…10…

 

 

 鷺百合は野草で、山間の水の綺麗なところに群生する。湿地ではなく、その根元は草履で歩けるくらいに乾いているが、その地の奥には水脈が通り、いつでも土地が潤っていなければならない。山から流れ込む地下水が溜まる場所。
 竜王様の御館は都のほぼ中央にある。広い御庭の中に立つと、遠く気の流れの向こうに山の影が見える。でも、そこまではどれくらい時間がかかるのだろう。御庭の東から西に移るだけでも半刻かかるのだ。

「…近道を教えて貰ったから」
 そう言いながら歩く後ろを、少し遅れて付いていく。昔から余市は自分本位にすたすたと歩いていったりはしなかった。これだけの身長差があるんだから足の長さはだいぶ差があると思うが、それを感じさせないくらい柚羽の歩みに合わせてくれる。だからいつでも息が上がることもなく、付いていくことが出来た。

 高いところで結わかれた髪が踊る。もう長いこと触れたこともない美しい髪、今でもねだればかもじを作ってくれるだろうか? 深い群青の平紐で綺麗にまとめられている。ゆったりと着流した重ねの背中。その海の色の重ねは綺麗な地模様がある。その上、袖と見頃の裾には控えめな刺し文様まで施されていた。

 未だに余市は雷史様の着古した衣を頂いているらしい。この地ではそれなりの給金も頂けるのだから、それで美しい衣を整えればいいのに。余り貧しい身なりをしていると、逆に困ったことになるのに。


 最近。聞く気もないのに、耳に入ってしまった侍女たちの会話。それが忘れられない。

「余市様、少しくたびれた衣をまとっていらっしゃったわ、おかわいそうに…」

「あら、いいじゃないの。それは決まった女子がいないと言う証拠よ。春の宴に合わせて衣を贈るのはどうかしら? 受け取ってくれたら、妻にしていただけると言うことでしょう? 素敵だわ…」

「まあ、でもライバルが多そうだわ。勝ち目があるかしら、だって、そう言うあなただって…その気なんでしょう…?」

「ふふふ、まあね…」
 明け透けな心の通い合った女子たちの会話。明るい語らいが柚羽の胸にくさびを打ち付けた。そう語り合うふたりがどんな女子なのか、それを確かめる勇気すらなかった。もしも、美祢様に良く似た美しい方だったら…そう思うと怖くて仕方ないから。

 毎日が不安の連続だった。いつ誰が余市に想いを告げるか分からない。そう言う行動に出た女子だっているだろう。まあ、付き合っているという噂も聞かないし、まだ彼を射止めた者はいないのだろうけど。大体決まった女子がいたら、こうして自分を気軽に花見に誘ってはくれないだろう。

 春の宴は天寿花の満開に合わせて行われる。今年もあと半月ほどだ。

 南所の寮で男物の衣を縫っている侍女を見かけるたびに、それが余市に贈られようとしているものだったらどうしようかと胸を痛めていた。かと言って、自らが縫う勇気もない。

 南所の侍女として、御針の達人と言われる多奈様の手ほどきも頂いて、それなりに上達したと思う。簡単な刺し文様も覚えた。自分たちのような使用人には丁度よいものが刺せるほどに。

 だからあの初めて縫った衣よりはずっとましなものが仕立てられると思う。何をためらうことがあるのだろう。いいじゃないか、自分は余市の同郷の顔なじみ。色々助けて貰っているし、ささやかな飾り物もたくさん贈って貰った。

 袂からそれが取り出されるとき、嬉しいと思う反面、余市の表情がまるで足の遠のいていることを詫びる父親のようで可笑しかった。妻を何人も持つこの地の男たちは、そのそれぞれに均等に心を配ることなど出来ない。やはり良く通う妻とそうでない妻が出来る。そして、あまり足を向けない妻の元に訪れるとき、決まって自分の子供たちに珍しい玩具などを持っていくという。そう言うときの男たちは多分こんな顔をするのではないかと思えてしまった。

 そうだ、自分は父親にご機嫌を取られている娘なのだ。余市にとってはそう言う存在で。だったら、何も重々しく考えることはない。父親の衣を縫う娘などたくさんいるのだから。そう言うつもりで仕立てればいい。もしも自分で手渡すのが恥ずかしかったら、秋茜様に渡して頂けばいいじゃないか。

