…3…

 

「成美、ちゃんが…いなくなった!?」

 数日が過ぎて。帰宅した途端、妻の不機嫌な声が飛んできた。イライラしながら渉の帰宅を待っていたらしく、プリプリと怒りながら、狭いダイニングを行ったり来たりしている。

 いつものように用事を言いつけようと電話しても繋がらない。職場に電話を入れると1週間前に退職したと言われた。その話は渉も成美の口から直接聞いてなかったので信じられない気分だ。

「どういうことなんだい? いなくなったって…単に旅行にでも行って留守なだけなんじゃないかい!?」
 知らず、口調が激しくなる。

 どこかに行くなんて話も彼女から聞いていなかった。でも自分にいちいち報告することもないだろう。彼女は成人した大人なのだ。一人でどこに行こうと咎めることはない。それに、明日は彼女と会う日だ。それまでには戻ってくるに決まって…。

 だけど、その反面。妙な胸騒ぎがした。あなた、あの子のアパートの場所知ってるでしょう? ちょっと見てきて…と言う妻の声を最後まで聞けずに、脱ぎかけた上着をもう一度前で合わせ、夜の街へ飛び出していた。

 

………


「生野さん? …あの、お引っ越しされましたよ…?」
 肉親だと告げると、不思議そうに返された。

 夕食時にも関わらず、人の良さそうな大家さんが鍵を持って案内してくれた。ここに通っていた渉のことは知らないらしい…いや、こういう職種の人間は知らない振りをするのが得意なのだろうか?
 そんなことに緊張しながら、慣れない振りで階段を上る。2階の奥から2番目の部屋…何だかしんと静まりかえっていた。
 ガチャガチャと音を立てて鍵が開けられると、大家さんが先に中に入って、電気のスイッチを入れた。

 渉は思わず息を飲んだ。

 蛍光灯に照らし出された空間に生活の香りはなく、彼女の気配は塵一粒も残さずに消え去っていた。ただ、家具などは彼女が居たときそのままに置かれている。

「家具は…適当に処分してくれと言われまして。まあ、次の借り手さんに聞いて、必要のないものだけ粗大ゴミに出そうと考えましてね…結構、大事に使われていてきれいなものばかりですし」
 大家さんに続いて、自分も靴を脱いで上がる。ひんやりとした空気が自分を受け入れてくれない。一体何があったんだ? どこに行ったというのだ?

 

 テーブルの上にぽつんと置かれた手紙を見つける。表に「生野渉様・晶子様」と渉夫婦の名が記されていた。

 ぱらぱらと中の便せんを開くと、そこに書かれていたのはあまりにも簡素な文章だった。

 ―姉さん、お義兄さん、ごめんなさい。申し訳ありませんが、探さないでください。私は大丈夫です―

 きちんと乱れなく並んだ文字が成美の強い決心を物語っているようだった。

 

「引っ越したのは…いつなんですか?」
 恐る恐る訊ねた。そして最悪の返事を聞くことになる。

「ええと…金曜日です、先週の…」

 そう、それは…最後に彼女を見た、朝の…その当日のことだったのである。

 

………


 …警察!? 探さなくていいって言われたんだから、探すこともないでしょう? 子供じゃあるまいし…

 警察に捜索願を出そうかという渉の提案は妻によって即座に却下された。そう言い切られてしまうと何とも返答のしようがない。それに成美自身にもきっぱりと言い切られてしまったようなものだ。

 指輪の片割れは晶子に見つからないように本棚の裏に隠した。純白のケースを時々取りだしてみる。それにぽつんぽつんと薄茶色のシミが浮かんできて、こすっても取れなくなった。だが付ける当てのない自分用のリングだけがキラキラと輝いている。部屋に残された所持品等の中に成美に渡したリングはなかった。彼女がちゃんと持っていてくれるのか、ゴミと一緒に捨ててしまったのかは分からない。でも…渉は、我が儘だとは知りながら、思い上がりとは知りながら、それでも彼女の薬指にあのまま輝いていることを祈らずにはいられなかった。

 

………


 翔太が黄色のカバーを付けた真新しいランドセルをしょって飛び出していく。それと一緒に自分も出勤する。分かれ道で振り返って手を振る彼は、この数年でアトピーの症状も驚くくらい軽くなった。まだいくつかの食べられない食材はあるが、弁当持ちなら小学校生活にも支障がないという。

 あんなに自分のことを可愛がってくれていた成美のことを彼は覚えていない。時々古いアルバムの中に彼女を見つけると「コレは誰?」と聞いてくるくらいだ。仕方もない、別れたとき2歳だったのだ、覚えていろと言う方が無理だろう。成美が姿を消してから、5年の月日が過ぎていた。

 

