「柚…」 「…ごめん。そうだよね、急にこんなこと。この前、あんなにきちんと駄目だって言われたのに…」 「あ…」 「もう、いいから。早く寮に戻って休んで。…俺のことはいいから、もうこのことは、忘れて。聞かなかったことにして」 そうじゃないのと言いたいのに、上手く身体が動かない。そんなじゃないのって言いたいのに。ただ…私が言いたいのは…。 すれ違ってしまうの? 今度は、もう永遠に…ふたりの間に二度と重なり合う部分がないほどに。そう思うと涙がまた溢れてくる。泣いたって、何の解決にもならない。ふたりの間に何の進展もない。きちんと、伝えなければ…きちんと、思ったことを言わなければ…。 「…余市?」 「……くれよ…」 「…え?」 「早く、帰ってくれよっ! もうこれ以上、情けない姿を見ないでくれ!!」 柚羽は。 花びらの上に膝を付いたまま、ゆっくりとそちらを見た。余市の髪が乱れて揺れる。その流れ。それが自分の髪も揺らす程、近くまでもう一度寄り添った。それから、自らの懐に手を伸ばす。小さな布の包みを手にするとそれを姿勢を低くして、捧げ持った。自分の頭よりも、高いところで。きゅっと目を閉じる。心臓が爆発しそうだった。 「余市…」 それきり。何も物音がないまま、静かな気が流れていく。手が痺れてきて腕が震える。ほんのささやかな重みだと思っていたが、時間がたつとずしりと来る。 「…え…?」 「柚…? あの…」 「受け取って、余市」 「でも。柚…これは」 「余市、受け取って欲しいの。お願い、…ねえ、一晩だけなんて、そんなこと言わないで。必ず帰ってきて、私を余市の妻にして。…ずっと、傍にいさせて…」 侍女が、自分の身を守るための懐刀を自ら差し出す、その行為。それは自分の全てを残らず捧げます、と言う意思表示だ。懐刀を差し出してしまえば、もう自分の身を守るものは何もない。もう、あとは自分の身体しかない。それがどんなに心細いものであるか、軽くなった懐で柚羽は身をもって感じていた。 これで、受け入れられなかったら、全てがおしまいなのだ。心を、想いのたけをさらしてくれた余市を前にしても柚羽はまだ不安でいっぱいだった。彼女の胸にはいつでもあの宵の悲しい記憶が張り付いていたから。 「本当に…? 本当に、柚…」 柚羽の濡れた輪郭を余市の両手が包み込む。そっと、見つめられる。余市の瞳も新しい滴で濡れていた。やがて溢れたそれがはらりと頬を落ちていく。 「…柚っ…!!」 「余市…」 そんな自分の首に余市の腕が絡みつく。存在を確かめるように髪に長い指が差し込まれて、すうっと流れる。もう一方の手が柚羽の身体の輪郭をそっと辿っていく。肩から背中、腰まで届くともう一度するするっと上に戻って、今度は重ねの上から腕を辿る。 そっと顔を上げると、少し細くなった目が柚羽を見てる。笑みをかたち取った口元が微かな吐息を漏らす。それが近づいてきて、額にぬくもりを落とす。ひとつ、ふたつ、みっつ。少しずつ位置を変えて、眉から目尻、頬骨の辺り。そのたびにぴくんとして、瞼を閉じてしまう。 「柚…あったかい。柔らかくて、ふわふわしていて。今まで、頭の中で柚の身体を何度も何度も抱きしめたけど、こんなの想像できなかった」 「あ、あのっ…。余市っ…」 「何?」 「…えと…、もしかして、ここでするの? これから…?」 「やだ?」 「だって…」 「…柚…」 「ごめん、柚。…もう待ちきれないんだ。夜が明ければ、もう行かなくてはならない…行かなくていいものならそうしたいけど、そうも出来ないし。こんな時間からじゃ、もう部屋だって借りられないよ? そりゃ、本当は俺だって、ちゃんと全て整えて…それからにしたいけど…」 ささやかだけど、婚礼の儀式を整えて。祭壇の前できちんと盃を酌み交わして…真っ白な寝着でその夜に臨むのだと聞いていた。ひとりの、ただひとりの人のものになるために。そうすることで、永遠の幸せが約束されるような気がしていた。 柚羽は、ただ黙ったままで。震える口元のまま、余市を見つめた。 「それでも、どうしても柚が嫌だって言うんなら…我慢する。無理にはしない、…柚が大切だから…待つよ、待てるよ? 柚が俺の妻になってくれるって、そう言ってくれたんだから。それを信じていれば…」 本当に、その言葉の通りだと思った。きっと、この人は今までと少しも変わらずに、ずっと私を大切にしてくれる、守ってくれる。神様の前できちんと約束しなくても、それはきっと守られる。ただ、ふたりの心が信じあえれば…。 「…そう、だよね。初めてなのに…こんなところじゃ、嫌なのは当たり前だよ。ごめん、俺、どうかしてる。そんなに焦ることないのに、柚はもう俺のものになってくれるのに…」 「ごめん、柚…」 「…ううん」 「いいよ、余市」 「…え?」 「嫌、じゃない…余市なら、いい」 「…柚…」 「私を…余市のものにして…」
