TopNovelてのひらの春・扉>てのひらの春・1


…1…

 

 

 西から東へ。緩やかに流れゆく気。

 遙か向こうに的場を見て、すっと姿勢を正した青年が弓を手にしている。高い場所でひとつに結わかれた金茶の髪、涼しげな切れ長のまなざし。すみれ色の小袖は裾に向かって色が濃く美しく輝いている。若者らしいしっかりした筋肉の付いた肩を包む辺りは純白。袖は邪魔にならないようたすきを掛けて固定されている。そのため普段より袖口は浅くなり、逞しい腕がすんなりと伸びているのがまぶしいほどだ。

 ざりっと。草履が砂利を踏みしめる音。濃紫の長袴の裾には美しい銀色の鶴が刺されていた。竜王宮殿の中庭で定期的に催される賭弓(のりゆみ)は時として竜王様御自らがご臨席されることもあるため、出場する者たちも無礼のないよう、特別の装束を身に付ける。
 耳の脇に一房ずつ垂らした髪がゆらゆらと流れに乗る。気流は目に見えるほどで、的に向かうには少し躊躇してしまうのではないだろうか。しかし、今、射位(しゃい)に立つその者はそれを気にも止めていない感じだ。むしろ心地よい流れを楽しむように。口元に緩く浮かべた笑みが、次の瞬間、ふっと消えた。

 水を打ったように静まりかえった場内で、静かな舞いにも似た動作。ぎりっと弓が引かれる音が大きく聞こえた気がした。ふっと、一息止めて。次の瞬間、ぱあんと大きな音が辺りに響き渡った。

 一瞬の静寂の後、わあっと歓声が上がる。御館内の侍従や侍女、お庭番から御用役まで皆が集まったのではないかと疑ってしまうほどの観客。その人垣の一番後ろの方でことの次第を見守っていた柚羽(ゆずは)は隣りの娘に軽く肘でつつかれて、はっと我に返った。

「さすがですわね…いつもながら鮮やかですわ。ねえ、柚羽様」
 そう告げた瑠璃(るり)は柚羽と同僚の侍女。次期竜王候補であられる亜樹(アジュ)様の御子様方のお守り役だ。北の集落出身の彼女は黒髪を美しく伸ばしていて透けるように白い肌が自慢だ。一方、柚羽は西南の集落の民にあって、それを示す赤茶の髪。褐色に近い肌。綺麗な色だと瑠璃は誉めてくれるが、彼女は美しい白肌を持つこの友人が羨ましくてならなかった。犬猿の仲、と呼ばれる集落同士の出身であって、何故か二人は気が合う。御館内に与えられた部屋も相部屋で、昼も夜も一緒の生活がもう1年近く続いているがケンカらしいケンカもない。

「そ…そうかしら?」
 頭の芯がぼーっとしていて、上手く答えられない。吸い込まれるように的の中心に流れ着いた白矢。当たり前のように行われた行為だが、それがいかに難しいことなのか彼女には分かっていた。今日の賭弓には御館内の腕自慢が数十名参加していたが、的の中央はおろか、的自体に収まるように当てること自体が大変なのだ。
 そんな中でその姿を見せただけで皆から期待のまなざしを向けられる彼は、誰もが認める御館内随一の弓の名手だった。

 この場の主役である彼は数歩下がったところで静かに一礼すると、退出していく。それを見守ってから瑠璃はくるりときびすを返した。

「さあ、戻りましょうね。見るものは見ましたし。今頃、多奈様がお一人でカンカンですわ」

「…え、でも。また打ち終えていない方がいらっしゃるのに…」
 そう言いながら柚羽が辺りを見渡すと。黒山の人だかりはガヤガヤと崩れてすっかりと場内は人影がまばらになっていた。早業というか…今、射位に立っているのは、表の護衛長様だというのに。これから高官の侍従達の出番だというのに何と言うことだろう。

「ほら、ご覧なさい。皆様、考えることは同じこと」
 瑠璃は首をちょっと傾けるとくすくす笑った。

 まあ、お務め中に持ち場を離れてしまったのだ。二人は昼の御膳を下げなからちょっと足を伸ばしただけであったが、ざっと見渡したところ御館内の若い侍女達は残らずここに集まっていると言っても過言ではない。閑散としている南所の様子を想像すると本当に早く戻った方が良さそうな感じだ。

