TopNovel>浮の葉語り・後語り


…後語り…

 

 美祢は裏のかまどの前にいた。

 物置を少しばかり大きくしたような小屋の裏、ひさしの下を利用して作られたささやかなもの。ふたつある片方で汁を煮て、もう一方で粥を炊いていた。
 しゃがみ込んで枯れ枝をくべる。ぱちぱちっと音を立てて小枝は勢いよく燃え上がった。その赤々とした炎に照らされた頬がやわらかく緩んでいる。

 

 やがて。表の戸口で物音がした。

 初冬ではあるが、夕暮れの緩やかな気の流れ。耳で音の動きを探り、浮かせかけた腰をまた下ろした。

「…姉さん」
 足音が小屋の周りを回って、その主が声を掛けてきた。美祢は静かに首を回す。少しばかり、眉をひそめて。

「すまないね…火加減が上手く行かなくて…」

「…どれ?」
 出迎えることもしなかったことを詫びるが、相手はそれほど気にした風もない。簡素な田舎衣に身を包んで髪を無造作に首の後ろで結わえてる。こちらに向かう笑顔は屈託がなく幼く見えるが、それでも新年で15、そろそろ伴侶を考えてもいい歳だという。

 彼は美祢がどいたところにしゃがみ込むと、かまどを覗いた。

「…どうするの?」

「もうちょっと、最後に火を上げるんだよな? …確か…」

「ふうん…」
 何でもない感じで、軽く答えると、細枝を奥の方までぐぐっと押し込んだ。そして、中をかき混ぜる。

「灰がたまると駄目だって、教えたでしょう? 忘れちゃった?」
 責め立てる風でもない。くすくすと笑い声を含んで。親しみを込めて接してくれることが嬉しかった。

「ほら、これでいいでしょ? ねえ、お出でよ。色々持ってきたから…」

 そう言いながら、手を引く。この者は幼いのか、全くの男なのかよく分からない。美祢は初めて逢ったときから戸惑うばかりだが、ここで暮らし始めて1年になる今は、心強い味方だと認識できるようになった。

「はい、これ。今回の売り上げ。結構、いい値で売れたんだ」
 小さな麻袋をまずは胸から出す。ぬくもりと共に感じる、ずしっとした重み。美祢は目を見張った。

「…いいの? こんなに貰えないだろ?」

 美祢が驚く表情をおもしろそうに視線がなぞり、青年は首をすくめた。

「姉さんの織物、すごく素敵だもん。やはり上で育った人は違うって言われる」

「光南(コウナン)…」
 美祢はひとつため息をつくと、困ったように微笑んだ。

「それから、ばあちゃんが。あんまし、頑張りすぎるなって。寒さがきつくなる前に、降りて来いって言ってたよ。あんな風でもさ、心配してるんだから…ほら」
 しょっていた行李を下ろす。その中から、反物や、保存用の食材が色々出てきた。その中には珍しい品もあり、だいぶ無理をして整えたものだと分かる。

「まあ、そんなに急なことじゃなくてもさ。いつまでもこんなところに居るわけにも行かないでしょう?」

 ぬくもりを感じる言葉。心から思いやってくれていることが分かって。そんな風に扱って貰える自分じゃないと思っていたから、胸が熱くなる。

 

………


 茶を一杯出して、客人を送り出して。美祢は暖かい心のまま、また裏に回った。

 鍋の中を改めて、その仕上がりを見ていると、再び表で物音がした。
 今度は鍋の蓋を閉めると、足早にそちらに回る。腰に回した前掛けで、手を拭きながら。

「…ただいま」
 背にした薪を下ろしながら、微笑む人。夕日に照らされた笑顔が美祢に向かう。

「お帰り」
 いつも。咄嗟にはその言葉が出てこない。一息ついて、その姿をしっかりと認めないと。朝、握り飯だけの弁当を手に山仕事に向かう彼を見送り、夕暮れに帰りを待つ。当たり前の生活に慣れることが出来ない。そんな美祢を愛おしそうに見つめる人。


 男の生まれ里に戻り着いて。やはり、それなりの混乱はあった。

 髪を切り、みすぼらしい身なりになっても、美祢が御館暮らしをしていた女子だと言うことは隠しようがなかった。家の者からも大切な息子をたぶらかしたと言う目で見られ、当の男の妻になるはずだった女子からも蔑みの目を向けられ、さすがに傷ついた。所在なげに身を縮こませ、だんまりのまま日々を過ごす美祢を連れ、男は里から少し離れた山小屋に庵を構えてくれた。

