シルクのタンクトップの上から柔らかい動きで胸元を探っていた右手が、やがて肩ひもを外す。露わになった肩に広げた手のひらが這っていく。するっと背中に入り込むと、一瞬、あれ、と言う疑問の動きをした。 「…あの…」 「これ、前開きなんです…外しましょうか?」 「…あ、ごめん…」 甘いムードが一気に現実に戻って、何だがホッとした。このままだと、深いところまで引きずり込まれそうな気がしていた。 千雪は惣哉に回していた腕を外すと、小さな手のひらを胸元まで運び、パチッと音を立ててホックを外した。いつもなら気にも留めない微かな音が、何か違う特別なものを外す様に部屋に響く。それに驚いて手を止める。そこに惣哉の両手が重なった。
「いいよ、ありがとう…」 自分で働きかけた行為なのに、本当に恥ずかしくて、惣哉の視線から逃れるように横を向いた。鼻先にシーツの澄んだ香りが広がる。それに意識を集中したくても、惣哉の微かな呼吸が耳に入ってきてしまう。 「…きれいだね」 「あ…うんっ…」 5本の指先が麓から頂へゆっくりと往復する。左手は千雪の右手をしっかりと絡め取り、唇は首筋から鎖骨へ浮き出た骨の形を辿る。舌を滑らせるのが艶めかしくて、切ない。堪えていても食いしばった唇がいつの間にかほどけて、甘い声が漏れる。更に歯を食いしばると、千雪の唇に惣哉の指がすうっとなぞられた。彼の指先は音楽家のそれだ。バイオリンが一番得意だと言っていたが、ピアノも弾けるそうだ。様々な楽器を巧みに奏でる指が千雪を支配する。繊細な動きに溺れそうになる。 「何で我慢するの? …もっと声を聞かせてよ…?」 泣きたい気分になって、さらに上下の唇をきつく結ぶと…そこに彼の唇が吸い付いてくる。 「…や、そんなこと…」
惣哉は優しい。自分を本当に大切に扱ってくれる。…でも。
自分を支配し始めた大きな力にどんどん飲み込まれて行きながら、その一方でひたひたと忍び寄る影に追いつめられる。相反する2つの世界。その間で、千雪の心だけが哀しく揺れていた。
「…あ、やめ…!」 「…千雪…?」 甘い喘ぎとは違う声に気付いて、我に返った惣哉は千雪の顔を覗き込んだ。青ざめた頬に幾重にも涙が流れ落ちる。 「どうしたの? …ごめん、本当に嫌だった? …やめる?」 「千雪…」 「…ないで…」 「え…?」 「…そんなに、優しくしないで…」
「どうして、そんなこと言うの…?」 しばらく室内には小さな嗚咽だけが聞こえていたが、それがだんだん小さくなり、呼吸が整ってきた。
「…だって…私、初めてじゃないし…そうなのに、副理事長さんは優しくて…申し訳なくて…何だか…」 「…千雪…?」 「…私じゃない人が…相手にされているみたい…」
…咲夜じゃないのか…? この人が思い描いているのは一籐木咲夜ではないのが? 届かない想い人への満たされぬ想いを…自分に向けているだけじゃないのか…? そうじゃなかったら、自分が相手にされるわけがない。この人の笑顔を、優しさを自分が受け止める理由がない。それでもいい、そう思いたいのに…自分の中の惣哉を愛する気持ちが邪魔をする。
「……! …きゃあ!!」 「…あ…」 「…惣…」 「…何で…どうして、そんな事を言うの?」 「どうして…信じてくれないの…?」 「…だって…だって…私…」
腕を振りきって顔を逸らそうとすると、一瞬浮いた身体が、そのまま強く抱きしめられた。 惣哉も、自分も上半身は何も身に付けていなかった。少し汗ばんだ微かな惣哉の匂いが千雪を包み込む。素肌のままでぴったりと吸い付いてくる腕。衣類をまとっているときよりも、もっと身体が強く深く密着する。
…身体が動かない…
もともと力では敵うわけないが、しっとりとまとわりついてしまうと惣哉の身体は本当に少しも動かない。
しばらくは静寂の中、2人の呼吸の息づかいだけが聞こえていた。やがて、惣哉が大きく息を吐くと静かに言った。 「…ひとつ、聞いていい?」 「はい…」 「千雪は…その、彼とのこと、後悔してるの?」 「…え?」 「どうなの?」
こう言うとき、どんな風に返事をしたらいいのだろう? まっすぐに惣哉に見つめられて、困り果てた。 仕方ない…。千雪は瞼を閉じると大きく深呼吸した。ここは自分の心に聞くしかない。どんな結果になるか恐れて、色々想いを巡らせても息詰まるだけだ。
そっと瞼を開けた。震える瞳で惣哉に向かう。惣哉もまっすぐに自分を見つめ返していた。 「…後悔なんて、してません。だって、幸せだったもの…本当に…幸せだったんですもの…」 こんな事、言って許されるものではないと思う。惣哉だって面白くないはずだ。 正直に話してしまったものの、やはり怖くなって、そのまま俯いてしまった。
「…千雪…」 それから何かを注ぎ込むように、唇が重ねられる。ゆっくりと熱を移すように。角度を変えながら…優しく。鼓動が重なり合う程に染みこんでくる。
