…1…

 

 焦点の合わない視界に、ぼんやりとグリーンの光が浮き立つ。ほのかなそれは冷たく輝き、存在を誇示していた。あれは何だろうと、考える。そして、それを無意識のうちに心の中から追い出そうとしている臆病な自分に気付いた。

「…何時、でしたか?」
 闇の奥からくぐもった声がする。かすれた甘い音色にふっと意識を戻した。闇に包まれた空間。ふわっと浮き上がるシーツの白。そしてその上に身を沈める人が瞼を開ける。何かを含んだ目がこちらを見つめていた。
 そっと身をかがめて、言葉を発しないままで口づける。しっとりした柔らかいそれが震えていた。それだけで胸がえぐられる気分になる。

「ごめん」
 見ようとして見たわけではない、偶然視界に入ってきたデジタルの灯り。でももしかすると意識の奥底で時間を気にしていたのではないかと自責の念にかられる。そしてその行為を下にした人に悟られてしまったことが何より辛い。

「…謝らなくていいのに…」
 優しい色を乗せてその人の瞳が微笑む。そして自分の顔のすぐ横に置かれた腕に頬をこすりつけた。身体が斜めに傾いたことで照らし出される白い肩、うなじ。何度身体を重ね合っても、神聖な光を放つ肌。そっともう片方の手を滑らせるとぴくりと震えた。

「成美(なるみ)…」
 言葉は時として、想いを伝える邪魔になる。並べ立てたいものを全て飲み込んで、愛しい人の名を呼んだ。

「こうやって、あなたと繋がっていれば…今何を思っていらっしゃるのか、ちゃんと分かります。気にしないで…」
 瞳を閉じて顔を背けたまま、そう言う。責められているのではない、それなのに…。

「…あ…っ」
 身じろぎした瞬間に合わせた部分がこすれ合う。彼女…成美はそれに反応して、甘い声を上げた。透明な時間の中でお互いの存在だけが浮かび上がる。

「じゃあ、俺が何を考えているのか…当ててみて?」

「え…?」
 遊び心を含んだ声に不思議そうな顔が向き直る。その頬をゆっくりと手のひらで包み込んだ。
自分をじっと見つめたまま、黙り込んだ彼女は、しかし、やがてふっと表情を崩した。そして腕を伸ばしてこちらの頬に細い指を当てる。

「…帰りたくない、と…思っていらっしゃるでしょう? 渉(わたる)さんは…」

 柔らかくて、それでいて悲しみをたたえた瞳。でも口元は静かに微笑んでいる。彼女の中の葛藤が見え隠れする。控えめだからこそ、ますます愛おしく、恋しくなる。もう一度、ゆっくりと口づける。全ての想いを伝えるように…。

「じゃあ、今度は君が何を考えているのか…当ててみようか?」
 渉は迷いを全て追い出すように顔全体で笑った。小首を傾げた成美は言葉を返さないまま、それでもしっかりとこちらを見ていた。

「帰したくない、って…思ってくれている…よね?」

 そう言った瞬間、成美が子供のように微笑んだ。汚れのない無垢な輝きを腕に抱きしめる。細い腕が渉の背中に回されて、絡みつく。胸と胸のはざまでお互いの振動が和音になる。柔らかい髪を指の間に絡め取る。

「…で、あとどれくらい…大丈夫なんですか?」
 耳元で静かに囁かれる。

「…15分、位かな」
 動きを止めたままで、さり気なく答える。感情を乗せない音で…もしも、このときに本当の気持ちをさらけ出してしまったら、優しい人を傷つけてしまうことは分かっていた。

「それだけあれば、十分だわ」
 汗ばんでしっとりした背に回した腕に、今一度の力を込める。

「15分…私のものでいて下さい、たくさん愛して…何もかも忘れるくらい、導いて…」

「…成美…!!」
 押さえきれないものが堰を切って流れ出す。この人にここまで言わせてしまう、そんな自分が憎い。うなじに唇を落として、胸を探る。すうっと下から手を這わせて、指先が先端に達したとき、彼女の口から言葉にならない喘ぎ声がこぼれた。一番敏感な部分を絶え間なくつまみ上げ、叩き、刺激する。もう一方の頂きを滑り落ちた唇で軽く噛んだ。

