…9…

 

 

 最後の別れをしに来たのだとばかり思っていた雷史様が、秋茜様とご一緒に竜王様の御館に向かわれることとなったと聞いて柚羽は仰天した。雷史様は、御主人様はあの家の跡取り様なのに。西南の大臣様の覚えもめでたく将来を約束されている御方だ。それが…竜王様の御館に上がられるというのは、その今までの生活を全て捨ててしまわれると言うことで…。
 それなのに、雷史様のすっきりとしたお顔。秋茜様の嬉しそうなお顔。おふたりのお姿を遠目に見て、本当に羨ましく思った。

 

「…柚?」
 いきなり、背後から声をかけられて焦った。その方を振り向くと、少し落胆した顔。

「どうして取っちゃったの? 綺麗だったのに、もったいない…」

「だって、旅の装束にあまりきらびやかなのは良くないわ。…それに」
 柚羽はちょっと困ってしまった。あんなに皆が見送りに来てくれる場に、ひとめで本物だと分かる美しい紐を結んでいられるだろうか? 恥ずかしくてとてもそんなこと出来なかった。

「それに?」

 言おうか言うまいか、少し考えた。そして、思い切って口を開く。

「私、あの紐は難しくてもう結べない。手がするする滑ってしまうの」
 奥の居室に戻って、一度だけ鏡の前で挑戦してみた。余市が綺麗だと言ってくれた自分が見てみたかったのだ。でもただですら不器用な柚羽の指は完全に軽やかな紐に遊ばれてしまった。

「何だ、そんなこと」
 余市が喉の奥でくすっと笑う。

「やっぱり、柚が綺麗でいるためには、俺が傍にいないと駄目なんだね」

 

◆◆◆


 話には聞いていたが、やはり想像を遙かに超える豪奢な御館。息が止まるほどお美しい御庭。それらに呆然としているうちに竜王様の御館での生活が始まる。雷史様もそのお付きである余市も、お役目を頂いた。お庭番や通用門の警護などを担当する外回りの侍従の見習いだ。西南にいた頃は主従関係にあったふたりもこの地では立場は同等。それは柚羽とお方様も同様だった。
 
 柚羽は南所の侍女としての任に付いた。南所とは竜王様の御館をいくつかに分けたひとつの呼び名。その名の通り南に面している。そのほかには現竜王様がいらっしゃる東所、来客の方をお泊めする西所、祭壇を奉った北所、そして式典を催す中央の客座があった。

 南所は次期竜王候補としてそのお役目についていらっしゃる亜樹(アジュ)様とそのお后様の沙羅様の居所になる。亜樹様は西南の現大臣様のご子息で、やはり赤髪。お方様はもともとはこの方の御側女(おそばめ)であられたのだ。
 亜樹様にはお二人の御子様がいらっしゃる。お一人目は姫君で、お二人目が柚羽がこの地に来てからお生まれになったお世継ぎ様。男君であらせられるのでゆくゆくは竜王の座に就かれるかも知れない御方だ。お方様はその方の乳母となったのである。

 所帯を持った使用人たちは狭いながらも御庭の先に点在する居室を与えられる。そして単身者は寮に入ることになる。柚羽は泊まりの仕事の多い若様付きの侍女であったから、御館の南所の中にある部屋を与えられた。相部屋で一緒になったのは北の集落から来た瑠璃だった。お方様と雷史様の居室には西南から連れてきた春霖様の乳母夫婦がいて、お世話をしてくれる。
 昼間は春霖様も南所にいらっしゃることが多い。上の姫君の良い遊び相手になった。姫君様の乳母である多奈様にも春霖様と同じ頃に産まれたお子様がいらっしゃる。やんちゃな春霖様は遊び相手がたくさん出来てとても楽しそうだ。

 慌ただしく過ぎていく日常。あっと言う間に月日は過ぎゆく。

 男子寮は御庭の奥の方にあって、柚羽の足では半刻近くかかった。それにたくさんの、本当にたくさんの殿方がいる。何だか怖くてそちらには足が向かなかった。西南にいた頃は、人目に付くところでは親しげにしなかった。お互いに遠慮して、周りの人に悟られないようにしていた。御館の侍女は全て御館様のもの、御館様の許可がなければ、妻に娶ることも叶わない。そんな暗黙の了解があったのだ。
 それが、この地に来て。周りの使用人たちが誰の目を憚ることもなく堂々と付き合っているのに驚いてしまった。人前で手を繋いで、頬を寄せ合う。こちらが恥ずかしくなってしまうような行為も平気で行うのだ。最初はそんなあからさまな行為にこちらがドキドキしてしまった。でも夕暮れ時の薄闇の中、夕餉の膳を返しに行く頃などはもうそう言う光景に出くわさないように歩く方が難しいくらいだ。

