…4…

 

 

「柚〜!? いるかい?」

 昼下がり。昼餉の御膳を片づけたところで、ホッと一息ついていると居室(いむろ)の表から声がした。余市だ。その声に秋茜様がくすりと笑われる。春物の薄ものを手入れしていた手を止めて、柚羽の方を向いて微笑んだ。

「仲の宜しいことで…微笑ましいわ…」
 柔らかい微笑み。包み込むような。この人は変わられた、と柚羽は思っていた。

 この地に着いて初めての春。お仕えしているお方様のおなかはだいぶ目立ってこられた。ご懐妊中の女子(おなご)特有の暖かさが漂っている。柚羽の女主人のおなかにいらっしゃるのは、もちろんご主人様・雷史様の初めての御子。何人もいる側女(そばめ)にも未だに御子はいないので、次代のお世継ぎ様になられるかも知れない御方だ。

 初めてお会いしたときから、お美しい方だと思っていた。5年もの間、竜王様の御館で次期竜王の亜樹様にお仕えしていたのだ。お方様は物腰も流れるように美しく、御衣装の色目合わせからお手入れに至るまで田舎育ちの柚羽には眩しいばかりである。しかし…子供同然の柚羽ですら、この方のどこかもの悲しい心内を感じ取っていた。それが不思議でならない。あんなにお美しい夫君がいらして、どうして悲しくなど思われるのだろう。そんなの贅沢だと思っていた。

「お帰りなさい、余市」

 柚羽が戸口まで出て、声を掛けると余市はにっこりと微笑んだ。

 1週間振りに見る笑顔、それを見上げると、やはり嬉しくホッとする。目の前に立つ余市はまた身丈が伸びたような気がする。初めて会った頃、雷史様とは見ただけで上背の差が分かった。でも…この頃ではあまり違いがない気がする。
 西南の大臣様の御館へのご出仕に同行した彼は、いつもの下男の衣装ではなくきちんとした正装をしている。深緑の袴、浅黄の小袖にきれいな群青の重ねを掛けて。その姿が尚も眩しい気がした。

「ねえ、鷺百合を見に行こうよ? まだ盛りでしょう…?」

 さり気ない誘い。でも彼は知っているのだ。ご懐妊中の女主人を気遣って、あまり外に出歩かない柚羽を。季節の移ろいも、そして今訪れた花の季節も…柚羽にとってはあまり縁のない事だった。今、心の中を占めているのは秋茜様のことのみであり、おなかの御子が無事にお生まれになることだけが願いである。
 ようやく12になったばかりの少女にしてはその行為は少し大人しすぎた。同時に幼いからこそ、純粋に必死にお務めをこなそうとしている。それに柚羽は誰よりも秋茜様をお慕いしていた。

「う〜ん…でもぉ…」
 柚羽は小さく呟くと下を向いてしまった。鷺百合の咲いているという場所を前々から教えて貰っていた。この居室から歩いて半刻くらいのところ。往復して花を眺めたら一刻半くらいかかりそうだ。それだけの時間、秋茜様をおひとりにしてしまうのは心配だった。

「お務めご苦労でした、余市」
 俯いた柚羽の後ろから、秋茜様のお声がした。戸口まで出ていらしたようだ。

「あ、お方様。御主人様はただ今、御館様にご報告にいらっしゃっています。程なくこちらに参られるかと…」
 余市はさっと跪くと、主人に対する姿勢で報告した。

 それを見つめた秋茜は、静かに頷くと柔らかく微笑む。

「…そう。柚羽、行ってらっしゃい。せっかく余市が誘いに来てくれたのだから」

「え、でも…」
 柚羽はやはり心に不安が残ってしまう。それに心配を抱えたまま、外出してもそれに心を囚われて楽しめないのではないか。それでは仕方ない気がした。今までもそんなことがあった。

 そんな心優しい侍女を愛おしそうに眺めて、秋茜は静かに言った。

「殿がお帰りになられるなら、こちらは心配ないでしょう? もうお迎えの準備もすっかり出来ているのだし、あなたは楽しんでいらっしゃいな」
 この女主人は柚羽の心内などとっくに知っているのだろう。あなたがいなくても大丈夫、と言えば自分の侍女が小さな胸を痛めるのも分かっている。だからこそ、こういういい方をなさるのだ。

「…お方様…」
 柚羽が尚も不安げに見やると、秋茜が小首を傾げて微笑んだ。

「私も、鷺百合が見たいわ。少し摘んで持ち帰ってきてね」

「…はいっ!」

 柚羽がそう答えると、秋茜がすっと前に進み出て身をかがめ、装束を直してくれた。袴の腰帯を緩めて内側に何度か折り上げて挟み込む。屋内では裾を踏んで歩くので外歩き用には改める必要がある。侍女の重ねは元々短めに足首辺りまでの丈なので、こちらはそのままでいい。
 最後に襟の辺りを直してから、にっこりと微笑まれた。

「少し…伸びたわね」
 そう仰りながら、優しく髪を整えてくださる。柚羽の髪はこの1年足らずで胸の辺りまで伸びていた。幼子の間は肩で切りそろえるのが普通だが、ある程度の年齢になると伸ばし始める。秋茜様は身丈に余る豊かな髪をお持ちだ。さらさらと流れる朱い河のような流れに日には何度も見とれていた。
 侍女である柚羽はそこまで伸ばすことはない。でも今、身に付けている山吹の重ねと同じくらい、足首の辺りまでは長くしたいと思っていた。色々に結い上げるのも娘たちのささやかな楽しみだ。
 まるで実の姉上のように、優しく触れてくださる手のひらが大好きだった。

 

◆◆◆


 鷺百合は山の裾野に群生することが多い。山間の柚羽の実家ではこの花が平地を埋め尽くすほど咲き誇る。それが春の始まりだった。白鷺が羽を広げたように繊細な花弁が空に伸びる。両手でやっと包めるほどそれは大きくて、顔を寄せるとたとえようのないくらいいい香りがした。

「鷺百合の実って、知ってる?」
 柚羽は花の間をするするっと歩きながら、明るい声で言った。

「知らないけど?」
 余市は花を傷つけないように注意しながら、その後を追う。小柄な柚羽は身が軽くて、どんどん先に行ってしまう。

「このね、花びら1枚くらいの長さの細い実が出来るの、ひとつの花にひとつ。それを集めて乾かして、カラカラになったら枕にするのよ? でもひとつ作るのに本当にたくさんの実が必要なの。感触は藁屑に似てるけど、とってもいい香りなのよ…」

 田舎にいた頃は。春になれば大きな袋を抱えて野に出た。そして鷺百合の間を歩きながら、実になったものを探す。あまり若いものは乾かしてもものにならない。完全に熟していなければならないのだ。指で挟んで確かめながら、注意深く摘み取る。
 子供でも用が足りる仕事ではあったが、根気のいるものだった。柚羽は花の中で疲れて眠りこけてしまったこともある。

 懐かしい子供時代の思い出。そんなに昔のことでもないのに、ああやって祖母や兄弟たちと野に出ることももうないのだろう。

 

◆◆◆


 それを強く感じたのは、今年の初め。正月明けに半月ほどお暇を頂いて田舎に戻ったときだった。早足で行けば3日で辿り着く。途中、宿所に2泊すれば良かった。懐かしい人々との半年ぶりの再開はつかの間で、すぐに帰る日が来る。村の外れまで来て振り向くと、まだ葉だけの鷺百合がさらさらと風に揺れているのが見えた。波のように…。

 それが。

 まるで手を振っているようだった。自分と惜別するように。

 柚羽だって、いつかはこの村を出ることになるだろうと考えていた。多分、姉と同じように少し離れた村に嫁いでいくのだろうと。でも、まさかはるか遠いところに、幼くして奉公に出るとは思ってなかった。時が多少早まっただけのこと。それでも少し悲しかった。

 最初の宿場までは下の兄が送ってくれた。宿の前で別れる。柚羽は兄に心配掛けないように、必死で笑顔を作った。

 そこからは都に上がる一行に同行させて貰い、次の宿場までは楽しく歩いた。また一泊して、宿を後にしようとしたとき、迎えの者が来てると宿の主人に言われて驚いた。そんな話は聞いてなかったから。

「…余市?」
 今日は雷史様の御領地までひとりで歩くのだと思っていた。柚羽は大きく目を見開いて、しばらくは次の言葉が出なかった。

「御主人様とお方様が…迎えに行って来いと仰ったから」
 こざっぱりとした下男の衣装で現れた余市は何気ない感じでそう言った。だから、そう言うものだと思った。

 道すがら、田舎のことや兄弟のことをぽつんぽつんと話して聞かせた。柚羽の口からこぼれる言葉たちを、余市は相づちを打ちながら聞いてくれた。
 予定通り、長兄の所にはお嫁様が来ていた。柚羽はその式に出ることは出来なかったが、兄は新所帯に用意された続き間で知らない人みたいになっていた。どこがどう違うとは上手く言えない。兄嫁も優しい大人しい気性の方だった。柚羽のことも歓迎してくれた。

「お義姉さまは身重でいらっしゃったの。多分、夏頃には私は叔母様になるのね…」
 そう言ったとき、別に寂しくも何ともなかった。普通の世間話だった。

 それなのに…ふっと、心に冷たいものが流れ込む。自分では、小さな柚羽では説明のしようのない、不思議な感情が。

 急にひとりぼっちになってしまった気がして。あの家が自分のいた頃と変化していたことが悲しくて。

 気が付いたら、ぽろぽろと涙が溢れていた。

「…柚?」
 当然の事ながら、隣りを歩いていた余市がびっくりしてこちらを覗き込んできた。その、濃い色目の水干をぎゅっと握りしめて、そのまま歩いた。空いたもう一つのてのひらでごしごしと顔を拭って。

 どうしたの? と言いたげな余市の視線。彼は柚羽の突然の態度に戸惑っているようだった。でも、答えられなかった。言葉では説明できない、ふわっとした冷たい気持ちだったから。

 正月過ぎた田舎道に人影はなくて。だから、ふたりの姿は誰の目にも映らなかった。しばらくの間、黙ったままで歩き続けた。余市も何も言わなかった。柚羽の足並みに揃えて歩んでくれた。

 峠の茶屋まで…一刻くらい歩いて。その頃にはようやく気が静まっていた。お茶を貰って長椅子に腰掛けて。ボーっと目の前に広がる田園風景を見ていた。

「私、もう、田舎の鷺百合の花は見られないのね」
 ふと、そんな言葉が口をついて出た。

 並んで座っていた余市が、一瞬、こちらを見た。でも、すぐに視線を柚羽と同じく田園風景に移した。

「柚、鷺百合はどこででも咲くよ?」
 独り言のように。小さな声で彼は言った。


 あとから聞いた話。

 あの日、御主人様とお方様は余市に柚羽を迎えに行けと確かに言った。でもまさか、宿所まで行けとは言わなかった。御領地の外れ辺りまで出迎えればいいと告げたのだ。柚羽が辿り着く時間を見計らって。
 余市は前の日のお務めが終わった後、そのまま夜通し歩いて来てくれた。そんなこと知らなかった、余市だって言わなかったし。

 いつもいつもそうだった。余市の優しさは気付かないくらいさり気なかった。

 

◆◆◆


 柚羽の腰の辺りまで伸びた花。それが織りなす白銀の海。辺り一面。柔らかな春の陽ざしに照らし出された絨毯が気の流れにゆるやかな波を作る。それを黙って眺めていた。穏やかな春空の下、こうして花畑の真ん中にいると、ここがどこなのか分からなくなった。心だけが飛んで、田舎の村に戻ってきた気もした。

「どう? …柚の田舎には敵わないだろうけど、きれいでしょう?」
 余市の問いかけに、心が今に戻ってきた。奥の居室の…裏山の野に来ていたんだと思い出す。振り向いて、にっこりと笑った。

「うん、ありがとう、余市」

「…え?」
 礼を言われたのが意外だったのか。ぽかんと口を開けて、余市が間の抜けた顔で柚羽を見た。

「私、すごく気が張っていたみたい。御主人様も余市もいなくて、ずっとひとりで頑張ったから。ここに来たら、元気が出た」

 その言葉に。余市が嬉しそうに応える。

「そう、良かった」
 それから、ひとつ、息を付いて。おもむろに水干の袖を探る。

 また、何か季節の木の実でも失敬してきたのかと思ってそれを見守っていた柚羽は、やがて目の前にかざされた意外なものに一瞬、息を止めていた。

「…お土産。大臣様のお屋敷に物売りが来たから」
 そう言って、柚羽の手に乗せてくれる。赤と黄のきれいな平織り紐。ごくごく細い幅で片腕を伸ばしたくらいの長さのものが2本ある。紐の両端はきれいに房に作られていて、木製の色とりどりの飾り玉がいくつも付いていた。

「お土産? …あの、私に?」
 今まで。余市が手渡してくれるものと言ったら、御領地内で取れる木の実か、珍しい菓子くらいだった。だから手の上に乗せられたものが何だか信じられなくて、ひどく戸惑ってしまった。

「うん、柚に」

 その言葉を聞いてもまだ信じられない。柚羽は大きく息を吸って吐いて、それから不安げな表情で余市の顔を覗き込んだ。

「…美祢様に。美祢様に差し上げればいいのに…」
 心からそう思った。女子は…こう言う贈り物が好きだ。田舎の姉だって、想い人から贈られた品を大事にしていた。

 もしかしたら。余市は…美祢様の為にこれを求めて。でも渡せなくて、仕方なく自分にくれたのではないか。確かに美しい紐だったが、自分には不釣り合いな気がした。

「美祢様は、俺が差し上げるものなどお喜びにはならないよ」
 どこか苦しそうに。余市は静かに視線を逸らした。

「そんな…、そんなことないよ? きっと喜ばれるわっ! ね、余市」

 余市が苦しい表情をすると、柚羽の心も知らずきしんだ。そんな風になってきていた。いつでも余市は柚羽の話を黙って聞いてくれた。堂々巡りの想い。叶うことのない夢。叶えることの出来ない夢。
 雷史様が優しいお顔でこちらに向いてくれただけで、胸がいっぱいになる。お召し替えの時にふと触れた指先が冷めない熱を起こす。

 同じはずだ、余市だって。美祢様とお話したり、微笑みあったりしたいはずだ。それのきっかけになるなら、この飾り紐は差し上げてしまって構わない。だって、余市の喜びのためなら。

「余市が自分で渡せないなら、私がお渡ししてあげる。ね、それならいいでしょ?」

 何にも答えてくれないから。必死で言葉を続ける。着替える間もなく訪れてくれたから、掴んでいるのはきれいな重ね。雷史様の着古したものだと知っている。でも、余市にとっては上等の衣で、そして眩しいくらいによく似合っていた。
 生まれが違うだけで、皆同じだ。この姿を見ていると畏れ多くもそう思えてくる。衣を替えて、きれいに身繕いをすれば、自分たちは高貴な御方と少しも変わらないはずだ。それなのに、生まれで、育ちでこんなに違うなんて。

「…柚」
 重ねを握りしめた柚羽の手首を、余市が掴む。そのままぐっと力を込めて、衣から引き剥がされた。

「柚は、嬉しくないの? せっかく買ってきたのに…」

「え?」
 予期していたのと違う言葉に、柚羽は大きく目を見開いた。

「今回は少しだけど、給金も頂けたんだ。なかなか俺たちのようなものが自分のための銭を持つ事なんてないから。この紐を見たとき、柚にあげたいと思ったんだ。きっと喜んでくれると、買ってきたのに」

 …どういうこと?

 柚羽は余市と手の中の紐を交互に何度も見つめた。俯いたままの余市の前髪が小刻みに震えている。まっすぐの妬ましいほどのきれいな髪。自分の髪は量ばかり多くてまとまらなくて。癖もあったから、見るたびに羨ましかった。
 いつだったか口に出してそう言ったとき、だったら長く伸ばしてかもじ(付け毛のようなもの)を作ってあげようかと言われてしまった。

「嬉しく、ないわけはないわ」
 柚羽は正直にそう言った。

「でも…こんなもの貰っても、私にはどうにも出来ないもの。他の侍女たちはきれいに編み込んだり、結ったりして飾っているけど。私にはああ言うの出来ないし…」

 たまに。秋茜様が柚羽の脇の髪を素敵に結ってくれることがある。でもいつもお願いできるわけでもない。畏れ多いことだ。
 自分でも認めるしかない不器用な小さな手では己の髪ですら、まとめることが出来ない。未だに色々なお供え物は全て余市に飾り結びをお願いしているくらいだ。

「なら、俺が結ってあげようか?」
 余市がぱっと表情を明るくして顔を上げた。

「…え?」
 またもや意外なことを言われてしまい、柚羽は完全に固まってしまった。

「柚だって、綺麗になりたいでしょう? 上手に結ってあげるから、そしたら御主人様にお目にかかりに行くといいよ?」

「…余市…」
 何と言ったらいいのか、分からない。

 途方に暮れていると、彼はさっさと柚羽の横に回って、少し身をかがめると、脇の髪をすっとすくい取った。それから紐の片方を髪の付け根に巻き付けて、しっかりと結ぶ。くるくると何度か紐を回すと瞬く間に紐の花が咲いた。それからまとめた髪をいくつかの房に分けて、残った紐と一緒に編み込んでいく。

 自分の脇で行われているので、柚羽はその成り行きをきちんと確かめることは出来ない。でも、ちょっと視線をそちらに向けると、すぐ間近に余市の顔がある。その表情がとても真剣で、どきどきした。ふうっと息がかかる…それだけ近づいているのだから、当然なんだけど。

「駄目だよ、顔を動かしたら。上手に出来ないじゃないか」
 ぐいっと首を戻される。自分がどんな風に変わっているのか、全然分からない。まあ、手先の器用な余市のことだ、それなりに美しく仕上げてくれるのではないかと思うが。

「すごい…こんなの見たことない」
 結い終わった片方をつまみ上げて顔の前まで持ってきて。もう片方を結ってくれている余市に話しかける。

 上の方の飾り結びは見えない。でも紐を編み込んだ髪はこれだけで芸術品だ。今まで、色々な編み込みを見てきたが、こんなにきれいなものは初めて見た。

「…そう?」
 嬉しそうに返事する。手の動きを止めることはないまま。

「実はね、遊女小屋の髪結いになろうかなと思ったこともあるんだ。子供の頃から、こう言うの好きだったから」

「ふうん、そうなんだ」

「その前に、雷史様に拾われたから。今に至るのだけど」
 耳元でくすくすと笑う。息がかかって耳たぶにかかってくすぐったい。気が緩やかに流れて、余市の垂らした脇の髪が揺れる。

「女子の髪を結うのが好きだったの? …じゃあ、いつも女の子の髪とか結ってあげてた?」
 ちょっと意外な気がした。自分と一緒にいる以外に、余市が他の女子と一緒にいるところを見たことはない。どちらかというと男友達の方が多いみたいだけど。

「…まさか」
 また、喉の奥でくくっと笑う。

「結うのが好きだと言うよりは、綺麗に結われた髪が好きなんだ。どうしたらあんな風になるのかなって、ひとりでこっそりと練習した」

「…ひとりで?」

「うん、納屋の中とかで。糸を髪に見立てて」

「ふうん…」
 性格的に暗いかも知れない。まあ、誰構わず髪を結ってあげている余市というのも想像できないけど。

「やっぱり、女子が着飾って綺麗になるのはいいじゃない? …ほら出来た」

 ぽんと背中を叩かれた。その拍子に顔の両脇で編み込みがゆらゆらと揺れる。織り紐は手にしたときから美しいと思った。でもこうして髪に編み込まれてみると、さらに素晴らしくなった気がする。そうっと頭の上に手をやると大きな飾り結びに触れた。

「…おかしくない? どう?」
 手鏡なんて持ってきてないから、自分がどんな風になったのか全く分からない。何だか落ち着かない気分で、心細くなってしまう。

「うん、とっても可愛いよ?」

 声のする方向を見ると。余市が花の中で目を細めて立っていた。何だか嬉しそうだ。

「本当…? でも、一晩たったら、ぐちゃぐちゃになっちゃうね…もったいないなあ…」

「…だったら」
 余市がまっすぐにこちらを見た。

「毎日、は無理だとしても。また、結ってあげる。いつだって柚の近くにいるんだから。柚が喜ぶことだったら何でもしてあげる」

「余市…」

 なぞるようにその人の姿を眺める。綺麗に整っていた笑顔がちょっと色を変えた。

「俺、柚が泣くのは苦手なんだ、自分が悪いことをした気分になるから。柚が泣かなくて済むようにしたいな…さ、帰ろう」

 気が付くと、空の向こうがほんのりと赤く色づいていた。夕方が近い。

「待って、余市」
 先を歩いていた彼を呼び止める。

「何?」
 くるりと振り返る。綺麗な笑顔。

「前から、言おうと思っていたんだけど…」
 ちょっと、言いにくくて口ごもる。不思議そうな顔が覗き込んでくる。

「余市って、こんな綺麗な飾り結びが出来るのに…自分の髪ってぼさぼさなの。きれいな髪なのに、もったいないわ」

 後ろ手に結んでいるんだろうけど。いつもあっちが飛び出したり、こっちが歪んだりしてる。なまじっか上背があるのでひときわ目立つのだ。

「そう?」
 余市がそう答えながら、するするっと彼の髪をまとめていた白い紐を解く。さらさらと落ちていくきれいな髪。肩を少し過ぎている。

「じゃあ、俺の髪は柚が結ってくれる?」
 そう言って、淡く微笑む。何故か、頬が少し熱くなった気がした。でも、そんなこと、気付かない振りで何気なく言う。

「そこに座って。立ったままじゃ、届かないもん」

 余市の髪は滑らかで、それでいてとても柔らかかった。本当に、かもじが欲しくなるほど。綺麗にかたち良く結び直すと前よりもっと素敵になった気がした。

「どう? …男前になった?」
 余市が衣を叩きながら、立ち上がる。気の流れになびいたまとめ髪。にっこりと微笑まれると、ちょっと口惜しい気がした。

 柚羽は彼の後ろに回って必死で手を伸ばすと、白紐を引っ張る。するするとまた髪がほどけた。

「何するんだよっ! せっかく結ってくれたのに…」
 地面に落ちた紐を拾いながら、余市が少し腹を立てている。それには取り合わずに、柚羽はすたすたとひとりで前を歩き出した。

「柚っ!!」

 いい加減歩いてから、くるりと振り向く。そして、ちょっと膨れた表情のままでぽつりと言った。 

「余市、髪はぼさぼさでいい。あんまり綺麗じゃないままで」

「何だよ〜〜〜」
 後から追いかけてくる草履の音。でも振り返らなかった。

 素敵な雷史様は好きだ。綺麗な衣をまとわれて、彫りの深いお顔で微笑まれる。眺めていると幸せな気分になる。でも…何故かよく分からないけど…余市が素敵になるのは嫌だなと思った。どうしてか分からないけど、そう強く思った。