…8…

 

 

「今、まさに鷺百合は盛りでしょうね。きっと素晴らしいわ」
 昼下がり、身支度を整えるために戻った寮の部屋で。同室の瑠璃が鏡に向かいながらそう言った。

「そう…?」
 柚羽はどこかぼんやりしながら、鏡に向かって綺麗に紅を差す友人を見ていた。

 そのままでも抜けるような白い肌を持つ瑠璃はいつでも丁寧に白粉をはたき、鮮やかに紅を入れている。うっとりするくらい綺麗な女子だった。侍女の中でもひときわ目立っている。少し大人っぽくて、色めいた感じで。柚羽は背も低くて子供っぽかったから、本当に羨ましかった。

「やあねえ、そんなにじっと見ないでください」
 瑠璃が頬を赤らめて振り向く。ぷうんと甘い香りが辺りに漂った。

「あれ…?」
 柚羽はハッとした。この香りには覚えがある。どこかで嗅いだことがある…。

「あ、お分かりになる? これはね、南峰の集落で取れるちょっと変わった紅なの。だからいつもと香りが違うでしょう…?」

 そう答える口元の紅の艶やかさ。それを眺めていて、ようやく思い当たった。

 …美祢様の、お化粧の匂いだ。

 思わず胸が高鳴っていた。美祢様がいつも付けていた紅の香り。美祢様と同じ…。
 そうは何回もあちらの居室には伺ってない。それでも御主人様の所用があって、出向くことがあった。とても印象深い香りだったので覚えていたのだ。

「ねえ、瑠璃様っ! あのっ、私にもその紅を少しさして頂けない?」

「え…?」
 瑠璃はいきなりの言葉にきょとんとしてから、少ししてふんわりと微笑んだ。

「いままでいくらお化粧を勧めても、そんなこといらないと仰っていた方が。そう言う風の吹き回しでしょう…、まあ、宜しいわ。そこにお座りになって。わたくしが腕によりをかけて、お美しくして差し上げるから…」

 友の言葉に促されて、柚羽は椅子に腰掛けていた。

 

◆◆◆


 あんなことがあって以来、柚羽は余市とは顔を合わせることが出来なくなった。出立の日は近づいていく。逃れられないことだとは分かっていた。それに、もうここにいても仕方ないのだ。辛くなるだけなんだから。
 それでもお務めの最中は気を張っている。御主人様やお方様だって、御心を痛めていらっしゃるのだ。出来る限り明るく何気なく振る舞っていた。

 それでも。

 居室の外に一歩出ると、ひとりでにぽろぽろと涙がこぼれてくる。自分の意志とは関係ないところで心が泣いているようだった。慌てて、居室の裏手に回って気が落ち着くのを待った。心に重い岩がたくさん詰まって、それを抱えて歩くのが辛くてたまらない。

 居室の外壁に背中をくっつけてうずくまると、さらさらと髪が脇から前に流れてくる。その美しい流れも疎ましかった。もう、2度と櫛なんて入れなくていい。綺麗になんてなりたくない。そう思ったら余計泣けてきた。
 柚羽がこの地に来てから3年がたっていた。11歳の童女だった彼女も、いつしか年相応の華やかさを身に付けていた。それを自分自身が気付くことはなかったが。山に咲く赤い百合、それが雨に打たれたようにうなだれている。わずかに色づいた頬がとめどなく濡れていく。

 

 振り返りもせず。こちらを気にすることなく去っていった背中。その歩く速度以上に彼は急激に遠ざかった。どんどん柚羽の手に届かない場所に行ってしまう。目を閉じれば、その光景がありありと浮かんできてまた、涙が溢れてくる。

 

 涙を拭いて、ようやくお務めに戻ろうとして、ふと視線に気付く。顔をその方向に向けると、遙か遠いその場所に立っている人がいた。水干と小袴姿のその人は柚羽が気付いても、それを気兼ねすることなどないように視線を逸らさない。あんまりに遠くて、どんな表情でいるのかも分からない。でも、ずっとこちらを見ていた。