 自分の居住まいが南所に移ってからは、余市とも以前のように3度の食事ごとに顔を合わせることはなくなった。西南にいた頃は余市が雷史様の御膳を運んでくれたので、受け取るときには二言三言の言葉を掛け合うことになる。それが今では1日に一度、下手をすると顔を合わせないまま1日が終わることも少なくなかった。
 そうなってみると寂しいものだ。家族と遠く離れた時のような気分になる。だから外回りの侍従たちが通りかかるようなときは知らないうちにその姿を探す自分がいた。すらりとした体型に赤毛は遠くからも良く分かったから。

 かの地にいた頃にはよく知らなかったが、種族によって髪の色も体型も異なってくる。多種族のるつぼと化したこの都、竜王様の御館では海底国の様々な集落から集まった多種多様な者たちがお務めに就いていた。
 柚羽の同僚である瑠璃は「北の集落」の出身。ここは黒い髪に陶器のような白い肌を持ち、細身で背もあまり高くはない。昔からこの集落のものは竜王様にお仕えするものが多かったから、ほとんどの侍従や侍女が黒髪で占められていると言っても過言ではない。現竜王様の一の侍従であられる多岐(タキ)様もここの出身であった。南所で姫君様の乳母を任ぜられた多奈様はその方のお孫様に当たられる。

 柚羽たちの産まれ育った「西南の集落」は代々竜王家との姻戚関係を結ぶことが多く、それによって勢力を拡大していた。亜樹様のお母上であらせられるのは西南の大臣・邇桜様の御正妻様。その方は竜王様の姉君様である。
「竜王」という地位は世襲制で、普通は竜王様の御子の中から次の御方が選ばれる。特別のご教育を受けて、その地位に就くのだ。しかし、現竜王・華繻那様にはただお一人の御子しかなく、その方は姫君でいらっしゃる。またお母上がこの地の者ではないと言われていた。
 その御方こそが亜樹様の御正妃様・沙羅様で、柚羽も立場上、お目にかかることが多くあった。どこか異国の香りのするような不思議な御方。全体的に色素が薄いのか肌も透き通るように白く、髪も薄茶。どこまでもたおやかで高貴な御美しさだ。

 西南の大臣様はそんな沙羅様を快くは思っていらっしゃらなかった。本当なら、竜王様の正妃様はご自分の御妹君が立つことになっていたのだ。それもあって、異質な者の娘である沙羅様では力不足と言い、竜王家の血も引くご自分の御子を送り込んだのだ。
 そう言う過程はあったにせよ、亜樹様と沙羅様の仲睦まじさは本物だ。雷史様と秋茜様に勝るとも劣らない、と柚羽は密かに思っていた。南所にお務めしていれば、始終そんなお二人のやりとりを目の当たりにすることになる。そのせいか、南所の侍女は縁付くのが早いと言われていた。

「西南の集落」の民はがっちりした体躯で赤毛に褐色の肌。「陽の民」と呼ばれているだけあって、生命力に溢れていた。武芸の名手も多い。余市もここに来てすぐに弓の腕を認められて、皆から一目置かれるようになっていた。雷史様はもとより長刀の名手。その華麗なる舞い姿は惚れ惚れするほどだ。

 他にも金の髪の者、銀の髪の者…様々な者たちがいる。しかし、余市は特別だった。どこにいてもすぐに見つけられる。
 侍従見習いとなった余市は西南にいた頃のような下男の服装ではない。王族の方々には遠く及ばないながらも小袖に袴、重ねと言う服装になる。それがこの頃では雷史様と並ぶほどの上背になってきた彼にはとてもよく似合っていた。すっとした涼やかな目は少しつり気味、でも意地悪い感じではない。深い濃緑の瞳がどこまでも穏やかで優しくて。すうっと吸い込まれそうだった。

 あ、余市だ、と思う。でも声はどうしてもかけられない。柚羽は自分から彼の元に行くことをしなくなっていた。いつの頃からか分からなかったが、よくよく考えてみると…あの、悲しい夕暮れからである気がする。そう、強引に腕を解かれ、身を剥がされ、ひとり残されて泣き崩れたあの宵。あれから、柚羽はとても臆病になってしまった。

