…1…

 

 息苦しくなって、思い切り口から気を呼び込む。満たされていくものと同時にひなびた藁の匂いが胸に広がる。そんな時、ふと我に返ってしまうことがある。

 ここはどこだ、そして今はいつかと思う。薄暗い廃屋。灯りと言えば、くり抜かれた窓から差し込む天の輝きだけ。その朽ち落ちそうな内壁に絶え間なく響くふたつの息づかい。
 下に組み敷いた裸体の女子。北の集落の民を知らしめる墨色の美しい髪が辺りに流れ漂う。陶器のように白い肌、すうっと通った鼻筋。赤く色づいた口元が緩み、微かな喘ぎ声が漏れ出る。カールするほどに長く伸びたまつげに閉ざされた瞳も髪と同じ闇の色。見つめるたびに吸い込まれそうな魔力を感じる。

 それが…自分が彼女に囚われているからこその感情だとは、どうしても思い切ることが出来ないでいた。飲み込まれるのは怖かった。

 彼女は気付いていない。情事の最中に彼がこんな物思いに耽っていることを。こうしているうちにも本能として腰が動き、彼女の中をかき混ぜる。何度となく身体を重ね、全てを知り尽くしていた。彼女が一番弱いと思われる場所も知っている。そこを丹念にこすり上げると、堪えきれずに細い悲鳴が上がった。
 分かっている。彼女はいつでもどこかで必死に現世にしがみつこうとしている。自らが快楽の世界にのめり込んでしまうのを止めようとしているのだ。それがもどかしい、いっそ、狂ってしまえばいいのに。自分の腕の中で全てを忘れてしまえばいいのに。

 行き場のない想いがそのまませめの激しさに繋がる。身を起こして彼女の細い肩をぐっと掴んで固定する。藁の上にはその場しのぎの白い敷布を置いていた。それだけが人らしいただひとつのもので。あとは獣同然の絡み合いだ。そんなものなのかも知れない、身体を求め合う行為に虫も獣も人もあるものか。白い肌が熱く火照り薄桃色に色づいてくる。

 彼の乳白色の肌も紅潮して、その身体全体が汗で濡れていた。滴ってくるもので手のひらが滑るほどに。濃紫の瞳で見据える。腕の下の人はもう息も絶え絶えと言う感じだ。でも行為を止めて欲しいという言葉はついになかった。彼女はいつでも彼が与えるものを全て受け止めていた。
 白布があるとは言っても、背の下は藁が当たるのではないか。そんなことを気に留めているのも最初のうちだけだ。途中からはほとんど気配りなどできなくなる。自分の本能の向くままに彼女を貪る。それだけが生きている証のように。

「あ…ああっ…!!」
 彼女の背筋が弓なりになって、耐えきれずに悲鳴が上がる。それと同時に、彼女の細い腕がそっと彼の腰に伸びてくる。まるで「行かないで」と引き留めるように。

「…うっ…!!」
 無意識のうちに伸びたのであろうその腕を強引に振り払い、うめき声と共に彼は腰を強く引く。彼女の外に出た瞬間に彼は欲望の全てを吐き出していた。白い腿にそれがかかる、うっすらと瞼を開けた彼女が余韻よりも悲しみをたたえた視線でこちらを見ているのが感じ取れた。

 

◆ ◆ ◆


 ちゃぷん、ちゃぷん。

 燭台の明かりを淡く灯した屋内で、お互いに背を向けたまま身を清める。ひとつしかない水桶に手ぬぐいを浸しては、まだ熱い体を冷ましていく。しゅるしゅると彼女の身体を這っていく衣の音。あの白い体に今濡れた布が置かれているのだ。

 考えたくなくても考えてしまう。忘れたくても忘れられない。彼女の肌の滑らかな感触も、甘い香りも。許されるのなら、このまま一晩中でも、いや、飽くまで何日でも抱きしめていたい。この廃屋から出られないようにして、ふたりだけの世界に迷い込みたい。

 …そんな、馬鹿なことを。

 彼が自分の中に芽生えた欲求を振り払うように首を横に振ると、壁に映った長い影も同じように揺れた。彼女の方を振り向くことも出来ずに、影だけで動向を探る。そんな癖も付いていた。自分が耐えきれないほどに彼女を欲していることを悟られたくはなかった。

