「柚〜!? いるかい?」 昼下がり。昼餉の御膳を片づけたところで、ホッと一息ついていると居室(いむろ)の表から声がした。余市だ。その声に秋茜様がくすりと笑われる。春物の薄ものを手入れしていた手を止めて、柚羽の方を向いて微笑んだ。 「仲の宜しいことで…微笑ましいわ…」 この地に着いて初めての春。お仕えしているお方様のおなかはだいぶ目立ってこられた。ご懐妊中の女子(おなご)特有の暖かさが漂っている。柚羽の女主人のおなかにいらっしゃるのは、もちろんご主人様・雷史様の初めての御子。何人もいる側女(そばめ)にも未だに御子はいないので、次代のお世継ぎ様になられるかも知れない御方だ。 初めてお会いしたときから、お美しい方だと思っていた。5年もの間、竜王様の御館で次期竜王の亜樹様にお仕えしていたのだ。お方様は物腰も流れるように美しく、御衣装の色目合わせからお手入れに至るまで田舎育ちの柚羽には眩しいばかりである。しかし…子供同然の柚羽ですら、この方のどこかもの悲しい心内を感じ取っていた。それが不思議でならない。あんなにお美しい夫君がいらして、どうして悲しくなど思われるのだろう。そんなの贅沢だと思っていた。 「お帰りなさい、余市」 柚羽が戸口まで出て、声を掛けると余市はにっこりと微笑んだ。 1週間振りに見る笑顔、それを見上げると、やはり嬉しくホッとする。目の前に立つ余市はまた身丈が伸びたような気がする。初めて会った頃、雷史様とは見ただけで上背の差が分かった。でも…この頃ではあまり違いがない気がする。 「ねえ、鷺百合を見に行こうよ? まだ盛りでしょう…?」 さり気ない誘い。でも彼は知っているのだ。ご懐妊中の女主人を気遣って、あまり外に出歩かない柚羽を。季節の移ろいも、そして今訪れた花の季節も…柚羽にとってはあまり縁のない事だった。今、心の中を占めているのは秋茜様のことのみであり、おなかの御子が無事にお生まれになることだけが願いである。 「う〜ん…でもぉ…」 「お務めご苦労でした、余市」 「あ、お方様。御主人様はただ今、御館様にご報告にいらっしゃっています。程なくこちらに参られるかと…」 それを見つめた秋茜は、静かに頷くと柔らかく微笑む。 「…そう。柚羽、行ってらっしゃい。せっかく余市が誘いに来てくれたのだから」 「え、でも…」 そんな心優しい侍女を愛おしそうに眺めて、秋茜は静かに言った。 「殿がお帰りになられるなら、こちらは心配ないでしょう? もうお迎えの準備もすっかり出来ているのだし、あなたは楽しんでいらっしゃいな」 「…お方様…」 「私も、鷺百合が見たいわ。少し摘んで持ち帰ってきてね」 「…はいっ!」 柚羽がそう答えると、秋茜がすっと前に進み出て身をかがめ、装束を直してくれた。袴の腰帯を緩めて内側に何度か折り上げて挟み込む。屋内では裾を踏んで歩くので外歩き用には改める必要がある。侍女の重ねは元々短めに足首辺りまでの丈なので、こちらはそのままでいい。 「少し…伸びたわね」
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「鷺百合の実って、知ってる?」 「知らないけど?」 「このね、花びら1枚くらいの長さの細い実が出来るの、ひとつの花にひとつ。それを集めて乾かして、カラカラになったら枕にするのよ? でもひとつ作るのに本当にたくさんの実が必要なの。感触は藁屑に似てるけど、とってもいい香りなのよ…」 田舎にいた頃は。春になれば大きな袋を抱えて野に出た。そして鷺百合の間を歩きながら、実になったものを探す。あまり若いものは乾かしてもものにならない。完全に熟していなければならないのだ。指で挟んで確かめながら、注意深く摘み取る。 懐かしい子供時代の思い出。そんなに昔のことでもないのに、ああやって祖母や兄弟たちと野に出ることももうないのだろう。
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それが。 まるで手を振っているようだった。自分と惜別するように。 柚羽だって、いつかはこの村を出ることになるだろうと考えていた。多分、姉と同じように少し離れた村に嫁いでいくのだろうと。でも、まさかはるか遠いところに、幼くして奉公に出るとは思ってなかった。時が多少早まっただけのこと。それでも少し悲しかった。 最初の宿場までは下の兄が送ってくれた。宿の前で別れる。柚羽は兄に心配掛けないように、必死で笑顔を作った。 そこからは都に上がる一行に同行させて貰い、次の宿場までは楽しく歩いた。