 最後に見せたのは泣き顔だった。だから気にしているのかも知れない。優しい人だから、冷たくしてしまったことを気に病んでいるのかも。そうは思っても、そちらに微笑みかけることなど出来なかった。凍った表情のまま、静かに視線を逸らす。ちくりと胸が痛んだ。

 

◆◆◆


 日に何度、そう言うことがあったのだろう。気が付くと、深まっていく春よりも早く、いよいよ出立の朝が訪れる。その日まで、とうとう余市とはひとことも交わすことがなかった。はっきりと表情が分かるほどに傍に寄ったことすらない。柚羽も意識して余市を避けていた。

 

 あの、解かれた自分の腕。引き剥がされた身体。瞬間の心が引きちぎれるほどの痛み。思い出すだけで苦しくて、息が止まりそうだった。どうしてこんなにも悲しいのだろう、もう何もかもうち捨ててしまいたいほどの衝撃を覚えている。自分が今までどんなに余市を頼って、余市の存在を支えにしていたか。今、それを思い知らされる。こんなこと、一生知りたくもなかったのに。

 このまま、永遠に会えなくなってしまえばいいのだ。そうすれば、記憶が薄れていつか忘れられるかも知れない。心の中から余市の存在を追い出すことが出来るかも知れない。早くそうなって欲しかった。そう思うのに、目を閉じればあの時の冷たい瞳が浮かび、吐き捨てるような言葉が響いてくる。全くの悪夢だった。

 

 雷史様がいらっしゃらないと気付いたのは明け方のことだった。

 その晩、西南の集落の最後の夜、柚羽は湯桶の番をしながら、うとうとしていた。いつもなら、閨の睦み合いのあと頃合いを見て呼ばれる。御身体を清める湯桶と手ぬぐい、そして場合によってはお召し替えをご用意する。それは侍女にとっての大切なお務めだった。
 何度も湯を温めなおしながらその時を待ったが、一向に御声がかからない。とうとう、今までの疲れが出て眠ってしまったのだ。

 ハッと目を覚まして、辺りを見渡す。薄暗かった窓の外が白んでいる。午前中の出立だった、もう支度を始めなければならない。ふいに乳母の部屋の方から春霖様の泣き声がするのが、柚羽の耳まで飛び込んできた。
 お小さい若様にあっても、周囲の人間のただならぬ空気を敏感に感じ取っていらっしゃるらしい。ぐずぐずとむずかっていらっしゃる。お話を伺うと「父上を呼んで欲しい」と仰る。仕方なく柚羽が奥の部屋を覗くと、そこに眠っていらっしゃるのは秋茜様だけだった。

 念のためお側に畳んであった御衣装もなくなっている。ちょっとどこかに行かれたのかと思ったが、半刻過ぎてもお戻りにならない。さすがに不安になってきた。春霖様も一段と手が付けられなくなってきた。お方様を起こして御支度する時間も迫っている。

「ちょっと…外を伺ってきます」
 柚羽は急いで身支度を整えると乳母にそう告げた。

 

 このまま、御主人様がいらっしゃらないわけはない。御主人様とお方様は心底愛し合っていらっしゃるのだ。だったら、時間の許す限り、お互いのお側にいたいはずだ。なのにお言葉もなくどこかに行かれるなんて…。
 居室の外はもう明るい光に満ちていた。旅立ちにはふさわしい天候だ。でも柚羽には妙な胸騒ぎがした。だから、ためらうこともなく足を向けた。行くべき場所はひとつだった。

「――柚…」
 その人は、柚羽が目的地にもうじき辿り着く、と言うところを歩いていた。こちらに向かって。

「どうしたの? 息を切らせて…何かあったの?」
 朝靄の中から、その姿が現れたときは、思わず我が目を疑った。きっちりと髪を高く結い上げて、いつもの下男の装束に身を包んで。1週間前に別れたままの彼がそこにいた。そして、あの時のまま、こちらを見ていた。

「…あ…」
 柚羽の目から、もう涙が溢れていた。両手で、口元を覆う。そうしないと震える唇まで見られてしまう。

「柚?」
 その場に立ち尽くしたままの柚羽に、戸惑った表情で近づいてくる。そこにはあの時の冷たさなんてなくて、いつもの溢れるほどの優しさが宿っていた。その温かいものがまっすぐに近づいてくる。それでも、一歩も動くことが出来なかった。