 そうは思っても、やはり駄目だった。突き返されたらどうしようとそればかりを心配してしまう。


 自分の前を行く人の、広い背中。いつだったか雷史様の御家の御領地まで、自分をおぶってくれた温かい背中。そこに駆け寄って、しがみつきたかった。「大好き」と言ってしまったら、どうなるだろう? 万にひとつでも、この想いは受け入れられることがあるのだろうか。

 柚羽には自分でもどうしてか分からないままに、余市を想うとひとりでに身体が熱くなることがあった。微笑みかけてくれる優しい眼差しを思い浮かべると、この頃では胸が締め付けられるだけでは済まなくなっていた。身体の芯の方がかあっと熱くなる。ほとばしる想いに全てが支配されてしまうほどに。
 この熱がどうしたら冷めるのか、分からなかった。自分でも気付かぬうちに溢れ出たもので下着が濡れていることさえある。その事実に初めて気付いたとき、どうしようかと思った。自分という人間がとてもいやらしく浅はかに思えてしまって。

 余市のことを想って、変わってしまう自分が怖かった。もしかすると今に、余市のことだけで、いっぱいになってしまうかも知れない。怖かった、すごく怖かった。

 余市に可愛がって貰える「小さな泣き虫の柚」はどこへ行ってしまうの? 無邪気に微笑み返せたあの頃はもう戻ってこないの? …こんな自分を余市に知られたら、一体どうなってしまうの?


「…柚?」
 声をかけられて、ハッと我に返る。目の前に、余市がこちらに振り返って手を差し伸べていた。

「え…?」
 心がとんでもないところに飛んでいたので、しばらくは状況が掴めなかった。何度も瞬きしてしまう。そんな呆然とした姿が可笑しかったのか、余市はくすりと笑った。それから改めて説明してくれる。

「柚、近道だから。ここは置き石伝いに、河を越えていかなければならないんだ。橋のあるところはとても遠回りだから。手を貸すから、足元に気を付けて、付いてきて…」

 見ると、もう余市は河の中に置かれている石の上に片足をかけていた。ふたりとも外歩き用に衣を改めている。地に付かないようにしてあるから、置き石の上を歩けば濡れる心配もないだろう。ただ、バランスを崩して河に落ちたら、その時は濡れ鼠になってしまう。とてもそのままでは帰れないような。

「あ…う、うんっ…」
 手を重ねることにも少し躊躇した。手なんて何回も繋いでいる。別に珍しいことではない。近頃では少なくなったとはいえ、ぼーっとしていて腕を取られて導かれることだってある。それでも自分からその行為を行うのは少し恥ずかしさが先に立った。おずおずと手を伸ばす。大した距離でもないのに、妙に時間がかかった。

 柚羽のてのひらが、余市のてのひらに重なる。その時、余市が小さな手を柔らかく握りしめてきた。長い指が包み込むように。それだけで泣きたくなる、ただ手を取られただけで、どうして、こんな…。


 余市が柚羽の歩幅に合わせて、無理のないペースで置き石を飛んでいく。震えてしまうのはバランスを取るために緊張しているのだと自分に言い聞かせた。そうしないとどうにもならなかった。
 胸の高鳴りが、届いてしまったらどうしよう、この想いに気付かれたらどうしよう。身体が熱い、たまらなく熱い。ただ、てのひらが重なり合っている、それだけで。息が詰まるほど。

 もしも、この瞬間。バランスを崩した振りをしてよろめいたらどうなるだろう。二人して河に落ちてしまうだろうか? 溺れる深さではない、でもぐっしょりと濡れたら、衣が乾くまでは戻れなくなる。偶然を装って胸に飛び込んだら…昔のように抱きしめてくれるだろうか? そんな幸運が果たしてあるのだろうか…?


 余市がふわっとひときわ高く飛んで、柚羽の腕を引く。あっと思った次の瞬間に、草履の裏が地面に付いていた。


「…ふう」
 安堵のため息を付きながら、手が解かれる。それを追って、もう一度指と指を絡め合いたいと願う自分がいた。知らない間に伸びた腕が止まる。そんなこと、しては、駄目。

「やっぱり、危ないね。戻りは遠回りだけど、橋まで行こう…」
 いつもの穏やかな口調。柚羽は自分だけがこんなに緊張して、こんなに気を高ぶらせていることを恥ずかしく思った。

 

◆◆◆


「わあっ…!」

 いくつかの雑木林や湿地を越えて、ようやく辿り着いたそこは銀色の光がきらめく場所だった。白いすうっとした花びらには無数の気泡が付いていて、それが風になでられるたびにキラキラと夢のように輝くのだ。誰が植えたわけでもなく、自然のままに生えそろい、群生している白いものたち。水鳥が人里離れた山間で、静かに寄り添っているみたいだった。