「あ…渉…さんっ…!」
 再び身体に襲いかかる快感に背筋が弓形にしなる。バウンドをした瞬間に訪れた結合部の刺激に逆らわず、そのまま腰を動かして優しく責め立てていく。ぎしぎしとシングルのベッドが音を立てて揺れた。少しでも音が隣りに響かないようにと壁から少し離して置かれていたが、それくらいのことでは二人のむつみ合う行為を隠すことは出来ないかも知れない。

 荒い息づかいの交錯する場所を見下ろしながら、途切れた直線で描かれた数字がカシャンと姿を変えた。

 


「お先に」
 腰にバスタオルを巻き付けて、手にボディーシャンプーを持った姿で渉がバスルームから出てきた。淡いグリーンのタオルは自分のために用意されたものだ。一人暮らしの彼女は普段はこんな色のものを持たない。

「…姉さんは? 相変わらずなんですか…?」
 さり気なく揃えられたペアのマグ。このカップを自分が来たとき以外は彼女が使わないことにしているのも気付いていた。いつでも訪ねた時はカップボードの同じ場所から二つ並んだそれを取り出す。メンズの大きめのシャツを素肌に纏った姿で、成美は少し疲れた表情で微笑みかけた。

「明日、翔太君のお守りに来てと言われてるの。ほら、姉さん、クラス会の幹事をしてるでしょう? その集まりがあるんですって」

「…それでまた、君を呼びだしたのか…」
 渉の妻である晶子はことあるごとに妹の成美に用事を言いつける。姉妹の間のことに口を挟むのはいけないと思いつつも、その遠慮のない行為についつい避難めいた声色になってしまう。

「そんないい方、しないで下さい…」
 成美はそっと俯いて瞳を閉じた。長いまつげが震えている。

「姉さん、病院通いで疲れているのよ。気遣ってあげて…」

「よく自分の恋敵にそんな優しい言葉をかけてやれるな?」
 少しきついいい方になってしまった。言葉になって口からこぼれた時に初めて気付く。ハッとした瞳がこちらを見ていた。

「そんな…私…そんなつもりじゃ…」
 自分で自分の身体を抱くようにシャツの袖をぎゅっと握りしめる。肉の少ない細くて長い指。まだ、自分が愛した痕跡を生々しく残している身体。出来ることならずっと離れずに抱きしめていたい女性(ひと)…。甘い匂いをかもしだす柔らかい髪が小さな肩に触れて震えている。

「…ごめん」
 たまらずに背後に回って、その小さな背中を優しく抱きすくめた。

「…! 渉さん…!! せっかくシャワーを浴びたのに…」
 慌てて振り払おうとするが従うことは出来ない。首筋にキスしてそのままそこに顔を埋めた。

「本当に…帰りたくない…」

「駄目…! 姉さんが待ってるでしょう?」
 涙声で叫ぶ。そう言いながらも身体ではどうしても拒否することが出来ないでいる。そうしてしまったのは自分だ、彼女をここまで追いつめているのは自分なのだ。

 

 息子のアトピー性皮膚炎がひどく、除去食を強いられている。料理の余り得意でない妻はそれだけでもストレスが溜まっているらしい。そのこともあって、疲れ切って夜を迎える彼女はベッドを共にすることを拒んでいた。子供が2歳を過ぎると周囲の「二人目は?」の声も盛んになる。そのことも妻のイライラのひとつになっていた。もともとそりの合わない夫婦だった。それでもお互いに歩み寄る努力があれば良かったのかも知れない。

 週に1回、スポーツクラブに通うと偽り、こうして逢瀬を重ねていた。汗をかくので、シャワーを浴びてから電車に乗る、と言うと妻はボディーシャンプーを差し出した。息子と接するものとして出来るだけ気を付けた製品を使えと言うことだったが、何だか監視されているようで嫌だった。でもその減り具合まで確かめられる。変なところで細かいのだ。

 

「お義兄さん…」
 冷たく、突き放した声。ハッとして、腕を緩める。その空間の中で身体をくるりと回して、成美は渉の胸にそっと額を寄せた。

「お願いが、あるの…聞いてくれますか?」

「え?」
 いつものように責め立てられるのかと思った。成美は自分が冷たくされることには憤慨しないが、ことに姉の晶子のことになると態度が変わる。でも、今日の声は甘える様なすがるような切ない響きを持っていた。