 もうちょっとで伸ばした指先が届く、と言う距離まで余市が近づいたとき。柚羽はようやく、口を開いた。胸が詰まって声を出すのも大変だった。

「あのっ、御主人様を知らない?」

「…え?」
 余市は質問の意味が分からないように、何度か瞬きした。それから確認するように訊ねてくる。

「だって、昨日の晩も奥の居室でお休みになられたのでしょう? 俺は今、御主人様のところに御用を伺いに行こうと思って…」

 その言葉には少しがっかりした。余市なら、何か知っているかも知れないと思った。だから、こうして訪ねてきたのに…。柚羽は小さくかぶりを振った。

「ううん…確かに明け方まではいらっしゃったのだけど。私がつい、うとうとした間にどちらかに行かれたの…しばらく待ってみたのだけど、お戻りになられなくて。若様も、むずかっていらっしゃるし…早くお探ししようと思ったのだけど…」

 一体どちらに行かれたのだろうか? 不安が募る。そのまま、青ざめた表情で俯くと、きゅっと唇を噛んだ。

「…柚…」
 かすれる声が耳元で響く。甘くて、切なくて、余市だけの音。大好きな音。その瞳を見上げることは出来なかった。もし、見たら、また期待してしまう。何も知らないうちなら良かった。でも今は自分の気持ちを知っている。期待のその先に、何倍もの落胆があることも。だから、優しい響きだけ耳に受け止めて、身を固くすることしか出来なかった。

「泣かないで、柚…」
 どうしたらいいのか、途方に暮れた声。でも、柚羽の涙は止まらない。留める術を知らない。それでも、柚羽は今は泣きたいだけ泣こうと思っていた。

 だって。…この涙は悲しいからではなくて、嬉しいから溢れてくるんだから。

 胸がじんじんした。名前を呼んでくれるだけで、どうしてこんなに温かいのだろう。どうしてこんなに幸せになるんだろう。冷え切っていた心がほんのりと色づく。忘れられる筈などないじゃないか。こんなにちょっとしたことで、この人の少しばかりの行為で、こんなにも心が安まるのに。自分の心の向く方向は余市にしかないのに。

 もう、傍にいられない。声を聞くことも叶わない。それでも、この気持ちを止めることは出来っこない。たとえ実らぬ想いでも、この胸に抱き続けることは可能だ。私はずっと…ずっと。

「柚…頼むから…っ…」
 苦しげな声。かすれている。でも、それすら、自分に向けられた言葉だと思えば愛おしい。自分だけに与えられるものならば。

 この涙が、ずっと止まらなければいいと思った。ここでずっとふたりでいられるなら。その時…

 ふわっと、柚羽の周りが温かくなった。柔らかくて大きなものが柚羽をすっぽりと覆ってしまう。そう思った次の瞬間、優しく抱きしめられていた。触れるか触れないか、と言うくらいの淡い抱擁。そのぬくもりが、匂いが、柚羽に新しい涙を誘う。しがみついて泣き崩れたい衝動を必死で押さえながら、柚羽はただ、身を任せていた。

「…柚」
 かすれる声、絞り出す音。耳を揺らす吐息。夜明けの透き通った気の中で、そこだけが切り取られた空間のように。出来ることなら、この瞬間に晴れていく朝靄とともに光の中に溶けてしまいたかった。

「大丈夫だから、柚。俺が、雷史様を探すから。必ず、探すから…柚は安心していて。居室に戻って準備して…もう泣かないで、柚…」

 そんなこと言ったって。止める方法なんてない。手の甲でごしごしと顔を拭って、静かに身体を離した。広い胸にそっと手を付いて。自分からこの身を剥がすしかなかった。

「…いき、平気、大丈夫っ…」

 全然、平気でなんてないんだけど。これ以上、心配をかけたくなくて。無理にでも、そう言う振りをしたかった。

「――柚…っ」
 歪んだ視界に映る余市が、離れる柚羽を追うようにそっと腕を伸ばした。それがまるで「行くな」と言ってるみたいで、胸が詰まる。それは自分の勝手な期待でしかないけど。