また一泊して、宿を後にしようとしたとき、迎えの者が来てると宿の主人に言われて驚いた。そんな話は聞いてなかったから。 「…余市?」 「御主人様とお方様が…迎えに行って来いと仰ったから」 道すがら、田舎のことや兄弟のことをぽつんぽつんと話して聞かせた。柚羽の口からこぼれる言葉たちを、余市は相づちを打ちながら聞いてくれた。 「お義姉さまは身重でいらっしゃったの。多分、夏頃には私は叔母様になるのね…」 それなのに…ふっと、心に冷たいものが流れ込む。自分では、小さな柚羽では説明のしようのない、不思議な感情が。 急にひとりぼっちになってしまった気がして。あの家が自分のいた頃と変化していたことが悲しくて。 気が付いたら、ぽろぽろと涙が溢れていた。 「…柚?」 どうしたの? と言いたげな余市の視線。彼は柚羽の突然の態度に戸惑っているようだった。でも、答えられなかった。言葉では説明できない、ふわっとした冷たい気持ちだったから。 正月過ぎた田舎道に人影はなくて。だから、ふたりの姿は誰の目にも映らなかった。しばらくの間、黙ったままで歩き続けた。余市も何も言わなかった。柚羽の足並みに揃えて歩んでくれた。 峠の茶屋まで…一刻くらい歩いて。その頃にはようやく気が静まっていた。お茶を貰って長椅子に腰掛けて。ボーっと目の前に広がる田園風景を見ていた。 「私、もう、田舎の鷺百合の花は見られないのね」 並んで座っていた余市が、一瞬、こちらを見た。でも、すぐに視線を柚羽と同じく田園風景に移した。 「柚、鷺百合はどこででも咲くよ?」
あとから聞いた話。 あの日、御主人様とお方様は余市に柚羽を迎えに行けと確かに言った。でもまさか、宿所まで行けとは言わなかった。御領地の外れ辺りまで出迎えればいいと告げたのだ。柚羽が辿り着く時間を見計らって。 いつもいつもそうだった。余市の優しさは気付かないくらいさり気なかった。
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「どう? …柚の田舎には敵わないだろうけど、きれいでしょう?」 「うん、ありがとう、余市」 「…え?」 「私、すごく気が張っていたみたい。御主人様も余市もいなくて、ずっとひとりで頑張ったから。ここに来たら、元気が出た」 その言葉に。余市が嬉しそうに応える。 「そう、良かった」 また、何か季節の木の実でも失敬してきたのかと思ってそれを見守っていた柚羽は、やがて目の前にかざされた意外なものに一瞬、息を止めていた。 「…お土産。大臣様のお屋敷に物売りが来たから」 「お土産? …あの、私に?」 「うん、柚に」 その言葉を聞いてもまだ信じられない。柚羽は大きく息を吸って吐いて、それから不安げな表情で余市の顔を覗き込んだ。 「…美祢様に。美祢様に差し上げればいいのに…」 もしかしたら。余市は…美祢様の為にこれを求めて。でも渡せなくて、仕方なく自分にくれたのではないか。確かに美しい紐だったが、自分には不釣り合いな気がした。 「美祢様は、俺が差し上げるものなどお喜びにはならないよ」 「そんな…、そんなことないよ? きっと喜ばれるわっ! ね、余市」 余市が苦しい表情をすると、柚羽の心も知らずきしんだ。そんな風になってきていた。いつでも余市は柚羽の話を黙って聞いてくれた。堂々巡りの想い。叶うことのない夢。叶えることの出来ない夢。 同じはずだ、余市だって。美祢様とお話したり、微笑みあったりしたいはずだ。それのきっかけになるなら、この飾り紐は差し上げてしまって構わない。だって、余市の喜びのためなら。 「余市が自分で渡せないなら、私がお渡ししてあげる。ね、それならいいでしょ?」 何にも答えてくれないから。必死で言葉を続ける。着替える間もなく訪れてくれたから、掴んでいるのはきれいな重ね。雷史様の着古したものだと知っている。でも、余市にとっては上等の衣で、そして眩しいくらいによく似合っていた。 「…柚」 「柚は、嬉しくないの? せっかく買ってきたのに…」 「え?」 「今回は少しだけど、給金も頂けたんだ。なかなか俺たちのようなものが自分のための銭を持つ事なんてないから。この紐を見たとき、柚にあげたいと思ったんだ。きっと喜んでくれると、買ってきたのに」 …どういうこと? 柚羽は余市と手の中の紐を交互に何度も見つめた。俯いたままの余市の前髪が小刻みに震えている。まっすぐの妬ましいほどのきれいな髪。自分の髪は量ばかり多くてまとまらなくて。癖もあったから、見るたびに羨ましかった。 「嬉しく、ないわけはないわ」 「でも…こんなもの貰っても、私にはどうにも出来ないもの。