…11…

 

 

 少し経てば、記憶も薄れて、元に戻るだろうと言う期待も虚しいだけだった。

 ――そして、しばらくたったある日、さらに驚くべき事実を耳にすることになる。

 

「ねえねえ、お聞きになった!?」
 同僚の侍女が、興奮した表情で侍女の居所に飛び込んできた。

「この間から西の集落の外れで、村長と民の間で諍いが起こっているでしょう? それを鎮めるために竜王様の御命令で遠征団が遣わされることになったんですってっ! でねっ? その団長が…あの、余市様っ!」

 娘たちの間から、奇声にも似た歓声が上がった。年若い女子(おなご)にとっては余市はやはり気になる存在なのだ。

「すごいっ! こちらにいらして1年足らずで、大抜擢ねっ!!」

「今回は、妻帯者の方はあまり参加されないの。若手中心の団になるらしいんだけど。それでも、さすがに余市様だわ…素敵ねえ…」

 少し離れたところで、御衣装の手入れなどをしながら。柚羽は初めて聞くその情報に愕然としていた。

 そんなこと、知らない。余市は言ってくれない…まあ、あれ以来、言葉を交わすこともなかったけど…こんなに侍女の間に広まっていることなら、もっと早く内々に言われていたはずだ。どうして教えてくれなかったのだろう? 私には…話すこともないと思ったのかしら…?

 百名近い遠征団の団長になる、どんなに名誉なことだろう。そして、見事に暴動を抑えた後はどんなに出世するのだろう? そんなにすごいことを、大切なことを、私には教えてくれないなんて。

 

◆◆◆

 


 その日から、もう半月後に迫った遠征団の出立まで、御館内はその話で持ちきりだった。

 西の集落は遠く、足を運ぶだけで半月もかかると言われている。馬なども使わない。徒歩(かち)で行くのだから。そして、双方が混乱して血走っている混乱を抑えるのだ。どんなに難儀なことだろう。二月ほどで戻るとも、半年もかかるとも言われていた。

 そんなに長い間、会えなくなるなんて。今までになかったことだ。ずっと一緒にいた。ほんの7日ほどの不在でも寂しくて仕方なかった。半月もいなかったら、会いたくて会いたくて、すがりついてしまいたくなるほどの恋しさが募っていた。それなのに…二月? 半年…? そんなに余市と離れていて、私は耐えられるのだろうか?

 このまま、気まずくなったまま、別れるのは嫌だった。どうにかして、言葉を交わしたい。気を付けてのひとことでいいから、告げたい。それなのに、余市は柚羽に気付くとすっとどこかにいなくなってしまう。傍に寄るのも厭うように…どうして? そんなに嫌だったの? 

 …私、あのまま、余市を受け入れていれば…良かったの? そうしたら、こんな目にあうこともなくて…今頃は、余市の妻になっていたかも知れないの?

 今更、後悔しても仕方ないと思う。でも、事実、余市とはこんなに距離を置いてしまっている。こんなことなら、身体だけでも結ばれていれば良かったのかも知れない。優しい余市のことだ、勢いだけで抱いてしまったにしても、その後で責任を感じてくれたはずだ。こんな風になってしまうと分かっていたら、拒んだりしなかったのに…。

 

 欲しかったのは、「柚」と柔らかく自分の名前を呼ぶあの声。振り向くと、そこに立っている、自分に向かってにっこりと微笑む姿。

 それなのに。何で、怖いなんて思ってしまったのだろう? 受け入れられなかったのだろう?

