柚羽自身はことの推移が飲み込めないでいたが、何故かそれから程なくして…雷史様は奥の居室に居着くようになられた。最初の日、いきなりおみ足に深い刺し傷を負っていらっしゃったのには驚いた。その怪我のせいでここにいるのかと思ったが、包帯が取れても、美祢様との居室に戻るご様子もない。 婚儀の朝に最初にお目にかかった雷史様は気むずかしくて、苛立っている怖いお人だと思った。確かに噂通りにお美しくて、身丈もあり、体つきも逞しい。大臣様の重臣の息子様でなくても、そのお姿を見れば、女子のほとんどは心を奪われてしまうだろう。 だから、着流しのくだけたお姿でまみえる素顔のご主人様に、柚羽は意外な気がした。軽口を叩いて、こちらを笑わせたりする。子供のような綺麗な瞳でお務めで出掛けた様々な土地のお話をして下さる。時々、こちらを何気なく見られると、ドキドキしてしまった。
◆◆◆
季節は夏の盛りを過ぎようとしていた。そんな夜半。辺りはひっそりして、点在する居室の灯りも儚くなってきた頃。
「…あれ? 柚?」 「…余市」 「どうしたの?」 「何か失敗した? お方様に叱られたの?」 「…じゃあ?」 しばらく、隣りの人によりかかったまま、流れるものをそのままにしていた。ぽろぽろとこぼれ落ちるものが自分の重ねに、余市の水干に染みこんでいく。 ひんやりとした天井からは無数の金の柱が注いでいる。水面の上は満月と呼ばれる頃なのか。天の向こうに違う世界があることをおとぎ話で知っていた。そこは自分たち海底の人間にとっては禁の場所だった。美しく形成された柱は気の流れにゆらゆらと揺らめく。幻想的な美しい情景だった。 柚羽が黙っている間は余市も次の言葉を発しなかった。このまま沈黙の中にいれば、夜明けまでこうして座っているのかも知れないとすら思えた。 「…家に…帰りたいな…」 「田舎の…家から少し歩いたところに大きな森があるの。そこに行くと、1年中…それは見事な泡雨が見られるわ。森中が真っ白な泡に包まれて、向こうが見えないほど。小さい頃は面白がってそこに入っては、良く迷子になって叱られて…」 記憶をなぞる。ここの地に来てからは全てが珍しくて、そんなことを思い起こす事すらなかった。小さな田舎の集落の情景がありありと浮かぶ。人も少なく、近所のものも皆が家族のような付き合い。蔓を編んだり、木材を加工したりして、ありふれた消耗品を産出する山間の故郷だった。 泡雨、と言うのは海底の国に見られる自然現象だ。植物の呼吸により、普通より濃い酸素が排出される。それが小さな珠…気泡を形成する。少ない数ならば、ぽつんぽつんとはじけて周囲に溶けていく。しかし、春から夏にかけての成長期には周りの気にまかないきれないほどの気泡が次から次へと排出されていく。それが留まることもなく天に昇っていく。産み出されては解き放たれる気泡の粒が遠くから見ると白い流れに見えてくる。この地ではそれを「泡雨」と呼んだ。陸の地での「雨」とは逆に昇っていく雨ではあるが。もちろん、柚羽は落ちてくる雨など知らなかった。それは余市にしても同じ事である。 「柚は…きっと温かい家庭に育ったんだろうな」 「そうかな? 普通の田舎の家だわ。小さくて、兄弟がたくさんいて…」 「うん、でも…柚は可愛がられていたんだよ?」 「…どうして? そんなことが分かるの?」 「どうしてって…柚は家の都合でこうしてお務めに出されたんでしょう?」 「うん…」
去年のこと。ひどい砂嵐で故郷の山林が大きく崩れた。もう切り出すばかりになっていた樹木が根こそぎ使い物にならなくなって。どの家も男が働きに出たり、娘たちが奉公に出たりした。
「こういう話をすると、柚がまた怖がるから嫌なんだけどさ…」 「普通ね、そう言う経緯で若い娘が奉公に出されるのは…宿所(しゅくじょ)が多いんだよ?」 「宿所…?」 街道沿いに点在する宿場。そこには土産物屋や見せ物屋…そして様々な宿所と呼ばれる宿がある。柚羽も故郷からここまで出るまでに幾つもの宿所に滞在した。 「ある一定の身分の女子が奉公に出るのは行儀見習いだ、でも…柚のような場合は…最初は下働きでも、お客が取れるようになれば、そう言う仕事をするんだよ」 「え…」 「そう言うお務めなら…柚の家が今回受け取った金の10倍は頂ける。娘を持った親なら、そうするのが常だよ。俺だってそう言う家をたくさん見てきている。柚は信じられないだろうけど…世の中ってそう言うものなんだ」 柚羽は唇を噛んで、そのまま俯いてしまった。別に余市の言葉に気を悪くしたわけではない。彼は自分に真実を教えてくれているのだ。最初は分からなかった、でもいろいろと知っていくうちに、彼が柚羽にひとつひとつ噛んで含めるように丁寧に教えてくれているのだと気付いた。 「でも、柚の両親はそうしなかったでしょう? そして、柚もそんな家に帰りたいなと思うんだ。幸せなことだよ…戻る家があると言うことは」 「…余市…?」 それきり、彼は黙ってしまった。
後になってから、柚羽は人づてに聞いた。余市はこの領地下の里出身である。なかなかに大きな家だったらしい。しかし、両親が亡くなり、跡取りの彼が幼年であったため父親の弟、つまり余市の叔父に当たる人が後を継いだ。余市がそれなりの年齢になったら代を譲ることを条件に。 「そんな時、俺を拾ってくれたのが雷史様なんだ」
