉を愛する気持ちが邪魔をする。

 

 

「……! …きゃあ!!」
 強い力で片腕を引かれて、身体がねじれる。そのまま不安定な姿勢で鼻先まで顔を寄せられた。

「…あ…」
 自分を見据える、惣哉の目が燃えるように怒りに満ちている。こんなに恐ろし表情を今まで見たことはなかった。思わず目をそらそうとすると、グッと顎を掴まれた。

「…惣…」

「…何で…どうして、そんな事を言うの?」
 そう言い放った声が震えている。

「どうして…信じてくれないの…?」

「…だって…だって…私…」
 睨まれたって、怖くなんかない。そう思って言葉を返そうとするが、それが自分の涙で遮られる。

 

 腕を振りきって顔を逸らそうとすると、一瞬浮いた身体が、そのまま強く抱きしめられた。

 惣哉も、自分も上半身は何も身に付けていなかった。少し汗ばんだ微かな惣哉の匂いが千雪を包み込む。素肌のままでぴったりと吸い付いてくる腕。衣類をまとっているときよりも、もっと身体が強く深く密着する。

 

 …身体が動かない…

 

 もともと力では敵うわけないが、しっとりとまとわりついてしまうと惣哉の身体は本当に少しも動かない。

 

 しばらくは静寂の中、2人の呼吸の息づかいだけが聞こえていた。やがて、惣哉が大きく息を吐くと静かに言った。

「…ひとつ、聞いていい?」
 そこまで言うと、片方の手が後ろの髪に絡みついて、ゆっくりと後ろに引かれる。2人の視線が静かに合った。

「はい…」
 観念したような声で千雪は答えた。

「千雪は…その、彼とのこと、後悔してるの?」

「…え?」
 千雪にとって、意外な質問だった。そんなことを聞かれるとは思わなかった。まあ、以前の付き合いのことを話したのは自分だったが…こういう場面で、こういう至近距離で。

「どうなの?」
 更に畳みかけられる。

 

 こう言うとき、どんな風に返事をしたらいいのだろう? まっすぐに惣哉に見つめられて、困り果てた。

 仕方ない…。千雪は瞼を閉じると大きく深呼吸した。ここは自分の心に聞くしかない。どんな結果になるか恐れて、色々想いを巡らせても息詰まるだけだ。

 

 そっと瞼を開けた。震える瞳で惣哉に向かう。惣哉もまっすぐに自分を見つめ返していた。

「…後悔なんて、してません。だって、幸せだったもの…本当に…幸せだったんですもの…」
 後の方は涙が溢れてきて上手くは言えなかった。彼との日々のこと…最後のこと。考えただけで溢れてくるもの…。

 こんな事、言って許されるものではないと思う。惣哉だって面白くないはずだ。

 正直に話してしまったものの、やはり怖くなって、そのまま俯いてしまった。

 

「…千雪…」
 後から後から濡れていく頬を惣哉の両手が包み込んだ。

 それから何かを注ぎ込むように、唇が重ねられる。ゆっくりと熱を移すように。角度を変えながら…優しく。鼓動が重なり合う程に染みこんでくる。

 

「あの…」
 ようやく自由に戻された唇が微かに呟く。

「…それなら、いいでしょう? 君が優しい思い出に包まれているのなら。そりゃ、少しは…口惜しい気持ちはある。でも…それも千雪の一部なんでしょう?」

 穏やかな色に戻った瞳に見つめられると、次の言葉が出てこない。

「…いい?」

 すうっと唇を指でなぞられる。背筋がぞくぞくっとした。すっと視線を逸らして小さく頷く。

 そのままゆっくりと横たえられる。戸惑いがちに視線を向けると、いつものやわらかい瞳が見下ろしていた。

 

「…でも、ひとつだけ。…さっき、間違えたでしょう?」

「え…?」
 全然、分からない。何を間違えたのだろう。

 きょとんとした千雪にフフッと微笑むと、惣哉はそのまま胸元に舌を這わせた。そして強く吸い上げる。

「や…! 何…また!」
 さっきより敏感な部分を強く刺激されて、大きく悲鳴を上げた。

「…おしおき。さっき、言ったでしょう『副理事長さん』って…」

「…え? い、言ってませんよ〜!?」

「言いました」
 惣哉はそう言うと、にっこり微笑んだ。

「で…」
 嬉しそうに千雪の髪を梳いて、話を続ける。

「今は、僕のことだけ、考えてくれる?」

 じっと顔を覗き込まれて、恥ずかしくて仕方ない。真っ赤になって俯くと、そのまま惣哉の背中に腕を回した。

 

………

 


 激しい波が惣哉の動きに合わせて押し寄せてくる。その吐息で体中を探られて、唇が辿り歩き。身体が溶けてしまいそうになったとき、ふわりと抱きしめられてそのまま身体の芯を貫かれた。