 

 後悔ばかりが胸をよぎる。雷史様と秋茜様の居室なら、逢うことも出来るだろうと頻繁に足を運んでみた。でもそれは空振りに終わった。柚羽がお務めで忙しい時間を見計らうように、彼はやってきているらしいのだ。柚羽がその後、訪れると、もう立ち去ったあとで。

 その上、侍女たちの中には、遠征団に入っている侍従たちに想いを告げる者が多かった。こういう緊迫した特殊な状況だからこそ、みんな真剣になるのだ。衣を贈ったり、中には自分の家に伝わる銘刀などを託して、無事を祈る者もいた。これを機に、急ぐように夫婦になる者たちも少なくなかった。
 聞けば、余市の元には連日のように侍女たちが押し掛けているという。そりゃそうだろう、だだですらあんなに人気があったのだ。その上、今回は遠征団の団長。そんな人の相手になれたら、どんなに晴れがましい気分になれるだろう…?

 そんなさざめきの輪の外で、柚羽は諦めにも似た、後悔の念でいっぱいでいた。そして、いつまでもそっけない態度を取る余市にいつしか怒りさえ覚え始めていたのだ。あんな風に自分から求めておきながら、気まずくなって無視するなんて。私はその程度の女子なのかしら? 余市がそのつもりなら、いいわ。私だって、余市のことなんて、もう気にしないんだからっ!!

 そうは思っても、余市の姿ばかり探している。そんな自分が許せなかった。

 

◆◆◆


 明日はいよいよ遠征団の出立、という最後の夜。

 竜王様の御館の中央にある客座で、遠征団を盛り立てる壮行の宴が華やかに催されていた。その給仕に任ぜられて、柚羽も宴の中にいた。でも、視線が追う余市はたくさんの者に囲まれている。畏れ多くも竜王・華繻那様からまでお言葉をちょうだいしている。彼の立派な御衣装は柚羽の見たこともなかったものだった。

 姿勢を正して酌を受ける。その姿の堂々としていること、雄々しいこと。その姿に見とれている自分に気付く、今更、どうしろと言うのだろう。どうにもならないじゃないか。

 宴の中にいるのは息詰まるばかりだった。もう、余市は自分の手の届かないところまで行ってしまうのだ。柚羽の知っている、西南のあの御館で下男をしていた優しい人はもうどこにもいないのだ。ずっと一緒にいてくれると言った、あの日の笑顔は…幻でしかなかったのか?

 ぽつんと、膳を持つ手の甲に涙がこぼれ落ちた。

 おめでたい席で、何と言うことだろう。人目を避けて、慌てて中庭に出た。柱に背中を押しつけて、気が落ち着くのをひとり待っていた。胸が締め付けられて、息が出来ないほど苦しい。にぎやかな宴のさざめきが、柚羽を責め立てているようにすら聞こえてきた。

 

 どうにか気を取り戻して、宴の給仕に戻る。御膳を持って立ち上がったとき、ふっと背後に気配を感じた。

「…柚?」

 一瞬で、身体が硬直した。そんな風に自分を呼ぶ者はこの世にひとりしかいないと思ったが、振り向くことも出来なかった。

「宴が終わったら…天寿花の林の…奥の、祠まで来て欲しいんだ」
 他の者には聞こえないようにと配慮した、小さな声。それでもしっかり耳に届いていた。でも、振り向けない、応えられない。

「…柚が来るまで、待ってるから。ずっと待ってるから…必ず、来て…」

 何も聞こえていないように、遠ざかる柚羽の背中に向かって、すがるような言葉が降りかかる。きゅっと、唇を噛みしめた。そして、その声を聞くだけで、どうしようもなく熱くなる心を感じていた。それでも、振り向くことが出来なかった。

 

◆◆◆


 宴がお開きになったのは、夜半のことで。明日のお務めに差し支えると後片づけもそこそこに侍女たちは部屋に帰された。

 柚羽も部屋に戻る、でも瑠璃の姿はどこにもなかった。さっきまでは一緒に給仕をしていたのに。
 まさか、瑠璃までがどこかに行ったのか、と思ったが…すぐにそれはないだろうと思い直す。瑠璃には里に親の決めた婚約者がいるのだ。

 北の集落は様々な一族が存在して、それが系列だっている。その家を一族の秩序を守るため、瑠璃も決められたままの生涯を歩むのだという。婚約した相手が先年に妻を亡くした、自分たちよりも倍以上も歳の上の人だと聞いて、柚羽はびっくりした。そんな相手と一緒になろうとする瑠璃が分からなかった。でも彼女は当たり前のように微笑む。
 そんなのは嫌だと思っていた。でも今となって考えると、それもそれでいいのかも知れない。だって、こんな風に思い悩んだり、後悔したり。そう言うことをしなくて済むなら。最初から一緒になる者が決まっているなら、こんなに苦しい想いはしなくて済む。瑠璃はいつも穏やかで落ち着いていた。

『天寿花の林の…奥の、祠まで来て欲しいんだ』余市はそう言った。今更、どういうことだろう。もう、話すこともない気がする。柚羽の心はすっかりささくれていた。もう、言葉のままに素直に受け入れることは出来ないでいた。

 もしかして、妻となる女子が決まったのではないかしら? その人を紹介されるのでは? 私は余市の同郷で家族みたいにしてきたから、一番に教えてくれようとしているのかも知れない。余市の相手にふさわしいような侍女たちが、この御館にはたくさんいるのだ。選り取りみどりとはこのことだろう。
 余市に他意はないのだと思う。でも、そんなこと、死んでも嫌だった。何があっても、行くもんかと思う。さっさと寝着に着替えて、寝台に身体を横たえた。そして、目を閉じる。

 もう、宴が済んで一刻以上がたっている。今更、待っていることはないだろう。明日の昼前の出立だ、今日は早く休まなければ。でも…もし、もし待っていたら? 本当に、言葉通りに自分が行くまで待っていたら?
 天寿花の木の根元に座って、俯いている人を思い浮かべてしまった。そんなはずないと思ったのに、それでも。余市が本当に待ってくれているとしたら、行かなくてはならない。そんなことあるわけないのに…あるわけないから、一応、確認に行こう。それで、戻ってくればいい。

 こんな夜更けに誰にも見られることもないだろうと、寝着の上に重ねを羽織った。そして、こっそりと戸口から外に出る。まだ、瑠璃の寝台は空のままだった。戻ってきたら、心配するだろうか? でも大丈夫、すぐに帰ってくるから。自分に言い聞かせながら、柚羽は天寿花の林に入っていった。

 

◆◆◆

 

 花の頃を少し過ぎたうす桃の天井は、それでもふわふわと柔らかく柚羽の頭上を覆い尽くしていた。草履で踏みしめるのももったいないほどの花びらの絨毯。西南にいた頃から、話には聞いていた竜王様の天寿花。想像以上のすばらしさだった。去年も花の頃を少し過ぎていた。それでも、この花を見ただけで、遙かな土地に来た甲斐があったとさえ思ったのだ。

 この地の者が天と仰ぐ「水面」は全体に金色の光を放っていた。その上にある「月」と呼ばれるものが満月なのかも知れない。柚羽は満月というのがどういうものかは知らない。でも「月」が一番輝く日だと言うことだけ知っていた。

 カサカサと辺りに柚羽の足音が響く。もう休むばかりになっていたから、髪も垂らしたままで緩く着込んだ寝着が乱れ始めている。重ねの前をきゅっと押さえた。もう、林の奥はすぐだった。

 

 その奥がふわっと明るく見えた。燭台があるのだとしばらくして気付く。思わず息を呑んだ。だって…、もういるはずがないのに、とっくに諦めて戻ってしまったと思ったのに。林の奥の一番奥まった樹の影にゆらゆらと漂う重ねの袖が見えた。

 あの、宴で着ていたきらびやかなものではない、でも、見覚えがあるもの。柚羽が縫った、一枚だけ渡した、想いの全てが詰まっているあの晴れ着だった。それを着る者がふたりといるわけもない。