「あの…」 「…それなら、いいでしょう? 君が優しい思い出に包まれているのなら。そりゃ、少しは…口惜しい気持ちはある。でも…それも千雪の一部なんでしょう?」 穏やかな色に戻った瞳に見つめられると、次の言葉が出てこない。 「…いい?」 すうっと唇を指でなぞられる。背筋がぞくぞくっとした。すっと視線を逸らして小さく頷く。 そのままゆっくりと横たえられる。戸惑いがちに視線を向けると、いつものやわらかい瞳が見下ろしていた。
「…でも、ひとつだけ。…さっき、間違えたでしょう?」 「え…?」 きょとんとした千雪にフフッと微笑むと、惣哉はそのまま胸元に舌を這わせた。そして強く吸い上げる。 「や…! 何…また!」 「…おしおき。さっき、言ったでしょう『副理事長さん』って…」 「…え? い、言ってませんよ〜!?」 「言いました」 「で…」 「今は、僕のことだけ、考えてくれる?」 じっと顔を覗き込まれて、恥ずかしくて仕方ない。真っ赤になって俯くと、そのまま惣哉の背中に腕を回した。
………
「…ごめん、ちょっと乱暴にしちゃうかも、知れない…」 「…惣哉…さん?」 「やっぱり、千雪に愛された奴が憎らしいよ…千雪の身体にその思い出が残っているのは…嫌だな…」 「…え…?」 「…忘れさせて…やりたい…!!」
いつもの優しい姿、振る舞いからは想像できない、引きずられてしまいそうな波に飲まれる。振り切られたら、戻ってこられないかも知れない。そのくらい躍動している。 激しい息づかい、それに応える自分の声が…声と言うより叫びに近い喘ぎが、重なる。 越えても越えても…再び現れる新たな波。必死にその背中に手を回すと、汗でずるりと滑り落ちてしまう。自分の身体を流れるものと、惣哉の身体からはじき出た汗が胸に、腕に絡み合って、どちらのものか分からなくなる。
…どれくらいの時間が経過したのか、分からない。 「熱っ…」
自分を襲い続けた波が目眩になって額の裏にへばりついている。その反響が脳内に響く。千雪は大きく肩で息をして、なかなか力の入らない瞼を開けた。目のフチから汗が滲んできて、ひりひり痛い。
「…どう…したのですか…?」 うつろな千雪の瞳に優しく微笑み返しながら、惣哉は片手で汗でべっとりと額に張り付いた前髪をかき上げた。まるでにわか雨にでも遭ったようだ。髪全体がしっとりしている。 それから身体をつなげたままで千雪の頬を包み、耳元に囁く。 「…今、誰のこと、考えてた?」 「…え?」 「惣哉さんのことしか、考えてませんでした…」 当たり前だ、こんなに激しく、責め立てられて…どうして他のことを考えるゆとりがあるんだろう。 正確にはお互いの身体が絡み合っているその直接的な事実以外は忘れていた。どうしてここにいるのかも、自分がどこにいるのかさえ。
それなのに。惣哉はその当たり前の解答を、満身の笑みで迎えた。自分と千雪の唇を合わせて、ついばむ。舌でなぞってから話すと千雪を見つめた。 「僕も…千雪以外のことは…考えられなかった。好きだよ、千雪…」 「…一緒に…いこう…?」
そのあと。 再び訪れた荒波に飲まれて…全て全てが真っ白に還るまで…長かったのか、一瞬だったのか…
………
自分は、どうしていたのだろう? けだるく身じろぎする。 「そ…うや…さん…」 肩がひんやりする。どこかに空調の吹き出し口があるのだろう。ちょっと身震いして、目を開けた。
惣哉の腕がゆっくりと絡みついて、自分を捉えていく。汗ばんだままの胸元が少しも心地悪くなかった。 「…やっぱり、ちょっと強引だったよね…ごめん」 確かにその言葉の通りだが、全てが終わった後に言われても、何と応えていいものか? 千雪は胸に額を押しつけたまま、笑いを堪えた。 「でも…千雪をあのまま家に帰したら、二度と戻らない気がした。君の言うことって、信用できないもんな…どういう形でもいいから、早く自分のものにしたかったんだ。君がもうどこにも行けないように、ね?」 「…惣哉さん…」 顎に手が添えられて、心持ち、上向きにされる。視線を合わせられた。惣哉の瞳は今、自分だけを見ている気がした。 「前の彼と、何年付き合ったの?」 「え…?」 「…3年ぐらいですけど…」 「ふうん、そうなの…」 「じゃあ、一晩に3回頑張れば、1年で追い越せるかな…う〜ん…身体が保つだろうか…」 「そ、惣哉さん!!」 「こんなの、3回もされたら、私の方も保ちません! いい加減にして下さい…!」 「何だ、千雪の声、もっと聞きたかったのにな…いつもと全然違うんだから…」 そう言いつつも、大きくあくび。そう言えば、今日の会議でもずっとうとうとしてたんだ、この人は。 もう一度、強く抱きしめられて、耳元で『おやすみ』の代わりに歌うように惣哉が言った。
「好きだよ、…千雪」 その後、彼の呼吸が寝息に変わるまで、いくらも時間がかからなかった。
終了(020213)
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