…12…

 

 

「柚…」
その一言で、余市の心内が全て伺い知れた。柚羽の手を包んでいた両の手にもう一度、きゅっと力がこもって、その後にするりと抜ける。そのてのひらが、花の絨毯の上に力無く落ちていった。呆然とした瞳が力無く柚羽を見つめる。そして、静かに地面に顔を伏せた。

「…ごめん。そうだよね、急にこんなこと。この前、あんなにきちんと駄目だって言われたのに…」

「あ…」
 柚羽の唇が微かに動く。吐息が辺りの気を揺らしていく。でも、余市までは届かない。

「もう、いいから。早く寮に戻って休んで。…俺のことはいいから、もうこのことは、忘れて。聞かなかったことにして」

 そうじゃないのと言いたいのに、上手く身体が動かない。そんなじゃないのって言いたいのに。ただ…私が言いたいのは…。

 すれ違ってしまうの? 今度は、もう永遠に…ふたりの間に二度と重なり合う部分がないほどに。そう思うと涙がまた溢れてくる。泣いたって、何の解決にもならない。ふたりの間に何の進展もない。きちんと、伝えなければ…きちんと、思ったことを言わなければ…。

「…余市?」
 寄り添って、うなだれた肩に手を添えた。ぴくんと反応したそこが、次の瞬間、大きく後ろに向きを変える。柚羽の手はあっけなく振り払われた。

「……くれよ…」

「…え?」
 くぐもった声が良く聞き取れない。思わず聞き返すと、膝を抱えてうずくまった人が気を切り裂くように叫んだ。

「早く、帰ってくれよっ! もうこれ以上、情けない姿を見ないでくれ!!」

 柚羽は。

 花びらの上に膝を付いたまま、ゆっくりとそちらを見た。余市の髪が乱れて揺れる。その流れ。それが自分の髪も揺らす程、近くまでもう一度寄り添った。それから、自らの懐に手を伸ばす。小さな布の包みを手にするとそれを姿勢を低くして、捧げ持った。自分の頭よりも、高いところで。きゅっと目を閉じる。心臓が爆発しそうだった。

「余市…」
 微かに。かすれる声で、呼びかける。その人の耳まで、届いてくれることを祈って。

 それきり。何も物音がないまま、静かな気が流れていく。手が痺れてきて腕が震える。ほんのささやかな重みだと思っていたが、時間がたつとずしりと来る。

「…え…?」
 ようやく顔を上げてこちらを見たのであろうその人が、思わず声を漏らす。

「柚…? あの…」
 ざらっと、膝が地をかすめる音。余市がこちらをしっかり向き直ったのをはっきり感じた。

「受け取って、余市」
 自分の中の勇気を振り絞って、言葉を発する。

「でも。柚…これは」
 柚羽の意に反して、余市はなかなか行動を起こしてはくれない。ためらったまま、そこに佇んでいて。

「余市、受け取って欲しいの。お願い、…ねえ、一晩だけなんて、そんなこと言わないで。必ず帰ってきて、私を余市の妻にして。…ずっと、傍にいさせて…」

 侍女が、自分の身を守るための懐刀を自ら差し出す、その行為。それは自分の全てを残らず捧げます、と言う意思表示だ。懐刀を差し出してしまえば、もう自分の身を守るものは何もない。もう、あとは自分の身体しかない。それがどんなに心細いものであるか、軽くなった懐で柚羽は身をもって感じていた。

 これで、受け入れられなかったら、全てがおしまいなのだ。心を、想いのたけをさらしてくれた余市を前にしても柚羽はまだ不安でいっぱいだった。彼女の胸にはいつでもあの宵の悲しい記憶が張り付いていたから。

「本当に…? 本当に、柚…」
 余市の言葉が耳に届くまでの時間がとても長かった。震える手から懐刀が離れる。余市がそれを手にしたのだと、顔を上げて初めて気付いた。

 柚羽の濡れた輪郭を余市の両手が包み込む。そっと、見つめられる。余市の瞳も新しい滴で濡れていた。やがて溢れたそれがはらりと頬を落ちていく。

「…柚っ…!!」
 余市の袖が流れて、柚羽の身体を覆う。大きな鳥が羽を広げて包み込むみたいに。ゆっくり、ゆっくり、淡い力が静かに柚羽を捉える。震える腕が背中に回ったとき、柚羽もそっと余市の胸に顔を埋めた。

「余市…」
 甘える声で、きゅっとしがみつく。

 そんな自分の首に余市の腕が絡みつく。存在を確かめるように髪に長い指が差し込まれて、すうっと流れる。もう一方の手が柚羽の身体の輪郭をそっと辿っていく。肩から背中、腰まで届くともう一度するするっと上に戻って、今度は重ねの上から腕を辿る。
 自然な手つきで片袖が抜かれて、重ねと小袖の間に手が入り込んできた。衣一枚分身近になって、感触がじかに伝わってくる。ちょっとくすぐったくて首をすくめてしまうと、耳元にくすりとやわらかい笑い声が落ちてきた。

 そっと顔を上げると、少し細くなった目が柚羽を見てる。笑みをかたち取った口元が微かな吐息を漏らす。それが近づいてきて、額にぬくもりを落とす。ひとつ、ふたつ、みっつ。少しずつ位置を変えて、眉から目尻、頬骨の辺り。そのたびにぴくんとして、瞼を閉じてしまう。
 やがて、それが顎を過ぎて首筋に届く。ひときわくすぐったくて、身体が跳ねる。首を横に振ると、そこに顔を埋められて。甘えるみたいに抱きすくめられた。

「柚…あったかい。柔らかくて、ふわふわしていて。今まで、頭の中で柚の身体を何度も何度も抱きしめたけど、こんなの想像できなかった」
 そう言いながら、袴帯を慣れた手つきで解いていく。その軽い感触に、自分が寝着のままで出てきてしまったことを思いだした。腰の辺りがふっと緩んで心細くなる。

「あ、あのっ…。余市っ…」
 慌てて声を上げると、余市の手が止まる。

「何?」
 にっこりと微笑んで。それからそっと、唇を重ねられる。くっつくだけの、柔らかい語らい。返事を聞かれても、こうされたら答えられないじゃないの。

「…えと…、もしかして、ここでするの? これから…?」
 だって、余市の動きはそうとしか思えなくて。もともと頼りない素材の寝着だけどどんどん緩んできて、身体との間に隙間が出来てくる。

「やだ?」
 そう言いながら、目が笑ってる。細帯を解かれて、衣の下に余市の手が滑り込んで。じかに背中に触れてくる。その熱がじんじんと感じられて。

「だって…」
 泣き出しそうな目で応戦する。ここは外だよ? いくら夜更けてると言っても、寝の刻を過ぎていると言っても…竜王様の御庭のすぐ表で。そんなところで、こんなことするの? …誰か来たら、どうするの?

「…柚…」
 名前をそっと呼ばれて、口づけられて。それがゆっくり放たれたとき、すごく近くで目があった。まつげが触れ合うくらい間近で、余市がこちらを見ている。まっすぐに、そして、少しだけ悲しそうな色を含んで。

「ごめん、柚。…もう待ちきれないんだ。夜が明ければ、もう行かなくてはならない…行かなくていいものならそうしたいけど、そうも出来ないし。こんな時間からじゃ、もう部屋だって借りられないよ? そりゃ、本当は俺だって、ちゃんと全て整えて…それからにしたいけど…」

 ささやかだけど、婚礼の儀式を整えて。祭壇の前できちんと盃を酌み交わして…真っ白な寝着でその夜に臨むのだと聞いていた。ひとりの、ただひとりの人のものになるために。そうすることで、永遠の幸せが約束されるような気がしていた。

 柚羽は、ただ黙ったままで。震える口元のまま、余市を見つめた。

「それでも、どうしても柚が嫌だって言うんなら…我慢する。無理にはしない、…柚が大切だから…待つよ、待てるよ? 柚が俺の妻になってくれるって、そう言ってくれたんだから。それを信じていれば…」
 絞り出すようにそう言うと、苦しそうに顔を背ける。その腕は大きく震えて、柚羽を腕に大きく包んだまま、重ね一枚だけをぎゅっと握りしめた。

 本当に、その言葉の通りだと思った。きっと、この人は今までと少しも変わらずに、ずっと私を大切にしてくれる、守ってくれる。神様の前できちんと約束しなくても、それはきっと守られる。ただ、ふたりの心が信じあえれば…。

「…そう、だよね。初めてなのに…こんなところじゃ、嫌なのは当たり前だよ。ごめん、俺、どうかしてる。そんなに焦ることないのに、柚はもう俺のものになってくれるのに…」
 そう言いながら、震える身体。とても熱い、熱がこもったみたいに。それでも堪えてくれようとする、この前のように、無理にどうにかしようなんてしない。

「ごめん、柚…」

「…ううん」
 柚羽は腕の中で小さくかぶりを振った。それから、余市の重ねの下に腕を差し込んで、小袖を感じながら背中に回す。こもった熱が伝わってきて、知らずに吐息が漏れる。

「いいよ、余市」
 ぎゅっと、しがみついて。小袖に顔を埋めた。自分の頬がかっと熱くなるのを感じる。

「…え?」
 ぴくりと、熱い身体が反応する。ものすごく恥ずかしくて、本当は顔を上げるのも嫌だったけど。柚羽は腕の中に包まれたまま、そっとその人を見上げた。驚いて、戸惑っている瞳。

「嫌、じゃない…余市なら、いい」

「…柚…」

「私を…余市のものにして…」
 そこまで言って、恥ずかしくて俯くのと。余市の腕に力がこもるのと。どっちが早かったのだろう。じんわりとしたぬくもりの中で「ありがとう」と言うかすれる声を聞いた。

 

 

「ごめんね、…本当に、ごめんっ…柚」

 片手で柚羽をしっかり抱きしめたまま、余市は自分の重ねを肩から落としてそれから袴を取る。それらを天寿花の木の根元に敷き詰めた。薄桃の花びらの上に彩りどりの衣が重ねられる。ゆっくりとした動作で行われていくそれを、傍らで不思議な気持ちで見守る。それが、自分の為を思ってくれているのだと言うことに気付いたのは、もう一度きゅっと抱きしめられてから、その上に重ねごとそっと横たえられたときだった。
柔らかい背中の感触はまるでしとねみたいで。そっと見上げると覆い被さってくる余市の向こうに薄桃の天井がふわふわと揺れていた。

「…綺麗…」
 何度も何度も口づけられて。唇だけじゃなくて、顔全体。熱い吐息に包まれながら、呟いた。心がふわふわして…夢心地で。

「花に包まれてるのね、私。いい香りで…」

 すると、余市がもう一度、しっかりと口づけてきて。それから、とろけそうな瞳で柚羽を見つめた。

「…柚の方が、ずっと綺麗だよ」


 

 寝着の上は柔らかくてふんわりした衣。丈は腰を覆うくらい。腰から下はやはり柔らかい素材の袴。いつも侍女のお務めの時に着ているしっかりしたものとは違う。色も薄いものがほとんどで、今夜、柚羽が身に付けていたのは上下とも桜色だった。裾に行くほど色が濃くなる。余市の手がそれをはぎ取っていく。衣擦れの音を遠く感じながら、何故か泣きたいような気分になった。

 ひんやりした夜の気が肌に触れて、身体が震えた。春先の夜半、まだ、衣を何枚も重ねて休むのだ。柔肌を外気にさらされたら、さすがに冷たい。でもすぐに、小刻みに震える身体は胸を合わせて抱きすくめられる。余市の上体ももう何も身に付けていない。それでも、汗ばむくらいに熱を感じた。首筋に舌が柔らかく這いながら、身体の間にてのひらが差し込まれる。するするっと脇腹の辺りから侵入したそれが、柔らかく柚羽の片方の胸を包み込んだ。

「…やっ…」
 思わず声が漏れた。長い指で全体をもみほぐされながら、さらに指の付け根の辺りが頂きに当たる。そこがこすれて、何とも言えないこそばゆい感じがする。おなかの下がそれだけで熱くなっていく。ぴくんぴくんと反応すると、さらに指の動きが早くなって。熱い吐息が首筋を下に辿って、鎖骨の上を越えてきた。

「可愛いよ、柚。いい子だね…」
 そう言いながら、固くなってきた蕾の周りをまあるく舌で辿る。頂き付近のほんのりと色づいたところを周りから中央に向かって、周囲からだんだん範囲を狭めて。濡れた部分に次の瞬間、熱く吐息がかかる。何とも言えない艶めかしい感触。たとえようのない熱さが身体を駆け抜けていく。やわらかく丁寧で、それでいて執拗で。初めて知る感覚に柚羽はだんだん飲まれていった。

「は…うんっ…!」
 ちゅっと、口に含まれて吸い上げられたとき。胸から身体の奥へ戦慄が走った。思わす背筋がのけぞる。背中を這っていたもう一つのてのひらがそれを支えて抱きとめてくれた。何度も何度も口の中で転がされて、吸い上げられて、側面を、てっぺんを舌でしごくように舐め上げられる。休みなく熱いてのひらがもう一方のふくらみを包み込んで来る。

 横たえられている体勢で、顎に鎖骨にさわさわっと余市の髪が当たる。柔らかい髪に肌をなぞられて、まるで羽根でかすめ取られているみたい。何をされているのかは、視覚でなく感覚で感じる。両方の胸に絶え間なく押し寄せてくる刺激。そして、そこを、その周りを忙しく這い回っていくてのひら、唇。そのほてりの熱さ。

「ね、ねえっ…余市っ。いつまで、こうするの? …何だか、嫌…っ、食べられちゃいそうで…」

 正直、こうして衣をはