西から東へ。緩やかに流れゆく気。 遙か向こうに的場を見て、すっと姿勢を正した青年が弓を手にしている。高い場所でひとつに結わかれた金茶の髪、涼しげな切れ長のまなざし。すみれ色の小袖は裾に向かって色が濃く美しく輝いている。若者らしいしっかりした筋肉の付いた肩を包む辺りは純白。袖は邪魔にならないようたすきを掛けて固定されている。そのため普段より袖口は浅くなり、逞しい腕がすんなりと伸びているのがまぶしいほどだ。 ざりっと。草履が砂利を踏みしめる音。濃紫の長袴の裾には美しい銀色の鶴が刺されていた。竜王宮殿の中庭で定期的に催される賭弓(のりゆみ)は時として竜王様御自らがご臨席されることもあるため、出場する者たちも無礼のないよう、特別の装束を身に付ける。 水を打ったように静まりかえった場内で、静かな舞いにも似た動作。ぎりっと弓が引かれる音が大きく聞こえた気がした。ふっと、一息止めて。次の瞬間、ぱあんと大きな音が辺りに響き渡った。 一瞬の静寂の後、わあっと歓声が上がる。御館内の侍従や侍女、お庭番から御用役まで皆が集まったのではないかと疑ってしまうほどの観客。その人垣の一番後ろの方でことの次第を見守っていた柚羽(ゆずは)は隣りの娘に軽く肘でつつかれて、はっと我に返った。 「さすがですわね…いつもながら鮮やかですわ。ねえ、柚羽様」 「そ…そうかしら?」 この場の主役である彼は数歩下がったところで静かに一礼すると、退出していく。それを見守ってから瑠璃はくるりときびすを返した。 「さあ、戻りましょうね。見るものは見ましたし。今頃、多奈様がお一人でカンカンですわ」 「…え、でも。また打ち終えていない方がいらっしゃるのに…」 「ほら、ご覧なさい。皆様、考えることは同じこと」 まあ、お務め中に持ち場を離れてしまったのだ。二人は昼の御膳を下げなからちょっと足を伸ばしただけであったが、ざっと見渡したところ御館内の若い侍女達は残らずここに集まっていると言っても過言ではない。閑散としている南所の様子を想像すると本当に早く戻った方が良さそうな感じだ。 柚羽はふううっとため息を付くと、すたすたと歩いていく友の後を追った。 「――…柚!!」 「余市(ヨイチ)」 「見ててくれた? 嬉しいな」 「え、…あ、うん。たまたま、通りかかったら余市の出番だったから」 「そう? でも見てくれたんでしょう?」 「う…うん、そりゃ、まあ…」 「じゃあ。…手を出して」 「え?」 「…わあ、素敵ですわ。これは、先ほどの?」 「そう、この御品は東所侍女長の多尾様よりの賜り物だそうだよ。綺麗でしょう?」 柚羽は自分の手の中にある物を改めて見た。綺麗な変わり織りを施した美しい飾り紐。長く垂らした髪を後ろで結わくときに使用する物で、これに凝ることは御館内の侍女達の数少ない楽しみである。 「さすがに女子(おなご)の物を頂いても仕方ないから、柚にあげる」 「あ、…うん」 ちくちくと。また周囲から視線を向けられた気がしてならない。それでも、キラキラと金銀の糸を編み込んだ飾り紐はいつまでも見つめていたい美しさだった。 「あ、ありがとう。余市」 彼はにっこりと微笑みで答えると、ふっとひとつ息を吐いた。 「ねえ、そうそう。言いたいことがあったんだ」 「え…?」 「鷺百合(さぎゆり)の花が群生する場所があるんだって、懐かしいでしょう? …丁度満開の頃だって言うから、行ってみようよ」 「鷺百合…」 たおやかな細い葉と茎がすううっと伸びて、その先に鳥が羽根を広げたように純白の花が付く。明るい春の日差しの中に浮かび上がる白い絨毯。キラキラと光り輝いているが如く咲き誇る。
「明日の午後、一刻かもう少し、暇が取れる?」 「…え…」 「お務めを交代して差し上げますわ。その時間は丁度、わたくしの休憩ですから」 「そう、じゃあ…昼の食事がすんだら、西の通用門に来て」 ほんの1年の間に。この人はどうしてこんなに大きく変わったのだろう。
◆◆◆