 西南の雷史様の御家の御領地は、暖かな気候だ。何もかもが南国風で花も全体的に開花の時期が早かった。それに較べて竜王様の御館がある北方の都はひんやりと涼しげだ。冬の朝は身も凍るほどでひときわこたえる。でも柚羽にとっては何だか懐かしい気だった。
 柚羽の生まれ育った山間の小さな村は西南の集落の中でも涼しい土地で。それにこの都はどこか似ていた。特にこうして人の手の施されていない自然の風景は背筋がぞくぞくするくらい、そそられるものがある。

 まるで…懐かしい土地に、余市とふたりで立っているみたいで。

 花の間をするすると足取りも軽く通り抜けていく柚羽を、余市は何故か花園の外の方から静かに眺めていた。お互いに少し高台にある大きな木の元に向かっている。行き着く場所は同じなのに、ふたりの間には数え切れない花の垣根があった。
 西南の御館にいた頃は鬼ごっこのようにふたりで花畑を散策したのに。不思議な気がして、ちょっと寂しくて、ぴょこんと花の中から顔を覗かせた。遙か遠くに柔らかい笑顔の人が佇んでいる。
 もっと近寄りたいなと思う反面、この距離なら戸惑うことなく自然に見つめられるな、と嬉しくも思った。

 

「…柚?」
 竹の筒に入った水を差し出される。こうして遠出をするときに飲み物や果物を用意してくれるのはいつも余市だった。柚羽はいつも手ぶらで付いていくだけで良かった。ありがとう、と言って少しだけ口に含む。その控えめな態度がおかしかったのか、余市がまた笑い声を上げた。

「もっとたくさんお飲みよ? 空になったら泉で汲んでくればいいのだから…」
 自分も煽るようにそれを飲むと、ほおっとひとつ息をした。

「柚、…元気になった?」

「…え?」
 驚いて、聞き返す。

 丘の上で、花を見下ろすように座っている。ふたりの間には人が何人か並べるくらいの距離があった。もうちょっと近くに行ってもいいのに、柚羽はこれ以上、どうしても近づくことが出来なかった。余市の息づかいの届く場所は、自分からは踏み込むことが出来なくなっていたのだ。
 余市の言葉が意外だった。どうしてそんなことを言い出すのかさえ、分からなくて。きょとんと目を見開くと、余市がまた笑った。

「柚、都に来てから何か元気がないから。西南にいた頃みたいに、はしゃがなくなったし…やっぱり、田舎に戻りたいのかなって、心配してたんだ」

「う…、そんなこともないのだけど」
 自分では意識してなかった。全然、普通だと思っていた。余市は何をもって、自分が変わったというのだろう…?

「でも、すっかり大人しくなっちゃったよ? 鷺百合を見たら、少しは元気になるのかなと思ったんだけど…」

 その言葉に、吸い寄せられるように余市を見て。それから、静かに俯いた。

 大人しくなったのは、誰のせいだか分からないの? 心のままに、無邪気にはしゃぐことが出来なくなったのは、何が原因だか分からないの…?

 分かるはずも、ないだろう。余市は知らないのだから。私の気持ちなんて、全然、全く知らないのだから。いつまでも「小さな柚」が変わらずに隣りにいると思っているのだから。

 もしも。なんの杞憂もなかったら、素直に心のままにこの想いを伝えていただろう。余市に、この溢れんばかりの想いを打ち明けて、それが受け入れられると信じていたあの頃だったら。
 ずっと一緒にいられるなら。もしも、この想いを遂げることが出来なくても、余市がそれまでと少しも変わらずにいてくれるなら。「柚」と呼んで、微笑んでくれるなら。この心地よい関係を壊さなくて済むなら。このままごとみたいなふたりで永遠にいられるなら…。

 …でも。そんなこと、絶対に無理。出来っこない。

 再び、あの夕暮れのように腕を解かれて、身を剥がされてしまったら。柚のその気持ちに応えることは出来ないよと、はっきり言われてしまったら。もう二度と、余市の前に現れることは出来ないだろう。余市が他の女子を妻に娶り、仲睦まじく暮らしていく姿など見たくない。自分が余市以外の人と夫婦(めおと)になることも想像できない。

 

