鷺百合は野草で、山間の水の綺麗なところに群生する。湿地ではなく、その根元は草履で歩けるくらいに乾いているが、その地の奥には水脈が通り、いつでも土地が潤っていなければならない。山から流れ込む地下水が溜まる場所。 「…近道を教えて貰ったから」 高いところで結わかれた髪が踊る。もう長いこと触れたこともない美しい髪、今でもねだればかもじを作ってくれるだろうか? 深い群青の平紐で綺麗にまとめられている。ゆったりと着流した重ねの背中。その海の色の重ねは綺麗な地模様がある。その上、袖と見頃の裾には控えめな刺し文様まで施されていた。 未だに余市は雷史様の着古した衣を頂いているらしい。この地ではそれなりの給金も頂けるのだから、それで美しい衣を整えればいいのに。余り貧しい身なりをしていると、逆に困ったことになるのに。
「余市様、少しくたびれた衣をまとっていらっしゃったわ、おかわいそうに…」 「あら、いいじゃないの。それは決まった女子がいないと言う証拠よ。春の宴に合わせて衣を贈るのはどうかしら? 受け取ってくれたら、妻にしていただけると言うことでしょう? 素敵だわ…」 「まあ、でもライバルが多そうだわ。勝ち目があるかしら、だって、そう言うあなただって…その気なんでしょう…?」 「ふふふ、まあね…」 毎日が不安の連続だった。いつ誰が余市に想いを告げるか分からない。そう言う行動に出た女子だっているだろう。まあ、付き合っているという噂も聞かないし、まだ彼を射止めた者はいないのだろうけど。大体決まった女子がいたら、こうして自分を気軽に花見に誘ってはくれないだろう。 春の宴は天寿花の満開に合わせて行われる。今年もあと半月ほどだ。 南所の寮で男物の衣を縫っている侍女を見かけるたびに、それが余市に贈られようとしているものだったらどうしようかと胸を痛めていた。かと言って、自らが縫う勇気もない。 南所の侍女として、御針の達人と言われる多奈様の手ほどきも頂いて、それなりに上達したと思う。簡単な刺し文様も覚えた。自分たちのような使用人には丁度よいものが刺せるほどに。 だからあの初めて縫った衣よりはずっとましなものが仕立てられると思う。何をためらうことがあるのだろう。いいじゃないか、自分は余市の同郷の顔なじみ。色々助けて貰っているし、ささやかな飾り物もたくさん贈って貰った。 袂からそれが取り出されるとき、嬉しいと思う反面、余市の表情がまるで足の遠のいていることを詫びる父親のようで可笑しかった。妻を何人も持つこの地の男たちは、そのそれぞれに均等に心を配ることなど出来ない。やはり良く通う妻とそうでない妻が出来る。そして、あまり足を向けない妻の元に訪れるとき、決まって自分の子供たちに珍しい玩具などを持っていくという。そう言うときの男たちは多分こんな顔をするのではないかと思えてしまった。 そうだ、自分は父親にご機嫌を取られている娘なのだ。余市にとってはそう言う存在で。だったら、何も重々しく考えることはない。父親の衣を縫う娘などたくさんいるのだから。そう言うつもりで仕立てればいい。もしも自分で手渡すのが恥ずかしかったら、秋茜様に渡して頂けばいいじゃないか。 そうは思っても、やはり駄目だった。突き返されたらどうしようとそればかりを心配してしまう。
柚羽には自分でもどうしてか分からないままに、余市を想うとひとりでに身体が熱くなることがあった。微笑みかけてくれる優しい眼差しを思い浮かべると、この頃では胸が締め付けられるだけでは済まなくなっていた。身体の芯の方がかあっと熱くなる。ほとばしる想いに全てが支配されてしまうほどに。 余市のことを想って、変わってしまう自分が怖かった。もしかすると今に、余市のことだけで、いっぱいになってしまうかも知れない。怖かった、すごく怖かった。 余市に可愛がって貰える「小さな泣き虫の柚」はどこへ行ってしまうの? 無邪気に微笑み返せたあの頃はもう戻ってこないの? …こんな自分を余市に知られたら、一体どうなってしまうの?