海底の国。この地を満たす、空気より重い「気」はここで生活する物を全て取り巻いている。人々は髪を着物をゆらゆらとたなびかせ、流れに乗せる。天の彼方が「陸」の人間に言わせるところの海面。水面を通してこの地に降り注ぐ日の光も月明かりもゆらゆらとたなびく無数の帯になって差し込んでくる。
「ああ、羨ましいですわ。本当に余市様は柚羽様のことしか見えていらっしゃらないのね…」 「瑠璃様」 「瑠璃様までその様な物言い。周囲に誤解を招くようなお言葉は辞めてちょうだい」 「あら」 「柚羽様は下ばっかり向いていてご存じないから。あの、余市様の柚羽様を見つめるまなざしのお優しいこと。こちらまで胸が高鳴りますもの。それにさっきだって。こんなにたくさんの人だかりの中で、一直線に柚羽様を目指してやって来られたわ」 春の御庭に佇む二人の娘。黒に近い藍色の袴は侍女に統一された装束だが、上に身に付ける小袖と肩から羽織る重ねはそれぞれに好みの物を合わせている。華美でなければ自由に出来る部分なのだ。 明るい色彩にふんわりと浮かび上がる肌艶の良さ。柚羽は15で瑠璃は16。年頃の娘らしい美しさが彼女たちにはあった。 「それは…この赤毛が珍しいから、すぐに目に付くだけよ。余市もそう言ってるわ」 柚羽の言葉には確かに一理あった。 海底国はここ、この地を全て治める竜王様のお住まいになる御館を中心に大小多数の集落が点在して成り立っている。海の底にあって海底人達がこうして生活できるのは竜王様の御力で張られている「結界」のお陰に他ならない。エラの形の耳を持ち、気の中で呼吸できる民ではある。でもこの「結界」なくては生きることは出来ない。各集落は結界に守られた街道で繋がっていた。 そうは言っても。柚羽自身がこの地に来て、初めて知ったことではあるが…そんな最大勢力の民である西南の人間は竜王の御館に余り多くはお仕えしていない。侍従・侍女のほとんどは今、隣りにいる瑠璃の出身地である「北の集落」の者たちで占められている。ざっと見渡すとほとんどが黒い髪に陶器の様な透き通る白肌。西南特有の赤髪の者は他の集落の民に混ざって、探すのが困難なくらい少なかった。 女主人…秋茜(あきあかね)様 と共に亜樹様の居住まいである竜王の御館・南所に入った。丁度、1年前のことになる。 余市は秋茜様の夫君である雷史(ライシ)様の下男。柚羽が嫁ぐ秋茜様に付いて、雷史様の邸宅に入った頃にはもうその任に付いていた。使い走り、そんな立場。そして、雷史様が竜王の御館にあがられるのを追いかけて故郷を捨てたことから、彼もまた同じ道を辿ることになったのだ。 自分の意と関係なく、今の生活に付いている。似たもの同士。その上、絶対数の少ない西南の民。何かと肩身が狭く、やりにくいことも多い。そんな中でお互いの存在が特別のものとなってもそれほど意外ではない。…まあ、あくまでも同郷の顔なじみ、としてだが。 柚羽は今も秋茜様の身の回りのお世話をするが、立場的には南所の侍女だ。亜樹様の若君様方のお世話をしている。亜樹様には秋茜様が乳母としてお仕えしているお世継ぎ様と、その2つほど年長の姫君様がいらっしゃる。西南にいた頃は雷史様と秋茜様の御子、春霖様と雪茜様のお世話をしていた。その経験がとても役に立っていて侍女仲間の間でも「小さな母上」と呼ばれているほどだ。小さな、と言うのには柚羽の身丈のことが暗にかけられている。 …でも。 以前と変わらず、人なつっこい笑顔で接してくる彼が、この頃しっくりこない。自分の中で形にならない想いが渦巻いている。それを外に出せないままだ。 いつも近くにいて、柚羽の説明を何度も聞いている瑠璃であってもこんな風に誤解してくる。あの誘いは逢い引きでも何でもなく、ただの花見への誘いだ。人混みの中でひときわ目立つこの赤毛を見つけて歩み寄っただけのこと。 そして、それを告げたくても告げられないままでいる柚羽の心内を。 瑠璃が言っていることは本当だろうか? 余市が私を…特別なまなざしで見つめているって? 誰から見ても明らかなほど…。真実なら、確かめてみたいと思う。でも出来ない…だって、そんなことをしたら、期待してしまう。