 秋茜様が、「柚羽も良き伴侶を迎えなければ」と仰ったとき。思わず、余市の名前を口にしてしまうところだった。雷史様と秋茜様からそれとなく余市に話をして下されば。自分の御主人様の仰ることなら、もしかしたら聞き入れてくれるかも知れない。そんな期待を胸に抱いてしまう。自分が浅はかで悲しかった。

 

「…柚?」
 すっかり黙り込んでしまった柚羽に余市が心配そうに声をかける。それから、どこか遠くに視線を泳がせて、しばらく何かを思っていたようだった。その後、思い切ったようにこちらを向き直る。

「あの、柚…。実は――」

「…え? 何?」
 急に改まった口調になるから、どきりとしてしまう。思わず顔を上げて、余市の顔をじっと覗き込んでしまった。

「…あれ?」
 余市の瞳が意外そうな色を放つ。確認するように角度を変えて、また覗き見てくる。

「柚…、何かさ。いつもと違うような気がしていたんだ。化粧してきたの…?」

 ハッとして、顔を伏せた。そうだ、自分が余市の方をじっと見ていれば、余市だって自分の顔を見ることになる。むせかえるような白粉の香りはもう鼻に慣れてしまっていた。だから迂闊にも忘れてしまっていた。

「あ、…あのっ。これは…瑠璃様が、勝手に…っ。おかしいでしょ、見ないで。本当はすぐに落としてしまいたいんだけど、専用の洗い粉がないと駄目だから…気にしないで、見ないで…っ!」
 しどろもどろに言い訳の言葉を並べて、小さな両手で顔を覆う。

 恥ずかしくて、消えてしまいたかった。御館には綺麗に化粧した女子がたくさんいる。みんな匂やかな華やかさに包まれていて、それはそれは美しい。余市はそれをいつでも見慣れているのだ。
 それなのに、こんな何でもない野歩きの時に顔を塗りたくって。どういうつもりかと思われてしまう。自分の浅ましい心内が伝わってしまったら、どうしよう…!

「落とすなんて。…もったいないじゃない、とても綺麗なのに」
 その声が、顔を背けたすぐ背後からして、びっくりする。確か、それなりの距離が合ったはずなのに…どうして?

 そして。

 次の瞬間、本当に信じられないことが起こった。腕を引かれて、強引に余市の方に向き直させられる。え? どうして? …そう思う間もなく、気が付いたらその腕に強く抱きすくめられていた。

「…柚…っ…」
 ようやく絞り出す、かすれた声。あんまりの強い力に、身体がきしむほど。息をするのも辛くて、思わず身じろぎする。でも、少しでももがくと…さらに力強い腕が食い込んできて、もっときつくなる。動けなくなる。すっかり囚われていた。
 自分を抱く大きな体が熱くて、燃えるように熱くて…このままその熱に溶かされてしまうのではないかとさえ思えてくる。正直、怖いくらいだった。

「あ…、あのっ…。痛いの、痛いのっ、余市…っ!」
 一体、何がどうなっているのか。柚羽はもうパニック状態だった。自由にならない体全体で必死に叫ぶ。かすれて、息ばかりの声。身体の水分が吸い取られて抜けてしまったように力が入らない。

 余市の長い指が柚羽の髪の間に入り込む。櫛で梳くように、するすると下がって、やがて背中の後ろでひとつにまとめた飾りの紐に辿り着いた。いつもは垂らしている髪を外歩き用にしてあったのだ。それを片方の手で、器用に解いていく。ぱらぱらと髪が放たれる。ふっと、微かな余市の動きに髪が舞い上がった。

「…余市…」
 軽く髪を後ろに引かれて、お互いに見つめ合うことが出来た。その目の前の人の瞳が別人のように熱くて、どきりとする。身体の内側の熱を映し出したかのような…燃える濃緑の双眼。それがすううっと細くなって。

 頭の後ろを大きな手のひらがしっかりと捉えている、もう片方の腕は腰の辺りに回っている。ゆっくり、ゆっくりと…余市が近づいてきて。やがて、少し青ざめているであろう柚羽の口元に、薄い唇が吸い付いてきた。

 柔らかくて生暖かいものが、柚羽の上と下の唇を交互に挟み込む。小鳥が餌をついばむように。そのくすぐったい感触は初めて味わうもの。繰り返されるうちにだんだん感覚が麻痺してきた。
 そのうちに濡れたものが割れ目の間からねじりこんできた。ぎょっとする。それが、余市の舌であることに気付くまで、いくらかの時間がかかった。