 それから。ふうっと、静に息を吐いて。伸ばしかけた腕をそのまま自分の袂に戻した。そこから何かを探る。

「……?」
 柚羽は、黙ったままでその仕草を見ていた。

「これ…」
 そう言いながら、目の前に差し出されたもの。朝の光に輝いて、キラキラと眩しくて。

「え…?」
 それに手を伸ばすことは出来なくて。袂の袖の中で自分の手をぎゅっと握りしめた。

「余市…これ…?」
 視線を逸らしてもその輝きの残像が残るような美しさ。柚羽はそっと余市を見上げた。その目には戸惑いの色を濃く浮かべて。

 だって。余市の手にあるものは。

 色とりどりの金糸を寄り合わせたそれはそれは見事な飾り紐であったから。これほどまでに見事なものを柚羽はお方様のお道具箱の中ですら見たことがなかった。糸は完全に織り合わせられてはいない、所々を編み込んで飾り珠で止めてあるだけの房で。だから、糸の1本ずつの滑らかな輝きが見事だった。

 触れることすら躊躇してしまう。何故なら、このような房のままの飾り紐は普通の糸でこしらえることは出来ない。いや、もちろん作っても構わないのだが…ただの絹糸などでは駄目なのだ。どうしても糸同志が絡み合ったりして見苦しくなってしまう。だから、張りのあるまがい物ではない金糸でなければならなかった。
 細く細く伸ばしたものではあっても、金糸は金糸。金そのもの。糸のように加工するのも本当に大変な技巧だと聞く。ほんの1本の金糸で1年分くらいの給金が飛んでしまうのではないか? その様なものを何十本も寄り合わせたこの品が、一体どれだけの価値があるのか、柚羽には分からなかった。

 そう知っているからこそ、触れることすら怖かった。

「柚…?」
 柚羽の動きが止まったままだったので、不思議に思ったのだろう。余市がおずおずと話しかけてくる。

「…どうしたの? これ…?」
 自分たちのような庶民に手に入るものではない。どうして余市の手にあるのだろう? 分からない。触れてみなければまがい物かどうか分からない。金色に加工しただけの糸なら、ずしっと来る。でも本物の金糸は軽いので見た目よりもずっと軽い。手に持てばそれが分かる。柚羽はその輝きだけで、このものがただの品ではないと察していたのだ。

「柚のだよ。今朝、渡そうと思っていたんだ」

「…え…?」
 柚羽は大きく目を見開いて余市を見つめて、それからよろよろと半歩下がっていた。

「頂けないわ、こんな高価なもの。私にはとても似合わないもの…」
 西南の大臣様のご息女ですら、身に付けることが出来るか分からないような品。柚羽にはその価値がいかほどであるかすら、想像できないもの。畏れ多くて、怖くて、思わずかぶりを振った。

「そんなこと、言わないで。柚のために作ったんだから。昨日の晩、ほとんど寝てないんだ…結構大変だったから…」

 え? その言葉にまた驚かされる。

「余市が…自分で? 自分で作ったの?」

「うん。金糸は…母親の形見。これだけは俺の財産だから、家から追われるときに持ち出してきた。だけどただの糸だったから。紐に加工するには特別の方法で編み込んだり、それなりの飾り珠が必要だったり…材料がね、なかなか揃わなかったから、こんなにギリギリになってしまってごめん」
 余市は悲しそうに呟いた。

 柚羽は成り行きがようやく飲み込めた。裕福な生家を持っていた余市。糸問屋だと言っていたから、質のいい金糸も扱っていたのかも知れない。その奥方が金糸を持っていても不思議はない。息子の行く末を考えて、もしもの時に使うように持たせたのだろう。

「柚…受け取って。柚のために、作ったんだから。柚が貰ってくれないと困るんだ」

 そう言われたって、受け取れない。これはいわば、余市の全財産ではないか。こんなものを貰ってしまえるわけがない。黙ったまま、ぼんやりとその美しいものと余市の顔とを交互に見つめた。言葉が出なかった。

