…2…

 

 結局、昔の我が家に上がった彼女は冷蔵庫にあるあり合わせのもので簡単な夕食を作ってくれた。そんなことをさせるつもりはなかったので思いきり恐縮してしまう。すまなそうな顔になる渉に、成美が微笑んだ。

「一人分でも2人分でも同じですもの。それに一人で食べるご飯はおいしくないでしょう?」

 それもそうかと思った。でも同時に彼女はいつも一人で食事を摂っているんだと言うことにも気付いてしまう。自分が妻と結婚したために成美はこの家を追われたことになる。両親と姉と共に暮らしていた思い出の家を。そう思うと何とも申し訳ない、後ろめたい気持ちになった。でも目の前の成美は楽しそうに笑っている。

 

「お風呂にはお湯を張っておきましたから…火の元には気を付けてくださいね」
 食事の片づけが終わると、彼女はさっとバッグを手にして立ち上がった。ドアをそっと開くと、しとしととだんだん雨足の強くなる外の音が響いてきた。ふわっと吹き込んでくる風で雨の滴が、見送りのため上がり段の所に立っている渉の所まで飛んできた。

「あの、成美ちゃん…」
 今日、ずっと言おうか言うまいか迷っていた。どうしても口から出なかった言葉をようやく絞り出す。

「この前の…晶子のいい方、すまなかったね。余り気を落とさずにね…」

 その言葉を背中で聞いていた成美がくるりと振り返る。そして、困ったような潤んだ瞳を向けて微笑んだ。

「…終わったことですから。もう、大丈夫なんです…本当に」
 髪を揺らしながら、そう言う。語尾が雨音にかき消されるほど霞んでいる。

「お義兄さんにまで…御心配頂いて…申し訳ありません」
 そこまで言うと、すっと俯いた。そのまま渉に背を向ける。小さな肩が震えていた。

「…!? 成美ちゃんっ…!!」

 理由はなかった。聞かれても答えられない。でも、彼女を帰せないと思った。…どうしても自分の腕に抱きしめたいと思った。



 どうしてこんなことになったのか…どうしてもこうならなくてはいけなかった気がする。後ろから思い切り抱きしめた瞬間に、心を留めていたものが外れてどこかに飛んでいた。

「…お…お義兄さんっ…!?」
 成美は渉の腕の中で激しく暴れた。しかし、それを解放することなく、身を乗り出して玄関のドアを閉めて鍵を掛けた。

「いやあっ! 離してっ…!!」
 少しその身体を浮かせながら、奥へと引きずり戻す。ばたつかせた両方の足からパンプスが脱げて落ちた。コロコロと転がったクリーム色の物体がやがて動きを止める。

「…好きなんだ、成美ちゃん」
 口から出てきた自分の声に驚く。でも出任せじゃなかった…ようやく自分の気持ちに気付いた。

 

 恋人だった晶子に妹だと紹介された瞬間から、心を囚われていた。気付かない振りをしていた。気付いてはいけない気がしたから。同じ職場にいた晶子とは向こうから言い寄られる形で付き合い始めた。好きか嫌いかなんて考える暇もなく関係が進んでいく。勝ち気な性格の彼女はどこまでも積極的だった。
 成美の瞳が初めてこちらを向いて微笑んだとき、もう恋をしていた。淡い存在がそのまま抱きしめてしまいたいほど愛おしかった。でもそれをしてはいけないことも分かっていた。もう晶子との結婚は決まっていたし、彼女のおなかの中には翔太がいた。

 

「いやっ! …お願い、離して!! お義兄さん―…」
 泣きながら叫ぶ声を唇で塞ぐ。リビングのカーペットの上にそのまま押し倒していた。
 荒々しく服をはぎ取って、白い肌を灯りの下に晒し出す。下着に手を掛けたとき、それまでの抵抗がふつりと途切れた。

「……?」
 波音の消えた湖面のように静まりかえってしまった身体に驚いて、上体を起こす。薄茶色の目が切ない色をたたえてこちらを見ていた。

「…本当に…?」
 かすれた声がこちらに向かって静かに語りかけてくる。

「…え…?」
 言葉の意味が分からない。ふっと頭が冷えていた。

「私のこと、本当に好きですか? …だったら…いいです…」
 渉の束縛を解かれた彼女の腕が静かに後ろに回り、ゆっくりとした手つきで下着を外していく。細い身体に似合わずにこぼれそう胸が現れた。思わず、渉はごくりと唾を飲んだ。触れてはならない神聖な輝きを放って、彼女の身じろぎに合わせて静かに波打った。柔らかに誘われる。

