「成美、ちゃんが…いなくなった!?」 いつものように用事を言いつけようと電話しても繋がらない。職場に電話を入れると1週間前に退職したと言われた。その話は渉も成美の口から直接聞いてなかったので信じられない気分だ。 「どういうことなんだい? いなくなったって…単に旅行にでも行って留守なだけなんじゃないかい!?」 だけど、その反面。妙な胸騒ぎがした。あなた、あの子のアパートの場所知ってるでしょう? ちょっと見てきて…と言う妻の声を最後まで聞けずに、脱ぎかけた上着をもう一度前で合わせ、夜の街へ飛び出していた。
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渉は思わず息を飲んだ。 蛍光灯に照らし出された空間に生活の香りはなく、彼女の気配は塵一粒も残さずに消え去っていた。ただ、家具などは彼女が居たときそのままに置かれている。 「家具は…適当に処分してくれと言われまして。まあ、次の借り手さんに聞いて、必要のないものだけ粗大ゴミに出そうと考えましてね…結構、大事に使われていてきれいなものばかりですし」
テーブルの上にぽつんと置かれた手紙を見つける。表に「生野渉様・晶子様」と渉夫婦の名が記されていた。 ぱらぱらと中の便せんを開くと、そこに書かれていたのはあまりにも簡素な文章だった。 ―姉さん、お義兄さん、ごめんなさい。申し訳ありませんが、探さないでください。私は大丈夫です― きちんと乱れなく並んだ文字が成美の強い決心を物語っているようだった。
「引っ越したのは…いつなんですか?」 「ええと…金曜日です、先週の…」 そう、それは…最後に彼女を見た、朝の…その当日のことだったのである。
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警察に捜索願を出そうかという渉の提案は妻によって即座に却下された。そう言い切られてしまうと何とも返答のしようがない。それに成美自身にもきっぱりと言い切られてしまったようなものだ。 指輪の片割れは晶子に見つからないように本棚の裏に隠した。純白のケースを時々取りだしてみる。それにぽつんぽつんと薄茶色のシミが浮かんできて、こすっても取れなくなった。だが付ける当てのない自分用のリングだけがキラキラと輝いている。部屋に残された所持品等の中に成美に渡したリングはなかった。彼女がちゃんと持っていてくれるのか、ゴミと一緒に捨ててしまったのかは分からない。でも…渉は、我が儘だとは知りながら、思い上がりとは知りながら、それでも彼女の薬指にあのまま輝いていることを祈らずにはいられなかった。
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あんなに自分のことを可愛がってくれていた成美のことを彼は覚えていない。時々古いアルバムの中に彼女を見つけると「コレは誰?」と聞いてくるくらいだ。仕方もない、別れたとき2歳だったのだ、覚えていろと言う方が無理だろう。成美が姿を消してから、5年の月日が過ぎていた。
どこにいるのか、幸せでいるのか…ふっと考える。忘れようとして忘れられるものではない。もしもあの時に自分にもっと勇気があったら、全てを捨て、彼女の手を引いて二人で新しい生活を始められたのではないか。もしも、と言うことはないのだし…成美自身がそれを望まなかっただろうと言うことも分かっている。それでも思い描いてしまう…あれが、あれこそが一度きりの恋だったのだ。 「…成美…」 さやさやと渉の頭上で細かい若葉をたくさん付けた街路樹が音を立てる。まるで、成美が笑っているように…楽しそうに笑っているように…。 誰にも気付かれることなく俯くと、彼の頬にすっとひとすじの滴がこぼれた。
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勤務先に妻から知らせが入ったのはその日の午後だった。 「ねえ、あなた…大変なの!」 しかし、次の言葉は構えて聞いていた渉の想像も遙かに超えていた。 「成美が、死んだんですって。今、病院から知らせが…」 妻の口からその名が出なくなって久しかった。 再びこうして聞かされる愛しい人の名前が、信じたくない動詞を伴って彼の耳に飛び込んできた。がたん、と思わず席を立ち、それと同時に強い目眩を覚えた。 「あなた、行ってみてくれる? そこからそんなに遠くない場所なの…私は翔太が戻ってくるまで動けないから…」 分かった、取り乱すな…そう告げた自分の声の方が余程震えていた。上手く動かない手でかろうじて住所を写す。その後、すぐに机の上を改めて、上司に早退の旨を打診する。幸い、今日は急ぎの仕事もない。そうじゃなくても家族の不幸だから何があっても退けさせて貰うつもりでいた。
タクシーを飛ばして、ほんの30分…聞き慣れない地名ではあったが県境に近い小さな総合病院にたどり着いた。受付で名前を告げると、ふっと目を伏せた看護婦さんが案内してくれる。こちらです、と通されたのは1階の奥にある霊安室だった。
看護婦がドアをそっと開けて中に導く。 次の瞬間、渉の足が止まった。根が生えてしまったかのようにドアの所から動けなくなっていた。 北向きになるそこは狭く薄暗い空間だった。突き当たりにある大きな窓からの白い光にほんのりと色づいた空気の色が漂っている。手に届くほど近寄っているフェンス越しに5月の並木が覗いていた。 頭を向こうにして寝かされて居るのが自分の愛した人の亡骸なんだろう。 「…あ…っ…!?」 かすれる声が耳に届いたのが、そこに座っていた女の子がくるんと振り返る。肩で揃えた髪が柔らかく揺れた。大きな透き通った瞳でじっと渉を見つめた後、彼女はぱっと顔をほころばせた。 「おじちゃん! ねえ、唯子(ゆいこ)のおじちゃんね! お迎えに来てくれたんだ〜ママが言ったとおりになったね〜!」 「あのね、おじちゃん。ママが死んじゃったの。でもね、泣かなくていいよって言ってた。ママが死んだら唯子のこと、おじちゃんが迎えに来てくれるって。おばちゃんと従兄の翔太お兄ちゃんがいるお家に連れて行ってくれるって…」 「ええと…この子は生野成美さんのお子さんです、3月に4歳になったんですって…」
…そんなこと、言われるまでもない。 一目見た瞬間にそれは分かっていた。白い肌、茶色の髪…長いまつげの下からこぼれる大きな瞳…全て全てが成美の面影を宿している。よろよろと歩み寄ってそっと頭に手を置いた。その感触までが成美と同じだった。渉の双の目からどっと涙が溢れ出す。
「…おじちゃん?」 その瞬間、がくっと膝が落ちて、渉は冷たい床に崩れ落ちていた。 …ああ…っ…!!
柔らかな悲しい光に包み込まれながら、彼はいつまでもいつまでも、そこから立ち上がることが出来なかった。
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