「…満鹿(ミツシカ)様…」
 情事の余韻を感じさせるかすれた声が静かに彼を呼ぶ。その声に誘われるように振り向いてしまう。彼女は背を向けたまま、髪を梳いていた。もう小袖と袴はきちんと身に付けている。
 今夜は彼女と同室の柚羽という女子が亜樹様の御子様のお世話で南所の部屋に泊まる番になっていると言っていた。そうだとしても、あまり夜が更けてから寮に戻るのはいかにも、と言う感じである。年若い女子としては良くないことだろう。口の軽い侍女たちの噂になってもいけない。

「何だ?」
 わざとぶっきらぼうに応える。本当は彼女が自分の名を呼んだだけで胸が高鳴り、どうしようもない感じなのだが。もう一度抱きしめてしまいたい欲求を必死で堪える。

 こくり、と息を飲む音がする。彼女の白い喉元が微かに動く。そこに唇を這わせながら、何度印を付けてしまおうと思ったことか。誰もの眼に晒される場所に愛し合った軌跡を付けることなど、出来るはずもなかった。少しこちらに向き直った美しい横顔が蝋燭の炎に舐め上げられる。ゆらゆらと妖艶に輝く姿。それを目で追いながら次の言葉を待った。

「日取りが…決まりましたの」

 ややあって。もったいぶると言うよりは、言いたくないことを必死で口にするように彼女が話し出す。頬が強ばっていた。

 …日取り? そうは思ったが即座には聞き返せなかった。

「七月の始め…わたくしの里では『氷華の節』と言う時節がございます。その時に式を挙げるので戻るようにと家から…」

 滑らかに、よどみなく。決まった台詞を口にするように淡々と彼女は事実を述べた。それからまた口を閉ざしてするすると髪を梳き始めた。墨色の流れは櫛通りも良くて、油など付けなくてもいつでもしっとりと艶めかしい輝きを放っている。もっと固いものだと思っていたのに、実際に触れてみるとやわらかくて滑らかで、その豊かな流れに指がどこまでも沈んでいきそうだった。

 黙りこくった横顔をしばし眺めてから、彼、満鹿はバサバサと乱暴に衣をまとい始めた。この地では男も女も衣のかたちは変わらない。色目の違いでそれを区別する。自分にはあまり似合わない黒い袴に足を突っ込んだ。

「…『氷華の節』は…」
 こちらが聞いているとも聞いていないとも構わない感じで、彼女が言葉を続けた。

「北の集落はここ、都よりもまた北に位置します。冬の寒さは皆様に想像も出来ないことかと思われます…そうですよね? 満鹿様は南峰のご出身でいらっしゃるもの、こんなことを申し上げても分かっていただけるか知れませんが…秋、急に寒くなると、咲いたままの花がそのまま氷の中に閉ざされてしまう現象が起こるのです。その花は氷の中に閉ざされたまま、冬を越えて夏を迎えます…そして、七月の暑くなる頃に周りの氷が溶けてその姿を気にさらすことになるのです…でも、一瞬にして暑さで枯れてしまうのですけど…」

 しゅるしゅると衣擦れの音。彼女が立ち上がった。足元に脱いだかたちのままになっていた重ねを取って、静かに藁を払う。その仕草も乱雑なところもない。流れるように行っていく。

「それでも…里の者は一瞬でも時を違えて咲く花を愛おしんでその名を付けました。かの地では一年中で一番、眩しい季節なのです。氷華を髪に飾って婚礼の式を挙げた花嫁は一生幸せに暮らせると聞いておりますわ…」

 自分のことを言っているのに、まるで他人事のようだ。民特有の気質なのか、彼女の性格に寄るものなのか、いつでもこの女子は穏やかにしている。気分を荒げたりすることもない。

「氷華の…節…」

「はい」
 身支度を整えて立ち上がると、振り返る。一番重要な箇所には触れずに言葉を返した満鹿に、彼女はゆっくりと微笑んでいた。

「袷が…少し、曲がっていておかしいですわ…」
 そっと白い手が伸びて、満鹿の襟元を正す。その指先が肌に触れたとき、胸の奥がキンと痛くなった。

「あの…髪は…?」
 手を引っ込めた彼女は、小首を傾げて答えを待つ。

「いい、…このままで」
 彼の髪は高いところでひとつにくくられたまま、少し乱れていた。でも、今日は下にはなっていない。どうせこれから男子寮に戻って休めば同じことだ。それに…このような話を聞いてしまった後に、どうしてそんなことを彼女に頼めるものか。

 ぷいと横を向くと燭台を手にした。

「これ以上、遅くなるとまずいだろうが。早く戻った方がいい」

 