「え…?」 「柚、近道だから。ここは置き石伝いに、河を越えていかなければならないんだ。橋のあるところはとても遠回りだから。手を貸すから、足元に気を付けて、付いてきて…」 見ると、もう余市は河の中に置かれている石の上に片足をかけていた。ふたりとも外歩き用に衣を改めている。地に付かないようにしてあるから、置き石の上を歩けば濡れる心配もないだろう。ただ、バランスを崩して河に落ちたら、その時は濡れ鼠になってしまう。とてもそのままでは帰れないような。 「あ…う、うんっ…」 柚羽のてのひらが、余市のてのひらに重なる。その時、余市が小さな手を柔らかく握りしめてきた。長い指が包み込むように。それだけで泣きたくなる、ただ手を取られただけで、どうして、こんな…。
もしも、この瞬間。バランスを崩した振りをしてよろめいたらどうなるだろう。二人して河に落ちてしまうだろうか? 溺れる深さではない、でもぐっしょりと濡れたら、衣が乾くまでは戻れなくなる。偶然を装って胸に飛び込んだら…昔のように抱きしめてくれるだろうか? そんな幸運が果たしてあるのだろうか…?
「やっぱり、危ないね。戻りは遠回りだけど、橋まで行こう…」
◆◆◆
いくつかの雑木林や湿地を越えて、ようやく辿り着いたそこは銀色の光がきらめく場所だった。白いすうっとした花びらには無数の気泡が付いていて、それが風になでられるたびにキラキラと夢のように輝くのだ。誰が植えたわけでもなく、自然のままに生えそろい、群生している白いものたち。水鳥が人里離れた山間で、静かに寄り添っているみたいだった。 西南の雷史様の御家の御領地は、暖かな気候だ。何もかもが南国風で花も全体的に開花の時期が早かった。それに較べて竜王様の御館がある北方の都はひんやりと涼しげだ。冬の朝は身も凍るほどでひときわこたえる。でも柚羽にとっては何だか懐かしい気だった。 まるで…懐かしい土地に、余市とふたりで立っているみたいで。 花の間をするすると足取りも軽く通り抜けていく柚羽を、余市は何故か花園の外の方から静かに眺めていた。お互いに少し高台にある大きな木の元に向かっている。行き着く場所は同じなのに、ふたりの間には数え切れない花の垣根があった。
「…柚?」 「もっとたくさんお飲みよ? 空になったら泉で汲んでくればいいのだから…」 「柚、…元気になった?」 「…え?」 丘の上で、花を見下ろすように座っている。ふたりの間には人が何人か並べるくらいの距離があった。もうちょっと近くに行ってもいいのに、柚羽はこれ以上、どうしても近づくことが出来なかった。余市の息づかいの届く場所は、自分からは踏み込むことが出来なくなっていたのだ。 「柚、都に来てから何か元気がないから。西南にいた頃みたいに、はしゃがなくなったし…やっぱり、田舎に戻りたいのかなって、心配してたんだ」 「う…、そんなこともないのだけど」 「でも、すっかり大人しくなっちゃったよ? 鷺百合を見たら、少しは元気になるのかなと思ったんだけど…」 その言葉に、吸い寄せられるように余市を見て。それから、静かに俯いた。 大人しくなったのは、誰のせいだか分からないの? 心のままに、無邪気にはしゃぐことが出来なくなったのは、何が原因だか分からないの…? 分かるはずも、ないだろう。余市は知らないのだから。私の気持ちなんて、全然、全く知らないのだから。いつまでも「小さな柚」が変わらずに隣りにいると思っているのだから。 もしも。なんの杞憂もなかったら、素直に心のままにこの想いを伝えていただろう。余市に、この溢れんばかりの想いを打ち明けて、それが受け入れられると信じていたあの頃だったら。 …でも。そんなこと、絶対に無理。出来っこない。 再び、あの夕暮れのように腕を解かれて、身を剥がされてしまったら。柚のその気持ちに応えることは出来ないよと、はっきり言われてしまったら。もう二度と、余市の前に現れることは出来ないだろう。余市が他の女子を妻に娶り、仲睦まじく暮らしていく姿など見たくない。自分が余市以外の人と夫婦(めおと)になることも想像できない。