「柚…」
 余市が口の中で小さく、力無く呟く。それから、立ち尽くしたままの柚羽にそっと腕を伸ばした。

 柚羽の肩がぴくんと跳ね上がる。何をするのだろうと思っていると、余市は柚羽の脇の髪を一房すくい取ってそこに手にしていた紐を丁寧に結んだ。編み込んだりもせず、簡単な蝶の結びだった。もう片方も同じように結んでくれた。結ばれたことは感覚で分かったが、実感は感じられなかった。とても軽くて。本物の蝶が止まっているみたいで。

「余市…」
 柚羽は困り果てて、その名を呼ぶ。でも、目の前の人はその涼しげな瞳にうっすらと笑みを浮かべていた。

「やっぱり、とてもよく似合うよ…柚の髪に結われているときがきっと一番綺麗だね。本当なら、お年賀の晴れ着に合わせられれば良かったのだけど。間に合わなくて、ごめん…」

「え…」
 その言葉にまた驚かされる。そんなに前から、考えていてくれたのか。どんな顔をしたらいいのだろう。にっこり微笑んで、ありがとうとはとても言えない。でも、怖いくらい嬉しかったのも事実だ。

 余市がくれる物は何でも嬉しかったけど、最後にくれるものがこんなに素晴らしいものだなんて。品物のそのものの美しさは元より、余市が材料を探し集め、毎日のお務めが終わったあとに少しずつ造ってくれた物なのだから。
 

 結ってくれた髪はいつかほどけてしまう。でもこれはずっと美しいかたちを保ってくれる。余市が傍にいなくてもその息づかいが寄りの編み込みの中に入っているみたいに。


「でも、普段こんなものとても結べないわ、身の程知らずだと思われちゃう…」

 柚羽が拗ねたようにそう言うと、余市がくすりと笑った。少し緊張が解けたみたいに。

「大丈夫だよ、柚はこれから竜王様の御館に上がるのだから。それはそれは目のつぶれるくらいきらびやかな世界だと聞いているよ。これくらい飾って丁度良くなるから…」
 そこまで言うと、くるりときびすを返す。

「じゃあ、御主人様が行かれそうな場所を探してみるよ。必ずお連れするから、安心して。柚は奥の居室に戻っていて…」

「あ…う、うんっ」

 そうだ、時間がなかったのだ。こんなところで長いこと油を売ってしまった。軽やかに走り去る背中。髪に結んで残されたわずかな重み。旅装束には不似合いなそれをゆっくりと解きながら、柚羽の心は色々な想いに溢れていた。

 でも。

 ひとつだけ確かなことは、もう一度、余市に会えると言うことだ。余市は必ず御主人様を見つけてくれると言った。だから、待っていれば必ずやってくる。柚羽はただ待っているだけでいいのだ。

 

◆◆◆


 出立の時間になり、大勢の屋敷の者たちに見送られる。その時も余市も、そして御主人様も姿を見せなかった。もう少し、今しばらく待てば必ず現れる。だから待ちたかった。

 でも、雷史様のお父上である御館様が、そんな柚羽の想いを踏みにじる。あまり遅くなっては先方に迷惑だから、早く行けと言うのだ。今までもこの男を快く思っていなかった柚羽であったが、またも憎らしく思えた。まるで追い出しているみたいじゃないか。そんなことってあっていいものか。
 御館様はついこの間、大々的に春霖様の袴着の儀を執り行われた。この家の新しい跡取り様として、春霖様を皆に知らしめたのだ。それなのに、手のひらを返したようにその春霖様を今回の旅に同行させる。秋茜様としては春霖様だけでもここにお残しになりたかったご様子だ。その願いは聞き届けられなかった。
 全く、腹ただしいことだ。御館様は新しく西南の大臣様が下さるご息女を心待ちにしていた。雷史様にとってこの上ない良縁だと両手ばなしに喜んでいたと聞く。

 

「…参りましょうか、柚羽」
 秋茜様のその声に、従うしかなかった。でも、その瞬間ですら、まだ柚羽は期待していた。全然悲しくなかった。誰にも告げずに心に隠していたが、余市と約束したのだ。必ず、来てくれる。雷史様をお連れして。


 そして、街道を半刻ほど歩いて、ようやくその姿を遠方に認めたとき。ああ、やはりという安堵の気持ちでいっぱいだった。