 余市の方も初めのうちはこちらに気が付いても、ちょっと右手を挙げて合図するくらいだった。柚羽にとってはそれだけでも十分だったし、嬉しかった。余市の目がしっかりとこちらを見ている。それを知るだけで胸が詰まった。

 いつのまにかそれがだんだん変化してくる。他の若い侍従たちが自分の恋人を見つけて親しげに傍に寄るように、余市も柚羽を見つければ近くまでやってくるようになった。別に何を話すわけでもない。御主人様やお方様のこと、春霖様のこと、そんな他愛のない話題を共有するためにやってくる。
 にこやかに微笑んで、まっすぐに歩いてくるその人をまともに見ることはもはや出来なくなっていた。遙か向こうで余市の重ねの袂が流れるのを見るだけで、胸が高鳴るのだ。それでも遠目ならいい、でもとても近くで、心臓の鼓動が聞こえるくらい近くで瞳を重ねたら、きっと想いが溢れだしてしまう。
 身長差のある人を見上げれば、その視線に届く前に彼の吐息が自分のまつげを揺らす気がする。そんなに近くに寄っているわけでもないのに。自分の髪がなびくのも、余市の微かな動きのせいな気がして。傍に寄れば衣からは懐かしい余市の匂いがした。もうその胸に抱きつくことも肩を借りることもなくなっていた。だから、柚羽にとって余市のぬくもりは思い出の中にしかなかったのだ。

 些細なことでも打ち明けて、困ったことがあれば一番に相談して。何から何まで頼りっぱなしで、余市がいないと心細くて仕方なかったあの日々。夜更けまで人目を忍んで大きな木の元で話を聞いて貰った。余市はいつでも穏やかな瞳で静かに自分を見つめてくれた。「大丈夫だよ、柚。俺が何とかするから」そう言って、包み込むように微笑んでくれた。涙が止まらなければ、髪に指を絡めてそっと抱き寄せてくれた。
春も夏も秋も冬も。いつでもふたりは一緒だった。そしていつまでも一緒なのだと信じていた。もうあの日々は戻らないのだ。

 余市は以前と少しも変わらずに温かくて優しいのに。柚羽の方が意識してしまって、上手く接することが出来ない。それでも声が聞きたいと思う、その姿が見たいと思う。それによって自分の胸が痛いくらい締め付けられることを知っているのに。


◆◆◆

 

「柚羽様と余市様って…特別のご関係なの?」

 時々であるが。仲間の侍女からそう訊ねられることがあった。初めてそう言う話になったときには一瞬、何のことを聞かれているのかもよく分からなかった。どうも他の侍女から探りを入れるように言われたらしい。柚羽は言葉に詰まって、仕事の手を休めるとぱちぱちっと瞬きした。

「西南にいた頃は柚羽様が秋茜様の侍女で、そして余市様は雷史様のお付きだったのよね? それなりに親しかったとは思うけれど、私たちから見てもそう言う関係には思えないし。だからそう言うようにお答えしたけど、宜しかったかしら?」

「え…、ええ」
 きっぱり言い切られてしまうと、それ以上は何も言えなくなる。それに彼女たちの言うことは正しい。自分たちは立場上、親しかっただけで…それ以上のことは。

「やっぱりね、全然脈がない人に言い寄っても仕方ないでしょう? もう奥様がいらっしゃる方とかも駄目ね。ここの御館の方々は竜王様の真似をなさるのか身が固い方が多いのですもの。若い方になればなるほど。本当ならね〜南所にお仕えしていれば、亜樹様からお声がかかってもいいくらいなのに…」

 衣のお手入れをしながら、若い侍女数名だけの気の置けない会話だった。もしも多奈様でもいらっしゃったら、一喝されるところだが、そう言う心配もない。それでも水菜(みずな)と言うこの西の集落出身の娘はぺらぺらと明け透けで、聞いてるこちらがドキドキした。

