…5…

 

 

 夏の初め。秋茜様が無事、お世継ぎ様をご出産されて。ほっと息付く暇もなく、柚羽の生活は慌ただしくなってきた。

 もちろん、御館様の長子である雷史様の御子。ちゃんと乳母が付けられた。下の集落から選ばれてきたその方は夫君と自分の子と一緒に奥の居室(いむろ)のすぐ傍に小さな部屋を与えられた。
 たっぷりした体格で、頑丈そうな女性。秋茜様より倍も横に幅のあるような気がする。肌も浅黒くてちょっと怖い気もした。でも直接に接してみるととても気持ちのいい人だった。3人目の子供を産んだと言うが秋茜様と同年代。庶民の鋭気みたいなものを持っている。ばりばりとお務めをこなすが、やはり乳飲み子がいればままならないこともある。

 柚羽は彼女に色々と教わりながら、赤さまである春霖(しゅんりん)様 のお世話をさせていただくようになった。田舎にいた頃も幼い弟妹の世話をしたことがあった。しかしそれはままごとのようなものだったのだと気付く。四六時中の赤子の世話は時として眠る時間さえ奪われる。夜泣きの止まらない春霖様を負ぶって、自分の方が泣きたくなる夜もあった。

 

 そんなこんなであっと言う間にまた1年が過ぎていく。赤さまは夏が来てお誕生の日を迎えられ、程なくして歩かれるようになる。そんな頃、秋茜様はお二人目の御子様をご懐妊されていた。

 

◆◆◆


「私、不思議に思うことがあるんだけど」
 いつものように御供物用の飾り結びをお願いして。その手元を惚れ惚れと見つめながら柚羽はポツリと言った。

「何が?」
 余市の方は顔を上げることなく、返事だけする。難しいところをやっているようだ。つい最近大臣様のお屋敷で見た結びがどうしてもやってみたいそうで、言うことを聞かないのだ。


 余市は立場上は雷史様の下男だった。しかし御館様にも、畏れ多くも西南の大臣・邇桜(ニオウ)様にも覚えめでたい彼は、雷史様が他の土地に御出仕なさる折にはその名代も務めている。雷史様の代わりに大臣様のお屋敷に上がってお役目をこなすのだ。
 もともと恥ずかしくない育ちの余市は一通りの礼儀作法を身に付けていた。また弓の名手であり、狩りの遊びのお供には打ってつけだ。狙った獲物は逃さない。その腕の確かさは知らぬ者がないくらいだった。奥の居室の裏にも小さな的場が作られていた。多分、雷史様用のものなのだろう。しかし雷史様ご自身は弓の上手ではない。そこをお借りして練習をする余市を柚羽は暇があるときはいつも眺めていた。

「姿勢、おかしくなかった?」
素人の柚羽に聞いたところで答えられるはずもないのに。必ず、弓を放つとこう聞いてくる。

 頬杖を付いて、椅子代わりの岩に腰掛けていた柚羽は困ったように首を傾げた。訊ねられて初めて、自分が余市の弓の稽古を見ていたことを思い出す。それまでは余市が的場を見つめる涼やかな眼差しとか、弓を引く長い指とかそう言うものに気を取られていた。そんなこと恥ずかしくて言えるはずもなかった。

「余市って、なかなかよね。もういい人がいるのかしら?」

 御領地の侍女たちがそんな風に訊ねてくる。あからさまに、恥じらいもなく。この頃、柚羽の周辺も騒がしくなってきた。同じ頃、ここに来た2つ年上の侍女がこの春、都から来た上官に召されて側女となった。晴れ晴れしい顔で夫の任地へと旅だって行く背中をとても不思議な気持ちで眺めていた。

 11でこの地に来て、2年半が過ぎて。気が付くと13、次の春で14。もう早い者は伴侶を求める年齢だ。女子(おなご)は自分から求婚することなど余りない。たまにはそう言うこともあるが、大抵は望まれて関係を持つ。そして側女になったり、妻になったり…そういう女子を間近で眺めながら、自分にはそんなことが起こるなんて想像も付かなかった。

 

 自分がそうだから、すぐ傍にいる余市のこともそう思っていた。ふたりは雷史様と秋茜様のお付きとして、ずっとここで生きていくのだ、そんな気がして。

 

 だから、侍女たちの下世話な会話にも加わることがなかった。女子が着飾るのは男を呼ぶため、いい男に縁付いて一生を楽しく生きるため…色めき立っていく同世代の侍女たち。近くにいながら、遠い世界の出来事みたいだった。


「御主人様とお方様って…仲が御宜しいのかしら? そうじゃないのかしら…? 初めのうちはお食事も別に摂っていらっしゃったのよ? 寝所だって別だし…高貴な御方は皆そうなのかしら…?」
 柚羽の田舎の両親はいつも鼻をつき合わせるほど近くで生活していた。家業を一緒にこなしているせいもある。いつでも楽しそうに会話をしながら、何気ない戯れ言で笑い合っていた。だから、こちらにお務めしたとき、あまりに他人行儀なお二人が不思議だった。

 余市は柚羽の言葉に不思議そうに顔を上げた。彼の目に映る柚羽は朱の髪を腰まで伸ばして、体つきも少しふっくらとしてきていた。柚羽自身は気付かなくても、年月は彼女を少女のままでは留めない。固く閉じられた蕾もやがては開いていく。

「別にいいんじゃないの? 俺も良くは分からないけど。…柚はお二人がそれほど仲が宜しくない方が好都合なんじゃない?」

「え?」
 真顔でそんな風に答えられて、思わすきょとんとしてしまった。

 対する余市の方はその柚羽の反応の方が不思議だったらしい。そのまま視線を手元に戻すと、小さな声で付け足した。

「だって。御主人様の側女にして頂くんだったら。お二人があまり仲睦まじいのは…」

 しゅっしゅっと、細帯のこすれ合う音。鮮やかな手さばき。真剣な横顔、きつく結んだ口元。いくらか自分でも上手に結べるようになったらしい髪が高く結わかれていて、弾んで揺れる。さらさらと美しい髪をあれ以来あまり触ったことはない。でも余市の方は暇を見つけては柚羽の髪を色々に結い上げることを楽しみにしていた。

「あ…そうか、そうねえ…」
 なんとなく受け答えをしながら、自分がとても生返事をしていることに気付いていた。誰彼ともなくお召しがあって、閨に上がるのは嫌だ。でも御主人様の御相手だったらいいと打ち明けた。彼はそのことを覚えているのだ。

 でも、この頃の柚羽はそれが叶わぬ夢のような気がしていた。雷史様は秋茜様を娶る前は愛妾である美祢様の他にもたくさんのお手つきの側女や女がいたという。下の集落の女子にも手を出していたと。
 それがどうだろう。夜はきちんとこの奥の居室にお戻りになる。他で女子と遊んでいる感じでもない。今や雷史様はお方様一筋でいらっしゃるのだ。ひとりふたりの側女くらい取っても宜しいのに。それをなさろうとはしない。美祢様の居室にもずっと戻っていなかった。

「そんなに落ち込むこともないだろ?」
 余市は柚羽が落胆したのだと思ったらしい。面を上げると、励ますように微笑んだ。

「いくら秋茜様がご寵愛を受けられても…お方様は雷史様よりも年上でいらっしゃるでしょう? 跡取り様は御子を多く成さないとならないんだよ? 年若い側女がいずれ必要になる。そうなれば一番お近くにいる柚は誰よりもそのお役目に上がる立場にあると思うよ?」

「うん…」
 何だか、ピンとこなかった。元気づけてくれてるのに。それが自分でも不思議でならなかった。

 御主人様のことはやはり素敵だと思っている。昨日よりも今日が、去年よりも今年が素晴らしくおなりになる。そろそろ二十歳を迎えようと言う雷史様はその男ぶりに誰もが振り向く程であった。


 この1年あまりの時間に。柚羽の所持品で一番増えたのは、小さな行李の中に大切にしまった、様々な飾り物だった。最初に贈られた飾り紐。それからも余市はお務めでよそに行くたびに色々なものを求めて来た。飾り紐は元より、簪(かんざし)に櫛、帯留め。娘たちが願いを叶えるためにこっそりと腕の中に巻く飾り玉まで。どうしてこんなものを恥ずかしげもなく手に出来るのかと思うほどに、それらは多様で、そして例外なく素敵だった。
 そして柚羽はその中で、やはり飾り紐が一番好きだった。

「これ、柚に」
 そう言って、袂から取りだしてくれるのに。次の瞬間はもう柚羽の髪を使って、新しい結びに挑戦している。飾り紐を買ってきてくれると言うことは、それを結んでくれると言うことだ。とびきり素敵に、御領地の他の女子の誰よりも綺麗に。嬉しかった。

 当然の事ながら、侍女たちは柚羽の髪の飾りに気付く。そしてやり方をしつこく聞いてくる。でも答えられるはずもない。余市に結んで貰ったとはどうしても言えず、いつも秋茜様に結って貰ったと誤魔化した。もしかすると余市は柚羽にそれを広めて貰った方が嬉しかったのかも知れない。他の女子に結って欲しいと言われれば、喜んでそうしたかも知れない。

 …それでも、どうしても言うことが出来なかった。言いたくなかった。

 

◆◆◆


「柚羽、ちょっといらっしゃい…」
 お正月まであと一月となった年の瀬、秋茜様に呼ばれた。秋茜様の御部屋である次の間に招かれて、そこに置かれた美しい絹を見せられた。

「…これは?」
 敷物の上に膝を落とした柚羽は、見たこともない綺麗な反物に心奪われていた。それも茜色と橙とふたつも。最初は秋茜様の御衣装を仕立てられるのかと思ったが、柚羽の目から見てもその絹は子供っぽくて、高貴なお方様にはお似合いにならないと思った。

「柚羽は…どちらが好きかしら?」
 不思議そうに見つめている侍女を優しく包み込むように微笑んで、この部屋の主は柔らかい声で訊ねた。

「…はい?」

「殿が…柚羽にも正月用の晴れ着を作ってあげなさいと仰るの。一応、このふたつを求めてきてくださったのだけど…どちらがあなたに似合うかしらと思案していたの」

 その言葉に、胸が高鳴った。こんなに、素晴らしい絹。これで晴れ着をこしらえるのか? そんなことが許されるのだろうか…? 

 震える指の先で布に触れる。すべすべとした手触り。でもどちらがいいかと聞かれても、どちらも素晴らしい。まさかどちらも欲しいとは言えないし…。

「柚羽の良い方で、仕立てましょう。私も殿や春霖の晴れ着の仕立てがあります。あなたには御針を教えますから、一緒に作りましょうね…」

 胸が知らず、踊り出しそうになった。どきどきと高鳴って、喉から飛び出そうだ。

「あ、あのっ…お方様…」
 声を絞り出して、かろうじてそれだけを必死に言った。

「なあに?」

「こちら、ふたつともお借りして宜しいでしょうか? どちらにするか、しばらく考えたいのですが…」

 おずおずと切り出すと、秋茜様はその愛らしい言葉ににっこりと微笑まれた。ホッと胸をなで下ろす。

 

 そして、柚羽は夜が来るのを待った。

「何だよ、居所まで来て呼び出すなんて」
 もしかすると、同僚の者からからかわれたのかも知れない。少し憮然とした余市が夕闇の中に現れた。使用人の寄り所まで、ついつい来てしまった。余市が仕事を終えるのを待てなかったのだ。

 柚羽はそれに対して詫びることもせず、すぐさま、彼の目の前にふたつの畳紙を並べた。そして怪訝そうにこちらを見つめる濃緑の瞳に微笑みかけた。

「ねえ、どっちが…私に似合うと思う?」

「…え?」
 余市は頬を赤らめながら訊ねる娘に、戸惑いの視線を向ける。いきなり明るい屋内から闇に出てきて目も慣れていない。

 柚羽はたどたどしい手つきで、包みの紐を解き、中を開いた。春色の明るい色彩の織物が現れる。柚羽がこの絹を見るのはわずか半日の間にもう数え切れないほどだった。どちらもそれぞれ異なる変わり織り。同じくらい美しくて、どうしても自分で決められない。お方様が今回仕立てない方もあなたに差し上げますから、また改めて仕立てましょうねと仰った。それでも駄目なのだ。

「あのね、お正月の晴れ着にしなさいって、御主人様が見立ててくださったの。ねえ、どっちがいい? どちらが似合うと思う?」

 余市は品物の見立てが上手かった。多分、彼のささやかな給金で求めるものなど、その金額もそれほどではないと思う。でも手渡してくれる品はどれも素晴らしくて、侍女仲間の中でも羨ましがられた。

 余市なら、大切な晴れ着を選んでくれる。余市が選んでくれたものがいい。

 柚羽は期待を持って、答えを待った。

 余市が、一度こちらを見る。ちらりと、向けられた瞳が何とも言えなく潤んでいる気がした。それから、絹を静かに見つめてため息を付く。

「…余市?」
 思わず心配になって、その顔を覗き込んでしまった。

 柚羽の視線に気付いたのだろう。こちらに向き直った余市がふっとその顔に笑みを浮かべた。

「…どちらでもいいと思うけど。選べと言うなら、柚には橙かな?」

「そう? うん、分かったっ!」
 柚羽はためらいもなく橙の方の絹を手にすると、そっと肩に掛けて余市に微笑みかけた。

「どう? 本当に似合う? 私、綺麗に見えるかしら」
 余市が選んでくれたから、この絹が一番に合う気がした。もう柚羽の心には迷いがなかった。だから、その時の余市が何だかいつもと違う態度だと言うことも余り気にならなかった。

 

◆◆◆


 年の瀬の夕暮れは喧噪の中。柚羽にとっては余り縁のない賑わう街並み。思ったより時間が押してしまって、焦って帰途についていた。

 両手で大切に抱えている包みは色とりどりの飾り糸と帯紐、そして薄もの。午後のお務めを急いで終えて、お昼寝中の春霖様を乳母に頼んで。顔なじみの侍女に聞いた下の集落の店まで来ていた。買い物にも時間がかかったが、それよりも大変だったのが飾り紐の修理だった。
 その道の上手がいると聞いたが、なかなか見つからない。綺麗に織り上げられた細紐が使い込んでいくうちにほつれてきてみっともなくなってきた。普通だったら捨ててしまっても、なにかをまとめる紐として使用してもいいかも知れない。でも柚羽は出来ることなら、直して使いたかった。結び目が取れて落ちてしまった飾り珠もみんなきちんと取ってあった。

 空が赤く染まっている。夕餉の御膳を運ぶのは知り合いの侍女に頼んでおいた。でも、早く戻らなくちゃ…と気が焦る。下町の道は入りくんでいてよく分からない。

 すううっと、冷たい気がまとわりつく。かなり冷える様になったので、今日は重ねではなくて上掛けというものをまとってきた。重ねは絹を縫い合わせたものだが、上掛けはその表地と裏地の間に綿を入れる。少し重くはなるが、暖かい。それでも前の合わせからひんやりとした気が入り込んでくる。

「…ええと…」
 身をかがめて、足元を見て歩んでいた。ふと顔を上げて驚く。目の前の風景が何だか違う。たくさんの建物が道の両脇に軒を連ねているのは変わらないのだが…そのどれもが見慣れない。店だったら表の戸を大きく開けて客を招き入れる。でもここは…どこも木戸をしっかりと閉じている。それなのに、何故か人の気配はする…。

 

 …どこからか見られているような落ち着かない気持ち。

 

 柚羽は着物の前を合わせると、腕の中の包みをきゅっと抱え直した。髪がさらさらとなびいた。

「よぉ、ねえちゃん」
 背後の、ごくごく間近で声が飛ぶ。最初、自分にかけられた声だとは思わなかった。

「そこ、歩いてるあんただよ。牡丹の上掛けの…ちょっと待ちな」

 はっとして、足を止めて振り返る。髭面の浅黒い肌の大男が立っていた。

「あのっ、…何でしょうか?」
 思わず息を飲んだ。目の前に立たれて、壁のようだ。つんと酒の匂いがする。いくらかの距離があるのにこれだけ匂うと言うことが、この者が量を過ごしていることを物語っていた。何だか足元もふらふらしてる。

 …怖い、と思ったその瞬間に。ぐいっと腕を取られていた。突然、体中の自由を奪われた感じ。腕1本を掴まれただけなのに、身体が硬直して動かなくなった。べたべたした生臭い感触。それが汗なのか他の液体なのか分からない。

「何だ、子供か。まあ、いいだろう? あんた、いくらだ?」

「…は?」
 言われている言葉の意味が分からない。それに掴まれている腕がギリギリと痛い。早く離して欲しい。そう思って動かすと、まるで逃すまいと言うようにさらに食い込んでくる。

「いくらだって、聞いてんだよ? 答えろよ?」
 血走った目がくわっと大きく見開かれる。自分の顔が青ざめて行くのが感じられた。

 男の背後に彼に似たような着流しの男たちがぽつりぽつりと姿を見せていた。まるで雨上がりの地に草が芽吹いて育つように…何もなかったところに突如どこからともなく湧き出て来た…者たち。

 …うそっ…。

 話には聞いたことがあった。夕方から突然賑わう、男たちの場所…遊女小屋。そこは普通の町屋と背を合わせるようにあり、道をひとつ入り込むと紛れてしまうこともある。気を付けなければならない。

 足元がガラガラと崩れていくようで、立っているのがやっとになる。掴まれてる腕ががくがくと揺れた。

「す、すみませんっ…あのっ…違うんですっ!」
 顎が震えるが、かろうじてかすれる声を出す。あらん限りの勇気を出して、この場を切り抜けなければと思った。泣き崩れてしまうほどの恐怖を隠して。

「何が? 違うんだよ!?」
 でも、その姿はかえって目の前の男の色めいた欲望に火を付けてしまった。

「俺様が可愛がってやるって言ってんだよっ!? 大人しくしろっ!!」

 ……っ!!

 体中から吹き出た叫びは言葉にならなかった。

 男の、もう片方の腕がにゅっと伸びて。次の瞬間に柚羽の胸元に届く。胸ぐらを思い切り掴まれて引き寄せられる。有無を言わせぬまま、はだけた胸元に顔を押しつけられた。吐き気を覚えずにはいられない、酒と体臭の交じり合った生臭い匂い。

 もがいても、もがいても、ほどけない腕。こんなのは嫌、これだけは嫌だと思った。でも、柚羽の頼りない力など、立派な体格の男の前ではあまりにも非力だ。侍女はその主人を守るため、常に胸に懐刀を忍ばせていた。でもそんなことはこの男にはお見通しなのだろう。きっと柚羽が遊女として客取りをしているのではないと言うことも分かっている。

 男にとってはまたとない上玉だったのだ。商売女ではない、それも…多分、生娘。それも身なりから見て、御領地の侍女に間違いないだろう。領下の者にとっては御領地の御館様の元にお務めする侍女は手に届かない女子だ。彼女たちは高貴な方のお手が付くかも知れない。そんな女子なら余計モノにしたくなる。

 胸の懐刀に手を伸ばされたら敵わない。そのために柚羽の両腕を無骨な指がしっかりと掴み取っていた。その上で、腰に手を回されて押さえ込まれる。小柄な柚羽の身体がふわっと浮いた。草履が片方脱げた。

「…やああああっ…!!」
 思い切り首を左右に振った。このまま行けばどうなるか、柚羽にでも分かった。そうなるのだったら、死んだ方がマシだと思った。でも、どうしたらその思いを遂げられるのか、それも思いつかなかった。

「…騒ぐなっ! 殺されたいか!?」
 そう凄まれて、言葉を失う。この男にどうにかされるなら死んだ方がいいと思っているのに、殺されると思うと黙ってしまうのはどういうことなんだろう。男が足を速めたのが分かる。その勢いに柚羽の髪が舞い上がる。髪の先が気に絡みついて止まればいいのに。そんなことをぼんやりと考えた。

 やがて。戸口の前に立った男は荒々しくそれを叩く。すぐに待ちかまえていたように開かれる。

「…いつものところでいい」

 もうひとり、人がいるのだ。抱きすくめられて視界を閉ざされても、薄暗い屋内に引きずり込まれたことが分かる。こんな、どう見ても尋常じゃない状況で淡々とやりとりをするなんて。それが間貸しの商売だと分かっていても恨みたくなる。

「…ほらよ」
 急に目の前の視界が開けた。開いた障子の隙間から身体を投げ込まれる。どっと崩れた先は、薄べったい布団の上だった。うつぶせに倒れ込むと安っぽくて湿っぽい臭いが鼻を突く。

「へえ、いいもん持ってるじゃないか…」
 投げ出された拍子にほどけた包みから飛び出したものを目ざとく見つけて、男がいやらしく笑う。

「やあっ! それは駄目っ! …返してっ!!」

 思わず伸ばした両の腕を後ろ手に取られて、男が手にした紐で縛り上げられる。自分を押さえつけていたあの太い指が信じられない手つきで。

「あんまり暴れるとやりにくいしな。ま、せいぜい楽しませて貰うぜ…」
 ぐいっと肩を掴まれて、仰向けにされる。ほとんど闇に包まれた部屋に男の双眼だけがギラギラと光っていた。