「…抱いて、下さい…」
 ほろりと新しい涙がこぼれた。でも、口元が静かに微笑む。

「私も…お義兄さんが、好き…」

 もう迷えない、迷えなかった。思い切りかき抱いて、胸を合わせる。柔らかな香りが鼻をくすぐった。

 


「ごめんなさい…」
 声が涙でくぐもっていた。渉の胸に額を押し当てた彼女は、回した腕を震わせながら何度も何度もこの言葉を繰り返した。

「君が謝ることなんてないだろう…?」
 そう言いながら頼りない身体を抱きしめる。しっとりと汗ばんだ身体には病的なほど肉がなく、強く力を込めると壊れてしまいそうだ。どうにか命の息吹を伝えたくて、乱れた髪をかき上げて首筋に唇を当てた。ほんのりとピンク色に上気したそこが微かに波打っている。その脈のありかを探すようにいくつもいくつも繰り返す。

「君は悪くないんだ…悪いのは俺なんだから…」
 そう言いながらも新しい欲求が生まれてくる。妻に対しても久しく湧いてこなかった気持ち。愛おしいのに征服したいという相反する不思議な心が溢れてきて止まらなくなる。これが恋なんだと気付いた。

「…いいえ…いいえ…」
 ぽろぽろと涙を溢れさせて、大きくかぶりを振る彼女が痛々しくて…でも狂おしいほど欲しいと思う。

「もう泣かないで…泣かないと約束しないと…君を離さないよ…」
 耳元にそう囁きながらも解放する気持ちなどなかった。その夜はお互いの身体が溶け合ってしまうのではないかと思うくらい、何度も何度も肌を重ね合った。

 

………

 片手でひねり殺せるほどの儚い身体が、それでも苦しそうに喘ぎながら、必死で求めてくる。それを全身で受け止めながら、どんどん深みに入り込んでいく自分を止められなかった。


 いつだったか訊ねたことがある。激しく愛し合った後のけだるい身体をそっと抱き寄せながら、髪を指に絡めていた。成美の身体がしっとりと寄り添ってくる。時間の制約がなかったら、今すぐにでももう一度愛したかった。

「…何か…欲しいものはない?」
 こうして隠れて抱き合うしかない後ろめたい気持ちが言わせた言葉だったのかもしれない。その言葉にぴくりと白い肩が反応した。

「そんな…こうして渉さんと一緒にいられるだけで、幸せ…」
 そう告げて、細い腕を伸ばしてしがみついてくる。しばらくそのまま彼女は押し黙っていたが、やがて何かに思い当たったようで面を上げた。

「そう…絶対に叶わないものなら、欲しいものがあります」
 言葉と裏腹にくすくすと軽い笑い声を上げていた。不思議に思って、その顔に自分の顔を近づけた。息がかかるほど近寄ると、じっとこちらを見た彼女がおかしそうに言った。

「渉さんと一緒に街を歩きたいな…腕を組んでね。そして、ホテルのケーキバイキングに行って、おなかいっぱい食べるの…素敵でしょう? 遊園地に行って、大きな観覧車にも乗りたいな…それから、ジェットコースターにも乗るの。怖かったら、渉さんにしがみついちゃうわ…」

 何も、答えられなかった。心の底に衝撃が走った。こんなに近くにいながら、彼女と自分との間を隔てる大きな溝に今更ながら気付かされる。会うのはこの部屋か、妻と子供のいる家でのみ。会って抱き合っても始終時間を気にしながら。それでもこうして会えることが幸せだと思っていた。でも、成美は普通の夢を見る娘なのだ、人並みの恋愛をして幸せな結婚をしたいと思っているに違いない。それを叶えることの出来ない自分なのに、彼女を手放すことも出来ない。