 言葉をかけようとしても口が上手く動かない。かさりと花びらを踏みしめたとき、その背中がゆっくりと振り向いた。

「…柚…?」
 燭台を背にしていたから、暗くなって表情がよく分からない。でも、確かにこちらを見ている。向こうからは燭台に照らされたこちらの姿がとても良く分かるはずだ。

「あ…」
 ゆらっと、蝋燭の炎が揺れる。それに続いて柚羽の髪が舞い上がった。緩い気の流れ。さらさらと流れていく自分の赤髪。

「もう、来ないのかと思った。来てくれないんだって…」
 また、するっと向こうを向いてしまう。これだけ待たせたのだから仕方ないけど、それでも寂しかった。余市のいる樹の側まで寄って、そっと膝を落とす。向こうを向いたままの人に、そっと話しかけた。

「あの、余市…遠征団の団長に抜擢されたこと、本当におめでとう…。どうか気を付けて、行ってきてね。慣れない土地で身体を壊したりしないで…」
 動かない背中に必死で話しかけた。でも、途中まで言うと、もう涙がこぼれてきてしまう。ここにいる人が明日には遠いところへ行ってしまう。もう、ずっと会えなくなってしまう。それが辛かった。

「言いたかったのは、それだけなの。本当に、気を付けて、…私…っ…!」
 待ってるから、そう言いたかった。ずっと、ずっと待ってるから。余市が帰ってきてくれるのをずっと待ってる。お願い、待っていさせて。…でも、言葉にならないまま…。

「じ…じゃあ。明日も早いんでしょう? 早く休まないと…私も…帰るから…」
 腰を落としたまま、くるりと背中を向けた。これ以上、言葉を続けたら、きっと泣き出してしまう。行かないでと言ってしまうから。

 そして。

 立ち上がろうとしたその瞬間。ふっと、身体が引っ張られた。驚いて振り向くと、俯いたまま座っている余市が腕を伸ばして柚羽の手首を掴んでいた。信じられないくらい強い力だった。

「あのっ…頼みがあるんだ…、柚っ…」

 俯いたままのその人の身体全体が震えていた。その振動が柚羽の身体にも伝わってくる。思わず、息を呑んだ。ゆるやかな気の流れが、ふたりの髪を揺らす。余市の高いところで結った髪は宴の喧噪のせいか少し乱れて、昔の不格好なものに戻った気がした。

「…余市?」

「…今夜だけ、今だけでいいんだ。一夜だけ、…俺の妻になってくれないか?」

 耳に届いたのは、あんまりにも意外な、信じられない言葉だった。

「…え…」

 何を言われているのか、言葉が並んでいるのは分かる。でもそれが何を意味しているのか分からなかった。伏せたままの余市の顔。これではどんな表情をしているのかも分からない。

「柚っ…、お願いだから。このままじゃ、俺、死んでも死にきれない――」

「よ…い、ち?」
 耳に慣れない「死」と言う単語が余市の口からこぼれ落ちたことに、柚羽は少なからず動揺していた。何故、急にこんなことを言い出すんだ? ここまでに取り乱した余市を余り見たことがなかった。

 自分よりいくらか年上で、そしていつも穏やかに落ち着いていて。他の侍従たちのように軽々しいところもなく、下男だった昔を到底想像できないほど堂々としていた。実際、侍女の間では余市は雷史様と同じくらい高貴なお育ちなんじゃないかと思っている者もいた。そう思うのも無理がないほどの身のこなしだったのだ。

「あの日から…毎晩、悪夢にうなされるんだ。遠征先の遠い地で暴漢の刃に胸を貫かれて、身体が夜露の草むらに倒れ込んでいって。そのまま、体中がどんどん冷たくなって。俺はもう終わりなんだ、このまま死んでいくんだと思うんだ」

「……」
 柚羽は声が出なかった。まさか、余市がそんなこと考えていたなんて。遠征団の団長として晴れやかな未来に包まれていると思っていた余市が…まさか、心内でそんな不安を抱えていたなんて。