 そこで慣れない家事をこなしながらの生活。ぐるりと季節が回るのはあっという間だった。


「椎衣(しい)は?」
 持っていた道具をしまうと、男は訊ねてくる。口元に笑みを浮かべて。

「…寝てる」
 美祢はそう言いながら、小屋の中に入った。男が後から続く。

 ささやかな山小屋だが、男がどうにか厳しい冬も生活できるように家の周りを板や藁で補強して、暖を取る術を整えてくれた。小さな囲炉裏に火を熾し、部屋の隅を覗く。その場所には一抱えほどある籠が置かれていて、もう伽呂はそこの中を見ていた。

「…可愛いな…」
 脇からそっと覗くと、やさしく肩を抱かれる。日々、厳しくなっていく寒さの中にあっても、仕事後のほんのりとした汗の匂い。それを愛おしむようにそっと胸元に顔を寄せた。

 産まれて二月になる赤子。満ち足りた寝顔が微笑みを誘う。

 こんな風に包まれるような幸せを感じるなんて思わなかった。自分には二度と光は射さないと思っていたのに。そしてこの幼子が男の両親と美祢を少しずつ近づかせてくれている。信じられないほど美しい赤子を一目見たいと、初めてここまで足を踏み入れた老婆。その姿を視界に捉えたとき、美祢は不覚にも溢れる涙を止める術を知らなかった。

 御館暮らしで手慰みに覚えた織物を、男の甥に当たる者に売りに出てもらう。ささやかな収入であるが、生きている証のような気がした。誉めてもらえるのが嬉しい。自分の存在を認めてもらえるのが有り難い。
男の妻になるはずだった女は歳のいった総領だけを残し、後の子は連れて里に戻った。それがこの甥・光南である。その後の女の消息は聞いていない。聞いたところでどうなるものでもない。

 いつか、夕餉の後囲炉裏端で手仕事をしている男の傍らで、縫い物をしていた時。彼が小さな声で言った。

 隣の里とこことは、間を流れる水路を巡って、時々は緊迫した関係になってしまう。そう言うときにお互いの里の女子を交換し、結束を固める。それが「嫁交換」と呼ばれる儀式だ。男の兄の妻になった人は、それで嫁いで来た。本当は里に想い人がいたのに、誰もがそれを知りながらも。それでも里の存続のため、皆の安泰のために。

 皆が必死で生きている。そう思ったとき、美祢の中にあたたかいものが浮かんだ。

「お母さんがね」
 寄り添ったまま、静かに言う。この呼び名をすんなりと口にするまでにもたくさんの時間がかかった。

「戻ってきなさいって…言ってたって」

「そう」
 伽呂の手がそっと背に回る。やさしくやさしく、心を傷つけないように抱きしめられる。

「美祢様が…大丈夫なら。これからの冷え込みは、小さな椎衣には辛いでしょうからね…」

 ぱちぱちっと囲炉裏の中ではぜる音。あんまり大きかったので、赤子のおくるみから出た両の手がぴくっと動く。一度、ぱっと開いて、そのあとまた少し握るかたちに戻った。

「その呼び名、やめてくれないと。恥ずかしくて、戻れないよ…」

「そうか」
 男が、喉の奥で小さく笑う。

「それは困りましたね…」

 どこにいても、いいのだと思う。この男と一緒なら。信じられないことに、御領地を出た後は身体の具合もいい。とうとう病にかからないまま、新しい年を迎えることが出来そうだ。

「新年なのに、椎衣に晴れ着を着せることが出来ませんね。美祢様、どうしてあの行李をお持ちにならなかったのです? 別に持ち出しても、どうこう言われるものでもなかったのでは?」

 産まれなかった赤子のために、美祢が用意したささやかな道具と衣。それは小さな行李に収めたまま、あの居室に置いてきた。男はそれを不思議に思ったらしい。それを持ち出していないことに気付いたのは、初めの夜に泊まった宿で。その時、男はそれを取りに行ってもいいとまで言ってくれた。でも、美祢は断った。

「いいんだよ、あれは…」

 

 誰にも告げなかった秘密。それを白日の下に晒し出す。美祢が子を孕んでいたことを知ったら、若様は少しは思い病んでくださるだろうか…? そんな悪戯心。心のどこかでまだ想い続けている…自分を捨てた人を。そんな己の心が、愛しくて哀しい。決して報われることのない想いに、身を投じた幼い日々が自分の中でまだくすぶっているのだ。

 …冥土まで。この想いは持っていこうと思う。それでいいんだと思う。そして、自分は人知れず、ここで幸せに暮らす。この命が果てるまで。

 

 もう、夕餉の膳を整えなければ。そう思いつつも。

 美祢はけだるいぬくもりから、なかなか離れることが出来なかった。

…完…(20030131)


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