…春の終わり。時折、蒸し暑くて汗ばむ陽気。「西南の集落」大臣家の重臣・三本の柱のひとつ、雷史(ライシ)様の御家の領地に初めて足を踏み入れた。11の初夏であった。
見渡す限りに咲き乱れる、花花花…ここに来る前に一度だけ訪れた西南の大臣、邇桜(ニオウ)様のお屋敷もそれなりに素晴らしいしつらえで田舎育ちの柚羽(ゆずは)には目がつぶれそうだった。でもここはさらに素晴らしい。邇桜様が、柚羽のお仕えすることになった秋茜様に対し、嫁ぐ御家の庭のすばらしさを事細かに語っていた。その言葉をお側に控えて聞いていたが、実際に目の当たりにした風景はその言葉の上を行くものだった。 慣れない地での第一日目はいきなり婚礼の儀。どうしたらいいのか分からないままであたふたしていた。四方八方を見ても知らない人ばかり。その上、お仕えする秋茜様とも昨日初めてお逢いしたばかりだった。田舎町の職人の家に育った柚羽はきらびやかな婚礼衣装を前にしても着付けの順番すら分からない。 目の回るようにめまぐるしい宴が終わって、新しく与えられた居室(いむろ)に下がってから。婚礼の夜の特別の寝着に装いを改めた秋茜様のもとに夫君になられた雷史様がいつになっても訪れないことに不安になった。 婚儀の夜から3日間は、新妻の元に通うのがこの地の殿方の風習だった。それなりの高貴な身分の方は、本妻の他に側女(そばめ)と呼ばれる女子を囲うのが当たり前だ。側女であっても子を産めば、それなりの地位が与えられる。一生を遊んで暮らせるほどの。貧しい暮らしの柚羽にはピンとこない話ではあった。自分の父親は母の他に妻はない。大きくもないささやかな住まいで家族が身を寄せるように暮らしていた。 秋茜様の方は相変わらず、淡々としていらっしゃる。高貴な女性とはかのような御方のことか。燭台の淡い光に浮き立つ綺麗な輪郭。 奥の居室の表は夜が更けて、涼しげな風が吹いていた。新月に近いのか、遙か上空の陸の人間が「海面」と呼ぶ天井は墨色に煙っている。今日1日の疲れに額の辺りがクラクラする。眉間に指の先をぐっと当てた。自ずと俯きがちになる。侍女の装いであるうす水の装束がふわりと揺れた。 …どうして、雷史様はいらっしゃらないのであろう? 何か手違いでもあったのだろうか…宴の続いている御館におたずねした方がいいのか。そこまでする必要はないのか。柚羽には全く分からなかった。涼風に吹かれながら、あれやこれやと思いあぐねていると…ふいに向こうに茂みでがさりと物音がした。 …雷史様が、いらっしゃったのだろうか? あまりの驚きに声も出ずに、ただ歩んでくる人影を見ていた。自分の間近にそれが寄ると、柚羽の背後の居室から漏れ出る灯りで段々姿が明らかになっていく。 水干に、小袴。位の低い下男の装束。手に灯り取りの燭台を持っている。下働きの者たちの役職にも色々ある。女子でも柚羽は「侍女」と呼ばれるがもっと下の「下女」と呼ばれる者もいる。見慣れた庶民の服装を見て、柚羽はホッと胸をなで下ろした。しかし、男の方はこちらをじろりと一瞥する。その視線がとても冷たかった。切れ長の目がそう見せていたのかも知れない。 「…こちらの。秋茜様の侍女にお取り次ぎを願いたい」 「あの、お方様に…何か?」 でも、男の用は面倒くさそうに腕を組んでいる。 「早く。女の童(めのわらわ)では役にたたん、侍女殿にお出で頂きたい」 「…女の童、じゃないわ。私が秋茜様の侍女です!! あなた、失礼よ…そのいい方」 「お前が…侍女? 嘘だろ? ほんの子供じゃないか…大臣様も何を考えているんだか。これじゃ、ご主人様がお怒りになるのも無理ないか」 「何よ?」 「女、お前…侍女って何するのか知っていてここに来たのか? そうじゃないよな…本当に、お笑いだ」 「…その気にもならないほどの、幼子をよこしたと言うことか。大臣様もご冗談がお好きだな…」 「お前、本当に何にも知らないだろ?」 「…どういうことよ?」 「あのな、侍女って奴は…自分の女主人の代わりにご主人様のお相手をするものなの。ウチのご主人様は女好きだからな…それくらい当たり前だと思っていたんだけど…さすがに子供に手を出す趣味はないだろうな」 「…え…っ?」 「ほおら、だから、お前は女の童なんだよ。そんなことも知らないでお務めに上がったなんてな。普通、女子はそれを期待して侍女になるんだ。