 何か叫びたくても、完全に口は塞がれていて。動きたくても、身体は抱きすくめられていて。煮えたぎるほど熱いものに柚羽は完全に支配されていた。身体がガクガクと震えているのに、どうしていいのか分からない。余市が全然別の人になってしまったみたいで、怖かった。胸に付いた手が触れた小袖の襟を必死で掴む。そうしてないと、このまま溺れてしまいそうで…。

 自分の中に侵入してきた初めての感覚を必死で押し戻そうとした。そうできるのは、自分の舌しかない。でも伸ばしたそれが、余市のものに届いたとき、逆に強く絡め取られていた。舌の付け根を裏から表からすくい取られる。

 力の入らなくなった身体がだんだん押されて、気が付くと背中が重ねごと、草原に押しつけられていた。背中がひんやりするまでそれに気付かないほどに、余市の舌の動きに気を取られていたのだ。頭の中も真っ白になって、何も考えることが出来なくなって。

 余市が上になることで、彼の口内から、流れ込んでくるもので柚羽の口の中が溢れてしまう。自分のものも知らないうちに溢れていたから、それらが混ざり合う。喉の奥が締め付けられる気がして、むせるようにそれを飲み込んだ。一瞬、吐息が漏れる。
 息をする間もないほどの行為に、頭がクラクラする。どうにかなってしまいそうなのに、もういい加減にして欲しいのに…余市のせめはだんだん強くなる。柚羽の口の中を完全に制覇するまで終わらないぞと言うように。何が彼をそうさせているのか、分からない。

 しっかりと唇を塞がれたままで、やがて余市の右手が耐えきれないように柚羽の胸の片方を小袖の衣の上からまさぐり始めた。全体を大きく包まれてもみほぐし、やがてその先端を求めるように指が丁寧に探っていく。柚羽の身体が一瞬、ぴくりと反応した。するとそこを集中的にさすられる。新たに湧いてきた感覚に背筋がぞくぞくした。

 何に集中したらいいのか分からない。余市の身体はひとつだけの筈なのに、その両腕が、唇が器用に柚羽の身体全部を包み込むように支配し始める。舌の動きに翻弄されていると、急に引きずられるような感覚が胸に走る。怖い、と思うのに。どうしていいのか分からない。身体が縛られたように動かなくなっていた。

「はあっ…!」
 ずらした口元から、お互いの吐息が漏れる。余市の呼吸は信じられないくらい荒くて、大きく体全体が揺れているようにすら見えた。大きな波のように、それが柚羽に伝わってくる。

「…柚っ…!」
 もう我慢が出来ないような呻きとともに、余市の手が小袖の袷からぐっと中に入ってくる。素肌にじかに感じる熱い動き。あとが付きそうな指先の力。寝着と違って、普通の衣はしっかりと着付けられている。ましてや外歩き仕様なので、さらにきつい。その侵入を妨げるように、衣があちこちできしんだ。
 このままでは自分が望んだ場所までたどり着けないと悟った余市が、次に柚羽の小袖の襟に両手をかける。少し身を浮かせて、力強くそれを左右に開く。荒々しい息、獲物を捉えようと足の爪で掴み込んだような行為。その場所を見据えて、射抜くような瞳…。

「…やっ…!」
 思わず、自分を捉えようとする腕を掴んでいた。怖かった、このままどうにかなってしまいそうで。熱い波に飲み込まれて燃え尽きてしまうんじゃないかとさえ思えて。

 それなのに、余市は無言のまま、柚羽の力に視線を落とす。小さくため息を付くとすぐに片方の手でその両腕をまとめてすくい取って、ぐっと柚羽の頭の上まで持ち上げる。身体の自由を奪ったまま、もう一度、今度は片手で袷の上の衣を剥ぐ。軽くもがいたためか、多少緩んだ衣が信じられないくらいするするっと肌を流れる。夕暮れの気が肌をかすめて、その場所がひんやりとした。
 細紐が片手で解かれると、余市の目の前に形の良い片方のふくらみがこぼれ落ちる。一瞬、そこを見つめて息を呑んだ彼が、次の瞬間、吸い寄せられるように唇を近づけた。

「やっ…!! 嫌っ…!! やだあっ!!」
 生暖かい吐息が肌にかかった瞬間、柚羽はもう必死で抵抗した。そのどこから湧いてきたのかも分からないような力に余市の動きが止まる。腕を払い、身体をよじって、必死でそこから抜け出た。

