…2…

 

 

 …春の終わり。時折、蒸し暑くて汗ばむ陽気。「西南の集落」大臣家の重臣・三本の柱のひとつ、雷史(ライシ)様の御家の領地に初めて足を踏み入れた。11の初夏であった。

 

 見渡す限りに咲き乱れる、花花花…ここに来る前に一度だけ訪れた西南の大臣、邇桜(ニオウ)様のお屋敷もそれなりに素晴らしいしつらえで田舎育ちの柚羽(ゆずは)には目がつぶれそうだった。でもここはさらに素晴らしい。邇桜様が、柚羽のお仕えすることになった秋茜様に対し、嫁ぐ御家の庭のすばらしさを事細かに語っていた。その言葉をお側に控えて聞いていたが、実際に目の当たりにした風景はその言葉の上を行くものだった。

 慣れない地での第一日目はいきなり婚礼の儀。どうしたらいいのか分からないままであたふたしていた。四方八方を見ても知らない人ばかり。その上、お仕えする秋茜様とも昨日初めてお逢いしたばかりだった。田舎町の職人の家に育った柚羽はきらびやかな婚礼衣装を前にしても着付けの順番すら分からない。
 次期竜王様の戻り女(もどりめ…一度、嫁して実家に戻った女のこと)だと聞いてきたが、女主人は線の細い控えめな性格の方だった。侍女である柚羽に対して偉ぶった態度を取ることもなく、姉が妹に教えるように自らが着付けの順番を告げる。ほとんどは1人で着られる様子だが、それでも手の届かない箇所などは柔らかい口調で助けを求める。唄うような声だった。
 お屋敷のあまたの侍女たちはそんなふたりの姿を遠巻きに見ているばかり。声を掛けてくる者もない。夫君になる雷史様はこの御家の跡取り様だと聞いていた。その御正室様の御輿入れである。もう少し礼を尽くしてもいいのではないかと思った。でも、当の秋茜様の方は気にする素振りもなく淡々としていらっしゃる。
 純白の婚礼衣装を身につけた彼女は女の柚羽から見ても、ため息が出るほどお美しかった。この御方の侍女になれたことを誇らしくさえ思える。御髪を梳いて差し上げながら、高鳴る胸を押さえるのが大変だった。

 目の回るようにめまぐるしい宴が終わって、新しく与えられた居室(いむろ)に下がってから。婚礼の夜の特別の寝着に装いを改めた秋茜様のもとに夫君になられた雷史様がいつになっても訪れないことに不安になった。

 婚儀の夜から3日間は、新妻の元に通うのがこの地の殿方の風習だった。それなりの高貴な身分の方は、本妻の他に側女(そばめ)と呼ばれる女子を囲うのが当たり前だ。側女であっても子を産めば、それなりの地位が与えられる。一生を遊んで暮らせるほどの。貧しい暮らしの柚羽にはピンとこない話ではあった。自分の父親は母の他に妻はない。大きくもないささやかな住まいで家族が身を寄せるように暮らしていた。
 行きずりの火遊びや遊女は別にして、それなりの家の女子を囲うのであれば、対処には気を遣う。三晩の通いがその最たるものであろう。ましてや秋茜様は御正室様…あまたの側女よりも高貴な御身分な御方である。いくら重臣の跡取り様とはいえ、ないがしろにしていいものではない。柚羽は慣れない侍女の装いに視線を落として、腹の底から湧いてくる憤りを堪えていた。

 秋茜様の方は相変わらず、淡々としていらっしゃる。高貴な女性とはかのような御方のことか。燭台の淡い光に浮き立つ綺麗な輪郭。
 お慰めすることも出来ず…柚羽は静かに奥の部屋を退出した。もう、これ以上張りつめた空気の中にいることは耐えられなかった。それは柚羽1人が感じていたことかも知れないが。