「身体から、最後の力が抜けると思った瞬間に…柚の姿が浮かんできて。柚の綺麗な笑顔がとても遠く感じられて…。その時思うんだ、せめて一度でいいから、柚をしっかりと抱きしめて…柚を感じたかったって。そうしたら。俺には柚という妻がいたと満足して死んでいけるのに…そんな一番の願いも果たせずに俺は朽ち果てて露と消えていくのかって…っ!」
 余市の広くてがっしりした肩が、大きく揺れた。

「柚、頼むよ…っ!」
 捉えられた片腕に、余市のもう一方の腕も重なる。懇願するように頭を垂れたまま、余市は絞り出すように告げた。

「柚が、欲しいんだ」

 決定的なひとことが耳に届いて。柚羽は大きく目を見開いて、目の前の人を見た。こちらを見ない、地面に顔を向けたままの人を。

「え…? あのっ…?」

 夜の気の流れが辺りを揺らしていく。柚羽の髪がふんわりと辺りに漂う。そこに天寿花の花影が落ちて、妖艶な陰影を描く。天寿花の林の奥は物言わぬ闇。竜王様が結界を張ってくださっている場所じゃなければ気が薄く、常人には足を入れることも叶わない。

「余市…? どうして、私なの? 余市は美祢様をお慕いしているんでしょう? …もしかして、あの、西南の女子がいいの? だから、私なの…?」

 そうとしか思えなかった、他に理由が思い浮かばない。せっぱ詰まった気が辺りに漂って、ぞくぞくする。所詮、自分は身代わりにしかなれないんだ、そう思うのに不思議と落胆はなかった。落ち込んでいる間もないくらい、辺りには緊張感が満ちていた。

「関係ないよ! 最初から、美祢様なんてっ!」

「…え?」
 吐き捨てるような声が天寿花の天井を震わせる。はらはらとこぼれ落ちる花びらが髪にかかる。ふたりの上に、見たことのない「雪」というものが降るように。

「ああ言えば、柚が喜んでくれると思ったから。柚が御主人様を想って泣くから、俺も柚と同じだよって言いたかったんだ。そりゃ、美祢様はお美しい御方だと思っていたけど、それ以上の特別の感情なんてなかった」

「…うそ…」
 柚羽は、そのままぺたんと座り込んでしまった。ずっとずっと、美祢様を羨んで、妬ましく思っていた私は何だったのだろう? もうすっかり心は混乱していた。

「最初は。柚を最初に見たときは、妹が出来たみたいでとても嬉しかったんだ。俺は兄弟がなかったし、叔父の子供たちは俺には親しくしてこなかったし。いつもひとりぼっちで寂しかったから、突然家族が出来たみたいで。柚と一緒にいるのが、本当に楽しかった。もうひとりじゃないから…」

「余市…」
 そんな風に、思ってくれていたのか。妹だと言われても、嬉しかった。自分が余市を大切に思っていたのと同じくらい、余市も自分のことを思ってくれていたなら。西南のあの御館での楽しかった日々は、やっぱり嘘じゃなかったんだ。

「でも…。柚はだんだん、綺麗になっていって。抱きしめると女子(おなご)の匂いがしてくるようになって…それに気付いてからは、もう自分の気持ちを抑えるのに必死だった」

 

 女子を抱くのは、自分の欲望を吐き出すためだと思っていた、そんなものなんだと。でも、違う。柚羽が欲しいのはそんな軽い気持ちじゃなくて。余市は柚羽とずっと一緒にいるために、そうしたいと思った。自分には家族がなかったから、柚羽とそれがいつか作れたらいいなと。
 でもそのためには、柚羽を納得させられるくらい出世して身分のある男にならないと。柚羽に妻になってくれと告げたときに、頷いてくれるくらいの立派な人間になりたかった。

