…6…

 

 

「…震えてんのか、そんなに怖いか…?」
 そう言いながら。男の口の端が上向く。あざけるような微笑。こんな吐き気がするほど嫌な笑顔を見たのは生まれて初めてだった。

「そんな目で見るなよ? どうせ、遅かれ早かれ誰かお偉いさんのモノになるんだろ? その前にちょっとお味見と行こうじゃないか――」
 そう言いながらこちらに伸びた腕が、袷を乱暴に掴んで左右に開く。ひんやりとした気が素肌にまとわりつくよりも早く、思い切り胸のふくらみを掴まれた。

「…やああっ! やめてっ…やめてくださいっ…!!」
 痛みよりもおぞましさが体中を走って、鳥肌が浮かび上がる。腕は背中でびくともしない。足も押さえ込まれて身体でのしかかられて。

 ――もう、駄目かも知れない。

 そう思ったとき。

 にわかに、がたんがたんと入り口の方で物音がした。そんなことを気にすることなく、男がもう一方の胸に腕を伸ばしてきたとき。がっと男の背後の障子が左右に開いた。

「――柚っ!?」

 自分の目を疑った。信じられなかった。組み敷かれたその下で声を聞いて、はっきりとその姿を見た。

「何だ!? お前はっ!!」
 不意を付かれた男が忌々しげに振り向いた瞬間に、その巨体が吹っ飛ぶ。薄い壁に思い切り背中をぶつけて倒れた。

「柚っ…!! 帰るぞっ!!」

 大きく肩で息をしている。青ざめた顔、畳の上に草履のまま上がっている。その目は強い怒りを含んで、柚羽を睨んでいた。

「…あ…」
 咄嗟に言葉が出ない。大体、後ろ手に縛られて起きあがることも出来ない。

 そんな状況に気付いたらしい。余市は大股に布団のところまで歩くと、そんな柚羽を脇に抱える。傍らに転がっていた包みを手にするとそのまま、男の方を振り向きもせず部屋を出た。

 そして道をずんずんと行くと、町屋の切れた草むらに柚羽を降ろす。しっとりとした感触に自分を取り戻した柚羽がおずおずと見上げると、上から言葉が降ってきた。

「馬鹿っ!! こんなとこ、どうしてふらふらしてるんだよっ!! 何かあってからじゃ、遅いだろうっ!?」

 余市の全身から。怒りが溢れていた。周囲の気が色を変える程にそれは強くて、息を飲む。紐が緩んで抜けた手で胸元の襟を寄せて…それを握りしめた時、身体の奥から、どっと何かが湧いてきた。

「や…っ! やあああっ!! …やめてっ、嫌っ…!!」
 身体が大きく震え出す。慌てて自分の肩を抱いたけど、それを押さえることは出来ない。大きくかぶりを振る、髪が周囲に帯になって広がる。今まで押さえつけられていた恐怖が、一気に押し寄せる。気が狂いそうだ。

「柚っ…!?」

 端から見ても尋常じゃない荒れ方だったのだろう、なだめようとしたのか伸ばしてきた腕に、柚羽は容赦なく爪を立てた。ぎりっと音が出るほどに食い込んで、くっきりと浮き上がったその軌跡に血が滲む。その痛みに一瞬、唇を噛んだ余市が、しかしすぐに腕を回して柚羽を抱える。その慣れ親しんだぬくもりの中で、もがいて腕を胸を思い切り叩いた。それでも余市は腕を解かなかった。

 力の果てるまで。もう腕が上がらなくなるまで。それを続けた。やがて上がった息に胸が詰まったとき、初めて自分以外の嗚咽を耳が捉えていた。それが、自分のものではないと気付くまでにも時間がかかった。自分も泣きじゃくっていたから。ぼろぼろと泣きながら、拳を打ち付けていたから。

「柚っ…、柚…っ!!」
 すすり泣く声の間に自分の名が呼ばれる。

「もう大丈夫だから、…大丈夫、安心して…」
 腕が、身体が大きく震えている。多分、柚羽よりも…ずっと激しく。荒く波打つ心音、吐息。

 それに腕を回す。背に回した腕で上掛けを掴む。ひんやりとした布地の下にある確かなぬくもり。それに届いた気がして、ホッとした。もう大丈夫だと思えた。ようやく動悸も収まってくる。それでもとめどなく流れ落ちるもの。
 しばらくの間、暖かい腕に守られて泣きじゃくった。余市は何も言わないで、そっとそんな柚羽を支えてくれた。ようやく泣き声が止まったことを確認して、彼は口を開いた。その指が柚羽の髪の間を流れていく。

「どうして。こんな遅い時間に…」
 少したしなめる口調が途中で途切れる。柚羽の腕に巻き付いて痕を付けた、細い紐をその視線が見つめた。

「これ…」
 そのまま言葉が止まる。柚羽は何だか恥ずかしくなって、俯いてしまった。

「壊れちゃったの、だからどうしても元に戻したくて…」

「柚…」
 余市は柚羽の手のひらごと、その紐を掴んだ。

「こんな紐に気を取られて、遅くなったのか? いいじゃないか、こんなものの…ひとつやふたつ…」

「良くないもんっ…!」
 柚羽は大きくかぶりを振った。それから涙をたくさんためた瞳で、余市を見上げた。

「だって、余市がくれたんだもん。一番最初にくれたものだから、大事にしたかったの…」

「それなら。俺は用事でこっちの町屋にはいつも来るんだから、頼んでくれれば」
 恨みがましくさえ思える声で、余市が呟く。口惜しそうに。

「あのね、年の瀬で、少しだけ給金を頂いたの。だから直しやさんに行けるなって思って…そうしたら、もう我慢が出来なくて。だって、一番気に入っていたんだもの、これ」
 そして、手の中の紐を愛おしそうに見つめる。それだけで余市が結ってくれた様々な髪を思い出した。菊のように大きく飾った結び、鳳凰の尾の様に流れる造形…余市の手に掛かると、信じられないくらい綺麗になれた。だから、飾り紐が好きだった。

「また、結んでくれる? お願いしていい?」
 目の前の余市が大きく頷く。それだけで胸がいっぱいになった。

「さあ、帰ろうか?」
 余市が立ち上がるとそっと手を差し伸べてくる。柚羽もそれに応じながら、ふと思った。

「あ、…ところで。余市はここまでどんな御用事で来たの? もういいの?」
 
 柚羽の言葉に。余市がハッとしたように顔を背けた。その仕草を不思議に思いながら、落ち着いた心で改めて目の前の人を見る。いつもの水干と小袴ではない、普段着の小袖と袴、上掛けのスタイル。仕事ではなく遊びで来ていたのだと分かった。

 そして。見つけてしまった。小袖の内側に…もう一枚の赤いうすものを。それが襟の下からちらっとだけ見える。

「…あ…」
 思わず、伸ばしかけた腕を引っ込めて、口元を覆った。信じられない面もちで大きく目を見開く。

「もういいから。今日は戻る、柚を送るよ」

「え…そんなっ…」
 吐き捨てるような言葉に、首を横に振った。自分を居住まいである奥の居室まで送り届けるには片道で半刻ではきかない。もっとかかるだろう。それでもう一度、ここまで戻るのは大変だ。下男の寮には門限がある。朝も早いのだから。

「いいよっ、余市。私はひとりで帰れるから…」
 すすすっと後ずさりして、立ち上がる。余市から離れて。その仕草で、彼も柚羽が全てを知ったことを悟っていた。

「何言ってんだよ!? こんな暗がりで柚をひとりで帰せるわけないだろ?」
 少し苛立った声。大股にこちらに歩いてくる。

 その怒りを含んだ瞳の色にひるんだ。その怒りの意味がよく分からない。ただ、自分が彼の行動の妨げになっていることだけが分かる。

「でもっ…そんな。悪いから…っ!」
 あんなもの見たくないと思った。でも知らずに目が追ってしまう。赤いうすもの。


 それは。御領地の侍従や下男が女を買いに行くときに、身に付けるもの。柚羽もそれくらいは知っていた。普通、使用人の男たちは必要以上の金銭を所持しない。食事も衣類も御館から頂くし、住居も保証されている。だから必要がないのだ。

 しかし、男…とくに若い者たちはそれだけで済まない。御領地には御館様の親族を始め、お付きの侍女や下女などたくさんの女子がいる。だが、それらは神聖なものとされ、むやみに手を出してはならないのだ。御館様にお仕えしていると言うことは、御館様のもの。御館様以外が手を付けることは禁じられていた。もちろん使用人同士で夫婦(めおと)になる者たちはいる。でも、それを受理されるには、きちんと手続きを踏まねばならない。

 館では年の初め、いくらかの赤いうすものを男たちに配布した。それを身に付けて遊女小屋に行けば女を買える。それを渡すことにより、小屋の主人は御館様より金銭を頂けるのだ。いわばチケットのようなものだった。
 行く道で客を取る遊女たちにとっても分かりやすい手段だ。需要と供給が満たさせる。年若い柚羽などは理解できることではない。でも赤いうすものを忍ばせた男には気を付けるようにと言われていた。ただ、柚羽を襲った先の男はそんなものを身に付けない村の者だった。だからうっかりしたのだ。


 余市は体格も立派な当たり前の大人で…遊女小屋に女を買いに行くことなど当然だ。頭では分かっていた。いつか聞いたこともある。まだ秋茜様を娶る前の雷史様に連れられて、夜な夜な小屋通いをしたことを。

 聞いてはいたのだ。でも、自分を妹のように慈しんでくれる彼がそんなことをするなんて、信じたくなかった。まだ、柚羽は男女の恋に純粋に夢を見る年頃なのだ。
 
「あのっ、街道まで出たら大丈夫だから。…もう、いいから…」
 必死に言うのに、余市はぴくりと眉を上げて反応するだけ。どうしても柚羽を連れて帰るつもりらしい。

「柚――」

「やあっ! 離してっ!! …触らないでっ!!」

 必死に払いのけたら、その反動でぐらりと後ろに倒れた。湿っぽい土の上、自分の手のひらが吸い付く。涙を溜めた瞳で恐る恐る見上げると、余市が途方に暮れた視線でこちらを見ていた。

「…あ…」
 かすれた声が自分の体内から絞り出される。

 申し訳ないなと思った。女が欲しいのは男性の本能なのだから仕方ないじゃないか。ましてや、余市は…雷史様の側女であった美祢様に想いを寄せているのだ。叶わぬ想いを。そうは思っても、嫌だった。やはり関係を持つなら好いた人とがいい。そんな欲望を吐くだけのために女を抱くなんて。他の男は許せても、余市は許せなかった。

「…俺、本当に今日は帰る」
 余市はそう呟いた。

 そして肩から掛けていた上掛けをするっと足元に落として、小袖の片方の袖を抜く。何をしているのかと呆然と見ていると、肌着の上に付けていた赤いうすものをするするっと引き出して、そのまま地面に投げ捨てた。それを忌々しげに踏みつける。
 それから元のように襟を正して、上掛けを羽織ると。ちらっとだけ柚羽の方を見て、すぐに背を向けた。

「帰るぞ、柚」

 動けなかった。余市が踏みつけたうすものは恐ろしいほど価値がある。なんの変哲もない赤い布きれがたくさんの金と交換される。それを…どうして? もう訳が分からなかった。

「…柚?」
 いくらか進んで。柚羽の足音が付いてきてないことに気付いた余市が振り向く。まだ自信のなさそうな、悲しい目をしていた。

「帰ろうよ、柚」

 その瞳を見れば、立ち上がらねばならないと思う。しかし、それが出来ない。

「…ごめんなさい、あのっ…足がすくんで、動かないの…」

 思い出してみれば。小屋からここまでは余市が抱きかかえてくれた。さっき、立ち上がって後ずさったのは気力だけだったようだ。今までの恐怖で身体が言うことを聞かなくなっている。腰が抜けた、と言う状態か。下半身に力が入らなかった。

 余市の視線がこちらを向いて。たどたどしく柚羽の姿を辿っていく。それから、ためらいを含んだ足取りで探るように進んでくる。ざりっ、ざりっと土の上を滑る音が地面に腰を落とした柚羽にはひときわ大きく聞こえた。まるで、余市の心の音が響いてくるようだった。

「柚…」
 あと腕の長さくらいのところまで来て。余市は片膝を地に着いた姿勢で身をかがめた。

「あの、嫌じゃなかったら。背中貸すから、負ぶさって」

 黙ったまま、自分に向けられた瞳を見つめ返した。何て言ったらいいんだろう、分からない。今の自分の心の中を表現できる言葉を思いつかない。唇が微かに動く、でも声にならない。

 そうっと。

 腕を伸ばす。余市の方へ。

 その瞬間、ふうっと今までの緊張が解けたように、余市の頬が少しだけほころんだ。そして、もう少し傍まで来て背を向けた。そこに、身を寄せる。伸ばした腕をうしろから余市の首に絡めて。それを待っていたようにふわっと身体が浮いた。

 

◆◆◆


「ごめんなさい…」
 いくらか街道を進んでから。心地よい振動に揺らされながら、ようやく自分を背負ってくれている人に言葉をかけた。そこまではふたりとも無言だった。

 御館様の敷地内に続く道は冬になって草もまばらだ。暑い気候の西南の集落であってもやはりそれなりの寒波は訪れる。穀物を育てて出荷するのが主な産業だったが、その向こうが見えないほどに続く耕地も今は土を見せていた。ただ伸びかけたまま命をなくした枯れ草がぽつぽつとところどころに見えている。

 道の端には細くて長いススキのような雑草が伸びていた。春になれば、白い小さな花を付ける。さり気なくも愛らしいそれを見るために刈られずにいるのだ。葉も見た目は香料を取る舞夕花に似ている。そのためか「踊り草」と呼ばれていた。

「何で、謝るの?」
 歩みを止めることもなく、余市が答える。それは元の穏やかな彼のものだった。

「…分かんない。でも、ごめんなさい」
 柚羽はそう言うと、額を余市の首筋にこすりつけた。自分でもよく分からなかった、でも謝りたかった。

 それきり、また一頻りの沈黙が続いた。辺りはもうとっぷりと暮れている。実際、ひとりで歩くのは心細い道だった。冬の夕暮れ後の道には人影もない。御館ではもう夕餉の膳が居室に配られた後だろう。

 ねっとりと絡みつく夜の気は、帯のように身体にまとわりついてくる。余市の歩みに合わせて自分の髪が流れていくのが分かる。髪を伸ばして手入れするのは柚羽にとってはかかせない日課であった。早く伸びないかなと引っ張ったりもする。技巧を凝らした結びは長い髪に適しているから。
 それなのに、余市は以前ほどは柚羽の髪をいじらなくなった。お願いしても3回に1回くらいしか結ってくれない。それがつまらなかった。もしかしたら、自分以外の女子の髪を結っているのかと、ついつい見渡してしまう。どうして自分がそうしてしまうのかもよく分からなかった。

 柚羽をあの部屋で抱えたときも、こうして今、おぶってくれているときも。余市は軽々、と言う感じだ。まあ、柚羽は小柄な方なので、女子でも軽い方だとは思う。とは言っても、それなりの重みはある。近頃、急にお育ちになった春霖様は抱きかかえると腰に来るほどずっしりとする。あのお小さい方ですら、重いのだ。この街道を少し坂を上りながら自分を背負うのはやはり大変だと思う。
 でも。柚羽は余市の方から「降りて」と言われるまではこうしていたかった。余市の広い背中は暖かくて居心地が良くて。こうしてずっと揺られていたかった。

「あのね、余市…」
 色々なことがあった。その疲れがどっと出てくる。とろとろと、今にもまどろんでしまいそうだ。そんな中で柚羽はまた話しかけていた。

「何?」

「やっぱり…侍女は、御館様のお召しがあればお断りが出来ないの? 御館様だけじゃないでしょう…この地にいらした方が望めばそこに差し出されることだってある。そう言う時って、絶対にお断りできないの?」
 
 今日みたいな男が自分を望んだら、もうどうしていいのか分からない。侍女は始終、人目に触れている。今までは自分のような子供に興味を示す者がいるとも思えなかったが、そうでもなくなっているらしい。少なくともあの男はそう言うつもりだったのだ。

 にわかに恐怖が芽生えた。今日は余市が来てくれた。柚羽の足から落ちた草履を見つけて、後を追ってくれたと言う。そこには余市がくれた飾りの紐が結んであったから、すぐに分かったという。本当に幸運だった。でも、いつもこんな風に上手く行くわけがない。そもそも御館様に召されたら、助けることなど出来ないだろう。彼にもそうするつもりはないだろうし。

「う〜ん…」
 余市はしばらく考え込んでいた。また、何かひどいことを言って、傷ついている柚羽を刺激したくなかったのかも知れない。

「お断りするのは…無理だろうね。そう言うものなのだし…」

 その言葉に柚羽の胸がぎゅっと痛んだ。侍女の全てが御館様のものになるわけでもなく、お客様に召されるわけでもない。全体の半数も行かないだろう。それでも、こういう恐怖にさらされた後の柚羽には辛いひとことだった。

「あ、でもね…」
 そんな柚羽の変化に気付いたのだろう。余市が慌てて付け加える。

「逃れる方法が、ないとは言えないよ?」

「え? そうなのっ!?」
 柚羽の声に少しばかりの明るさが戻ってきた。余市の背にいることを忘れて身体が弾んだので、ずり落ちそうになって慌てる。くすりと笑った余市が慌てて揺り上げてくれた。

「やはり世の男は、基本的にまだ誰にも触れられてない娘を望むものだから。自分が気に入った侍女がいてももうその娘が誰かのものだったら…それを知った時点で興味を失うことも少なくないね。そう言うことも多いんだよ?」
 酒宴の席で接待をすることの多い余市は良く知っているようだった。その話しぶりにも真実味がある。

「誰かのもの…」
 その言葉の意味が分からないほど、柚羽は子供ではなかった。自分に経験はなくとも、御主人様とお方様の閨の始末だってするのだ。ある程度は心得ていた。

 口の中でその言葉を反芻しながら、暖かい背中に揺られる。心地よいだるさ。ふうっと、気が遠くなる。

「ねえ、もしもなんだけど…」
 もう眠くて頭が働いてはいなかった。ただ何となく口をついて出てきた言葉。

「私に、もしもお召しがあったら。もう余市のものだって、言っていい? そうしたら、閨に上がらなくて済む?」

 しっとりと重みを増した柚羽の身体を余市が柔らかく揺り上げる。

「馬鹿。…そんなこと軽はずみに言うもんじゃないよ」

 その時に、こぼれ出た言葉を。柚羽は眠りの淵で聞いたような気がした。