 奥の居室の表は夜が更けて、涼しげな風が吹いていた。新月に近いのか、遙か上空の陸の人間が「海面」と呼ぶ天井は墨色に煙っている。今日1日の疲れに額の辺りがクラクラする。眉間に指の先をぐっと当てた。自ずと俯きがちになる。侍女の装いであるうす水の装束がふわりと揺れた。
 この地の装束。小袖と呼ばれる短めの着物を上体にまとい、下は袴を身に付ける。袴は屋内では裾を踏んで進むが、外歩き用には少し裾をまくって汚れないようにする。また、高貴な御方に較べるとお付きの者は多少丈が短い。その上に重ねと呼ばれる着物を重ねる。浅黄色の袴にうす水の重ね。重ねには控えめな刺し文様が入っている。柚羽が西南の大臣家に上がると、すぐに頂いた着物である。身分の軽い者の装いであっても、田舎では見たこともない美しさ。身に付けるとふわりと軽い。上質の織物だと思った。

 …どうして、雷史様はいらっしゃらないのであろう? 何か手違いでもあったのだろうか…宴の続いている御館におたずねした方がいいのか。そこまでする必要はないのか。柚羽には全く分からなかった。涼風に吹かれながら、あれやこれやと思いあぐねていると…ふいに向こうに茂みでがさりと物音がした。
 何だろうとそちらを見ると、暗がりに影が映る。それが柚羽の方まで長く長く伸びてきて、ドキリとした。

 …雷史様が、いらっしゃったのだろうか?

 あまりの驚きに声も出ずに、ただ歩んでくる人影を見ていた。自分の間近にそれが寄ると、柚羽の背後の居室から漏れ出る灯りで段々姿が明らかになっていく。

 水干に、小袴。位の低い下男の装束。手に灯り取りの燭台を持っている。下働きの者たちの役職にも色々ある。女子でも柚羽は「侍女」と呼ばれるがもっと下の「下女」と呼ばれる者もいる。見慣れた庶民の服装を見て、柚羽はホッと胸をなで下ろした。しかし、男の方はこちらをじろりと一瞥する。その視線がとても冷たかった。切れ長の目がそう見せていたのかも知れない。

「…こちらの。秋茜様の侍女にお取り次ぎを願いたい」
 高飛車な、投げつける言葉だった。柚羽は目をぱちくりして、男の顔をじっと見た。間近に寄ってみると、まだ幼い顔立ちだ。綺麗な人形の様な顔立ちだったが、どこかもっさりとしている。柚羽よりもいくらか年が上であるようだった。

「あの、お方様に…何か?」
 この男が誰であるのかも分からない。今日1日でいっぺんにこの領内の全ての人間を紹介されたのだ。とても覚えられる量ではない。もしも御館様の御正室様が侍女の装束を着て現れたら、それに気付かないかも知れない。知らない者ばかりの中でとても心細かったが、どうにか自分に課せられたお務めはこなそうと柚羽は思った。

 でも、男の用は面倒くさそうに腕を組んでいる。

「早く。女の童(めのわらわ)では役にたたん、侍女殿にお出で頂きたい」
 そう言う男の髪は後ろでひとくくりにされていた。耳の脇に一房ずつ垂らしたそれが金茶に美しく輝きながら風に乗る。でも、その物言いにはいささかムッとした。

「…女の童、じゃないわ。私が秋茜様の侍女です!! あなた、失礼よ…そのいい方」
 精一杯の怒りを露わにして、相手を睨み付ける。だが、どうしたことだろう。対する下男は半ば呆れたように柚羽の姿を頭のてっぺんからつま先まで、目で追っていた。それから、どうしようもない声で、ため息混じりに言う。

「お前が…侍女? 嘘だろ? ほんの子供じゃないか…大臣様も何を考えているんだか。これじゃ、ご主人様がお怒りになるのも無理ないか」
 自分も子供じゃないの、と言いたかったがやめた。すごく馬鹿にされている、嫌な気分だ。何か反論したかったが、言葉が浮かばない。ふてくされてる柚羽の顔を見ていた男が、急にククッと喉の奥で笑った。

「何よ?」

「女、お前…侍女って何するのか知っていてここに来たのか? そうじゃないよな…本当に、お笑いだ」
 そう言いながら、腹を抱えて笑っている。柚羽はもうどうしようもなく嫌な気分だった。ひっぱたいてしまいたいくらいだ。