 海底の国では古来より身分のある殿方は正妻の他に何人もの側女(そばめ)を持つことが普通だった。側女の数が身分の高さを語っている、と言う者まであった。まあ、その意見もある程度は正しくて…側女を抱えて養っていくためにはそれなりの地位と財力が不可欠だった。
 そんな慣例に一石を投じたのが現竜王の華繻那様。地位も身分も後ろ盾もない異郷の地の女子を妻に娶り、彼女だけを愛した。お飾りだけでも、と用意された側女も頂かず、その御方がみまかられたその後もおひとりのままでいらっしゃる。
 沙羅様の御母上でいらっしゃる方だから、特にお美しい御方だったのだろう。それでもこの上なく高貴な御身分の方が生涯ただ1人の女子に心を寄せられる。あまりに情けないお姿だと非難の声も絶えなかった。

 そして、それは次期竜王様にほぼ内定している亜樹様にあっても同様だ。沙羅様をお迎えになる前は西南の集落から送り込まれた側女がたくさんいたという。秋茜様のそのおひとりであったのだから。しかし、沙羅様を正妃様に頂いてからは、それらの女子も里に帰し、お二人で仲睦まじくお過ごしでいらっしゃる。
 御父上であられる西南の大臣・邇桜様などはひどくご立腹のご様子であるが、御子様も次々にご誕生されて竜王家の将来は安泰であると言えるだろう。高貴な御方のこのような行為は上官の方にとっては悩みの種であったが、一方柚羽たちのような庶民にとってはとても親しみの持てることであった。地位や身分を誇示するために女を囲うなんて浅はかだと思う。どうしてそんなことが出来るのであろう?

 ただ側女になる、と言うことは…その女子の一生の生活が保障されると言うことだ。かつて雷史様の愛妾であられた美祢様は今でも西南のあの地に居室を与えられて何不自由ない生活を送っている。だからそういう身分に憧れる女子がいないわけではない。

 でも…柚羽はそれは悲しいことだと思っていた。美祢様のように…もしも自分の主となった方に去られたらその余生はどんなにかうらぶれて寂しいものか。美祢様ご自身はその様なお嘆きのお姿を人前にさらしたことはない。でも…その心中はいかなるものか。
 まあ、美祢様は雷史様の乳母の子であるから、どう転んでも正妻様に上がれる御身分ではない。だから側女として愛されるのが妥当であっただろう。…でも。

 あまり交流もなかった御方を今でもこうして時折思い浮かべてしまうのは、やはりその方が余市の想い人であると知るからだ。余市が心を密かに寄せる方だからこそ気になる。西南にいた頃は冴えない身分だった余市も今では竜王様の侍従として、だんだんその地位を上げている。腕の立つ者は昇格できる、身分とか家柄とかそう言うものに左右されない実力主義がこの御館の方針であった。今の余市ならば…美祢様を妻に迎えることだって叶わないことではない。
 そうじゃなくても。余市を狙っている年若い侍女は数え切れないほどいると思う。余市が賭弓(のりゆみ)に参加すると聞けばたくさんの女子が取り巻く。華やかに着飾ってその勇士を一目見ようとする垣根の遙か後ろで、こっそりと見物することしか柚羽には出来なかった。どんどん、余市が遠くに行ってしまう。

 女子の方から殿方に声をかけるなんて、西南でははしたないことだとされていた。でもここでは平気な顔をして女子が殿方を逢い引きに誘う。もちろん殿方の方からの方が多いが、女子の方から話を出したとしても取り立てて驚くことでもなかった。中には自分から側女に名乗りを上げる者までいるという。
 地方の集落の上官様がここに上がられたとき、閨に忍び込んだ侍女までいるという。一目見て気に入ってしまった御方の元に望んで自分の身体を差し出した訳である。もう、話を聞くだけで心臓が止まるかと思った。

 いつ余市が他の女子と縁付くか分からない。そうなることは止められなかった。柚羽はただ余市を遠くから眺めていることしか出来なかったから。余市が自分に気付いて傍に来てくれるときしか、近くに寄ることはなかった。そんな柚羽を瑠璃はあまりに奥ゆかしいとからかうが、他にどう出来るのであろう…?
 触れてくれることもない髪を必死で手入れして、抱きしめても貰えない身体を美しい衣で飾る。諦めたいのに、もうどうでもいいと思いたいのに視線が余市を追ってしまう。そんな日々を過ごしていた。

 柚羽から髪を結って欲しいとお願いすることもなかった。どんなにか触れて欲しいと思いながらも、ただきちんと手入れしてその時を待つことしか出来なかったのだ。余市はここに来て初めのころは、それでも気付いては髪を結ってくれた。綺麗に飾る侍女たちの中で、柚羽だけが地味なのは可哀想だと色々に結んでくれていた。でも、いつの間にかぱたりとそれが止んでしまった。
 だから今では、自分で結うか、寮が同室の瑠璃に頼むことにしていた。瑠璃も工夫して色々に結ってくれるが、余市には遠く及ばない。やはり余市は本当に腕がいいのだ。かつての希望通り遊女小屋の髪結いにでもなっていれば、今頃引っ張りだこになっていただろう。