 柚羽はふううっとため息を付くと、すたすたと歩いていく友の後を追った。

「――…柚!!」
 ふいに背後から声が飛ぶ。ハッとして振り返る。人なつっこそうな笑みを浮かべて足早に駆け寄ってくるのは、他でもない。今さっき、人々の視線と歓声を全て我が身に受けていたかの青年であった。

「余市(ヨイチ)」

「見ててくれた? 嬉しいな」
 満面の笑顔で見下ろされて、妙に緊張するのは気のせいではないと思う。だって、彼が自分の名を呼んだ瞬間に周囲の視線がばっとこちらに向いたのだ。当の本人は少しも気にする感じがないが、柚羽の方は気が気ではない。特に同僚である若い娘達の視線が痛い。

「え、…あ、うん。たまたま、通りかかったら余市の出番だったから」
 そんなの嘘だ。半刻近い時間、ここに立っていたのだから。でもそんなこと、口が裂けても言えない。傍らで笑いを堪えている瑠璃にチラリと視線を送る。…絶対に! 言うんじゃないわよ!! …と。

「そう? でも見てくれたんでしょう?」
 二人にはかなりの身長差がある。俯いた柚羽の顔を覗き込んだところで、余市にはその表情を見ることは不可能だ。これは余市が上背がある、と言うよりは柚羽が小さいわけだが。隣りにいる瑠璃と較べても目に見えて分かるほど差がある。

「う…うん、そりゃ、まあ…」
 どうしてこんなに恥ずかしくなるんだろう。余市はこの刺すような視線が気にならないのかしらと柚羽はいつも思う。弓の名手であるのに加えてすらりとした長身に涼しげな顔立ち。この人はどこにいても目立つのだ。

「じゃあ。…手を出して」

「え?」
 柚羽は思わず顔を上げて、余市の顔を仰ぎ見た。自分の視線の先にある輪郭がふわっと揺らいで、次の瞬間、袂から何かを取りだして、素早く彼女の手に握らせた。

「…わあ、素敵ですわ。これは、先ほどの?」
 隣りの瑠璃の方が素早くチェックする。

「そう、この御品は東所侍女長の多尾様よりの賜り物だそうだよ。綺麗でしょう?」

 柚羽は自分の手の中にある物を改めて見た。綺麗な変わり織りを施した美しい飾り紐。長く垂らした髪を後ろで結わくときに使用する物で、これに凝ることは御館内の侍女達の数少ない楽しみである。

「さすがに女子(おなご)の物を頂いても仕方ないから、柚にあげる」

「あ、…うん」

 ちくちくと。また周囲から視線を向けられた気がしてならない。それでも、キラキラと金銀の糸を編み込んだ飾り紐はいつまでも見つめていたい美しさだった。

「あ、ありがとう。余市」

 彼はにっこりと微笑みで答えると、ふっとひとつ息を吐いた。

「ねえ、そうそう。言いたいことがあったんだ」

「え…?」
 見上げると同時に、ぽんと柚羽の頭の上に大きな手のひらが乗る。まるで父親が娘を慈しむときのような仕草。

「鷺百合(さぎゆり)の花が群生する場所があるんだって、懐かしいでしょう? …丁度満開の頃だって言うから、行ってみようよ」
 柔らかく頭をなでながら、何気ない感じで言う。

「鷺百合…」
 白くて細い花びらが放射状に幾重にも重なって咲き誇る花。それは西南の集落で春先に良く見られる野生の花だった。こちらに来て初めての春を迎えたが、どこにも見あたらない。だからこの地には咲かない物なのかと思っていたのだ。

 たおやかな細い葉と茎がすううっと伸びて、その先に鳥が羽根を広げたように純白の花が付く。明るい春の日差しの中に浮かび上がる白い絨毯。キラキラと光り輝いているが如く咲き誇る。


 それを脳裏に思い浮かべたとき、柚羽は胸の奥からこみ上げてくる物を感じた。

「明日の午後、一刻かもう少し、暇が取れる?」

「…え…」
 いきなり言われても頭が回らない。隣りの瑠璃がつんつんと肘でつつく。

「お務めを交代して差し上げますわ。その時間は丁度、わたくしの休憩ですから」

「そう、じゃあ…昼の食事がすんだら、西の通用門に来て」
 それだけ告げると。彼は柚羽の答えも聞かずにさっさと行ってしまった。流れる小袖の袂。その美しい菫の色。

 ほんの1年の間に。この人はどうしてこんなに大きく変わったのだろう。
 余市と顔を合わせるたびにそう思わずにはいられない柚羽であった。

 