上手い具合にお手が付いて可愛がって貰えれば贅沢な暮らしが出来るというもんだからな…」 「ななな…何よ!? 私が…子供だと思ってそんなこと…からかわないでよ!!」 …嘘よ、嘘。そんなこと言われてない。ただ、秋茜様のお世話をするために自分はお仕えしたんだ。 柚羽は男女の夜のことも、実は昨日聞いたばかりだった。田舎に暮らしていた頃はそんなこととは無縁だった…でも、侍女になるに当たっては知らないままで済ませられるものではない。ご夫婦の夜の睦み合いが終わった後、頃合いを見て湯桶と手ぬぐいを用意する。季節によっては着替えの寝着もご用意して、汚れた衣を片づける侍女の大切な仕事のひとつ。…それを聞いただけで目が回りそうだった。 柚羽の心中を察したように。哀れんだような、でも馬鹿にした視線が男から注がれる。そして、打ちひしがれる柚羽に追い打ちをかける。 「御館様の今のお相手は…まだ14の侍女だよ、ほとんど女子になったばかりの年若さだ。お前だって、今は無理でもあと――…」 「…やめてよっ!!」 「そんな、汚わらしいこと、言わないで!! やめてよ!!」 信じられない、今日、初めてお目にかかった御館様。雷史様の御父君…その御方は柚羽の父親よりも年上に見えた。腹の出た中年の男性。その視線が自分を意地汚く見ているのを何となく感じていた。正直、近寄りたくない人種だった。ああ言う人間でも? もしお召しがあれば…私が? 柚羽の膝ががくっと落ちた。今日1日の疲れと緊張がはじけて、最悪のかたちでどっと吹き出してくる。何て意地の悪い人なのだろう、こんな時にそんなこと、言わなくたって…。 「…ま、安心しろよ」 「お前みたいな子供に手を出す奴は、海底の国中探したっていやしないよ」 ぽん、と頭の上に手のひらが置かれて。優しくなでられた。柚羽は大きくかぶりを振って、それを払いのけた。それからキッと視線をきつくして男の方を見る。彼は弾かれた手をもてあましながら、少し驚いた顔をしていた。 瞬きを、ひとつ、ふたつ。 その後、何にもなかったように腰を上げる。それから少し斜に構えて、静かに言った。 「…今日はこちらに雷史様は来ない。雷史様は美祢(みね)様とお休みになられてる」 柚羽が顔を上げたとき。男の背中はもう遙か闇の中に消えようとしていた。
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主人の訪れない退屈な生活の中で、それでも優しい女主人は柚羽を気遣い、装束の手入れやこの地の習わし、はたまた裏山に生えている山菜の調理法まで教えてくれた。柔らかい口調で決して押しつけることなく。柚羽はそんな時間が大好きだった。 雷史様の御家族の御膳は一括して御館の御台所で作られる。それは雷史様の御正室様の秋茜様も例外ではなかった。下働きの使用人はこれまた、それを配給される場所がある。膳は主人と侍従では全く異なっていた。でも柚羽にとっては使用人の食事であっても毎日がご馳走だった。膳が配られる時間が楽しみだった。
柚羽たちの暮らす居室は敷地の一番奥だ。周囲に他の居室もない。御館から遠ざかるに従って、顔なじみになった侍女たちもまばらになる。柚羽はてくてくと長い道のりを歩いていた。すると、後ろからざくざくと地を踏む音がする。 「…また、あなたなの」 「何だか、お久しぶりね」 「…ああ、いいわよ。こんなの何でもないんだから…あなただって、お務めがあるでしょう?」 「もう、あちらの居室にお食事は運んだ、今から奥の居室に行くところだったんだ」 「今夜もいらっしゃらない、と仰るならそれでいいわ。もう帰って、目障りだわ」 「…もう!! いいって、言ってるでしょう? しつこいわねっ!」 「今日まで。大臣家のお務めだったんだ、俺も雷史様に従って留守だったから」 「何か、変わったことはなかった?」 「…別に」 「そう、ならいいんだ」 「じゃあ、また」