「…その気にもならないほどの、幼子をよこしたと言うことか。大臣様もご冗談がお好きだな…」
 馬鹿にした笑みをたたえながら、こちらを見る。その口元が得意そうに上向いた。それから、自分の脇の下にすっぽり入ってしまう身丈の柚羽の顔を背中を丸くかがめてのぞき見る。ぎょっとするくらい、顔が近づいた。

「お前、本当に何にも知らないだろ?」

「…どういうことよ?」
 睨み返す柚羽の頬にふっと男の息がかかった。

「あのな、侍女って奴は…自分の女主人の代わりにご主人様のお相手をするものなの。ウチのご主人様は女好きだからな…それくらい当たり前だと思っていたんだけど…さすがに子供に手を出す趣味はないだろうな」

「…え…っ?」
 柚羽は自分でも分かるくらい、全身の血の気が引いているのを感じた。

「ほおら、だから、お前は女の童なんだよ。そんなことも知らないでお務めに上がったなんてな。普通、女子はそれを期待して侍女になるんだ。上手い具合にお手が付いて可愛がって貰えれば贅沢な暮らしが出来るというもんだからな…」

「ななな…何よ!? 私が…子供だと思ってそんなこと…からかわないでよ!!」
 数歩後ずさりして。柚羽はほとんど泣き出しそうな顔になって、それでも必死で対抗していた。でも、心の中ではぐちゃぐちゃしたものがあふれかえっている。

 …嘘よ、嘘。そんなこと言われてない。ただ、秋茜様のお世話をするために自分はお仕えしたんだ。

 柚羽は男女の夜のことも、実は昨日聞いたばかりだった。田舎に暮らしていた頃はそんなこととは無縁だった…でも、侍女になるに当たっては知らないままで済ませられるものではない。ご夫婦の夜の睦み合いが終わった後、頃合いを見て湯桶と手ぬぐいを用意する。季節によっては着替えの寝着もご用意して、汚れた衣を片づける侍女の大切な仕事のひとつ。…それを聞いただけで目が回りそうだった。
 夫婦となって子を孕むと言うことは、そう言う行為を乗り越えていくものなのだ…吐き気がした。いつかそんなことが我が身に降りかかるのかと思ったら、もう女子でいるのを辞めたくなった。

 柚羽の心中を察したように。哀れんだような、でも馬鹿にした視線が男から注がれる。そして、打ちひしがれる柚羽に追い打ちをかける。

「御館様の今のお相手は…まだ14の侍女だよ、ほとんど女子になったばかりの年若さだ。お前だって、今は無理でもあと――…」

「…やめてよっ!!」
 叫んだ柚羽の両目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。叫んだ口元が大きく震える。

「そんな、汚わらしいこと、言わないで!! やめてよ!!」

 信じられない、今日、初めてお目にかかった御館様。雷史様の御父君…その御方は柚羽の父親よりも年上に見えた。腹の出た中年の男性。その視線が自分を意地汚く見ているのを何となく感じていた。正直、近寄りたくない人種だった。ああ言う人間でも? もしお召しがあれば…私が?

 柚羽の膝ががくっと落ちた。今日1日の疲れと緊張がはじけて、最悪のかたちでどっと吹き出してくる。何て意地の悪い人なのだろう、こんな時にそんなこと、言わなくたって…。

「…ま、安心しろよ」
 驚くくらい近くで、その声がした。ぴくんとして少しだけ顔を上げると、男は柚羽のすぐ傍でしゃがみ込んでいた。さんざんひどい言葉をかけておきながら、悪びれる様子もなくにやにや笑っている。

「お前みたいな子供に手を出す奴は、海底の国中探したっていやしないよ」

 ぽん、と頭の上に手のひらが置かれて。優しくなでられた。柚羽は大きくかぶりを振って、それを払いのけた。それからキッと視線をきつくして男の方を見る。彼は弾かれた手をもてあましながら、少し驚いた顔をしていた。

 瞬きを、ひとつ、ふたつ。

 その後、何にもなかったように腰を上げる。それから少し斜に構えて、静かに言った。

「…今日はこちらに雷史様は来ない。雷史様は美祢(みね)様とお休みになられてる」
 その後、小さな声で「悪かったな」と付け加えた。

 柚羽が顔を上げたとき。男の背中はもう遙か闇の中に消えようとしていた。

 