 壊れかけたかんぬきを外すと、きしみをあげる戸を押し開ける。ひやっと春浅い冷たい気が流れ込んできて、身体がぶるっと震えた。

 来たときと同じように人目を避けて山道を行く。少し山に入ったここはふたりしか知らない秘密の場所だった。
 都は若い男女が愛し合うことに寛容な土地だ。祝言を挙げていない、式がまだだと言って目くじらを立てる者もない。互いの侍女や侍従の寮に入り込んで、と言うのはさすがに禁じられてはいる。だから、そのために一夜宿があり、多少の金で部屋を借りることが出来た。

 しかし。

 ふたりがその様な部屋を借りることは今までなかった。このような関係を重ねていることも誰にも告げていない。気を許した同室の者にすら、それは同じことで。

 北の集落と南峰の集落。漆黒の髪に闇色の瞳を持つ種族と、陽の色の髪に濃紫の瞳を持つ種族。相まみえぬとされるふたつの民だから、というのもある。…でも、それだけなら、多少の例外として認められよう。問題はもっと他にあった。

 彼女――瑠璃(るり)は集落に戻れば、将来の夫と決まった男がいるのだ。幼少の頃から種族の間で決められていた婚礼、それに従うのが一族の娘としての彼女の宿命だった。


 夫となる者がいる身なのに、どうして自分とこうして関係を持つのか。それを問いたくても問えないまま、いたずらに時が流れていた。瑠璃が時が満ちれば、里に戻ってしまうことは知っていた。それなのに。
 それは自分だって同じことだ。彼女とは違い、気楽な身分で将来のことは何も決まってなかったが、この地に来たのはほんの行儀見習いみたいなものだった。何年かすれば南峰の集落の自分の生まれ育った里に戻り、誰か気に入った女子を妻を娶り、暮らそうと考えていた。

 お互いにそう割り切っているからなのかも知れない。…いや、瑠璃の方が、そんな風に割り切っているからこそ自分に身体を開くのではないか。そうは思いたくないが、そう思わなくては自分の心に押さえがきかなくなる。もう、彼はギリギリのところにいるのだ。

 今夜、瑠璃が決定的なひとことを口にしたとき。つとめて冷静に装いながら、心内は煮えくりかえるほどいきり立っていた。何故、その様なことを当たり前のように口にするのか。ないがしろにされている自分が情けなかった。もしも、自分のことを少しでも好いていてくれるのなら、どうしてあんな風に何気ない様子で話が出来よう。

 情事の後に肌の火照りも引かないままに、他の男との婚礼のことを口にする。そんな彼女は聞いたばかりの氷漬けの花の話よりも、もっと冷たく手に届かないものに思えてならなかった。

 

◆ ◆ ◆


 満鹿が都に上がったのは丁度1年ほど前のことであった。春は都の竜王様の御館でも、使用人たちの大掛かりな配置転換や移動が行われる。ましてやその春は産み月間近の沙羅様のこともあって、なおさらだった。

 沙羅様、とはこの海底の国の全土を治める竜王・華繻那様のただ1人の御子であられ、その上に、次期竜王様であられる亜樹様のお后様。そうなれば、彼女のお産みになる御子様は次の竜王にもなる御方である。そうなるともう国全体を上げての大事であった。
 亜樹様と沙羅様の間にはもう姫君がいらっしゃったが、次の御子様が男君ならば、そちらが更に竜王候補に近くなる。別に姫君が竜王になってはならないと言う決まりなどなかったが、政を執り行うという職務から考えて、なるべくなら男君の方が良い。
 その御子の近くにお仕えすると言うことは、自分の将来をも保証されることになる。竜王様の元でお務めできる光栄にあずかれば、本人のみならず、一族の、集落全体の繁栄になる。そう思ってか、例年に増して志願者も多く、狭き門だったらしい。

 満鹿がここに上がることが出来たのは偶然と偶然の重なり合いの果ての様なものだった。各集落からは出仕できる「枠」がある。満鹿の暮らしていた南峰の集落でもその定員など遙か昔から埋まっていた。が、いよいよ都に上がる時になって、急病人が出た。満鹿と同じ年頃の若者だった。それで、満鹿がその代わりに出仕することになったのだ。同じような背格好で歳が近いと言うだけで。
 いい加減と言えばそこまでだが、もう出仕する者たちの詳細は都に届けられている。それによって配置もされるのに、あまりに違った人物が上がっては混乱の元になる。南峰の集落の民は鷹揚に見えて、実は安泰を好む民族なのだ。力ずくでこちらの意見を通すよりは相手に合わせてしまう。