 

◆◆◆

 

 最後に余市が柚羽の髪に触れたのは、もう何月も前のことになる。

 お年賀の席でのことだったから、忘れるはずもない。柚羽は雷史様と秋茜様の居室で祝われたささやかな西南風の正月の席に出ていた。少し遅れてやってきた余市を見たとき、思わず叫びそうになった。

 竜王様の御前での年賀行事に参列していたと聞いていた。でも、それなのにその席からまっすぐにこちらに来た余市が…あの、重ねをまとっているではないか。所々たどたどしい縫い目が見え隠れする、柚羽が初めて縫った衣。確かに絹は最高のものだったから、仕立てさえ良ければ竜王様の御前でも恥ずかしくなかっただろう。でも…。隣りにいらっしゃる秋茜様も、そんな余市の姿にはちょっと困ったお顔をなさっていた。

 今年の絹はひとり分、自分の分しか仕立てなかった。お務めが忙しかったこともある。でもそれだけの理由なら、同じ寮にも男物の晴れ着を仕立てている侍女はたくさんいた。皆、恋人に想いを込めて年賀の衣を贈るのだ。色目も柄もそれぞれだったが、そこに込められた気持ちは同じ。どんなにか羨ましいと思ったことか。あんな風に衣を仕立てることは…柚羽にとってはもう、叶わぬ夢である気がした。
 年末は侍女の仕事のひとつとして、亜樹様のお年賀の御衣装のお手入れもした。それらは皆、御針の名手であるお后・沙羅様が直々に仕立てられたもので素材のお美しさは元より、仕立ての正確さ、そして何より刺し文様のすばらしさが目に焼き付いて離れない。そんな時も柚羽が心内で思うのはそんな高貴な御衣装をまとっている余市の美しい晴れ姿だった。

「…柚」
 余市はかつての主人である雷史様と秋茜様に年賀の挨拶を済ませると、すぐにこちらに向き直った。

「せっかくそんなに美しい晴れ着なのに。どうして髪をきちんと結わないの?」

 その言葉に、柚羽は黙って下を向くことしか出来なかった。本当のところ「結わない」のではなくて…「結えなかった」のだ。頼みの瑠璃は年末から北の集落に戻っていた。御館の使用人の半数近くがそうで、何だかしんとした年賀だった。

 柚羽はもちろんあの時の金糸の飾り紐を取りだして、何度も試みた。今年仕立てた晴れ着もこの紐と色目をわざわざ合わせたと言ってもいい。この地に来て、今まで一度も結んだことのなかったそれも、年賀の席でなら許されると思ったから。でもするすると指が滑るばかりで、全然かたちにはならなかった。泣きたい気持ちで、とうとう断念したのだ。

「…いいの、誰に見せるわけでもないし。こんな内輪な席ですもの…」
俯いたまま唇をきゅっと噛む。余市はがっかりしたのだろうか? 自分はわざわざあの時の不格好な衣を着たのに、柚羽の方は…。そう思うと自分が情けなくて仕方ない。

「そうだね、内輪の席だものね…あまり派手なのも良くないか…」
 小さな声でそう言いながら、秋茜様の方を振り返る。

「お方様…あの、姿見はどこにありますか?」

「え…? 奥の部屋にはありますけど…?」
 余市がもう祝いの席に着くものだとばかり思って、膳の用意をしていた秋茜様が驚かれたお顔でお答えになる。

「少し、お借りいたします。…柚、行くよ?」
 ぐいっと、腕を取られた。訳も分からず、後を追う。姿見の前に一足早くやってきた余市は箱形の椅子をその前に運んでくる。それから袂を探って、入り口に立ち尽くしている柚羽に声をかけてきた。

「柚、座って。せっかくのお年賀じゃないか…簡単にだけど、結ってあげる」
 そう言いながら、手品のように色とりどりの細紐を取り出す。金銀、赤緑青…黄に紫――。 それらを柚羽の髪に当てて色を確かめながら選び取り、丁寧に結んでいく。
「簡単だけど」なんて嘘だと思う。とても手の込んだ、でも見た目はそれほどではない結びが完成した。

