…2…

 

 もしかすると、約束が果たされるとは思っていなかったのかも知れない。

 足早にその場所に向かい、樹の影に牡丹色の重ねの袖を見つけたとき、嬉しいと言うよりは不思議な感じがした。本当に彼女が来たのだ。こちらの気配に気付いたのだろう、艶やかな黒髪を辺りに揺らしながらゆっくりと振り返る。口元に浮かぶ淡い笑み。初夏の陽ざしが他に人通りのない空間を照らし出していた。

 

◆ ◆ ◆


 あの日。

 ふたりの休みの日を照らし合わせて、それが一致する一番近い日を選んだ。もう夢中で。瑠璃の承諾の微笑みを見たところからは夢中で。強引に話をまとめていた気がする。西の通用門までの道のりはとても長いようにも短いようにも感じられた。
 瑠璃の草履の鼻緒に小さな飾り珠が付いていて、それが彼女の歩みに合わせてコロコロと音を立てる。それがとても印象的で目に焼き付いていた。それくらい、下ばかり見ていたのだ。瑠璃の顔をじっと見つめることは恥ずかしくてどうしても出来なかった。


 侍従の寮に帰り着く。同室の者は今日は通常のお務めで出ている。休暇は交代で取ることになっていた。皆が一斉に休んだら、御館の警備が手薄になってしまう。この頃の穏やかなご時世、暴漢が乱入したと言う事例もなく、竜王様回りの警護も単なる形式的なものになっていた。だが、怠って良いと言うことはない。

 竜王様はこの海底の全土を支配する者。「陸」の人間とあまり変わることのない外見の海底人がこうして深い水底で気を取り込み呼吸し、生活できるのは竜王様御自らが張っていらっしゃる「結界」があるからに他ならない。高貴な王族の血筋を引く者が幼き頃からの修練によって身に付けるもの。
 次期竜王とほぼ内定している亜樹様も、お小さい頃から親御様と離されて都に上がり教育を受けてきた。俗人では想像も出来ないような驚異的な御力なのだ。

 外回りの侍従は「お庭番」と言う夜間の寝ずの番もある。東所や南所の御館の表の庭で一晩中起きて、不審な点はないか番をするのだ。まあ、これも他の警護と同じように名前は堅苦しくてもその仕事内容は簡単な者であった。
 ちらちらとあちらこちらの茂みから草が呼吸した泡の粒が沸き上がる。それが遠き陸の月明かりに照らし出されて行く。ついっと天に昇っていくそれを眺めながらののんびりとした時間だった。嫌がる者もいたが、美しい竜王様の御庭はいつまでも飽きないすばらしさだったから満鹿は好きだった。

 

 ごろりと寝台に横たわる。土間に敷物を敷いていた南峰の暮らしとは何もかもが異なる。里にいた頃は髪も結ったり結わなかったり。結うとしても宮仕えのように高い場所ではない。うなじのところで軽く麻紐で結ぶだけだ。だからきつく結われた髪は堅苦しくて、いつも部屋に戻るなり解いてしまっていた。

 でも、今日は髪をくくった紐を解く気になれない。あの白い指が髪の間に入り込みまとめ上げてくれたのだ。地肌に何とも滑らかな感触が残っている。解くのはもったいなかった。

 じわじわと感動が湧き上がってくる。仲間たちと眺めた風景で目に飛び込んできた異郷の娘。ひとめで心を奪われていた美しい人と直接話をすることが出来たのだ。しかも皆が言っていたような軽々しさもふてぶてしさもない。まるでほころんだばかりのつぼみのように、淡くて愛らしかった。

 ころころと軽やかな笑い声、小首を傾げて見上げる瞳。汚れのないまっすぐな色が胸に迫ってくるようだった。あの人が、本当に自分とまた会ってくれるのだろうか。口約束だ、すっぽかされるかも知れない。婚約者がいながら、他の男の誘いに乗ることなどあるのだろうか。他でもない、規律正しい「北の集落」の女子が。

 …夢を見ていたのかも知れない。そんな気がしてきた。あまり期待すると、落胆が大きくなるかも知れない。来なくても構わない、来るか来ないかなんて、分かりっこない。何度も自分に言い聞かせた。このことは誰にも内密におこうと思った。

 