「ごめんね、…本当に、ごめんっ…柚」 片手で柚羽をしっかり抱きしめたまま、余市は自分の重ねを肩から落としてそれから袴を取る。それらを天寿花の木の根元に敷き詰めた。薄桃の花びらの上に彩りどりの衣が重ねられる。ゆっくりとした動作で行われていくそれを、傍らで不思議な気持ちで見守る。それが、自分の為を思ってくれているのだと言うことに気付いたのは、もう一度きゅっと抱きしめられてから、その上に重ねごとそっと横たえられたときだった。 「…綺麗…」 「花に包まれてるのね、私。いい香りで…」 すると、余市がもう一度、しっかりと口づけてきて。それから、とろけそうな瞳で柚羽を見つめた。 「…柚の方が、ずっと綺麗だよ」
寝着の上は柔らかくてふんわりした衣。丈は腰を覆うくらい。腰から下はやはり柔らかい素材の袴。いつも侍女のお務めの時に着ているしっかりしたものとは違う。色も薄いものがほとんどで、今夜、柚羽が身に付けていたのは上下とも桜色だった。裾に行くほど色が濃くなる。余市の手がそれをはぎ取っていく。衣擦れの音を遠く感じながら、何故か泣きたいような気分になった。 ひんやりした夜の気が肌に触れて、身体が震えた。春先の夜半、まだ、衣を何枚も重ねて休むのだ。柔肌を外気にさらされたら、さすがに冷たい。でもすぐに、小刻みに震える身体は胸を合わせて抱きすくめられる。余市の上体ももう何も身に付けていない。それでも、汗ばむくらいに熱を感じた。首筋に舌が柔らかく這いながら、身体の間にてのひらが差し込まれる。するするっと脇腹の辺りから侵入したそれが、柔らかく柚羽の片方の胸を包み込んだ。 「…やっ…」 「可愛いよ、柚。いい子だね…」 「は…うんっ…!」 横たえられている体勢で、顎に鎖骨にさわさわっと余市の髪が当たる。柔らかい髪に肌をなぞられて、まるで羽根でかすめ取られているみたい。何をされているのかは、視覚でなく感覚で感じる。両方の胸に絶え間なく押し寄せてくる刺激。そして、そこを、その周りを忙しく這い回っていくてのひら、唇。そのほてりの熱さ。 「ね、ねえっ…余市っ。いつまで、こうするの? …何だか、嫌…っ、食べられちゃいそうで…」 正直、こうして衣をはぎ取られて、揉みほぐされて吸い付かれていくのは、あまり心地よいものではなかった。別に身体に蜜や何かが塗られているわけでもないのに、そんなに味がするわけでもないのに、どうしてそんなにぺろぺろ舐めるの? おいしくもないでしょ? 「…柚ぅ…」 「そんなこと、言うなよ。本当に食べちゃいたくなるだろ? 柚の身体、柔らかくてあったかくて、もう最高においしいよ?」 「やぁんっ…」 「あんっ…!」 「駄目だよ、柚…。柚は俺のものなんだから、その恥ずかしがってる可愛い顔も全部見せてくれなくちゃ。隠そうとしたって、許さないから」 恥ずかしいことは変わらないが、それでも甘く入り込んでくる舌も、舐め回される感触も、気持ちいいとは言えないまでも受け入れられるようになった。でも、そうされながら、両方の手で、胸を愛撫されるとたまらない。 そしてそれを…見つめられているのだ。口づけの合間に、ちゃんと喘ぐ声も聞かれている。泣き出しそうになりながらも顔を伏せることも出来ない。永遠に続くとも思える、甘い拷問のようだった。 その押し寄せては引いていく波に次第に飲み込まれて、だんだん余計なことが考えられなくなる。身体の随所に唇を落とされるたびに、ただ、甘い声が上がった。それにまた、余市が敏感に反応する。 「…びっくりした?」 その余裕たっぷりな表情が気に入らない。こっちはとっくにおかしくなっちゃっているのに。どんなに恥ずかしいか分からないのに、身体が敏感に反応してしまう。もうそんな自分を隠すことも出来なくて、途方に暮れているのに。 「余市、ずるいっ…」 「どうして、余市だけ、そんなに普通にしてるの? 