それだけは嫌だ。 余市は気付かない。妹のように慈しんで、接している幼いばかりの娘がどんなに自分を想っているか。誰にも告げられぬ想いを抱いて、どんなに胸を痛めているか。 …気付かなければ、良かった。この気持ち。 ただの顔なじみとして、家族にも似た存在としてずっと傍にいれば良かったのに。お互いの全てを知り尽くしている。それが時として見えない鎖になって、想いを閉じこめてしまう。 「柚羽様?」 「…あ、ごめんなさい。ちょっと、ホームシックかも? いきなり鷺百合の話なんかされたから…」 半分嘘で、半分本当。 今年の正月は秋茜様がご懐妊の兆しで体調が悪く、西南に戻れなかった。1年のほとんどを離れて暮らしてはいても柚羽にも親や兄弟がある。仕方ないとは思いながら、寂しかった。でも自分はいいから戻っておいで、と言われても、苦しんでいる女主人を置いては戻れない。このときも同様に留まった余市の存在が柚羽を慰めてくれた。器用に西南風の正月飾りを作り、食材を用意してくれる。それでささやかにふるさとの新年を祝った。懐かしい故郷の話をしながら、祝いの酒でほんのりと頬を染める余市に心から感謝していた。 「柚羽様、もっと余市様に甘えられたらよろしいのに…」 南所の前まで来て、ついと足を止めた。 「あ、私…少し秋茜様のいらっしゃる居室(いむろ)に寄ってくるわ…ご様子を伺ってくるようにと多奈様に言われてたの」 「あらそう、じゃあ、私は先に戻りますわ」
「あ、柚だ!! 柚〜〜〜〜っ!!」 「おいたをなさっていませんか? 春霖様…」 「ええ〜僕はいい子だよっ! そうでしょう?」 「ねえ、柚! 遊ぼう〜今、雪はお昼寝でつまんないんだ。遊んで…!!」 「はいはい」 「柚も、若様と遊びたいのですが。今はお務めの最中です。秋茜様のご様子を伺いに参ったのですの。…春霖様も御母君の御部屋に参られますか?」 おなかにいらっしゃるのは3人目の御子になる。でも柚羽の女主人である秋茜は毎度のことながら妊娠中の体調が優れない。もともと丈夫な体質でないので、仕方ないのかも知れないが。乳母のお務めも休みがちになっていた。もっとも若君様の御部屋には上の姫君の乳母様でいらっしゃる多奈様がおられる。年若い柚羽達のような侍女もたくさんいる。無理はなさらずにお休み頂くことにしていた。 「…柚羽、気を遣っていただいて。申し訳ないわね…」 「お方様、こちらのことは御心配なさらないで…ゆっくりとお休み下さいませ。大事なお体なのですから」 自分の横顔をじっと見ていた秋茜が何とも言えないため息を付いたのを感じて、柚羽はそちらに向き直った。 「…あの、お方様…何か?」 目の前の人がふわりと微笑んだ。 「あなたも。いつの間にか大人びて…すっかり娘らしくなったのね。私の所に初めて来た頃はまだ本当に女の童で、…幼いばかりだったのに」 「…もう、私に仕えて3年…4年になるのかしら? 当たり前なのにね…私としたことがうっかりしていたわ」 「お方様?」 「この前から、殿と話しているのだけど…あなたにもそろそろ…良き伴侶を見つけてあげなくてはね」 「…え?」 「あなたに心に決めた御方がいらっしゃるのなら、それでいいでしょう。そうでなければ殿にも心を砕いて頂いて、これはという方を見つけていただくわ。どう? 柚羽は西南に戻りたい? それともこちらにいてくれる?」 「……」 頭が真っ白になって。口元が空を切るばかり。そんな柚羽の耳元に元気な声が響いてきた。 「駄目だい!! 母上〜柚は僕がお嫁さんに貰うの!! 誰にもあげちゃ駄目〜〜〜!!」 「…あら、まあ…」 「好かれてしまったわねえ…柚羽。それでは春霖も候補に入れなくてはね…」 「…はい」 …もう、4年…。 長い時間だったと思うし、あっという間だったとも思える。この女主人との時間。それはそのまま、他の誰でもない、余市との時間の長さだった。
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