また、しばらくの間、ふたりは無言で気の流れを見つめていた。手のひらに気泡を受けて、余市がポツリと言う。 「名家に侍女としてお勤めに出れば、きちんと作法を身に付けられるでしょう? 別に偉い人の側女になるだけが取るべき道ではないよ。それなりの家に縁づけて貰えることも多いから…」 その言葉に勇気づけられて、柚羽は少し微笑んだ。それは余市に対する「ありがとう」の気持ちだった。それから、しばらく頭の中で言葉を探してから…ゆっくり話し出した。 「…余市が、最初に言ったよね? 侍女は…お召しがあればお屋敷の方のお相手をすることもあるって…」 「柚…」 気が流れて、柚羽の重ねの袖が流れた。引っ張られる感触…自分の意志ではどうにも出来ないうねりを感じる瞬間だ。重い袖…まだなかなか慣れなかった。 「私ね…」 「御館様だったら…そんなの絶対に嫌だって思うけど…、雷史様だったら、ご主人様だったら…いいかなって、思うの」 余市の瞳の奥が、ふうっと深い色になる。その後、すぐにくすりと微笑んだ。それを見た柚羽は慌てて眉をひそめた。 「あ、内緒よ? 絶対に…絶対に…誰にも言わないで」 「言わないよ?」 そう言う余市の目が細くなるから、柚羽はちょっと不安になる。また泣き出しそうになった頭の上にぽんと乗った大きな手。そうやって上から押されると身丈が伸びなくなりそうだからやめてよといつもなら言うのだが…今日は払いのける気にもならない。そのままふっと目を閉じた。 「でもね…こうして、おふたりのお世話して…やだな。閨に…湯桶を持っていくと…たまらない気持ちになって…」 目の前に、余市の胸がある。水干の淡い色。のっぺりした生地は簡素でちょっとカサカサする。雷史様の御衣装の手触りとは全然違う。それをきゅっと握りしめて、すうっと額を押し当てた。くっつきたいと言うよりは…表情を隠すために。 「どうして、私…もっといい…ご主人様の御相手になれるような家に産まれなかったのかしら? そして、お方様よりも早く御輿入れしたかった…」 「柚…」 「でも、ご主人様は仰ったんでしょう? 柚を側女にしてもいいって…」 「でもっ…ご主人様は…お方様の夫君だもの…私はお方様をお慕いしているの。お方様のものを取るなんて、出来ない…っ…」 柚羽の心の中で。雷史様への想いが大きくなるに従って…それを叶えてはいけないと言う心が生まれて。何ともやるせない葛藤がせめぎ合っていた。お二方には仲良くなさって欲しい、でもそうすると心が割れそうで。 こんなこと考えちゃいけないと思うのに…思わずにいられない。口惜しくてならなかった。 「…柚…」 「駄目だよ、あんまり泣くと心が溶けちゃうよ?」 「…そうだね…」 「ごめんね…こんな話、面白くないよね。分からないだろうし…」 ふたりの間に少し空間が生まれたな、と思ったとき、余市が大きくため息を付いた。胸の中から何かを取り出すみたいに。そのちょっと大きめの吐息に驚いて、柚羽はそちらを見た。 ぱちっと、目が合う。 こちらが向いていて相手の視線がやってくるとか、向こうがこちらを向いていて自分の視線がそこに辿り着くとか…そう言うのじゃなくて。ふたりの視線が引き合うように同じ瞬間に一緒になる。心が繋がり合った感じ。同じ色をしてるな、と思える時。 しばらく黙ったままで視線を合わせていた余市は、やがて観念したようにちょっと目を細めた。口元に笑みが浮かぶ。少し、寂しそうな笑顔。 「…分かるよ?」 気の流れに乗って、その声が柚羽に届く。一瞬のようで、とても長い時間のような気もした。 「…え?」 こちらの反応を楽しんでいるみたいに、余市は静かに笑みを浮かべる。 「どういう、こと?」 さらさらさら、辺りを揺らす気の流れ。奥の居室の際、山の裾野から…下ってきた涼風。どこか新しい季節の匂いがした。気付かない振りをしていても、時は4つの姿を音もなく映し出していく。繰り返し、繰り返し。 余市の輪郭が金の灯りに浮かび上がって。鋭角の顎のラインが綺麗だなと思った。 「俺もさ…同じだから」 「絶対に言えない人、好きだから。だから…柚の気持ち、よく分かる」 柚羽は。 黙ったまま、目の前の背の高い、男を見ていた。じっと、見ていた。 余市が、こちらを向き直る。柔らかく、どこまでも柔らかく微笑む。その口元が、やがてひとつの固有名詞を発した。 「…美祢様…」 「…え?」 「柚は…いいよ。女子なら、側女になれる。御子を産ませて頂けたら、母君様として生きられる。でも、俺は…美祢様に触れることすら叶わない。美祢様は…雷史様の乳兄弟…もともと下男の俺とは身分違いだから。男は、そう簡単に身分の高い女子様と情をかわすことは出来ないんだ」 「……」 「内緒だよ?」 「お互いにさ、辛い者同志だけど。話を聞くくらいだったら、出来るから。…その代わり柚も俺の話を聞いてくれよな?」 「…うん」 まだ信じられなかった。…そうなの? 本当に? 余市って…美祢様のことが…? 「…さ、早く寝ないと。明日起きられないよ?」 そう言うと、余市は柚羽の背中をとん、と押した。慌てて見上げると…もう一度、包み込むように笑いかけてくれた。その瞳の奥が…少し悲しげに揺れていた。
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