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…どうしよう…。 柚羽は大きな木の根元に膝を抱えて座り込んだ。夏の盛りは夕餉の膳を下げてもまだ明るい。たまには顔なじみの侍女たちと語らうこともある。少し位、遅くなっても構わなかった。 視線の先に、雷史様の居室が見える。その場所は知っている、お訪ねしたこともある。初めの頃、美祢様に呼び出されたのだ。愛妾にわざわざ挨拶に行くのは御正室様の侍女としてはあまり誉められた行為ではなかった。でも、あの秋茜様が敵わないほどの女子様にちょっと興味もあったのだ。柚羽よりもいくらか年上のその御方は白粉の匂いがぷんと匂っていて印象的だった。確かにお美しい方だった。でも秋茜様よりも秀でているとはどうしても思えない。言葉もつんつんしていて怖かった。
ここの場所を選んだのは無意識だったのだと思う。そうだと思いたい。でも、柚羽はやがて、その居室から膳を持って出てきた人影をじっと目で追っていた。 「あれ…どうした?」 「……」 「お、おい? どうしたんだよ…待てよ、…困ったな」 「ちょっと、…ちょっと待ってろよ? これ、置いてくるから」 そう言うと、飛ぶように走り去る。そして、びっくりするくらいの速さで戻ってきた。柚羽は泣いてしまった自分が恥ずかしくて、重ねの袖でごしごしと顔を拭っていた。 「…ほらよ」 「伽梨(かり)の実、食べ頃だと思うけど?」 「ねえ、これ。どこから頂いたの? …こんな高価なもの…」 「お社の境内に御神木があるんだよ、そこの奴」 「…えっ…?」 「もう、お前も共犯。同じことなら、おいしく頂きなよ。大丈夫、気付かれやしないって…」 「うん…」 男はずっとこちらを見ていた。そして、柚羽がふっと微笑むのを確かめてから、ようやく口を開く。 「…で、どうした。お前の女主人にでも…苛められたか?」 「…山神様の…お祭りの御供物をお納めするようにって。昨日、御館様の御正室様の侍女の方から…申しつかったの」
その御供物は今日の夜中までにお納めしなくてはならない。山のものと河のものそれらをまとめるところまでは聞いた。でもそれらを飾りの帯で綺麗に飾り結びにして献上するという。「そんなこと、竜王様の御館に上がられていたかの方には造作もないこと、まさかご存じないとは言わせませんわ」…そう言われてしまった。 あんまりにも自分が不甲斐なくて。そのくらいの知識は侍女として知っていなければいけなかったのに…申し訳なくて仕方なかったのだ。
男はそんな柚羽の話を黙って聞いていた。その後、口の中で、「意地の悪いことだな」と小さく呟いた。 「あのね、山神様の御供物は…この御家の特別のものだから、外部の人間が知らないのは当然だよ。分かった、俺が作ってやる。ちょっと待っていて」 ひょい、と腰を上げるとまた早足に居室に消えていく。程なく両手に材料を抱えて戻ってきた。 彼は川魚と山菜と木の実を綺麗に半紙にくるむと、その上から5色の細帯を回す。いくつか指を使って輪を作ると、それを器用に形作っていく。高級な技を見るように柚羽はその作業に見入っていた。 「…なあ、お前、名前なんて言うんだ?」 「え?」 「だってさ、いつまでも『あなた』『お前』じゃ、何か変だろ? …ほら、出来た」 「これを、早く御館様の所までお届けしておいで。一緒に飾られている他の御供物も見るといい。絶対よそに引けを取っていないから」 「……」 「あの…、このことは内緒にして貰える? お方様が悪く言われたら申し訳ないから…」 「あのさ、俺は雷史様のお付きでお前は秋茜様の侍女。御二人はご夫婦なんだから…このくらいのことは当然のことだよ。別に案じることもない」 尚も不安げにしている柚羽にふふっと笑みをこぼす。兄が妹にするような親密な表情。 「俺は、余市(ヨイチ)。大丈夫だよ、これからも困ったことがあったら何でも聞いて。俺たちはいわば、運命共同体なんだから…で、名前は?」 何だか、最初の夜とはだいぶ違う感じだ。柚羽はいくつか瞬きしてから、小さい声で言った。 「私は、柚羽。柚羽です、…余市様」 「ふうん、柚か」 「まだ仕事が残ってるんだ、送れないけど大丈夫? …それから、余市様なんてかしこまらなくていいよ、余市って呼んで」 「え…」 「それから、さっきの伽梨の実のことは内緒だよ。いつかのお詫びだから」 「あの晩さ、雷史様があんな風だから俺、御館様にきつく叱られてさ…虫の居所が悪かったんだよな」 ふたりの間を夕闇の気が帯のように流れていく。薄藍の…柔らかい流れ。柚羽の肩で切りそろえられた髪がふわりと舞い上がった。
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