◆◆◆

 

 海底の国。この地を満たす、空気より重い「気」はここで生活する物を全て取り巻いている。人々は髪を着物をゆらゆらとたなびかせ、流れに乗せる。天の彼方が「陸」の人間に言わせるところの海面。水面を通してこの地に降り注ぐ日の光も月明かりもゆらゆらとたなびく無数の帯になって差し込んでくる。

 

「ああ、羨ましいですわ。本当に余市様は柚羽様のことしか見えていらっしゃらないのね…」
 去っていく人の背中を追いながら、瑠璃は感慨深くため息を付いた。

「瑠璃様」
 柚羽は眉間に少しシワを寄せると、小さな声でたしなめる。

「瑠璃様までその様な物言い。周囲に誤解を招くようなお言葉は辞めてちょうだい」

「あら」
 瑠璃の方はそんな彼女の不機嫌さなど何ともない感じ。楽しそうに話を続ける。

「柚羽様は下ばっかり向いていてご存じないから。あの、余市様の柚羽様を見つめるまなざしのお優しいこと。こちらまで胸が高鳴りますもの。それにさっきだって。こんなにたくさんの人だかりの中で、一直線に柚羽様を目指してやって来られたわ」

 春の御庭に佇む二人の娘。黒に近い藍色の袴は侍女に統一された装束だが、上に身に付ける小袖と肩から羽織る重ねはそれぞれに好みの物を合わせている。華美でなければ自由に出来る部分なのだ。

 明るい色彩にふんわりと浮かび上がる肌艶の良さ。柚羽は15で瑠璃は16。年頃の娘らしい美しさが彼女たちにはあった。

「それは…この赤毛が珍しいから、すぐに目に付くだけよ。余市もそう言ってるわ」

 柚羽の言葉には確かに一理あった。

 海底国はここ、この地を全て治める竜王様のお住まいになる御館を中心に大小多数の集落が点在して成り立っている。海の底にあって海底人達がこうして生活できるのは竜王様の御力で張られている「結界」のお陰に他ならない。エラの形の耳を持ち、気の中で呼吸できる民ではある。でもこの「結界」なくては生きることは出来ない。各集落は結界に守られた街道で繋がっていた。
 柚羽の故郷である「西南の集落」はその中でも最大勢力のひとつだ。西南の大臣家は王族と深く姻戚関係を結んでおり、それだけに竜王家への関与もあからさまだ。現竜王であられる華繻那様にはただお一人の御子しかなく、その御方が姫君であらせられた。すると、西南の大臣は自分の息子の一人をその姫君の夫候補とし、次期竜王の座につけるようにと提案してきた。そのものの母君が他でもない竜王様の実の姉君であられる。御血筋にも申し分ない。…その御方こそ、柚羽達が今お仕えしている御子様の御父君に当たる「亜樹(アジュ)様」である。

 そうは言っても。柚羽自身がこの地に来て、初めて知ったことではあるが…そんな最大勢力の民である西南の人間は竜王の御館に余り多くはお仕えしていない。侍従・侍女のほとんどは今、隣りにいる瑠璃の出身地である「北の集落」の者たちで占められている。ざっと見渡すとほとんどが黒い髪に陶器の様な透き通る白肌。西南特有の赤髪の者は他の集落の民に混ざって、探すのが困難なくらい少なかった。
 柚羽はもともとは西南の集落で、重臣のひとつである御家にお仕えしていた。正確にはそこに嫁がれた御正室様の侍女。その御方が畏れ多くも次期竜王様・亜樹様の御子の乳母に命ぜられた。それにより、こちらに移り住んだ女主人に従って故郷をあとにしたのである。

 女主人…秋茜(あきあかね)様 と共に亜樹様の居住まいである竜王の御館・南所に入った。丁度、1年前のことになる。

 余市は秋茜様の夫君である雷史(ライシ)様の下男。柚羽が嫁ぐ秋茜様に付いて、雷史様の邸宅に入った頃にはもうその任に付いていた。使い走り、そんな立場。そして、雷史様が竜王の御館にあがられるのを追いかけて故郷を捨てたことから、彼もまた同じ道を辿ることになったのだ。