 そんなわけで思いもかけずに、都でのお務めが始まった。満鹿が属したのは竜王様の御庭の周辺を警護する外回りの侍従の寄り所。そこで侍従見習いの任に就いた。
 都に上がる者は各集落の中でも特に優秀な人材が多いらしく、それが侍従の見習いなどという下働きを命ぜられて内心は面白くないと言う表情の者も多くいた。しかし、もともと地位にも名誉にも頓着しない満鹿にとってはどうでも良いこと。それよりも物珍しいばかりの土地で、あっちにきょろきょろ、こっちにきょろきょろしていた。

 王族の方はもちろん、自分と同じような身分の侍従や侍女ですら、里にいた頃には見たこともないほど高級な衣をまとっている。その文様の、色彩の素晴らしいこと。織りの優美なこと。長く髪を伸ばして様々に結い上げた侍女たちは近くによると信じられないくらいいい香りがした。この地に伝わる匂い袋によるものだと後から知った。
 香は王族の方のみに使用が限定されているが、ささやかな匂い袋は庶民の楽しみだった。少し前までは、現竜王様の用いられる「天真花(てんしんか)香」に人気があった。でも今では次期竜王様の亜樹様が用いる天真花と実香弥(みかや)を合わせた合わせ香と、そのお后様の用いる舞夕花(まゆか)香に人気が集まっているという。手のひらに乗るほどのささやかな袋でも、たとえようのないくらい優美に薫ってくる。

 玻璃(はり…硝子のこと)の細工物の他は大した産業もなく、鮮やかな陽の下で、おおらかに過ごす南峰で生まれ育った満鹿には、堅苦しい御館でのお務めすら新鮮に楽しかった。

 

◆ ◆ ◆


 初めはこなすだけで精一杯だったお務めも、一月二月と過ぎればそれなりにゆとりが出てくる。そうなって初めて周囲の話題にも耳を向けるようになる。年若い侍従の多い外回りの寄り所での噂は何と言っても御館の侍女たちの品定めだった。
 春風に誘われるようにあちらこちらの集落からは年若い女子たちが出仕してくる。宮仕えをするだけあって、どの女子も粒ぞろいに美しく愛らしい。侍女は高貴な御方の御手が付く者、手出ししてはならない…などというのは昔の話。現竜王様にしても、亜樹様にしても正妃様以外の側女は一切置かない。侍従と侍女が恋仲になり結ばれて夫婦(めおと)になるのはもう当たり前のことだった。

 外歩きの時にはどうしても御館の侍女たちに目がいく。中にはほとんどの女子の出身地や名前を把握しているすごい者もいて、そう言うときは自らの博学をひけらかす。まあ、海底の民はその出身地によって、見目かたちが際だって違うので見定めるに容易い。
 あれは西の集落の出身で東所にお仕えする者、あれは侍女長・美莢様の下で給仕する女子…と解説されながら歩いていく。治安の良い都にあって、御庭の警備なんて型どおりだ。御庭を見ているのか女子を見ているのか分かったもんじゃない。

 そして、そこに彼女もいた。ふと、そこで視線が止まる。

 満鹿にとって馴染みの薄い漆黒の髪。ああ、竜王・華繻那様と同じ容貌だ、と最初に思った。もちろん下っ端の彼が竜王様に直接拝謁する光栄など望むべくもない。幸運にも遠目に拝見したお姿で、そのお美しさと堂々たる風格は消えない印象になって残っていた。
 そして闇色の髪と瞳を持った種族が北の集落の民だと言うことも話には聞いていた。規律正しい、先祖代々王族に仕えてきた従順な民。その結束は固く、ほとんどが種族の枠を出ない一生を送る。それだけに他民族にとっては神秘的な存在なのだ。
 彼女は仲間の侍女の中にいて、ひとりで大人びて見えた。話が盛り上がって微笑む様もしっとりとしている。物腰も柔らかだ。思わず、うっとりと惹き寄せられてしまう。

「ああ、駄目だよ。彼女は…」
 満鹿の視線の先が分かったのか、自称・女子博学の男が知った顔をして言った。

「え…?」
 ただ、美しいなと眺めていただけなのに、まるで品定めでもしていたように取られて困惑した。振り向くとその男は口元に笑みを浮かべている。少しいやらしい感じがして、腹立たしい思いがした。