 どこにいるのか、幸せでいるのか…ふっと考える。忘れようとして忘れられるものではない。もしもあの時に自分にもっと勇気があったら、全てを捨て、彼女の手を引いて二人で新しい生活を始められたのではないか。もしも、と言うことはないのだし…成美自身がそれを望まなかっただろうと言うことも分かっている。それでも思い描いてしまう…あれが、あれこそが一度きりの恋だったのだ。

「…成美…」
 何もはめていない自分の左手の薬指に唇を当ててみる。そうして囁くと、彼女に届く気がした。

 さやさやと渉の頭上で細かい若葉をたくさん付けた街路樹が音を立てる。まるで、成美が笑っているように…楽しそうに笑っているように…。

 誰にも気付かれることなく俯くと、彼の頬にすっとひとすじの滴がこぼれた。

 

………

 

 勤務先に妻から知らせが入ったのはその日の午後だった。

「ねえ、あなた…大変なの!」
 いつになく緊迫した妻の声に、受話器を持つ手がじんわりと汗ばんだ。なにか予期せぬ大事が起こったことは明らかだった。

 しかし、次の言葉は構えて聞いていた渉の想像も遙かに超えていた。

「成美が、死んだんですって。今、病院から知らせが…」

 妻の口からその名が出なくなって久しかった。

 再びこうして聞かされる愛しい人の名前が、信じたくない動詞を伴って彼の耳に飛び込んできた。がたん、と思わず席を立ち、それと同時に強い目眩を覚えた。

 さすがの妻も肉親の突然の訃報に声が震えていた、泣いているらしい。それもそうだろう、晶子にとってはたった一人の妹なのだ。

「あなた、行ってみてくれる? そこからそんなに遠くない場所なの…私は翔太が戻ってくるまで動けないから…」

 分かった、取り乱すな…そう告げた自分の声の方が余程震えていた。上手く動かない手でかろうじて住所を写す。その後、すぐに机の上を改めて、上司に早退の旨を打診する。幸い、今日は急ぎの仕事もない。そうじゃなくても家族の不幸だから何があっても退けさせて貰うつもりでいた。

 

 タクシーを飛ばして、ほんの30分…聞き慣れない地名ではあったが県境に近い小さな総合病院にたどり着いた。受付で名前を告げると、ふっと目を伏せた看護婦さんが案内してくれる。こちらです、と通されたのは1階の奥にある霊安室だった。

 

 看護婦がドアをそっと開けて中に導く。

 次の瞬間、渉の足が止まった。根が生えてしまったかのようにドアの所から動けなくなっていた。

 北向きになるそこは狭く薄暗い空間だった。突き当たりにある大きな窓からの白い光にほんのりと色づいた空気の色が漂っている。手に届くほど近寄っているフェンス越しに5月の並木が覗いていた。
 窓際に置かれた小さなテーブルの上に飾られている一輪の白百合が柔らかな風に応えていた。

 頭を向こうにして寝かされて居るのが自分の愛した人の亡骸なんだろう。
 
 白いベッドの傍らに置かれた高いスツール。

「…あ…っ…!?」

 かすれる声が耳に届いたのが、そこに座っていた女の子がくるんと振り返る。肩で揃えた髪が柔らかく揺れた。大きな透き通った瞳でじっと渉を見つめた後、彼女はぱっと顔をほころばせた。

「おじちゃん! ねえ、唯子(ゆいこ)のおじちゃんね! お迎えに来てくれたんだ〜ママが言ったとおりになったね〜!」
 そう言うと、嬉しそうに足をばたつかせて、椅子をぎしぎし揺らした。

「あのね、おじちゃん。ママが死んじゃったの。でもね、泣かなくていいよって言ってた。ママが死んだら唯子のこと、おじちゃんが迎えに来てくれるって。おばちゃんと従兄の翔太お兄ちゃんがいるお家に連れて行ってくれるって…」

「ええと…この子は生野成美さんのお子さんです、3月に4歳になったんですって…」
 黙ったままの渉に向かい、看護婦が慌てて口を挟んだ。

 

 …そんなこと、言われるまでもない。

 一目見た瞬間にそれは分かっていた。白い肌、茶色の髪…長いまつげの下からこぼれる大きな瞳…全て全てが成美の面影を宿している。よろよろと歩み寄ってそっと頭に手を置いた。その感触までが成美と同じだった。渉の双の目からどっと涙が溢れ出す。

 

「…おじちゃん?」
 あどけない子供の瞳が、不思議そうに自分を覗き込む。その拍子にきらりと光るものを少女の胸元に見た。見まがうはずもない、銀色の細いチェーンに付けられた…あの…リング。

 その瞬間、がくっと膝が落ちて、渉は冷たい床に崩れ落ちていた。

 …ああ…っ…!!


 俯いたままの渉の耳にさやさやと木々の葉が揺れる音がまた響いてきた。そして、その中に愛しい人の声を聞いた気がした。

 柔らかな悲しい光に包み込まれながら、彼はいつまでもいつまでも、そこから立ち上がることが出来なかった。


fin(020407)


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