◆◆◆

 


 三晩の通い、何てもんじゃない、雷史様は半月たっても一向にこの居室にはお出でにならない。女主人の秋茜様はやはり普段通りににこやかに微笑んでいらっしゃる。夫君のお出でがないことをどう思っているのだろうか、それは怖くて聞けなかった。

 主人の訪れない退屈な生活の中で、それでも優しい女主人は柚羽を気遣い、装束の手入れやこの地の習わし、はたまた裏山に生えている山菜の調理法まで教えてくれた。柔らかい口調で決して押しつけることなく。柚羽はそんな時間が大好きだった。
 御館様は小さな柚羽だけでは心許ないと、もっと侍女を付けるように計らってくださったらしい。でも当の秋茜様にやんわりと断られてしまった。あまり人の中に入るのは得意な方ではないらしい。ご自分でほとんどのことはなさるし、たまに手の必要なときは柚羽がいれば十分だった。柚羽もそんな秋茜様と暮らす毎日がとても心地よかった。

 雷史様の御家族の御膳は一括して御館の御台所で作られる。それは雷史様の御正室様の秋茜様も例外ではなかった。下働きの使用人はこれまた、それを配給される場所がある。膳は主人と侍従では全く異なっていた。でも柚羽にとっては使用人の食事であっても毎日がご馳走だった。膳が配られる時間が楽しみだった。
 この膳の上げ下げは柚羽の役目だった。他に侍女がいないのだから仕方ない。海底の空気よりも重い気で満たされた空間。そこに「雨」と言うものはない。蒸し暑かったり、肌寒かったりすることはあっても、あまり天候には左右されない。
 それでも小さな柚羽に往復半刻(1時間)近い道のりはきつかった。持ちやすい膳なので、秋茜様の分と自分の分を重ねて持つ。御台所で見たら、すごい人は5つくらい重ねている。やはりどんなことにでも達人は存在するのだ。

 

 柚羽たちの暮らす居室は敷地の一番奥だ。周囲に他の居室もない。御館から遠ざかるに従って、顔なじみになった侍女たちもまばらになる。柚羽はてくてくと長い道のりを歩いていた。すると、後ろからざくざくと地を踏む音がする。

「…また、あなたなの」
 柚羽は振り向くと同時に、冷たい声を出した。

「何だか、お久しぶりね」
 目の前の男は、いつも通りにひょうひょうとして、口元でふっと微笑むと柚羽の手から重ねた膳を取り上げた。

「…ああ、いいわよ。こんなの何でもないんだから…あなただって、お務めがあるでしょう?」
 柚羽は慌ててこう言うが、そう言うとき、この男は意地悪く膳を高く持ち上げてしまう。柚羽の手に届かないところまで。恐ろしいほどの身長差があるのだ、どんなに手を伸ばしても届くことはない。最初のうちは躍起になって取り返そうとしたが、そのうち無駄な行為だと気付いた。

「もう、あちらの居室にお食事は運んだ、今から奥の居室に行くところだったんだ」
 あちら、と言うのは…雷史様が美祢様という愛妾と暮らす所だ。雷史様には数人の側女がいらっしゃるらしいが、そんな中でも乳兄弟であった美祢様はお気に入りらしい。ほとんどその寵を独占していた。この下男は雷史様と美祢様お二人分の膳を居室に届ける。

「今夜もいらっしゃらない、と仰るならそれでいいわ。もう帰って、目障りだわ」
 奥の居室にいらっしゃらないのは雷史様で、この男のせいではないのに。柚羽は誰にも向けられない憤りをぶつけていた。男はそんな柚羽を見て、くすりと笑うとそのまま大股に膳を持って歩いていく。

「…もう!! いいって、言ってるでしょう? しつこいわねっ!」

「今日まで。大臣家のお務めだったんだ、俺も雷史様に従って留守だったから」
 柚羽が慌てて追いかけると、男は何ともない感じで背中を向けたまま言った。

「何か、変わったことはなかった?」

「…別に」
 柚羽は尚もむくれながら答えた。秋茜様は…西南の大臣様が直々に雷史様にお与えになった女子様ではないか、そうならばもう少し礼を尽くしてもいいようなものを。