秋茜様が、「柚羽も良き伴侶を迎えなければ」と仰ったとき。思わず、余市の名前を口にしてしまうところだった。雷史様と秋茜様からそれとなく余市に話をして下されば。自分の御主人様の仰ることなら、もしかしたら聞き入れてくれるかも知れない。そんな期待を胸に抱いてしまう。自分が浅はかで悲しかった。
「…柚?」 「あの、柚…。実は――」 「…え? 何?」 「…あれ?」 「柚…、何かさ。いつもと違うような気がしていたんだ。化粧してきたの…?」 ハッとして、顔を伏せた。そうだ、自分が余市の方をじっと見ていれば、余市だって自分の顔を見ることになる。むせかえるような白粉の香りはもう鼻に慣れてしまっていた。だから迂闊にも忘れてしまっていた。 「あ、…あのっ。これは…瑠璃様が、勝手に…っ。おかしいでしょ、見ないで。本当はすぐに落としてしまいたいんだけど、専用の洗い粉がないと駄目だから…気にしないで、見ないで…っ!」 恥ずかしくて、消えてしまいたかった。御館には綺麗に化粧した女子がたくさんいる。みんな匂やかな華やかさに包まれていて、それはそれは美しい。余市はそれをいつでも見慣れているのだ。 「落とすなんて。…もったいないじゃない、とても綺麗なのに」 そして。 次の瞬間、本当に信じられないことが起こった。腕を引かれて、強引に余市の方に向き直させられる。え? どうして? …そう思う間もなく、気が付いたらその腕に強く抱きすくめられていた。 「…柚…っ…」 「あ…、あのっ…。痛いの、痛いのっ、余市…っ!」 余市の長い指が柚羽の髪の間に入り込む。櫛で梳くように、するすると下がって、やがて背中の後ろでひとつにまとめた飾りの紐に辿り着いた。いつもは垂らしている髪を外歩き用にしてあったのだ。それを片方の手で、器用に解いていく。ぱらぱらと髪が放たれる。ふっと、微かな余市の動きに髪が舞い上がった。 「…余市…」 頭の後ろを大きな手のひらがしっかりと捉えている、もう片方の腕は腰の辺りに回っている。ゆっくり、ゆっくりと…余市が近づいてきて。やがて、少し青ざめているであろう柚羽の口元に、薄い唇が吸い付いてきた。 柔らかくて生暖かいものが、柚羽の上と下の唇を交互に挟み込む。小鳥が餌をついばむように。そのくすぐったい感触は初めて味わうもの。繰り返されるうちにだんだん感覚が麻痺してきた。 何か叫びたくても、完全に口は塞がれていて。動きたくても、身体は抱きすくめられていて。煮えたぎるほど熱いものに柚羽は完全に支配されていた。身体がガクガクと震えているのに、どうしていいのか分からない。余市が全然別の人になってしまったみたいで、怖かった。胸に付いた手が触れた小袖の襟を必死で掴む。そうしてないと、このまま溺れてしまいそうで…。 自分の中に侵入してきた初めての感覚を必死で押し戻そうとした。そうできるのは、自分の舌しかない。でも伸ばしたそれが、余市のものに届いたとき、逆に強く絡め取られていた。舌の付け根を裏から表からすくい取られる。 力の入らなくなった身体がだんだん押されて、気が付くと背中が重ねごと、草原に押しつけられていた。背中がひんやりするまでそれに気付かないほどに、余市の舌の動きに気を取られていたのだ。頭の中も真っ白になって、何も考えることが出来なくなって。 余市が上になることで、彼の口内から、流れ込んでくるもので柚羽の口の中が溢れてしまう。自分のものも知らないうちに溢れていたから、それらが混ざり合う。