 待ち合わせは西の通用門の出たところ、三本杉の向こうだった。狩りや花摘みでもなければ行かないような人通りのない場所だ。そこを彼女が指定してきたとき、ああそうかという落胆の気持ちが湧き出た。自分に必死にすがられて、断れなかっただけだろう。当惑した顔が脳裏をよぎる。

 寝台の上で寝返りを打って、瞳を閉じる。それなのに彼女の笑顔がぱあっと浮かんでくるのだ。胸がひりひりと痛んだ。

 

◆ ◆ ◆


「…ごめん、待った?」
 息を切らせながら駆け寄ると、彼女が眩しそうに面を上げた。さらさらと流れる髪。この間とは違う飾り紐が綺麗に編み込まれている。午後を告げる拍子木が鳴ってからだいぶ時間が過ぎた気がした。自分から話を持ちかけていながら、こんなに待たせてしまうなんて。

「いいえ」
 穏やかな声が気を揺らす。気にも留めていないように彼女は微笑んだ。

「わたくしが、だいぶ早く着いてしまったんですの。お気になさらないで」
 満鹿があまりに恐縮しているのを可哀想に思ったのだろう、軽く笑い声を上げながら彼女はそう言ってくれた。

 改めて見つめる。小さな輪郭の中の整った顔立ち。うっすらと綺麗に塗られた化粧。白いきめの細かい肌にそのまま吸い付いた白粉、花色の紅。それはあでやかな南峰の手法とはかなり違っていた。種族によって髪の色や顔立ちが違うのだからそれも当然なのだろう。

「…さ、参りましょうか。でも、どこにいらっしゃるんですの?」

「…え、あ…、うん…」
 瑠璃の美しさに吸い込まれていた心がふっと元に戻る。そうなって、ようやく気付いた。どこに行こうか何て考えてもいなかった。ただ、瑠璃に会いたいだけで、他のことなど思いめぐらすこともなかった。

「ご、ごめんっ、俺、こっちに来てまだ間もなくて…実は良く知らないんだ、この地のこと」
 慌ててそれだけ言うと、口ごもる。顔から火が吹き出るくらい恥ずかしかった。歳のことを言えば瑠璃の方が自分よりも一つか二つは下だと思う。なのに姉に諭される弟のような面もちになる。どうしたら、どうしたらいいのだろう。

「…まあ」
 瑠璃は小首を傾げるとまたつぼみがほころぶように笑った。

「実はわたくしも。都のことはよく分かりませんの、でも山歩きは好きですわ。故郷を思い出しますもの。竜王様の御領地はわたくしの生まれ育った地と良く似ておりますの…せっかくのお天気ですから、当てもなく歩きましょうか?」

「あ…、う、うんっ! そうしようっ!」
 すすっと歩みだした瑠璃に慌てて従う。押しつけがましいところなどないのに、さり気なくこちらを気遣って助け船を出してくれる。美しい姿から思い描いていた以上に、彼女の心映えは素晴らしかった。何気ない会話からもそれがよく分かった。


 さらさらと流れる小川を超えて、小高い丘に出る。視界一面に広がる色とりどりの花の絨毯を眺めながら草の上に腰掛けて一服した。ふんわりとまた良い香りがする。

「…どうしました?」
 鮮やかな陽ざしに浮かび上がる綺麗な横顔をぼんやり眺めていたら、彼女が不意にそんなことを言いだした。

「え? …ええと…」

 どこまでもさらりと何気なく。そう言う巧みな会話術が女子の心を掴むのだと仲間たちがまことしやかに語り合っていた。お務めの最中も手が空けば、女子の話になってしまう。独り身の侍従は想い人を手に入れようと必死なのだ。

 何しろ連れだって歩くカップルが異様に多い土地柄。更に南所では次期竜王の亜樹様とその正妃様の沙羅様が仲睦まじくされている。お上の方がそんな感じだとお仕えする者も色めき立ってしまうのだ。

 でも満鹿は女子のことなどよく分からない。どんな話をしたら喜んでくれるのかも思いつかない。ここに来るまでの道のりもぽつぽつと故郷の風景の話をするくらいだった。それでも瑠璃はそんな話を真面目に聞いてくれる。
 ただ聞き流しているだけではなくて、きちんと心に留めてくれているのだと言うことは相づちの打ち方や話の切り返し方でよく分かった。彼女と話をするのはとても心地よいと思った。