 自分の意と関係なく、今の生活に付いている。似たもの同士。その上、絶対数の少ない西南の民。何かと肩身が狭く、やりにくいことも多い。そんな中でお互いの存在が特別のものとなってもそれほど意外ではない。…まあ、あくまでも同郷の顔なじみ、としてだが。

 柚羽は今も秋茜様の身の回りのお世話をするが、立場的には南所の侍女だ。亜樹様の若君様方のお世話をしている。亜樹様には秋茜様が乳母としてお仕えしているお世継ぎ様と、その2つほど年長の姫君様がいらっしゃる。西南にいた頃は雷史様と秋茜様の御子、春霖様と雪茜様のお世話をしていた。その経験がとても役に立っていて侍女仲間の間でも「小さな母上」と呼ばれているほどだ。小さな、と言うのには柚羽の身丈のことが暗にかけられている。
 一方、余市は主である雷史様と共に侍従見習いの下っ端に据えていただいていた。その仕事はお庭番や通用門の警護など主に館の外で行われる。長刀を自在に扱う武勇に優れた雷史様、対して弓の名手である余市。2人はどうしても周囲からの注目を浴びることになる。雷史様は妻帯者であるし、秋茜様と仲睦まじく過ごされているので対象外。となれば、おのずと御館内の娘達の目は余市に集まる。
 西南にあっては兄妹のように過ごしていた余市が身丈も伸びて若者らしい壮観とした姿に変わっていく。もしも実の兄であったなら、どんなにか誇らしいことだろう。

 …でも。

 以前と変わらず、人なつっこい笑顔で接してくる彼が、この頃しっくりこない。自分の中で形にならない想いが渦巻いている。それを外に出せないままだ。

 いつも近くにいて、柚羽の説明を何度も聞いている瑠璃であってもこんな風に誤解してくる。あの誘いは逢い引きでも何でもなく、ただの花見への誘いだ。人混みの中でひときわ目立つこの赤毛を見つけて歩み寄っただけのこと。
 余市は気付かない。すみれ色の袖をたなびかせ、人並みの中をかき分けてこちらに向かう己の姿が、どんなに周囲の注目を浴びているかを。皆の羨望と嫉妬の視線の中で柚羽がどんなにやるせない心持ちでいるか、消えてしまいたいぐらい所在なさげにしてるのかを。

 そして、それを告げたくても告げられないままでいる柚羽の心内を。

 瑠璃が言っていることは本当だろうか? 余市が私を…特別なまなざしで見つめているって? 誰から見ても明らかなほど…。真実なら、確かめてみたいと思う。でも出来ない…だって、そんなことをしたら、期待してしまう。それだけは嫌だ。

 余市は気付かない。妹のように慈しんで、接している幼いばかりの娘がどんなに自分を想っているか。誰にも告げられぬ想いを抱いて、どんなに胸を痛めているか。

 …気付かなければ、良かった。この気持ち。

 ただの顔なじみとして、家族にも似た存在としてずっと傍にいれば良かったのに。お互いの全てを知り尽くしている。それが時として見えない鎖になって、想いを閉じこめてしまう。

「柚羽様?」
 急に大人しく黙り込んでしまった友を心配して、瑠璃が顔を覗き込んでいる。柚羽は自分の気持ちを一番近くにいる瑠璃にすら告げていない。

「…あ、ごめんなさい。ちょっと、ホームシックかも? いきなり鷺百合の話なんかされたから…」

 半分嘘で、半分本当。

 今年の正月は秋茜様がご懐妊の兆しで体調が悪く、西南に戻れなかった。1年のほとんどを離れて暮らしてはいても柚羽にも親や兄弟がある。仕方ないとは思いながら、寂しかった。でも自分はいいから戻っておいで、と言われても、苦しんでいる女主人を置いては戻れない。このときも同様に留まった余市の存在が柚羽を慰めてくれた。器用に西南風の正月飾りを作り、食材を用意してくれる。それでささやかにふるさとの新年を祝った。懐かしい故郷の話をしながら、祝いの酒でほんのりと頬を染める余市に心から感謝していた。
 それでも時折訪れる切なさを見抜かれていたのかも知れない。わざわざ鷺百合の群生地を探して、自分を慰めようとしてくれている心遣いが嬉しかった。でも心苦しかった。

「柚羽様、もっと余市様に甘えられたらよろしいのに…」
 ちょっと、遠くを見て。瑠璃がぽつりと言った。その物言いが聞いたことのない色を見せていたことに柚羽は驚いた。一瞬のことだったけれど。