 西南にいる頃はそれは叶わぬ夢だとも思っていた。下男でありながら、御館の侍女を娶るのは畏れ多いこと。御館様のお許しが出るとも思えなかった。それでも、柚羽が他の男のものになるのはどうしても嫌で…もしも、柚羽が望まないお召しを受けたら、どうしようかとそればかりを心配して。どうしたら、このままずっと自分だけのものにしておけるのかと考えていた。その答えが、浮かばないままに。

 都に来られたのは全くの幸運だったと思う。もう、家柄も身分も関係ない。頑張れば出世できる、柚羽を得るためなら、どんな苦労も厭わない。遊びの誘いにも余り乗らず、武芸の修得に務め、色々な知識も身に付けてきた。どんな雑用だって進んで引き受けた。

 花の蕾が徐々にほころんでいくように美しくなっていく柚羽が眩しくて、誇らしくて。その周りだけがいつも金の粉を捲いたようにきらめいていた。うっとりと眺めているだけで吸い寄せられそうで、間近で見上げられると唇が勝手に動きそうになった。

 

「だから…遠征団に、志願して。…鷺百合の野に誘ったのだって、団長に任命されたのを一番先に柚に教えたかったから。柚の喜んでくれる顔が見たかったのに…」
 余市の声が聞き取れないほどに小さく、力無くなる。憔悴しきっている身体、とても先ほどまでの宴で見ていた立派な人と同じ人物だとは思えなくて。

「あの日のことは、ごめん。柚…あんな風にするつもりはなかったんだ、本当に。なのに、柚を見ていたら、もうたまらなくなって。俺が遠征団で派遣されている間に他の奴が柚を自分のものにしてしまったら、どうしようと焦ってしまって。柚に目を付けている奴はたくさんいるんだ。今まで精一杯、牽制してきたつもりだったけど、自分がいないあとのことはどうにもならないから。そう思ったら、もう…自分でもよく分からなくなって」
 余市の口から、後悔のため息が漏れ出た。

「今夜だって…本当は、こんなこと、言うつもりはなかったんだ。ただ、約束の言葉が欲しかっただけ。俺が今回の遠征で手柄をたてて戻ったら、その時は…俺のことを柚の相手として考えて貰えないかとお願いするつもりで。でも、駄目なんだ、もう駄目なんだ…俺はもう、戻ってこられない。そうできる自信がない…だから。せめて、一度だけでも…」

「…そんな…」
 こんな風に言われて、一体どうやって応えたらいいのか。まさか、こんなこと言われるとは思わなかったから…頭の中はごちゃごちゃに混乱して、何の言葉も浮かばなかった。

口惜しくて、たまらなくて。ぽとぽとと、涙がこぼれ落ちる。ハナをすすり上げたとき、余市がふっと顔を上げた。

「柚…」

 こんなに心細そうな顔を初めて見た。

「どうして、俺は…柚を大切にしたいのに…こんなに何度も泣かせてしまうのだろう…」
 そう告げた余市の頬も濡れていた。

 息が詰まる。頷くだけでいいのに、そうしたら、余市は…自分の一番望むことをしてくれるのに。
唇が動いても、声が出ない。余市が本当に自分を見ていてくれたなんて…そんな、夢みたいなことあっていいのだろうか? 

 視線が絡み合う。自分と同じ色の濃緑の瞳。大好きな色、ふるさとの色。懐かしい山並みの、森の色。余市が見つめてくれる、その時の優しい色が好きだった。

 ふうっと、目を伏せる。柚羽は、大きく息をした。視界を閉ざしても、余市が自分を見ているのが分かる。息を呑んで、返事を待っているのが感じ取れる。自分を、自分のてのひらを包み込む、大きな温かいてのひらから、全てが伝わる。

 そこに、自分のもう一つの手を重ねた。胸の高鳴りが内側から強く激しく打ち付けてくる。そして。

 柚羽は、天寿花の根元に佇む人を前に…静かに首を横に振った。涙の滴が辺りに飛び散って漂う。

「…駄目、余市。それは…出来ないよ」