「なっ、何をするのっ!? どうして、こんなことするのっ!? …やだっ!! やめてっ…!!」
 震える身体を背後の樹に押しつけて支え、小袖の前をしっかりとたぐり寄せて合わせる。髪が激しい動きに遅れて流れて、辺りを漂っている。草のちぎれた断片がふわふわと流れて。肩で大きく息をしたら、どっと涙が溢れてきた。

「余市の馬鹿っ!! …急にどうしちゃったの!?」

「あ…」
 目の前の男が、四つん這いになっていた姿勢を起こす。彼の下には柚羽の重ねが残っている。柚羽がそこにいたかたちのままに。

「…お、俺…?」
 急に正気に戻ったように辺りを見回している。それから、自分が今まで何をしていたのか、ようやく気付いたらしくさあああっと青ざめた。怯えた瞳が柚羽の重ねを辿り、震える手で自分の衣を握りしめる。柚羽も震えていたが、余市の身体も揺れるほど大きく震えていた。

 ゆるゆるとためらう視線をこちらに向ける。ふたりの目と目がしっかり重なり合ったとき、余市がばっと立ち上がった。辺りに大きなうねりが生まれて、少し離れたところにいる柚羽の髪が舞い上がるほどの勢いだった。

「ごっ…ごめんっ、柚っ! …本当に、ごめんっ…!!」
 それだけ叫ぶと、余市はくるりと柚羽に背中を向けた。そして、途方に暮れている彼女をひとり残して、その場を逃げるように去っていった。

 

◆◆◆


 柚羽はしばらくの間、樹に寄りかかったまま、呆然としていた。少し冷たい夕暮れの気が頬をかすめ取って初めて、西の空が赤く染まり始めたことを知った。口の中がねっとりとする。そこには自分のものではないものが混ざり合って残っている気がして。
 ゆっくり立ち上がると衣を改める。乱れた襟元を元の通りに重ね直して、袴の帯を結び直す。足元に転がったままだった重ねを拾い上げて草を払った。首を振ると、また、涙が溢れてきた。

 本当に、怖かった。余市がどうにかしてしまったみたいに、別の人になってしまったみたいに思えて。あの身体の熱さも瞳の色もいつもと全然違うものだったから。

 …あのまま、一体、どうなっていたのだろう…?

 余市は本気だったと思う。だから、自分があのまま受け入れていれば、最後まで、行っていたかも知れない。流れに身を任せていれば、あのまま…。そして、それは自分が望んでいたことではないか。

 だけど、どうしても、嫌だった。身体の奥で警笛が鳴った。…だって。余市が、あのとき欲しいと思ったのは、多分、私じゃないんだから。余市がいつもと違う風に変わってしまったのは、柚羽の化粧を見たときだった。そして、それは…美祢様の香りのする紅で…それが、引き金になったとしか思えなかった。
 いつもの何の飾り映えもない自分を見て、それでも欲しいと思ってくれたのだったら、それで良かった。でも今日の自分は美祢様の真似でしかなかったから。余市が美祢様を想って自分を抱くのは嫌だと思った。そんなこと言ったって、実際、抱かれているのは自分なのだから。それで良いと言えば良いのだが…柚羽の中で、まだそこまでの大人びた思考は出来なかった。

 これから、どうなるのだろう? 余市は自分の犯してしまった行為に驚いていた。しばらくはぎこちない関係になってしまうだろう。でも、こちらがなんてことなく振る舞えば、また、元に戻れるだろうか? このまま、余市と気まずくなってしまうのは嫌だ。でも、冷静にしていられるだろうか…?

 

 柚羽の心は千々に乱れていた。でも、こればかりは相手のあることだ。余市が、このことをすぐに忘れて、元に戻ってくれることを心から祈った。

 

◆◆◆


 …でも。

 その翌日。お務めの最中に外回りの侍従の一団とすれ違った。

「ほら、余市様もいらっしゃる…」
 隣りにいる瑠璃に耳打ちされて、無意識にそちらを見ていた。そして、余市としっかり目があった。なのに、余市はふっと視線を逸らして、そのまま行ってしまった。びっくりした、絶対に目があったのに。私だって分かったのに…どうして? 

「あら、変ねえ…お急ぎなのかしら…?」
 何も知らない瑠璃がしきりに首を傾げている。

 昨日のことは瑠璃にすら、言えなかった。恥ずかしくて、情けなくて、自分の心内だけにしまっておこうと決めたのだ。

 今まで、どんなときでも柚羽に気付けば傍まで来てくれて、ひとことふたこと言葉を交わした。それが急になくなったのなら、瑠璃じゃなくても驚くだろう。柚羽自身も少なからず、衝撃を受けていた。