他の侍女たちはきれいに編み込んだり、結ったりして飾っているけど。私にはああ言うの出来ないし…」 たまに。秋茜様が柚羽の脇の髪を素敵に結ってくれることがある。でもいつもお願いできるわけでもない。畏れ多いことだ。 「なら、俺が結ってあげようか?」 「…え?」 「柚だって、綺麗になりたいでしょう? 上手に結ってあげるから、そしたら御主人様にお目にかかりに行くといいよ?」 「…余市…」 途方に暮れていると、彼はさっさと柚羽の横に回って、少し身をかがめると、脇の髪をすっとすくい取った。それから紐の片方を髪の付け根に巻き付けて、しっかりと結ぶ。くるくると何度か紐を回すと瞬く間に紐の花が咲いた。それからまとめた髪をいくつかの房に分けて、残った紐と一緒に編み込んでいく。 自分の脇で行われているので、柚羽はその成り行きをきちんと確かめることは出来ない。でも、ちょっと視線をそちらに向けると、すぐ間近に余市の顔がある。その表情がとても真剣で、どきどきした。ふうっと息がかかる…それだけ近づいているのだから、当然なんだけど。 「駄目だよ、顔を動かしたら。上手に出来ないじゃないか」 「すごい…こんなの見たことない」 上の方の飾り結びは見えない。でも紐を編み込んだ髪はこれだけで芸術品だ。今まで、色々な編み込みを見てきたが、こんなにきれいなものは初めて見た。 「…そう?」 「実はね、遊女小屋の髪結いになろうかなと思ったこともあるんだ。子供の頃から、こう言うの好きだったから」 「ふうん、そうなんだ」 「その前に、雷史様に拾われたから。今に至るのだけど」 「女子の髪を結うのが好きだったの? …じゃあ、いつも女の子の髪とか結ってあげてた?」 「…まさか」 「結うのが好きだと言うよりは、綺麗に結われた髪が好きなんだ。どうしたらあんな風になるのかなって、ひとりでこっそりと練習した」 「…ひとりで?」 「うん、納屋の中とかで。糸を髪に見立てて」 「ふうん…」 「やっぱり、女子が着飾って綺麗になるのはいいじゃない? …ほら出来た」 ぽんと背中を叩かれた。その拍子に顔の両脇で編み込みがゆらゆらと揺れる。織り紐は手にしたときから美しいと思った。でもこうして髪に編み込まれてみると、さらに素晴らしくなった気がする。そうっと頭の上に手をやると大きな飾り結びに触れた。 「…おかしくない? どう?」 「うん、とっても可愛いよ?」 声のする方向を見ると。余市が花の中で目を細めて立っていた。何だか嬉しそうだ。 「本当…? でも、一晩たったら、ぐちゃぐちゃになっちゃうね…もったいないなあ…」 「…だったら」 「毎日、は無理だとしても。また、結ってあげる。いつだって柚の近くにいるんだから。柚が喜ぶことだったら何でもしてあげる」 「余市…」 なぞるようにその人の姿を眺める。綺麗に整っていた笑顔がちょっと色を変えた。 「俺、柚が泣くのは苦手なんだ、自分が悪いことをした気分になるから。柚が泣かなくて済むようにしたいな…さ、帰ろう」 気が付くと、空の向こうがほんのりと赤く色づいていた。夕方が近い。 「待って、余市」 「何?」 「前から、言おうと思っていたんだけど…」 「余市って、こんな綺麗な飾り結びが出来るのに…自分の髪ってぼさぼさなの。きれいな髪なのに、もったいないわ」 後ろ手に結んでいるんだろうけど。いつもあっちが飛び出したり、こっちが歪んだりしてる。なまじっか上背があるのでひときわ目立つのだ。 「そう?」 「じゃあ、俺の髪は柚が結ってくれる?」 「そこに座って。立ったままじゃ、届かないもん」 余市の髪は滑らかで、それでいてとても柔らかかった。本当に、かもじが欲しくなるほど。綺麗にかたち良く結び直すと前よりもっと素敵になった気がした。 「どう? …男前になった?」 柚羽は彼の後ろに回って必死で手を伸ばすと、白紐を引っ張る。するするとまた髪がほどけた。 「何するんだよっ! せっかく結ってくれたのに…」 「柚っ!!」 いい加減歩いてから、くるりと振り向く。そして、ちょっと膨れた表情のままでぽつりと言った。 「余市、髪はぼさぼさでいい。あんまり綺麗じゃないままで」 「何だよ〜〜〜」 素敵な雷史様は好きだ。綺麗な衣をまとわれて、彫りの深いお顔で微笑まれる。眺めていると幸せな気分になる。でも…何故かよく分からないけど…余市が素敵になるのは嫌だなと思った。どうしてか分からないけど、そう強く思った。
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