…7…

 

 

 もう正月の準備も整いつつあった。

 柚羽は奥の居室の年賀の支度と共に、御館様の屋敷にも手伝いに行かされた。細々とした食器の手入れ、丁寧に和紙で包まれた正月用の特別の皿や椀を取り出す。何気なく手にしたものが、秋茜様の婚礼の日に一度見たきりの金銀の文様のたくさん入ったとっくりだったのには驚いた。思わす手から落としそうになって慌てた。

 そのほか、奥方様の御部屋で御衣装の準備もする。さすがに西南の集落・大臣家の重臣。雷史様のお父上の御正妻様だけあって、その御衣装も素晴らしい。雷史様のお父上は羽振りが良くて、金倉にはたっぷりの金銭があると聞いていた。それを自分のたくさんの妻たちにも惜しげもなく振る舞う。彼にとっては金を捲くことが権力の象徴であった。
 奥方様の御衣装は従ってキラキラときらびやかなものが多い。雷史様の御母上様でいらっしゃるから、お年を召されてもお美しい御方だ。余り皺もなく、綺麗に塗られた白粉が艶々としていた。

「母上が飾られるのは、正妻としての自分を誇示するためなんだよ?」
 いつだったか、奥方様のお美しさを誉めた柚羽に、息子である雷史様がそう仰ったことがある。

 愛されて、美しいのではない。正妻としての地位を守るために飾るのだ。あんな身なりをしているから、若い侍女に負けるのだとは言われたくない。そう思わせるほど、雷史様の御父上であられる御館様の女遊びは盛んだった。

 奥方様の御衣装の手入れは侍女たちにとって楽しみであった。そこで取り出される御衣装の数々。痛んだものや時代を遅れたものが棚から出されてくる。それを侍女たちが頂くことになるのだ。皆、手入れをしながら気もそぞろ。なるべく好みの御衣装を自分の近くに寄せたりしている。
 そんな同僚たちの目の色が変わった姿を少し涼しげに見つめていた。御衣装の蔵に入り込んで悪さをする雷史様の幼い弟妹君方の御相手を引き受けながら、柚羽は早くお務めが終わらないかなと考えた。

 

◆◆◆


 今夜はお務めが長引いているのだろうか。なかなか余市の姿が見えない。柚羽は植え込みの中を行ったり来たりしながら、もう半刻もそこにいた。深夜に近い屋外はしんしんと冷えて、衣から出た素肌は痛みを覚えるほどだった。それでも、もうちょっと、もうちょっと…と思いながら待っていたのだ。

 やがてすたすたと軽い足取りで、余市がやってくるのが見えた。他にも下男の格好をした男はいくらでもいる。でも柚羽はどんなに遠く離れたところにいても、余市を見つけることが出来る気がした。
すらっとした長身はひときわ目立っていて、そのせいも大きい。でもそれだけではない。弓の名手と言うだけあって、すっと伸びた背筋。きびきびとした身のこなし。見まがうはずもないと思った。

「…柚?」
 余市の声はいくらかの驚きとそれから非難の色を含んでいた。あまり夜更けてから、軽々しく出歩くものではないと言われていたから。

「何してるの? そんなところで…」

「余市を待っていたの」
 植え込みからぴょこんと頭だけを出して小首を傾げる。そんな姿を怪訝そうな彼の視線が追った。

「ねえ、見て見てっ!! …ほらっ…!!」
 柚羽はおもむろにすっと立ち上がると、そのままくるりと身を翻した。

 橙の重ねがふんわりと舞う。その上でさらさらと赤毛が滝のように広がった。

「やっとね、出来たの。自分で縫ったのよ? お方様に教えていただいて…ね、綺麗でしょう? どう?」

 明るいタンポポ色の織り文様が一面に入った絹。全身が花に包まれているみたいだ。色目を合わせて黄色と黄緑のうす衣を下に着て。それを今風に少し多めに出した。すっごくきれいだと思った。姿見に映した自分の姿。

「ねえ、余市…?」

 綺麗だよって、言ってくれると思っていた。だから期待を込めて、にっこりと微笑んだ。意識してそうしなくても自然と笑みがこぼれてくる。

 それなのに。余市は自分より少し離れたところに突っ立ったまま。にこりともしない。そのものを映していないような瞳がするりとかわされて、それからぽつんと言う。

「…御主人様は? 何て仰ったの?」

「え…?」
 思わず、大きく目を見開いていた。何で、いきなりそんなこと言うの。

「御主人様にはまだお見せしてないわ。仕立て上がって、すぐにここに来たのだもの」
 誉めてくれないことに少しばかりの苛立ちを感じていた。裏切られた気分でちょっと泣きたくなる。余市は悪くないのに。