「明後日…いつもの日じゃないんですけど…来ていただけませんか? 私の誕生日なんです…」

「あ、…そうだったね。だったら、ウチに来れば? みんなでお祝いしようよ」
 忘れていた、自分たち家族の誕生日には必ずお祝いに訪れてくれる成美だ。みんなで祝ってやりたい。

「いいえ…」
 しかし、彼女はその提案に静かにかぶりを振った。

「渉さんと…二人でいたいの。…駄目?」

 涙で潤んだ瞳が自分を見上げる。ああ、駄目だ。この瞳に見つめられてしまったら、もう自分を偽ることなど出来はしない。

「分かった、明後日に必ず」
 デジタルの数字が非情にタイムリミットを告げる中、愛しい人をもう一度腕の中に抱き寄せて、激しく唇を合わせた。

 

………


 …どうしてこんなことになったのか。

 後悔はしないつもりだが、妻を裏切っている後ろめたさよりも、成美を傷つけて悲しませている自分が辛かった。どうにかして終わりにしようと思いつつ、始まってしまった関係は3月目を迎えていた。

 

「…お義兄さん!!」
 あの日、駅を後に自宅へと急いでいた。夕方の雑踏の中で明るい声に呼び止められる。

「あ、成美ちゃん…」
 振り向くと妻の妹である成美がにっこり微笑んで立っていた。

「そうかなと思ってずっと後をついてきたんです…ふふふ、やっぱりお義兄さんでしたね。今からお家に行くところだったんです」

「ウチに?」
 聞き返す渉に、成美はカサカサと買い物袋を見せた。

「会社の近くの自然食品のお店、今日は半額セールだったんです。だから色々買ってきちゃった。…普通に買うと高いですものね」

 短大時代に食物を専攻していたという成美は、甥っ子である翔太のアトピー食のことを熟知していた。時々家にやってきて作り置きできるものを小分けにして冷凍して行ったりする。彼女は隣の町にアパートを借りて住んでいる。渉が成美の姉である晶子と結婚するまでは二人暮らしをしていたらしい。結婚を機に、少し離れて暮らすことになった。彼女たち姉妹にはもう親がなく、それだけに2人の結びつきの強さは渉の想像を超えるものがあった。


「あんた、例の田中さんとやらとは上手くいってるの?」
 当然のことのように買い物袋を受け取ると、晶子は礼も言わないまま、不躾に言葉を投げた。傍らで聞いていた渉はいくら何でもそのいい方はないんじゃないだろうかと思っていた。だが、それを咎めればまた何倍に返されるか知れない。

「…え? 田中さん…?」
 対する成美はとても言いにくそうに返事をしていた。

「まさか、また駄目になったとか言うんじゃないでしょうね?」
 妻は更に畳みかけるように言う。俯いたまま静かにそれを聞いていた成美はしばし黙っていたが、やがてゆっくりと姉の方を向き直った。

「うん、…そのまさかなの」

 辛そうに絞り出す声には渉の方が辛くなった。しかし、妻はそんな素振りもなくしゃあしゃあと続ける。

「ええ〜? どうしてなの? 上手くいってたんでしょう、あんたたち…」

「うん…でも、あちらのご両親に私の身体のことがばれちゃったの…そしたら、辞めなさいって言われたんだって…」
 成美は今にも泣き出しそうだった。でも気遣うこともなく、妻は大袈裟にため息をついていた。広くないキッチン兼ダイニングに響き渡るほどに。

「ああ!! 喘息(ぜんそく)のこと…お前は昔からそれがあるから。このままじゃ、一生貰い手がないかも知れないわね…そうしたら、あんたの老後はウチの翔太が見ることになるの…? おお、嫌だ!! いい加減にしてよ!」

 何か言い返せばいいのに。成美は俯いたままだ。頬に髪がかかって、表情を隠している。

「まあ、子供も産めるかどうか分からない身体だって分かったら相手は躊躇するでしょうけど…少しは気を付けなさいよ」

 その時に翔太が成美にまとわりついてきた。それにすがるように彼女はその場を離れた。その日はそれきり話題に上がることもなく過ごしていた。

 