女子(おなご)になんて、慣れてるから?」 「え…?」 「余市、今までに、いっぱいいっぱい、女子を買ったでしょ? だから、もう慣れっこなんだもの。ずるい、だって、…私、次に何が起こるか分からなくて、こんなにどきどきするのに。怖くて、心許なくて、たまらないのにっ…」 別にそれほど責め立てているつもりじゃなかった。双方の合意の元に遊女を買うのなら、それは当たり前のことだろう。それは柚羽だって、分かっているつもりだ。余市に今まで何人の女子がいようと、心までを通わせた者がいようと…そんなこと、どうでもいいのに。 すると。 余市の動きが不意に止まった。柚羽の身体から手が離れる。ふっと、ひとりに戻された不安な気持ちに、視線をその人に戻した。 身を起こしかけた余市が、何とも言えない表情で柚羽を見ている。腰の辺りに乱れて巻き付いた肌着。盛り上がった肩の筋肉、その身体の輪郭が燭台の明かりに縁取られる。余市は着痩せする方なのかも知れない。衣をはぎ取ったその身体は、想像以上に逞しくて。男性の香りに目眩を起こしそうだった。 「あ…」 「…余市?」 しばらく、顔を伏せていた余市が。やがてその姿勢のまま、ゆっくりと柚羽を見つめた。そっと腕を広げて。 「…おいで、柚」 「…え?」 「ここまで、おいで。柚…」 ゆるゆると身を起こすと、長く伸びて辺りに散らばった髪が扇のように広がって柚羽を包む。きゅっと、唇を噛んで、それからそっと腕を伸ばす。余市の胸元に顔を埋めると、背中に柔らかく腕が回った。しっかり抱きとめられる。 「…普通になんて、してないでしょう…?」 柚羽の耳に届いてくる、自分のものじゃない心音。とくとくとくと信じられないほどの速さで内側から打ち付けてくる。耳が痛いほど、激しくて。 「そりゃあ、柚の言うとおり。女子は柚が初めてじゃないよ? でも、こんなに欲しかったのは柚だけだし…大体、もう長いこと、女子なんて抱いてない」 「え…?」 意外なひとこと。ここでだって、その気になれば、どうにでもなるのに。何で? 「すっごく情けないんだけど…いつの頃からか、いくら遊女小屋に行っても楽しくも何ともなくて。もちろん、向こうも仕事だし、それなりのことはしてくれるけど…駄目なんだ、誰が相手でも、頭に柚が浮かんで来ちゃって…」 「女子を抱くたびに、これが柚だったらどんなにいいだろう、柚だったらどんな風に応えてくれるんだろう…って、そう言う風にばかり考えるようになって。そんな自分が、情けなくて浅ましくて…柚に申し訳なくて。…あの日も悩みながら、だったんだ。だから、本当に…柚にあんな目で見つめられて、もう、口惜しくて情けなくて、どうにもならなくて…もう行くもんか、って決めたんだ」 「……」 「いつも、柚が欲しかった。柚が笑いかけてくれても、すり寄ってくれても、みんなみんな苦しいばかりで。何度、奪ってしまおうと思ったか。柚を自分だけのものにして、しまおうって。…知らないだろう、柚は。いつも必死に耐えていたんだ。…こんな風に、柚を抱きしめられる日が来るなんて、本当に夢を見てるみたいだ…」 「…余市…」 「私も、同じ。余市に…こうやって抱きしめて欲しかったわ。ずっとずっと、そう思っていた、…ごめんなさい、変なこと言って。だって、恥ずかしかったんだもの…すごく。それに、余市にがっかりされたら、嫌だし。何だか、どうしていいのか分からなかったの…」 「…そんなこと。柚はこんなに素敵なのに。どんなに綺麗だろうって思っていたけど、やっぱり本物には敵わないよ。…でも」 「…あのね…、初めてって、すごく大変なんだって。出来るだけ、気持ちをたかめてあげないと辛いって…でも、もう限界なんだ。待てない…柚、我慢できる?」 思わず、身体がきゅっと強ばった。柚羽だって、話には聞いている。もう経験のある侍女たちの半ば自慢話めいた告白で、そのことはたくさん聞かされた。気が遠くなるくらい、痛くて、大声で叫んでしまうとか。血が止まらなくて、びっくりしたとか。それを思えばやはり怖い。考えたくないけど、恐怖はある。でも…。 「…余市なら、いい。好きにしてくれて。私、頑張るから」 「…頑張るって…、柚っ…」 「余市っ…」 「…でも、嬉しいよ。その言葉、信じてるからね…」 そう言うと、余市はにわかに熱いもので瞳を揺らす。重ね合わせられた唇を強く吸われて、そのまま、元のように身を横たえられた。
|