「御主人様が下さった絹でしょう? 最初にお見せしなくちゃ駄目だろ?」
 ちら、とだけこちらを見て。その瞳が少し怒っていた。

「でもぉ…。だって、選んでくれたの、余市でしょう? だから…最初に見せようと思ったのに…。似合ってない? 私、綺麗じゃないの?」

 しゅんとして、俯いてしまう。すごく悲しかった。自分では似合うと思った。着付けを手伝ってくださったお方様も素敵だって言ってくれた。でも、余市がこんな風にしかしてくれないんだったら。

「そ、そりゃ…綺麗だとは、思うけど…」
 伏せた目のまつげが揺れている。聞こえるか聞こえないかの小さな言葉だった。

「そう…」
 もう、柚羽の方は涙を堪えているだけで精一杯だった。でも、出来る限りの元気を出して、もう一仕事しなくてはならない。

「あ、いいや、もう。…じゃあ、あのっ、これ。受け取って、くれる?」
 柚羽は植え込みの中に隠していた畳紙の包みを差し出した。ずしりとする。

「…え?」
 いきなり差し出されたものを、戸惑いの表情で余市が手にする。

「何?」
 そして、柚羽の顔を覗き込む。

 もう、恥ずかしくて、余市の方を向いていられなかった。渡してしまうとすすっと背を向けて、小さな声で言う。

「あのっ…余市にもお正月用の晴れ着。下手だけど…私が縫ったの。ごめん、本当に上手じゃないの…あんまりひどいところは、お方様が直してくださったから…その、良かったら、着てみて…」

 それから、恐る恐る振り返る。そしてぽかんとした表情の余市と目があって、また、慌てて目をそらした。

「じ、じゃあ…お休みなさいっ!!」
 そのまま、一目散に駆けだした。余市が畳紙の結びを解くところも、そして中を改めるところもとても見ていられなかった。

 

 自分の晴れ着を縫い始めて。お方様が雷史様の為に整えている御衣装に知らず目がいった。男物の絹、どれも素晴らしくて。そんな中で鮮やかな紫のものがひときわ目を引いた。
 そして、思わずお願いしてしまったのだ。余市のためにそれを頂けないかと。自分で仕立てるから、正月用の晴れ着にさせて貰えないかと。お方様はとても驚かれて柚羽を見ていた。お方様としては、余市には雷史様の着古したものを何枚か正月用におろしてやろうと思っていたようだ。
 でも、柚羽は頑張った。今まで、余市にはたくさん迷惑を掛けている、お土産だって貰っている。でも自分からは何もしていない、何か御礼がしたい。
「でも…」とお方様が言いかけた。多分、それはこんな意味を含んでいたのだろう。この地で殿方の御衣装を準備するのは妻の役目である。新しく仕立てた衣をまだ縁付いていない男に贈るなど、はしたないことだ。困った顔で微笑まれた。
 それでも、柚羽は余市の衣を仕立てたかった。だから、自分の衣を仕立てて、少し慣れると余市の衣を縫う。そんな風にして、自分の衣は練習台で…2枚の重ねを忙しい年の瀬に必死で仕上げていたのだった。

 

 仕立てているときは必死だった。でもこうして手渡す段階になったら、恥ずかしくて。どうしていいのか気が動転してしまった。胸が痛いくらいに高鳴って、クラクラした。冬なのに、奥の居室の前まで辿り着くと、息が上がって、じんわりと汗ばんでいた。

 それきり、その重ねのことはお互いに言いっこなしだった。年賀の席でも余市は新しくはあったが、いつもの下男の水干と小袴で、少しだけ期待していた柚羽はがっかりしてしまった。
 でもその後で…西南の大臣様の年賀の席で行われた賭弓(のりゆみ)で 余市が紫の重ねを羽織っていたと雷史様が仰った。何にも言ってはくれなかったけど、一度でもいいから着てくれた。そりゃ、寂しかった。でもそれでもう、いいかと思った。

 

◆◆◆


 季節は、また移ろう。秋茜様は冬の終わりに今度は女の御子を御出産された。雪茜様だ。色白の秋茜様にそっくりな赤さまで誰よりも雷史様が夢中になられた。お陰でお兄様になられた春霖様のご機嫌は最悪で。もう柚羽以外のお付きの者を寄せ付けないので大変だった。

 春霖様は何故か余市がお嫌いだ。御父君である雷史様にはべったりだから、何も殿方がお嫌いという訳ではないらしい。しかし、余市が奥の居室に来ると、追い出さんばかりの癇癪だ。柚羽と言葉でも交わそうものなら、ものをぶつけるほどの剣幕になる。

 遙か向こうから、余市が奥の居室を目指してやってくるのが分かる。柚羽の姿を見つけると、「春霖様は、いる?」と言うように身振りで聞いてくる。柚羽が頷くと、手にしていたお使いものはそこに置いて去っていく。その後、姿が見えなくなってから柚羽がそこまで取りに行くのだ。そんな日々を過ごしていた。