 南所の前まで来て、ついと足を止めた。

「あ、私…少し秋茜様のいらっしゃる居室(いむろ)に寄ってくるわ…ご様子を伺ってくるようにと多奈様に言われてたの」

「あらそう、じゃあ、私は先に戻りますわ」
 ゆったりと微笑む友の顔。それが少し大人びて見えた。

 


◆◆◆

 

「あ、柚だ!! 柚〜〜〜〜っ!!」
 居室の庭先で遊んでいた春霖が柚羽に気付いた。もうすぐ3歳を迎えられるやんちゃ盛り。せっかくのお召し物に泥がたくさん付いている。

「おいたをなさっていませんか? 春霖様…」

「ええ〜僕はいい子だよっ! そうでしょう?」
 せっかく見事に施した庭の花を摘んでしまい、そこら中に穴を掘る。遣り水で春も浅いのに遊んでいる。とても「いい子」とは言い難い行いを重ねる若君だがどうしても憎めない。乳飲み子だった頃からお世話申し上げているせいもあるのだろう。

「ねえ、柚! 遊ぼう〜今、雪はお昼寝でつまんないんだ。遊んで…!!」

「はいはい」
 重ねを引っ張る小さなてのひらをとって、笑いかける。

「柚も、若様と遊びたいのですが。今はお務めの最中です。秋茜様のご様子を伺いに参ったのですの。…春霖様も御母君の御部屋に参られますか?」

 おなかにいらっしゃるのは3人目の御子になる。でも柚羽の女主人である秋茜は毎度のことながら妊娠中の体調が優れない。もともと丈夫な体質でないので、仕方ないのかも知れないが。乳母のお務めも休みがちになっていた。もっとも若君様の御部屋には上の姫君の乳母様でいらっしゃる多奈様がおられる。年若い柚羽達のような侍女もたくさんいる。無理はなさらずにお休み頂くことにしていた。

「…柚羽、気を遣っていただいて。申し訳ないわね…」
 寝台から身を起こして、やつれた秋茜が笑いかけている。傍に寄った春霖に優しく触れて。

「お方様、こちらのことは御心配なさらないで…ゆっくりとお休み下さいませ。大事なお体なのですから」
 ふらつく主人を制して、その身を横たえさせる。元のように寝具代わりの重ねをかけて。

 自分の横顔をじっと見ていた秋茜が何とも言えないため息を付いたのを感じて、柚羽はそちらに向き直った。

「…あの、お方様…何か?」

 目の前の人がふわりと微笑んだ。

「あなたも。いつの間にか大人びて…すっかり娘らしくなったのね。私の所に初めて来た頃はまだ本当に女の童で、…幼いばかりだったのに」
 感慨深げな物言いに、柚羽はほんのりと頬を染めてしまった。

「…もう、私に仕えて3年…4年になるのかしら? 当たり前なのにね…私としたことがうっかりしていたわ」

「お方様?」
 何だかもったいぶったいい方だ。不思議に思って訊ねてしまう。それに応えて、身を横たえたままの秋茜が静かに微笑んだ。

「この前から、殿と話しているのだけど…あなたにもそろそろ…良き伴侶を見つけてあげなくてはね」

「…え?」
 大きく目を見開いて、柚羽は驚きの表情を露わにした。

「あなたに心に決めた御方がいらっしゃるのなら、それでいいでしょう。そうでなければ殿にも心を砕いて頂いて、これはという方を見つけていただくわ。どう? 柚羽は西南に戻りたい? それともこちらにいてくれる?」

「……」

 頭が真っ白になって。口元が空を切るばかり。そんな柚羽の耳元に元気な声が響いてきた。

「駄目だい!! 母上〜柚は僕がお嫁さんに貰うの!! 誰にもあげちゃ駄目〜〜〜!!」

「…あら、まあ…」
 可愛らしい物言いに、秋茜の顔がほころぶ。

「好かれてしまったわねえ…柚羽。それでは春霖も候補に入れなくてはね…」

「…はい」
 微笑み返しながら、心の中で考えが渦巻く。どうしていいのか分からない、思考の淵に流れ込むように。

 …もう、4年…。

 長い時間だったと思うし、あっという間だったとも思える。この女主人との時間。それはそのまま、他の誰でもない、余市との時間の長さだった。

 

 

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