「そう、ならいいんだ」
 男はくるりと振り返ると柚羽に膳を戻す。もう目の前は奥の居室だった。

「じゃあ、また」
 そう言うときびすを返して夕闇の中に去っていく。水色の水干の袖がゆらゆらと舞う。ああ、また髪をあんなにいい加減に結んで。柚羽はしばし、その背中を見つめていた。

 

◆◆◆

 


 その日。いつものように夕餉の膳を返しに行って。その足ですぐに奥の居室に戻ることも出来ずに、柚羽は辺りをうろうろしていた。その表情は悲しげで、何かに困り果てているのは明らかだ。

 …どうしよう…。

 柚羽は大きな木の根元に膝を抱えて座り込んだ。夏の盛りは夕餉の膳を下げてもまだ明るい。たまには顔なじみの侍女たちと語らうこともある。少し位、遅くなっても構わなかった。

 視線の先に、雷史様の居室が見える。その場所は知っている、お訪ねしたこともある。初めの頃、美祢様に呼び出されたのだ。愛妾にわざわざ挨拶に行くのは御正室様の侍女としてはあまり誉められた行為ではなかった。でも、あの秋茜様が敵わないほどの女子様にちょっと興味もあったのだ。柚羽よりもいくらか年上のその御方は白粉の匂いがぷんと匂っていて印象的だった。確かにお美しい方だった。でも秋茜様よりも秀でているとはどうしても思えない。言葉もつんつんしていて怖かった。

 

 ここの場所を選んだのは無意識だったのだと思う。そうだと思いたい。でも、柚羽はやがて、その居室から膳を持って出てきた人影をじっと目で追っていた。

「あれ…どうした?」
 大股にこちらにやってくる。空の膳は片手で軽々と持って。

「……」
 柚羽は何も答えることが出来なかった。でも、その人の顔を見た途端、張りつめていたものがはじけてしまう。気が付くとぽろぽろと涙がこぼれた。

「お、おい? どうしたんだよ…待てよ、…困ったな」
 男は困り果てている。いくら人目に付かない木陰でも誰かに見られたらまるで自分が泣かせたみたいじゃないか。そう思ったのかも知れない。

「ちょっと、…ちょっと待ってろよ? これ、置いてくるから」

 そう言うと、飛ぶように走り去る。そして、びっくりするくらいの速さで戻ってきた。柚羽は泣いてしまった自分が恥ずかしくて、重ねの袖でごしごしと顔を拭っていた。

「…ほらよ」
 ぽん、と手の上に置かれた。オレンジ色の丸い果実。

「伽梨(かり)の実、食べ頃だと思うけど?」
 そう言いながら、自分も袂から取りだしたひとつを皮のまま口に運ぶ。かりっと軽い音がして、果実に歯形が付く。それを目で追いながら、柚羽は唖然としていた。

「ねえ、これ。どこから頂いたの? …こんな高価なもの…」
 伽梨の実はもともと「北の集落」の 産物。ここ西南では栽培が難しいとされている。男はそんな柚羽の顔を楽しそうに眺めてから、そっと耳打ちした。

「お社の境内に御神木があるんだよ、そこの奴」

「…えっ…?」
 それって、どういうこと? 御神木の果実なんて採っていい物ではない。柚羽が口をぱくぱくしていると、男はもう一口かじってから、くすくす笑った。

「もう、お前も共犯。同じことなら、おいしく頂きなよ。大丈夫、気付かれやしないって…」

「うん…」
 宝石のような美しい色。顔を寄せると何とも言えないかぐわしい香り。甘い誘惑に耐えきれず、一口かじった。気付くとタネを残してすっかり平らげていた。

 男はずっとこちらを見ていた。そして、柚羽がふっと微笑むのを確かめてから、ようやく口を開く。

「…で、どうした。お前の女主人にでも…苛められたか?」
 じっと覗き込む深い緑の瞳。吸い込まれそうだなと思いながら、ゆっくりとかぶりを振った。そして自分の手を見ながら、たどたどしく口を動かした。