 

◆◆◆


 向こうが霞む花の宵。暖かな気が陽が落ちた後も漂っている。そんな中、柚羽は走った。御館様のご自慢の御庭は花の盛りで美しかったが、そんなものはどうでも良かった。

 ただ、悲しかった。信じられなくて。

 だから、走った。嫌がられてもいいから、下男の寄り所まで行って、余市を呼びだして貰おうと思っていた。

 そして、向こうから見慣れた人影がひとりで歩いてきたときは、神様に心から感謝したい気分だった。

「…柚?」

 驚いて歩みを止めた人の胸に飛び込んだ。崩れてしまいそうな身体を支えるために水干の胸元をぎゅっと握りしめる。その自分の手ががくがくと震えていた。

「どうしたの? 柚?」
 余市の方は訳が分からなかったのだろう。それにまだ宵で、いくら人通りの少ない道とは言え、誰かが通りかからないとも思えない。彼の声にはそんな焦りもあるようだった。きょろきょろと辺りを見渡す気配。

「助けて…っ! ねえ、助けてっ、余市っ!!」
 そう叫ぶ柚羽の目から、ぼろぼろと涙が溢れてくる。でもそんなことに構ってはいられない。柚羽は泣きじゃくりながらも余市を見上げた。首が痛くなるくらいの身長差をもっても。

「柚?」
 ただならぬ雰囲気に、余市が瞬きしている。

「あのっ…、秋茜様がっ…、お方様が。竜王様の御館にお移りになるんですって…亜樹様の二人目の御子様の…乳母に選ばれて…」

「え!?」
 余市は、まさか、と言う様に目を見開いた。

「そんなはず、ないでしょう? お方様は雷史様の御正室様で…亜樹様の御子の乳母になったら…あの、もうここにはいらっしゃれなくて…」
 聞き違いじゃないの? と言う感じで。そう答えてくる。

 でも柚羽は涙をまき散らしながら、大きくかぶりを振った。もうだいぶ腰を過ぎている髪が大きく揺らめいて。辺りに帯になって漂う。

「だからっ! お方様は、雷史様と離縁されるの。新しい御正室様を頂くんですって…私は、お方様の侍女だから、出来れば一緒に来て欲しいって…!!」

「そんなっ…そんな、馬鹿な…」

 余市とて十分に存じている。雷史様がどんなにか秋茜様をご寵愛なさっておいでかを。お二人の間には他の者が入り込む余地がないほどに、深く愛し合われている。それがお二人のお近くにお仕えする柚羽と余市には分かっていた。
 でも柚羽の態度から、戯れ言ではないと分かる。しかも西南の大臣様・邇桜(ニオウ)様のお申し付けだと聞けばそれがもはや決定であり、覆せないことだと分かる。余市自身もこの信じられない事実に呆然と立ち尽くしているようだった。

「ねえ、どうしようっ! 余市、私、竜王様の御館なんて行きたくない、ここを離れたくないのっ!! どうしよう、余市っ! ねえ、助けて、どうにかしてっ!!」

 信じたくなかった。事実だと分かっていても、嘘だと言って欲しかった。どうして? どうして、行かなくてはならないの? 行きたくない、だって私はずっとここにいるんだもの…!!

 柚羽はただ大声で泣きながら、余市にしがみついた。小さな手のひらをその背に回して、ぎゅっと抱きつく。ぬくもりを感じていなかったら、不安で崩れ落ちてしまいそうだった。

「余市…っ、助けて…」
 しゃくり上げながら、必死でそう訴える。すうっと冷たい気が流れ込んできた。

 

「あの。柚…」
 そう言うと。余市がぐっと柚羽の肩を掴んで、その柔らかい重みを自分の身から剥がした。

「ごめん、俺、まだ仕事があるから…」
 そう言うと腕を離して、すっと背を向けた。

「え…? あのっ…余市?」
 思っても見なかった態度に、柚羽の涙も一瞬止まっていた。余市の高い場所で結わかれた髪が揺れている。

「待ってよっ! …あのっ…、余市っ!!」
 もう、訳が分からなくて。必死で引き留めようとした。

 そんなはずはない、そんな…。

 柚羽は信じていた。自分が泣いて訴えれば、余市は必ず背中に腕を回して抱きしめてくれる。そして髪をその長い指で優しく梳きながら、言ってくれるのだ…「大丈夫だよ、柚」と。

「余市っ…!」
 さっさと行ってしまう背中に必死で叫ぶ。すると余市は足を止めて、ふっとこちらを向いた。心の見えない目で。

「柚、そんなにここにいたいなら。この場所を離れたくないなら…雷史様に頼んで側女にしていただけば? 雷史様の女子になれば、もう一生ここにいられるでしょう…」

 それだけ言うと。そのまま背を向けて、大股で歩いていってしまう。

「よい…ち…?」

 呆然と立ち尽くした柚羽の目からは、また新しい悲しみがあとからあとから溢れ出てきた。もう、立っていることすら出来なくて、がくりと膝を落としてしまう。さらさらと自分の髪が頬を覆った。自分の回りに朱色のカーテンが降りたように。

 

 嘘だって、叫びたかった。信じられなかった。

 

 余市? …余市は、私がいなくなってもいいの? 私ともう会えなくなっちゃって、それでいいの? 私は嫌、離れたくないっ…。どうして言ってくれないの? 柚がいなくちゃ駄目だって。ずっと傍にいてくれって、どこにも行くなって…っ!!

 地面に手を付いて。冷たい土の感触を手のひらに確かめる。生臭い、生命の臭いがした。

 何で、雷史様のことなんて言うの? 関係ないじゃないのっ…、雷史様のことなんて関係ない。私は余市がいればいいの…余市が一緒にいてくれたら…あるじゃないの、私がずっと余市といられる方法が。そう…余市が、私を…。

 

 柚羽ははっと我に返った。

 自分の中にあった、自分の知らない心にいきなり触れていた。身体ががくがくと揺れて、もう収まらなくなった。

「余市が…私を?」

 その時、柚羽は気付いたのだ。自分の中にある、ひとつの想いを。今まで、気付いていなかった一番大切な気持ちを。そんな想いを抱いていたなんて、今の今まで気付かなかったのに。

 …私は、余市が、好き。

 

 確かに、雷史様は素敵な方だと思う。お側にいるだけでときめいてしまう。でも、それは憧れでしかない。雷史様は柚羽の御主人様でしかないのだ。
 いつの頃からか思っていた。雷史様が秋茜様を想うように、あんな風に愛されてみたいと。宝物のように大切に扱われてみたいと。雷史様が秋茜様を見つめる眼差しは本当にとろけるように甘くて、あたたかで。あんな風に見つめられてみたかった。溶けてしまうくらい、愛されてみたかった。

 …そう、余市に。柚羽にとって、その相手は、そうして欲しい人は余市だったのだ。

「柚」
 そう名前を呼ばれて。見上げると、優しい笑顔がはにかんでいて。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。ずっと一緒にいるんだと思っていた。ご夫婦である御主人様とお方様のお付きなんだから、お二人が寄り添われるように自分たちもずっとずっと…そう、そうして、いつの日か。
 いつか、余市が自分をひとりの女子として見つめてくれることを、特別の存在として見てくれることを、待ち望んでいた。余市のために綺麗になりたかった。余市が見てくれると思えば着飾るのも楽しかった。触れて欲しくて必死で髪の手入れをした。思わず触れたくなるような美しい髪になって、豊かに伸ばしたら、きっと余市は毎日でもこの髪を結ってくれるかも知れない。そう思っていた。

 気が付かなかったが…そう、思っていたのだ。

 でも、いつの頃からか余市は余り髪に触れてくれなくなる。抱きしめてくれることも少なくなった。声を掛けても少し迷惑そうな顔をする。

 どうしてなんだろう、何がいけないんだろう。どうしたら、余市がちゃんと私を見てくれるの? 一人前の、余市の相手になれる女子として。余市が、そう思わずにはいられないほどの、素敵な女子になりたかったのに…。

 

 ずっと、ずっと…余市の傍にいたかった。微笑みかけて欲しかった。

 柚はどこにもやらないよって…言ってくれないの? 私、余市のものになりたかったよ。一番大切な女子になって、余市にずっと愛されてみたくて…。


 急に、背中がぞくぞくっとした。自分の中に芽生えたあまりにも信じられない想いに唖然とする。

 そんなこと、そんな大それたこと。叶うはずもなかったのに。

 余市が好きなのは雷史様の愛妾であられた美祢様だ。この頃ではもう、雷史様に愛されることもないが、それでもいつでも身ぎれいにして主様のお戻りを待っていらっしゃる。匂い立つようなお美しい女子様だった。女の柚羽から見てもドキドキしてしまうほどの素敵なお人で。そんな御方に敵うはずもないのに。いくら頑張ったところで張り合えるはずもないのに。

 強引に解かれた腕が全てを物語っていた。余市にとっては迷惑な話だったのだ。

 涙は後から後から溢れてきて、地面に吸い込んでいく。それがいつか染み通らないくらいになって、小さな水たまりが出来た。でも、それでも柚羽の涙は留まることを知らなかった。

 

 やっと、気付いた。その瞬間が、同時に柚羽の恋の終わりだった。

 いや、終わりではなかったのかも知れない。永遠に叶うはずのない想いを抱えて歩き出す瞬間。悲しい恋の始まりだった。