「…君、すごくいい匂いがする。髪に何か特別の油でも使っているの?」

 …ああ、これでは女子慣れしていないのがバレバレじゃないか。情けないったらない。瑠璃はそんな満鹿の言葉に一瞬大きく目を見開いたが、すぐにふうっと微笑んだ。そして胸元の袷から何やら小さな布袋を出す。彼女の小さな手のひらにちょこんと乗る、淡い桜色の袋だった。口元を赤い紐できゅっとくくってある。それを満鹿の手の上に乗せてくれた。

「ご存じありませんか? …匂い袋です」

 へえ、とまじまじと見つめてしまう。着物用の衣の残りで作られたのであろう袋。そこからほのかに匂う甘い香り。香の袋のことを聞いたことはあったが、こうして実際に見たのは初めてだった。満鹿の生まれ育った地にはこのようなものを身に付ける習慣はなかったから。

「北の集落の…我が『青の一族』は香の調合を手がける者として、代々竜王様のお仕えしております。耕地の仕事は殿方の行うことが多いのですが、その精製や調合はわたくしども女子もお手伝いいたします。香を実際に用いることが出来るのは王族の方々のみですが…庶民はこうして匂い袋を楽しむんですの…」
 そう言いながら満鹿の手の中の袋をつまみ上げ、そっと鼻先まで持ってくる。つうんとさらに強い香りを吸い込んでいた。匂う、と言うよりは鼻に突き刺さってくる感じで。

「これは荘寿(そうじゅ)の実から取れる香で…先々代の竜王様がご愛用になっていらっしゃったものだそうです…」
 強い香りに思わずむせ込んだ満鹿を面白そうに見つめながら、瑠璃がやわらかく語った。

 荘寿の実、と言うのは知らないが、耕地なら舞夕花(まゆか)の花の頃に行ったことがある。竜王様の御領地、東の御庭の向こうにそれは広がっていた。もちろんお務めの一環だったが、畑の中に巡らせされた足場を歩いていくと一面の花から薫ってくる強烈な香りにクラクラと来た。
 香はあまり量を過ごすと麻薬のようにもなってしまうと聞いていたが、本当なのかも知れない。匂いに慣れていない満鹿は耕地を散策したその日、夕餉がほとんど喉を通らないくらい気分が悪くなってしまった。

 きっちりと四角く切り込まれた耕地を眺めているだけで、北の集落の民の潔癖さが見えてくるようだった。南峰は本当に畑か荒れ野か分からないようなところを焼いて作物を作っていたので、何だか不思議な気がする。逸れも躍起になって栽培するわけもなく、何となく種を蒔いて、収穫できれば食する。それが上手く行かなければ、山菜を採ったり、木の実を拾ったり。川魚を捕まえて来ることもあった。

 そんな話をすると、今度は瑠璃が不思議そうな顔をする。肉と言えば貝が主で、後は野菜と木の実のささやかな食事をしている北の集落。満鹿が実際に携わった、大きな獣を捕まえてきてバラし干し肉にする話などは本当に驚いていた。

 育った環境も置かれた立場も全く異なる。満鹿は瑠璃の婚約者のことを知っていてどうしても訊ねられなかったし、彼女から切り出してくることもなかった。当たり前の会話をしているだけで、時は瞬く間に過ぎていく。心地よい時間はあっと言う間に終わりを告げていた。

 自分を見上げてやわらかく微笑む人ともう一度会いたくてたまらない。このまま二度とふたりで会えなかったら嫌だ。もう一度だけ、こんな時間を持ちたい。一度だけ会えばそれでいいと思ったのに、我慢が出来なくなった。別れ際、次の約束を取り付けていた。瑠璃もちゃんとそれに応えてくれた。

 

◆ ◆ ◆


 幾度、そんな風に逢瀬を重ねたのだろう。人目を避けて野を歩き、山を歩き、ふたりだけの場所を見つける。傍らに瑠璃がいて、自分に笑いかけてくれる。それが嬉しくてたまらなかった。彼女の身の上は忘れた振りをしていた。でも、いつものように西の通用門で別れ、男子寮への道を戻る頃にはどうしようもない気持ちが溢れていた。

 仲間の侍従は次々に女子を口説いて行く。中には付き合ってひとつきでもう結婚を決めてしまった者すらいる。まあ、所帯を持つ平均的な年齢は男子が17,8で女子が15,6…そうなると宮仕えをしている侍従や侍女は皆が結婚適齢期と言っても良かったかも知れない。
 所帯を持てば、ささやかながら独立した居室を与えられる。そして空いた部屋に新たに独身の侍従がやってきたりする。結婚と共に自分の故郷に戻る者もいる、欠員が出れば新たに補充されるのだ。


「男子寮も相部屋でしたわよね? 満鹿様は…余市様と同室でいらっしゃるの?」
 どんな会話の流れだったのだろう、いつかこんな話題になったことがある。

「…あ、うん。そうだけど…」
 侍女仲間の会話で出てきた話なのだろうか? 満鹿の相部屋の余市は侍従見習いでほとんど同じ時期に入った同期だが、何と言っても風格が違う。彼の得意は弓矢であるが長刀も巧みに操る。出世も早いのではないかと仲間うちではやっかみ半分の噂も出るほどだ。
 それが、何だというのだろう。やはり瑠璃も彼に興味があるのだろうか? 少し面白くないなと思ってしまった。

「わたくしの同室は柚羽様ですの。余市様と同郷のご出身なんですって、よくお名前を伺うから…」

「ああ、そうか」
 余市がよく声をかけている赤毛の小さな娘がいた。2人が並ぶと彼女は余市の肩までも来ない。どう見ても兄妹と言った感じだ。赤毛の西南の民を見れば皆、身内のような気がする。同じく瑠璃と同じ漆黒の髪を見れば皆、彼女の身内に見えてくる。同様に亜麻色の髪を見れば、皆身内だと思われているかも知れないが。

「これは、内緒のお話ですけど」
 ちょっと首をすくめて。相変わらず、淡々とあまり多くは語らない女子だったが、それでも次第に打ち解けると何となく声が親密になってくる気がする。上目遣いが彼女をいつもよりも幼く見せた。

「柚羽様は余市様のことが好いていらっしゃる、わたくしはそう思っておりますの」

「え…?」
 瑠璃からそんな色恋沙汰の話を聞いたことはなかったから、驚いた。そう言うことには興味がないと思っていたから。きゃあきゃあと色めき立つ他の侍女と彼女とは違う人間の気がしていた。

「そうか…なあ?」
 その瑠璃の発言にも正直首をひねっていた。余市からもそんな話は聞いたことがない。自分も瑠璃のことを話していないし、彼も女子の話などしない。

 竜王様の御館の侍女たちはびっくりするくらい積極的だ。余市も自分も向こうから声をかけられることがある。最初はびっくりしたが、だんだん慣れてきた。立ち話くらいだったらする。余市などはそう言うことすら面倒くさそうだったが。女子には興味もないのかなと思っていた。さもなくば、里にもう決まった女子がいるのかと。

 自分が色恋沙汰に縁がないからと言って、余市までがそうだとは限らない。でもどうしても自分の視点でしか物事を見ることが出来ないのだ。正直、浮かれまくっている侍従たちの中で、ふたりは少し浮いていた。

「柚さんがそう言ったの?」
 ふたりでそんな会話をすることがあるのだろうか? 瑠璃の口から自分の名が漏れることがあるのだろうか…? 今まで気にしたことなどなかったのに、急にそんな疑問が湧いてきた。 

「いいえ」
 しかし、瑠璃は当たり前のように首を横に振った。

「柚羽様はそんなことを軽々しく仰らないですわ。でも、わたくしには分かるんです。とても良く…」
 瑠璃の視線は満鹿を離れて、遠き山々の連なりを捉えていた。

「柚羽様、余市様から頂いた飾り物をそれはそれは大切にしてらっしゃって。小箱一杯にあるんですわよ。それをおひとりで並べては眺めているの、わたくし気付いておりますもの…」

 そんな風に呟く瑠璃が何を想っているのか、気になった。もしかしたら、遠き里の婚約者に想いを馳せているのではないだろうか? 彼女を待つ男のことを。そう思ったら、胸が今までにないほどキリキリと痛み出した。それを悟られないように必死になっていたら、その後の時間は何を話したのかもよく分からなかった。

 

◆ ◆ ◆


「…満鹿様、いらっしゃる?」

 それからしばらくしたある日、表の侍従たちが集まる寄り所に自分を訪ねてきた女子がいた。いくら積極的な竜王様の御館の侍女と言っても、単身で寄り所までやってくる者は珍しい。仲間たちに冷やかされながら、戸口まで出ていくと黒い髪の女子がいた。顔は見たことがある。でも黒い髪、瑠璃と同じ地の出身の者であっても何だか異質な者の様に思えた。

「単刀直入に申し上げるわ。満鹿様は今、お付き合いなさっている方がいらっしゃるの?」
 つり目勝ちの気の強そうな表情できりりと見つめられる。ここまできっぱりと言い切られたことはなかったから、面食らってしまった。

「あ…いや…」
 そう答えながら、ふと瑠璃のことが脳裏をよぎる。でもあれは「付き合っている」という表現ではないだろう、ただ、山や野を散策しているだけで。満鹿の言葉に女子の方は納得したように微笑んだ。

「そうでしょうね、そんな話もありませんし。でも、それならどうして特定の女子をお決めにならないんですの? 里にそう言う人がいらっしゃるのか、それとも…誰か想い人でも?」

「…え?」
 ずいっと凄まれるとちょっと怖かった。ごくりとつばを飲む。同郷の女子だ、もしかして自分と瑠璃のことを何か知っているのではないか。ふたりきりで人目を避けて会っていたが、誰かの目に触れないとも限らない。

 満鹿が黙りこくっていたので、彼女の方がまた言葉を続けた。

「私、存じ上げておりますのよ? 満鹿様は今までに何人もの女子から誘いをかけられて、無下にお断りになっていらっしゃるって。何故ですの? …よもや、女子がお嫌いなのではないでしょうね。中には余市様との仲を疑う者もありますのよ…?」

 その言葉にはさすがにぎょっとして目を剥いた。

「なっ…何でっ…!! ちょっと、待ってくれよ。そんなのっ…!!」
 あんまりの発言に言葉が上手く出てこない。何故だ、どうしてそう言うことになるのか? 慌てふためく満鹿に彼女は勝ち誇ったように微笑んだ。

「そうじゃないと仰るのでしたら、私と付き合ってくださらない? そんな馬鹿馬鹿しい噂など蹴散らして差し上げましょうよ…?」
 そう言うと、彼女は手にしていた包みを満鹿に差し出した。

 

◆ ◆ ◆


 その日は朝から少し気の流れがおかしかった。夏の終わりは天の向こう、「陸」でも天候が変わりやすいのだという。水底の海底の国でもその影響を受けていた。水で満たされた地に雨はない。だから雨具というものは存在しないのだ。でも気が乱れれば、向こうが見えないくらいの流れの強さになることもある。そう言う日は普段は開け放している窓を閉め、しっかり錠をする。時によっては耕地の作物に被害が出ることもある。

 その気の流れの如く。その日の満鹿は沈んでいた。傍らを歩く瑠璃が何度も心配そうにこちらを覗き込んでいるのが分かる。優しい瞳に見つめられても気は晴れなかった。

 

「…満鹿様…?」
 いつもよりも遠いところまで来てしまったらしい。黙ったままずんずん歩いたので、気が付かなかった。瑠璃の心配そうな声にようやく面を上げると、そこは見慣れない風景だった。

「何やら…少し流れがおかしいようですわ、…ご覧になって…」
 彼女が指す方向を見ると、黒っぽい気の流れが帯になって漂っている。それが激しい流れに砂が舞い上がって出来た物であるとようやく気付いた頃には、辺り一面が暗く、色を変えていた。

「…何? これ…」
 満鹿にとって、こんな状況は経験したことがなかった。だから慌ててしまう。でも傍らの瑠璃は緊張した面もちながら、落ち着いていた。

「多分…野分の荒れですわ。今に強い流れが来ると思います…」

 天を仰げば禍々しい色に塗り替えられている。先ほどまでは青い色だったのに。今は灰色に黄色が混ざったような恐ろしい顔色に変わっている。何か大変なことが起こるのだ。この周囲の風景からも瑠璃の表情からもそれが分かった。

「そんな…!! 早く戻らなくては…!?」

 そう言い終わる前にゴウッと気が唸り、ふたりに襲いかかってきた。まるで生きているかのようにふたりの存在を目指して強い流れが起こる。咄嗟に瑠璃を庇う。やわらかな花の香を無意識のうちに抱き寄せていた。
 でも、立っているのもやっとだった。これでは急いで戻ることも出来ない。大体、もう向こうが見えない。どの方向に戻ったらいいのかすら見当が付かないのだ。

 流れに背を向けて、必死で目を凝らす。視線の端に茶色っぽいものが見えた。四角い、もしかしたら、少しの間この荒れをしのぐことが出来るのだろうか…?

 片手で瑠璃を庇いながらゆるゆると進んでいくと、そこは山裾の廃屋だった。ぼろぼろな外装だったが、外にいるよりはマシかも知れない。立て付けの悪い戸を開く。ひなびた香りがした。収穫した藁をたくさん積んである物置だったのだ。それでも人間が座る場所くらいは残されていた。

 

「…大丈夫? 瑠璃さん…?」
 もう平気だろうと腕の中でカタカタと震えていた小さな身体を引き離す。そうしても胸元から花の香が匂い立って来るような気がする。

 満鹿が自分の重ねを脱いで藁の上に敷く。そこに座るように促すと、彼女は申し訳なさそうに満鹿から離れて端の方に腰を下ろした。そして、乱れた髪を手櫛でそっと整える。その指先がまだ小刻みに震えていた。痛々しいほどだった。
 暗がりではあるが、彼女の白い手がふうっと浮き立って見える。申し訳なさそうにこちらを振り向いた。

「…申し訳ございません。わたくしがきちんと注意していればこんなことには…」
 自分だって震えているのに。それでも満鹿のことを心配してくれる。まあ、彼女の里とここは気候が似ているのだから、こんな季節の気の崩れも知っていたのかも知れない。そんなことを言ったって、自然のことは予測が付かないのだ。満鹿も今日は彼女も周囲の様子も気遣うことが出来なかった。

「ううん、瑠璃さんのせいじゃないから…」
 泣き出しそうな声に思わず腕が伸びそうになる。さっきまで自分の腕の中にあったぬくもりが懐かしくてたまらなかった。

 

 あの女子が手にしていた包みの中身は分かっていた。あの大きさは衣だ、多分彼女自身が仕立てたものだろう。女子が男に衣を贈るのは一種の求婚の意思表示だ。衣の仕立ては妻の役目とされている。だから、これからあなたの衣のお世話をさせてください、と言う気持ちが込められているのだ。でも、それを受け取ることなど出来なかった。
 瑠璃とどこか似ている面影の女子は口汚く満鹿を罵倒した。それだけなら耐えることも出来ただろう、しかし彼女は自分の持ち場に戻るとそこら中の侍女に触れ回ったらしいのだ、翌日、満鹿が別の侍従からそのことを聞いたときにはとんでもない噂になっていた。

 それを知ったとき、満鹿が最初に思ったのは瑠璃のことだった。自分のひどい噂を耳にして、一体どうするのだろう。軽蔑してしまうかも知れない、もう会ってくれないかも知れない。そう思うと口惜しくて仕方がなかった。

 そして、同時に。

 どんなに深く瑠璃を思っていたか、その自分の気持ちに気付いてしまったのだ。あの女子の話しぶりから見て、自分たちのことは知られていない。知られてはならないことだと思っていた。
 たまに男たちの噂に瑠璃の名が上がることがある。何人かの侍従が彼女に言い寄って冷たくあしらわれたと。そんなの当然のことなのに、彼女は他の男のものなのに…。

 もう会うのはやめようと何度も思った。それでも別れ際には次の約束をしてしまう。いつかは里に戻って嫁いでしまうと分かっていても、それでも止められないのだ。今この瞬間に、自分に微笑んでくれる瑠璃が大切だった。

 何故、瑠璃は他の男のものなのだろう。彼女は時々里に戻る。一日歩けば辿り着ける近い距離なので、三日休みが貰えれば帰ることが出来るのだ。そして、戻れば男に会うのだろうか? その胸に抱かれるのだろうか…そして、男は瑠璃の微笑みを見つめるのだろうか?

 

 今、腕を伸ばせば届く距離で、瑠璃が震えている。寒いのか、恐ろしいのか。今にも崩れ落ちそうな廃屋に打ち付ける気の流れ。薄い壁がかろうじてふたりを守ってくれてはいるが、いつ崩れてしまうかも知れない。

「…瑠璃さん…」
 そう呼びかけてみる。返事はない。風の音で聞こえなかったのかも知れないが、まるで自分の存在を拒否されているような乾いた寂しさを感じた。まさか、男のことを想っているのか? そいつに助けて貰いたいと思っているのか…!? ここにいない男がそんなにいいのか…どうして、そんな者のものになるのだ…!!

 次の瞬間。

 満鹿の身体が跳ねた。飛びかかるように瑠璃に抱きついて、抱きすくめる。柔らかな身体を必死で抱いた。甘くてうっとりする花の香り。小さく震えながら、それでも彼女が自分にすり寄ってきてくれるような気がした。滑らかな黒い髪、それを一束掴んで握りしめる。

 女子のぬくもりは初めてだった。そう言う経験は里にいる頃はもちろん、この地に来てからもなかった。場末にある遊女小屋にも行ったことがない。馬鹿馬鹿しいと思われようが、どうしてもそう言う気持ちになれなかった。口惜しくて、愛おしくて。腕の中にいる人を生まれて初めて欲しいと思った。体中の血液がぎゅうっと頭に流れ込んでくる。

 夢中で唇を重ね、強く吸う。彼女の甘い唾液ごと、飲み込んでいく。そして…その後は、もう自分を止めることなど出来なかった。

 どうして、どうして他の男のものなのだ。どうしてっ…!!

 頭の中でそんな想いがばちばちとはじける。衣をはぎ取り、白い柔肌に吸い付き、味わう。怒りにまかせて貫いて、何度も何度も突き立てた。その行為の方法など、耳で聞いた知識でしかなかった。実際にそう言う状況になったとき、手順が分からなかったらどうしようとも思っていた。でも本能のままに動けば何も恐れることはなかった。

 突然の満鹿の行動に驚いたのか、抵抗も忘れて瑠璃は身を任せている。額に脂汗を浮かべて、必死に声を殺していた。それでも時々、悲鳴のような細い声が上がる。墨色の髪が辺りに漂って2人を巻き込んでいく。

 彼女の中に欲望の全てを吐き出して、その後もしばらくは呼吸を整えるだけで精一杯だった。


 いつか、外の荒れる音がなくなっていた。戸口の隙間から赤い夕暮れの光が漏れる。その時になって、ようやく我に返った。

「あ…!?」
 横たわった瑠璃の傍で自分の始末を初めて、ようやく気付く。白い手ぬぐいに明らかにそれと分かる物がべったりと付いたのだ。初めてぎょっとして、瑠璃の方を見る。うっすらと瞳を開いてぼうっとしていた彼女と目が合った。さああっと、血の気が引いていく。

「ち、ちょっと待ってっ!! どうしてっ…、どうして、瑠璃さん…!?」
 満鹿のただならぬ表情を見て、瑠璃はふうっと横を向いてしまった。それを追って肩を鷲掴みにする。そして、青ざめた顔を覗き込んだ。

「何でっ!! 何で初めてなんだよっ!! 瑠璃さん、男がいるんだろう…!?」

 瑠璃は。ハッとして瞳を大きく見開いた。それから唇を噛みしめると、満鹿の腕を払って起きあがる。彼女のものとは思えない、低いかすれた声が上がる。

「…あの方とは…わたくし、お目にかかったこともございませんの。ずっと長いこと遠くの地で兵役に携わっていらっしゃって。お兄様である跡取り様が流行病で亡くなったことで、急にこちらに戻されることに相成ったのです…本当でしたら、わたくしは跡取り様の妻になるはずだったのですが…」

 そこで言葉は途切れた。しばらくの間、彼女が身支度を整える衣擦れの音だけが、部屋に響き渡る。やがて、すっかり衣を整えてこちらを振り向いた彼女はいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。

「さあ、早く御支度をなさって。夕餉までに戻らないと皆様、心配されますわ…」

 愛し合った形跡をぬぐい取った手ぬぐいを手に、呆然としていた満鹿は、もはや何の言葉も思いつかなかった。