「…山神様の…お祭りの御供物をお納めするようにって。昨日、御館様の御正室様の侍女の方から…申しつかったの」
 ぽつんと呟いた自分の声が寂しげだ。そう思いながら、柚羽は説明した。

 

 その御供物は今日の夜中までにお納めしなくてはならない。山のものと河のものそれらをまとめるところまでは聞いた。でもそれらを飾りの帯で綺麗に飾り結びにして献上するという。「そんなこと、竜王様の御館に上がられていたかの方には造作もないこと、まさかご存じないとは言わせませんわ」…そう言われてしまった。
 でも居室に戻って秋茜様に尋ねると知らないと仰る。だからといって、顔なじみの侍女に聞けばすぐに噂になってしまう。大好きなお方様が悪く言われてしまうのだ。そんなことは嫌だった、絶対に…でも柚羽1人の力ではどうすることも出来なかった。

 あんまりにも自分が不甲斐なくて。そのくらいの知識は侍女として知っていなければいけなかったのに…申し訳なくて仕方なかったのだ。

 

 男はそんな柚羽の話を黙って聞いていた。その後、口の中で、「意地の悪いことだな」と小さく呟いた。

「あのね、山神様の御供物は…この御家の特別のものだから、外部の人間が知らないのは当然だよ。分かった、俺が作ってやる。ちょっと待っていて」

 ひょい、と腰を上げるとまた早足に居室に消えていく。程なく両手に材料を抱えて戻ってきた。

 彼は川魚と山菜と木の実を綺麗に半紙にくるむと、その上から5色の細帯を回す。いくつか指を使って輪を作ると、それを器用に形作っていく。高級な技を見るように柚羽はその作業に見入っていた。

「…なあ、お前、名前なんて言うんだ?」

「え?」
 息を飲んで男の手元を見つめていた柚羽は、いきなり問いかけられて面食らった。すると、彼はこちらを向いて、ちょっとはにかんだ。その表情が、年齢相応に…何だかとても身近なものに思えた。

「だってさ、いつまでも『あなた』『お前』じゃ、何か変だろ? …ほら、出来た」
 そう言って、柚羽の前に完成したばかりの自信作を差し出す。途中は大輪の花のようだと思ったが、出来上がってみると大きく羽を広げた鶴の姿になっていた。

「これを、早く御館様の所までお届けしておいで。一緒に飾られている他の御供物も見るといい。絶対よそに引けを取っていないから」

「……」
 柚羽は手渡されるままに受け取ると、信じられない表情で男を見つめた。それから、ふっと表情を暗くする。

「あの…、このことは内緒にして貰える? お方様が悪く言われたら申し訳ないから…」
 悲しそうに俯いて、唇を噛む柚羽の頭の上に、ぽんと大きな手のひらが乗る。ハッとして顔を上げると、こちらを覗き込んでいる人と目が合った。人なつっこそうな笑顔。

「あのさ、俺は雷史様のお付きでお前は秋茜様の侍女。御二人はご夫婦なんだから…このくらいのことは当然のことだよ。別に案じることもない」

 尚も不安げにしている柚羽にふふっと笑みをこぼす。兄が妹にするような親密な表情。

「俺は、余市(ヨイチ)。大丈夫だよ、これからも困ったことがあったら何でも聞いて。俺たちはいわば、運命共同体なんだから…で、名前は?」

 何だか、最初の夜とはだいぶ違う感じだ。柚羽はいくつか瞬きしてから、小さい声で言った。

「私は、柚羽。柚羽です、…余市様」

「ふうん、柚か」
 彼…余市はさっと立ち上がると、小袴を叩いた。

「まだ仕事が残ってるんだ、送れないけど大丈夫? …それから、余市様なんてかしこまらなくていいよ、余市って呼んで」

「え…」

「それから、さっきの伽梨の実のことは内緒だよ。いつかのお詫びだから」
 そこまで言うと、彼は言いにくそうに首をすくめた。

「あの晩さ、雷史様があんな風だから俺、御館様にきつく叱られてさ…虫の居所が悪かったんだよな」

 ふたりの間を夕闇の気が帯のように流れていく。薄藍の…柔らかい流れ。柚羽の肩で切りそろえられた髪がふわりと舞い上がった。