喉の奥が締め付けられる気がして、むせるようにそれを飲み込んだ。一瞬、吐息が漏れる。 しっかりと唇を塞がれたままで、やがて余市の右手が耐えきれないように柚羽の胸の片方を小袖の衣の上からまさぐり始めた。全体を大きく包まれてもみほぐし、やがてその先端を求めるように指が丁寧に探っていく。柚羽の身体が一瞬、ぴくりと反応した。するとそこを集中的にさすられる。新たに湧いてきた感覚に背筋がぞくぞくした。 何に集中したらいいのか分からない。余市の身体はひとつだけの筈なのに、その両腕が、唇が器用に柚羽の身体全部を包み込むように支配し始める。舌の動きに翻弄されていると、急に引きずられるような感覚が胸に走る。怖い、と思うのに。どうしていいのか分からない。身体が縛られたように動かなくなっていた。 「はあっ…!」 「…柚っ…!」 「…やっ…!」 それなのに、余市は無言のまま、柚羽の力に視線を落とす。小さくため息を付くとすぐに片方の手でその両腕をまとめてすくい取って、ぐっと柚羽の頭の上まで持ち上げる。身体の自由を奪ったまま、もう一度、今度は片手で袷の上の衣を剥ぐ。軽くもがいたためか、多少緩んだ衣が信じられないくらいするするっと肌を流れる。夕暮れの気が肌をかすめて、その場所がひんやりとした。 「やっ…!! 嫌っ…!! やだあっ!!」 「なっ、何をするのっ!? どうして、こんなことするのっ!? …やだっ!! やめてっ…!!」 「余市の馬鹿っ!! …急にどうしちゃったの!?」 「あ…」 「…お、俺…?」 ゆるゆるとためらう視線をこちらに向ける。ふたりの目と目がしっかり重なり合ったとき、余市がばっと立ち上がった。辺りに大きなうねりが生まれて、少し離れたところにいる柚羽の髪が舞い上がるほどの勢いだった。 「ごっ…ごめんっ、柚っ! …本当に、ごめんっ…!!」
◆◆◆
本当に、怖かった。余市がどうにかしてしまったみたいに、別の人になってしまったみたいに思えて。あの身体の熱さも瞳の色もいつもと全然違うものだったから。 …あのまま、一体、どうなっていたのだろう…? 余市は本気だったと思う。だから、自分があのまま受け入れていれば、最後まで、行っていたかも知れない。流れに身を任せていれば、あのまま…。そして、それは自分が望んでいたことではないか。 だけど、どうしても、嫌だった。身体の奥で警笛が鳴った。…だって。余市が、あのとき欲しいと思ったのは、多分、私じゃないんだから。余市がいつもと違う風に変わってしまったのは、柚羽の化粧を見たときだった。そして、それは…美祢様の香りのする紅で…それが、引き金になったとしか思えなかった。 これから、どうなるのだろう? 余市は自分の犯してしまった行為に驚いていた。しばらくはぎこちない関係になってしまうだろう。でも、こちらがなんてことなく振る舞えば、また、元に戻れるだろうか? このまま、余市と気まずくなってしまうのは嫌だ。でも、冷静にしていられるだろうか…?
柚羽の心は千々に乱れていた。でも、こればかりは相手のあることだ。余市が、このことをすぐに忘れて、元に戻ってくれることを心から祈った。
◆◆◆
その翌日。お務めの最中に外回りの侍従の一団とすれ違った。 「ほら、余市様もいらっしゃる…」 「あら、変ねえ…お急ぎなのかしら…?」 昨日のことは瑠璃にすら、言えなかった。恥ずかしくて、情けなくて、自分の心内だけにしまっておこうと決めたのだ。 今まで、どんなときでも柚羽に気付けば傍まで来てくれて、ひとことふたこと言葉を交わした。それが急になくなったのなら、瑠璃じゃなくても驚くだろう。柚羽自身も少なからず、衝撃を受けていた。
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