「…でも、君はケーキは2個食べるのがやっとでしょう? 走りものも乗っちゃ駄目じゃないか…」
 無理におどけて返答した。胸がキリキリと痛んだ。

 そんな渉の必死な心に気付いているのかいないのか…ふふふ、と喉の奥で笑った成美は彼の首に腕を回した。

「だから…夢なんです、ただの。こうして会いに来てくれるだけで、本当に嬉しい。一緒にいられる時間があるんだから今のままで十分幸せなの…」
 耳たぶに触れた唇が震えていた。心臓が押しつぶされるほど苦しい。この瞬間の表情を見せたくなかった。だからきつく抱きしめて、胸の中から動けないようにした。

 

………


 いつものように呼び鈴を押す筈の自分が浮き足立っていた。ぱたぱたと奥の方から足音がするのを鼓動を速くしながら待つ。がちゃっとドアが開くと、嬉しくて笑みがこぼれた。出迎えた彼女は驚いて立ち尽くしている。するりとドアの隙間から身体を滑り込ませて中に入ると後ろ手にドアを閉めた。

「ハッピーバースディー、成美。ご所望のケーキと…こっちはプレゼント。受け取って」
 放心したままの成美がボーっとした手つきでそれらを受け取る。そんなに重みもないと思うのに身体が大きく揺らいだ。ケーキの箱と、ささやかなブーケ。その上にちょこんと小さな包みを置いた。

「これは、おまけ」
 そのまま首を引き寄せて短いキスをした。


 部屋に招き入れられると、今度は渉が驚く番だった。小さなテーブルには真っ白なクロスが敷かれて、その上に隙間がないぐらいのご馳走が並んでいた。とても2人で食べきれる量ではない。

「あと、渉さんが好きなビーフシチューも作ったの…たくさんあるから、食べてくださいね…」

「…おいおい」
 渉は思わず頭をかいた。

「今日は…この料理を平らげさせるためだけに呼んだのかい? まさか…君を味わう暇がないんじゃないだろうね?」

 実際、成美の手料理はおいしかった。それはいつも家に来て料理してくれているので知っていた。妻の作るものとは全く違っている。まあ、妻も料理については妹と張り合う気もないらしく、成美が来てくれると助かるわ、と笑っていた。でも、今夜の食卓は今までに見た中で一番豪華だった。洒落たレストランでゆったりと食事をすることも叶わない、そんな切ない想いを抱いた彼女の必死の夢の実現だったのかも知れない。

 こうして顔を合わせてしまえばすぐにでも抱きたくなる。でもはやる気持ちを抑えながら、彼女の心づくしをゆっくりと味わった。成美はそんな渉をほとんど手も動かさないままで、ずっと見つめていた。柔らかい微笑みをたたえて。その表情がこの世のものとは思えず、淡く美しいのがちょっと気にかかる。何もかもが彼女の中に包み込まれて行くようだ。


「…実はね…」
 プレゼントの包みを自分で解きながら、渉は言った。

「これ、半分返して貰わないといけないんだ、…」

 純白の布張りの小さなケースを開けたときの、成美の顔はもう泣き出しそうだった。口元を両手で覆う。その左手をそっと取るとケースから出したリングを薬指に通した。すっとはめられたシンプルなリングが細い指を更に美しく見せた。

「渉さん…」
 ぽろぽろ涙を溢れさせた人を抱きしめてしまいたい衝動。それを必死で押さえながら、次の言葉を口にする。

「俺の方は…いつもしているわけにはいかないけど…今日は、君の手で付けてくれる?」

 成美はケースに残されていたペアリングの片割れを恐る恐る手にする。そして息を飲んで一瞬手を止めてから、涙に濡れた瞳をこちらに向けた。それを微笑んで迎える。もう一度、視線を戻した彼女はそっと渉の差し出した手を取るとするするとサイズの合ったリングを所定の場所に収めた。

「これは、ずっと持ってる。成美と俺は、繋がっているんだよ…」

 泣き崩れそうな身体をしっかりと抱きとめる。しばらく渉の胸で嗚咽を上げていた彼女は、やがて消えそうな声で言った。

「…今日は…帰らないで…ずっと、側にいて」

 渉の背筋をぞくぞくしたものが這い上がっていく。思わず成美の背中に回した腕に力がこもる。それが沸き立つ喜びであるとやがて気付いた。

 