「…ごめん、ちょっと乱暴にしちゃうかも、知れない…」
 惣哉は動き出す前にすまなそうにそう告げた。千雪の額にかかった髪をかき上げて、そこに唇を落とす。

「…惣哉…さん?」
 半分、もうろうとしながら、うわごとのように名前を呼んだ。

「やっぱり、千雪に愛された奴が憎らしいよ…千雪の身体にその思い出が残っているのは…嫌だな…」

「…え…?」

「…忘れさせて…やりたい…!!」

 

 いつもの優しい姿、振る舞いからは想像できない、引きずられてしまいそうな波に飲まれる。振り切られたら、戻ってこられないかも知れない。そのくらい躍動している。

 激しい息づかい、それに応える自分の声が…声と言うより叫びに近い喘ぎが、重なる。

 越えても越えても…再び現れる新たな波。必死にその背中に手を回すと、汗でずるりと滑り落ちてしまう。自分の身体を流れるものと、惣哉の身体からはじき出た汗が胸に、腕に絡み合って、どちらのものか分からなくなる。

 

 

 …どれくらいの時間が経過したのか、分からない。

「熱っ…」
 惣哉はふいに動きを止めると、千雪の身体の脇に手を付いて、呼吸を整えた。

 

 自分を襲い続けた波が目眩になって額の裏にへばりついている。その反響が脳内に響く。千雪は大きく肩で息をして、なかなか力の入らない瞼を開けた。目のフチから汗が滲んできて、ひりひり痛い。

 

「…どう…したのですか…?」
途切れながら、訊ねる。半分、意識は飛んでいたが…多分、まだ惣哉はのぼりつめていないはずだ。

 うつろな千雪の瞳に優しく微笑み返しながら、惣哉は片手で汗でべっとりと額に張り付いた前髪をかき上げた。まるでにわか雨にでも遭ったようだ。髪全体がしっとりしている。

 それから身体をつなげたままで千雪の頬を包み、耳元に囁く。

「…今、誰のこと、考えてた?」

「…え?」
 こんな時に、何て事を聞いてくるんだろう。そんなの決まっているじゃないか。

「惣哉さんのことしか、考えてませんでした…」

 当たり前だ、こんなに激しく、責め立てられて…どうして他のことを考えるゆとりがあるんだろう。

 正確にはお互いの身体が絡み合っているその直接的な事実以外は忘れていた。どうしてここにいるのかも、自分がどこにいるのかさえ。

 

 それなのに。惣哉はその当たり前の解答を、満身の笑みで迎えた。自分と千雪の唇を合わせて、ついばむ。舌でなぞってから話すと千雪を見つめた。

「僕も…千雪以外のことは…考えられなかった。好きだよ、千雪…」
 もう一度、唇を落とす。

「…一緒に…いこう…?」

 

 

 そのあと。

 再び訪れた荒波に飲まれて…全て全てが真っ白に還るまで…長かったのか、一瞬だったのか…

 

………

 


「…千雪? 気が付いた?」

 

 自分は、どうしていたのだろう? けだるく身じろぎする。

「そ…うや…さん…」

 肩がひんやりする。どこかに空調の吹き出し口があるのだろう。ちょっと身震いして、目を開けた。
 胸から下に柔らかいタオルケットが掛けられている。

 

 惣哉の腕がゆっくりと絡みついて、自分を捉えていく。汗ばんだままの胸元が少しも心地悪くなかった。

「…やっぱり、ちょっと強引だったよね…ごめん」

 確かにその言葉の通りだが、全てが終わった後に言われても、何と応えていいものか? 千雪は胸に額を押しつけたまま、笑いを堪えた。

「でも…千雪をあのまま家に帰したら、二度と戻らない気がした。君の言うことって、信用できないもんな…どういう形でもいいから、早く自分のものにしたかったんだ。君がもうどこにも行けないように、ね?」

「…惣哉さん…」
 自然と目頭が熱くなる。今日は本当に良く泣く日だ。自分の涙の枯れないのが本当に不思議だと思う。

 顎に手が添えられて、心持ち、上向きにされる。視線を合わせられた。惣哉の瞳は今、自分だけを見ている気がした。

「前の彼と、何年付き合ったの?」

「え…?」
 また、質問だ。まさかこの先ずっと聞かれるのだろうか、ちょっと嫌だなあと思う。

「…3年ぐらいですけど…」
 憮然とした表情で、でも正直に答えた。

「ふうん、そうなの…」
 惣哉は千雪の答えを受けて、何やら一人でブツブツ言っていたが、ようやく考えがまとまったようだ。

「じゃあ、一晩に3回頑張れば、1年で追い越せるかな…う〜ん…身体が保つだろうか…」

「そ、惣哉さん!!」
 慌てて、反論する。

「こんなの、3回もされたら、私の方も保ちません! いい加減にして下さい…!」

「何だ、千雪の声、もっと聞きたかったのにな…いつもと全然違うんだから…」

 そう言いつつも、大きくあくび。そう言えば、今日の会議でもずっとうとうとしてたんだ、この人は。

 もう一度、強く抱きしめられて、耳元で『おやすみ』の代わりに歌うように惣哉が言った。

 

「好きだよ、…千雪」

 その後、彼の呼吸が寝息に変わるまで、いくらも時間がかからなかった。

 

 

 

終了(020213)

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