 10時過ぎに成美が引き上げた後、しばらくしてから置きっぱなしになっていたポーチに気付いた。妻が中を確かめると細々したメイクの道具が入っているという。多分職場での化粧直しようのものなんだろう。翔太が成美のカバンの中を悪戯していて落ちたのかも知れない。

「お前、暇なんだろう? 届けてやればいいのに…」
 何気なくそう言うと、妻はキッとこちらを睨み付けた。

「何言ってるのよ!? 子連れで出掛けるのがどんなに大変かなんてあなたには分からないわ! ほしけりゃ自分で取りに来るでしょうよ? それでいいでしょう…!?」

 

………


 成美が再び訪れたのは2日後のこと。ちらちらと降り出した雨に髪を濡らしながら彼女がやってきたのは7時過ぎだった。丁度、帰宅したばかりだった渉が玄関まで出迎えた。元、自分の家だった筈なのに、彼女は靴も脱がずに待っていた。


「…あら? 姉さんと翔太君は?」

 GW開けの筈が冬に戻ったような陽気。雨に加えて何とも肌寒い外気が開け放ったドアから吹き込んでくる。 しんと静まりかえった屋内を不思議そうに眺めながら、成美は何度が瞬きをした。
 姉妹と言っても姉である妻とは何から何まで反対の彼女だ。勝ち気そうな顔立ちに浅黒い肌、きつめのウェーブをかけた髪の妻の妹でありながら、色素の薄そうな肌と髪の色。長いまつげも薄茶色に近い。そのせいか、病気のことを知っているからか、何とも儚げに見える。初めて紹介されたときには晶子の妹だとは信じられなかった。柔らかくカールした髪を肩の下で揺らしながら、渉を見つめた。

「あ、今夜はアトピーの友達のところで泊まりの集まりがあるって。子供同伴で連れて行ったよ」
 さらりと真実を述べた。

 妻は息子のアトピーの治療のために訪れた病院などで知り合った何人かの同じ境遇の友人と交流していた。やはりその様な知り合いは話が合うらしくお互いに家を回り、泊まることもある。今日はご主人が出張だという人の家に行っているらしい。

「まあ、…だったらお義兄さんもどこかで寄り道して来れば宜しいのに。まっすぐに帰って来ちゃったんですか? お食事は?」

「さっき、コンビニで買ってきた」
 言われてみればその通りである。自分でもどうしてこの日、飲みにも行かず戻っていたのか不思議だった。

「やだ、単身赴任の方みたいですね…」
 成美が楽しそうに笑う。妻よりも3歳年下だと言うが、もっと若く見えてくる。その後、くしゅん、と小さくくしゃみをした。

「…大丈夫?」
 ふと、喘息のことを思い出した。子供の頃はひどかったらしいが、今では年に何度が発作が起こる程度まで落ち着いたという。それでも薬をたくさん処方されていた。一度見せて貰った「2週間分の薬」がスーパーの袋ひとつ分位あって驚いたことがある。

「ええ、平気です。あの…じゃあ姉さんに電話で聞いたんですけど、私の忘れたポーチ、取っていただけます? このままおいとまします」
 そうするのが当たり前のように成美がにっこりと微笑んで言った。

「…? 上がって行きなよ、濡れた髪を拭いていった方がいいだろう?」
 せっかくここまではるばるやってきた彼女を追い返すのも申し訳なく思った。

「え? いいですよ〜お義兄さん、せっかく独身貴族に戻ってくつろいでいるのに…お邪魔しては申し訳ありませんよ?」
 あくまでも引き上げるポーズだ。仕方ないかと、ポーチを持ってきて手渡した。差し出した指に一瞬触れると、それは氷のように冷たかった。

「待って…!?」
 じゃあ、ときびすを返した彼女の腕を反射的に掴んでいた。子供のように頼りない、骨張った手首。成美は驚いた顔で振り向いた。

「あの…?」
 震える声で訊ねてくる。何が起こったのか分からないように。

「上がって、きちんと身体を乾かして戻りなさい。風邪でもひいてこじらせたら大変な思いをするのは成美ちゃんだよ?」

「…は、はいっ!」
 渉のいつになく命令調の言葉に、反射的に成美が返答した。向き直った拍子に腕がするりと抜けた。