 ひとつに繋がる瞬間に、成美は決まって身を固くする。何度受け入れても慣れないらしく、それが初々しくもあり、切なくもあった。渉は避妊具を付けていない。初めての日に、装着しようと身を起こしたら、成美がそれを制した。彼女は自分がきちんと避妊していることを告げた。体の丈夫でない彼女にとって予期せぬ妊娠は命取りになるという。渉と関係を持つ前にも彼女は付き合っている男がいた。どのくらい深い仲だったのか聞いてはいないが、彼女が自分の身体を気にして生活していたのだ。

「大丈夫だから…力を抜いて…」
 耳元で優しく囁いてもなお震える体に自分を沈めていく。はあっと声にならない息が漏れて、開いた部分がじんわりと潤んでくるのが感じられる。ようやく奥まで届くと、優しく頬にキスして合図する。うっすらと目を開けた成美がとろけそうな瞳でこちらを見た。淡く微笑む。

 そこからが本当の二人きりの時間だった。彼女の身体を気にしながら、ゆっくりと動き出す。しかし途中からはそんな気遣いも出来なくなってしまう。苦しそうな喘ぎを耳にしながら、更に激しく責め立てて行く。自分しか感じられない女に変えてしまいたい。自分だけを見ていて欲しい。妻帯者でありながら、今組み敷いている人の実の姉を妻に持ちながら…それでも、それなのに彼女を独占したいのだ。何とも自分勝手な許されない思考だった。

「成美…成美…っ…!」
 どんどん激しくなる波に乗って、喘ぐ声を絡め取りながらその人の名を呼ぶ。投げ出された手のひらを指で絡め取り布団の上に押しつける。そうして半開きの口元に舌をねじり込ませた。

「…う…ううんっ…!」
 激しい動きに翻弄されて、成美は首を左右に動かす。のけぞって露わになった首筋に今度は舌を這わせていく。骨の浮き立った場所をゆっくりとなぞって鎖骨を行ったり来たりする。その後、胸を味わい始めるとまた甘い声が絶えず沸き上がるようになる。それによって自分もどんどん高まっていく。この世界には抱き合った二人以外の何者も存在しない。あるのはただお互いを求めあう心だけだ。

 

 のぼりつめると息を整え、また抱き合った。夜明けまでの時間も短く感じられるほどの激しい夜だった。空が白む頃、ようやくうとうとと眠りにつく。一眠りして、目覚めると自分を見上げる瞳と視線が合った。

「…起きていたのか?」
 身体をいたわるように小さな顎にそっと手を添える。何だかこの頃また少しやつれた気がする、気のせいかも知れないが、初めて抱いた時よりも確かに肉が落ちている。顔色も良くない。でもその瞳だけはどこまでも澄み渡って幸せそうだった。

「…だって、寝てしまうのはもったいないわ。せっかくずっと一緒にいられるのに…」
 恥ずかしそうに首をすくめて微笑む。

 たまらずにその口元に自分の唇を重ねた。そのまま、もう一度愛し合った。疲れ切っているはずの細い身体がそれでも必死でしがみついて求めてくる。それに応えたくて、更に動きを激しくしていく。自分の中にある全ての欲求は彼女に向いていて、そして、自分の全ては彼女に与えていた。

「好き…大好き…。離さないで、お願い…もっと、愛して…」
 限界を超えた身体が宙をさまよう言葉で求めてくる。

「…これ以上、したら…君の身体が壊れてしまうよ…いいの…?」

「いいわ…だったら、壊して。バラバラにしちゃって…!」
 のぼりつめた彼女が絶叫して、気を失うまで…渉は自分の行為を止めることが出来なかった。うっすらと汗の滲んだ額にキスして、しっかり抱きしめたまま、しばしのまどろみに沈んだ。

 

………


 昨日と同じスーツを着て、出勤する渉をいつものメンズシャツを羽織っただけの成美が見送る。玄関で靴を履いて向き直ると、もう一度唇を重ねた。名残り惜しくて何度も求めてしまう。成美も逆らわず、それに応えた。

「じゃあ、また」
 出来るだけ、平気な顔をしてドアを開ける。

「行ってらっしゃい、お義兄さん…」
 閉まるドアの向こうで柔らかい声が見送った。