 余市の指が髪の間に差し込まれた瞬間から、もう柚羽は自分の胸の鼓動を押さえるのに必死だった。待ち望んでいた時間がようやく訪れたのだ。耳に余市の息がかかって、くらくらっと来る。鏡の中の自分はとても恥ずかしそうで可哀想だった。

「…余市…」
 柚羽はかすれる声でようやくその名を呼んだ。

「何故、その衣を着たの? もっと素敵なものを今年はお方様が下さったでしょう…? みっともないじゃないの、針目も曲がっていて…」
 柚羽ですら、自分用に仕立てた去年の晴れ着を着る勇気はない。畏れ多くも竜王様の御前で…何て格好を。それなのに、余市は穏やかな声でさらりと答える。

「何故、みっともないの? これは俺にとって、最上の衣だから。一番の晴れの席には絶対にこの衣じゃないと駄目なんだ」

 その言葉を聞いた瞬間。大声で泣きたくなった。泣いて、そのままこの人の胸に飛び込みたかった。…でも、それは出来ないことで。感情の高ぶりを必死で押さえるためにその後、無口になることしか出来なかった。

 

 結んで貰った髪は、出来ることならずっと解きたくなかった。どんなに乱れてもそのままにしておきたかった。でも寝ればどうしてもほつれてくる。そして、朝目覚めると結びが取れて髪に紐が引っかかっているだけの状態になっていた。

 それに気付いたとき、柚羽はほどけた自分の髪を握りしめて、誰もいない部屋で泣き出していた。

 

◆◆◆


「…ほおら、ご覧になって。素敵、柚羽様…まるでほころんだばかりの花のよう。本当にお可愛らしいわ…」

 瑠璃の声にハッと正気に戻る。綺麗な装飾に縁取られた鏡の中に、見たこともない娘が座っていた。確かに、綺麗だと思った。今までの自分じゃないみたいで。控えめに差された頬の赤みも、紅の色も。きちんと柚羽に似合うように調合してくれたようである。

 でも…。

「ありがとう、瑠璃様」
 そう言って俯いた柚羽を、多分、友は照れて恥ずかしがっているんだと思ってくれた。それが救いだった。

 

 もう一度髪を梳いて、衣を外歩き用に改めて、部屋を出た。明るい午後の光が辺りにキラキラと輝きを与えている。春は何もかもがうきうきと心躍る季節だ。ましてや、これから余市と鷺百合を見に行くのではないか。本当ならこぼれるような笑みをその表情にたたえた自分でいるべきなんだと思う…でも。

 鏡を見たとき、そこに映った自分の姿を見たときに思った。

 こんなの…余市の好きな顔じゃない。もっと、大人っぽくて、匂い立つような美女にならなくちゃ。そうじゃなかったら、振り向いて貰えない。こんなに幼くて子供っぽい姿じゃ、いつまでたっても「小さな泣き虫の柚」のまんまだ。こんなじゃ、全然駄目っ!!

 余市の馬鹿っ! 馬鹿馬鹿馬鹿っっ!! どうして余市は美祢様を好きになったの。あんなにお美しくて、素敵な方に一生、敵う筈もないじゃないのっ…!!

 考えたくなんかないのに、想像してしまう。今の余市の隣りに、美祢様はきっとお似合いだ。美祢様だって、一段と逞しく立派になった余市を見れば、お心を動かされるかも知れない。そう言えば、月に1度は余市が西南に出向く。今日は姿が見えないなと思うと、秋茜様から里へ行ったと聞かされるのだ。

 …もしかして、美祢様に会いに行っているのであろうか? そうだったら、どうしよう。

 早く大人になりたかった。もっともっと背も伸びて、首が痛くなるほど見上げなくても余市の顔が見られるくらいになって。余市が思わず抱きしめたくなるような、綺麗な女子になりたかった。でも、どんなに頑張ってもその数倍の勢いで、余市はどんどん素敵になる。ふたりの距離はどんどん開くばかりだ。


 待ち合わせの西の通用門の柱の下で、海色の袖が揺れている。そして、すぐにこちらに気付いた人が、嬉しそうに微笑んで右手を挙げる。良く来たね、と言うように。そんな当たり前の姿を見ただけで、たまらない気分になる。にこやかに微笑み返すことなどどうして出来るだろう…?

 中途半端に飾ったみっともない姿を悟られないように、柚羽は地面を見つめたまま、そこに向かった。