「彼女は北の集落の、青の一族の一派の者。名前は瑠璃。ここには行儀見習いで入ったばかりだけど、里には決まった婚約者がいるそうだよ。その者、先年妻を亡くしたそうで、急遽、彼女がその後妻に入ることになったそうだ。あの集落では良くあることらしいがね…」

 隣りの男も身を乗り出して話に加わる。

「もう、その男とは寝てるんだと、もっぱらの噂だよ。そうじゃなくちゃ誘惑の多い都になど、どうして出せるものか。思いがけずに年若い美しい妻を娶ることが出来ることになった男が、心配にならない訳がないじゃないか…」

「生娘で婚約者がいる、っていうなら大変だけど。もう、男を知ってるならきっと今頃は、彼女だって寂しくて仕方のない頃だろうよ。一度お手合わせ願いたいものだね」
 また、他の侍従が脇から口を挟む。何だか、楽しそうだ。

「きっと、色々知っているよ。何しろ背の君は自分の倍も年上なんだ。男は精力が及ばなければ技巧に走るしかないだろうから…」

 物陰で彼女たちに聞こえないからと言って、何とも口さがない会話だ。満鹿は腹の奥で何かが沸々するのを感じていた。

 今思えば。

 あの時にはもう、淡いながらも彼女への特別の想いが芽生えていたのではないだろうか? そうでなければ、あの感情は説明が付かない。侍従仲間たちの話が不快で仕方なかった。


 その時はそれで話が終わった。すぐに男たちはそれぞれに自分が標的にした女子について語りだしたので、聞き役に徹することにしたのだ。あまり彼女ばかりを見つめると気があると思われるとやっかいだ。意識してそちらは見ないようにした。でも、彼女の残影が心にまとわりついて離れなかった。

 

◆ ◆ ◆


 それからまた、しばらくたって。多分、山吹が咲き乱れる頃だったと思う。非番の日にひとりで山歩きをしていた。山、と言っても広大な竜王様の御領地の一部になる。日々の喧噪から逃れ、気楽に歩くと心が安まった。

 満鹿の生まれ育った里では一年中、原色の鮮やかな花が咲き乱れていた。それを思い出しながら、橙色の八重の花びらを見つめていたら、ついっと何かに引っかかった。続いて、ぱきっと何かが折れる音。

「…あれ?」
 髪の先が引っ張られて、その後、ばさばさっと落ちてきた。慌てて、頭に手をやる。ああ、そうかと合点がいった。少し低くなった枝に髪が掛かって、結んでいた紐がほどけたのだ。頬をくすぐる亜麻色の髪が、視界に入る。…で、紐はどこに行った? 草履の先に絡みついた紐をかがんで拾い上げる。結び目はそのままでぷつんとちぎれていた。

 

「…どうしましたか?」
 その時。背後から、唄うような声がした。しっとりと滑らかな声。こんなに間近で耳にしたのは初めてなのに、何だかとても懐かしい気がして…。

 誰もいないとばかり思っていた空間に。振り向くと、彼女がいた。大きく目を見開いて、辺りに墨色の髪をなびかせて。手には青い花をたくさん抱えていた。

「まあ」
 丘を上がってきた彼女は、視界に映った状況から全てを把握したらしい。足元に花の束を置くと、自分の袂や胸元にささっと手をやった。

「何か…代わりに結うものがありませんでしょうか…」
 困った顔をしながら、何度も何度も改めてくれるが、何も手持ちのものがないらしい。

「いいよ、このままで戻るし…」
 その仕草があまりに真剣なので申し訳なくてそう告げた。

「いいえ、そうは行きませんわ」
 彼女は黒目がちの目をこちらに向けると少し眉間にしわを寄せた。そして、きっぱりと告げる。

「立派な殿方が、髪を下げたままで歩くなんてみっともないことです。ああ、どうにかしなくては…でも…困りましたわ…」
 しばし頭を抱えていた彼女が、やがてハッとしたように顔を上げた。

「ああ、そうですわ。これで、如何でしょう…?」
 そう言うが早いが…するするっと長くて細い指が彼女の脇の髪を結んでいた飾り紐を解いた。手の込んだ飾り結びが簡単に解けていくのをとても不思議なものを見るように眺めた。束ねられていた髪が滝の様に落ちてくる。

「それほど、華やかなものではありませんし…。 寮に戻られるまででしたら、これで充分でしょう?」
両の手で丁寧に捧げ持って、差し出してくる。今まで彼女の姿に仕草に見とれているだけだった満鹿は、言葉の意味も良く汲み取れず、呆然としてしまった。

「え…いいよっ! 君の髪が解けてしまって…そんな。この紐でどうにかするから、気にしないでっ、ほんとにいいんだから…」

「そんなに真ん中から切れてしまってはもう、無理ですわ。こちらをお使いになって? さ、遠慮なさらずに…」
 彼女は当たり前のように満鹿の手を取ると、紐を握らせる。白い滑らかな手はひんやりとして気持ちよかった。

「あ、ありがとう…」
 それだけでどぎまぎしてしまった。女子なんて…実は里の女の童のような娘しか知らない。小さな里でいくつかの家族が寄り添うように暮らすだけの村だった。同じ年頃の女子にも会ったことがない。もちろん手が触れることすら初めてだったのだ。

 すっと、脇を向くと、彼女の視線を感じながら必死で髪を結おうとした。でも焦るとただですら下手な結びがもっと乱れてしまう。何度ひとまとめにした髪を片手に持って紐を回してもバサバサと落ちてしまって、収拾がつかない。

 静かに黙ったまま眺めていた彼女が、とうとう観念したように小さくため息を付いた。

「…座ってくださる? 結って差し上げますから…」

「…え?…」
 また、声がひっくり返るほど驚いていた。何で、こんなことを簡単に言うんだ。若い女子がこんなに気軽に男に触れるなんて…やはり、男慣れしているのだろうか? …だから…。そう思いつつも、言われた通りに素直に腰を下ろす。履き慣れない固くて重い素材の袴が足にまとわりついた。

「まあ、やわらかいんですのね? 南峰の亜麻の髪はもっと硬いのかと思っておりましたのに…」
 そう言いながら、彼女はくすくすと声を上げて笑った。袂から櫛を取り出すと慣れた手つきで梳いてくれる。思わず胸が高鳴る。どうしたことか。

「せっかく、こんなお美しい髪なのですから、もっと綺麗になさって。もったいないですわ…」

 その言葉には正直驚いた。漆黒の滑らかな髪を持つ北の民は、南峰の亜麻の髪を疎んじているのだと聞いていたから。軽々しくて、良くないと。そうだとばかり思っていたので、意外だった。

 きりきりと少し強く引かれて、すっきりまとめ上げられる。綺麗に結び終えると、彼女はほっと安堵の息を付いた。

「…素敵ですわ、満鹿様…」

「…え?」
 満鹿は声の主を振り向くと、ぱちぱちと何度も瞬きをしてしまった。自分の耳を疑ってしまう。…でも、確かに今…?

「君、何で…俺の名前、知ってるの?」

 たどたどしく問いかけると、彼女はにっこりと微笑んだ。

「君、じゃありませんわ。わたくしは…瑠璃と申します。南所で若姫様のお世話をさせていただいておりますの」

 そこまで告げると、自分のもう片方の飾り結びも解く。長い帯が気の流れに舞い上がる。幾重にも折り重なった墨色の帯が、たとえようのないほど美しかった。それから、元のように花の束を抱える。

「侍女の寄り所では、あなた様のお名前が頻繁に囁かれますの。聞く気がなくても耳に飛び込んで参りますわ…楽の名手で…特に横笛がお上手で…。すらりと上背があって、月明かりよりも綺麗な髪をなさっていらっしゃるって」
 当然でしょう、と言うように彼女が微笑む。まさか、名前を知っていてくれたなんて。こんな風に愛らしい声で呼んで貰えるなんて…!

 当たり前のことなのかも知れない。でも初めての経験だったから、驚いたし、嬉しかった。満鹿は慌てて立ち上がると、彼女の後を追った。

「あの…瑠璃さんっ!」

「…はい?」
 にっこりと微笑んで、緩やかに振り向く。その優しげな眼差しに助けられながら、満鹿はようやく次の言葉を絞り出していた。

「その花、持つよっ! 重そうだから…! で、あのっ…もし良かったら、今度、もっと上の方まで散策に行かない!?」

 後になって考えると、何とも陳腐な誘いだった。年若い女子を山歩きに誘うなんて。せめて花の綺麗な野に案内するくらいの機転が欲しかった。

「…え? あの…」
 瑠璃はその時、本当に信じられないと言う表情をした。でも、次の瞬間には甘やかな笑顔で応えてくれる。

「ええ、わたくしで良ろしかったら。喜んで…」

 天女の様な微笑みだった。本当に天界の地から舞い降りた人のように…それでも、その時。瑠璃はしっかりと満鹿の目の前に存在していた。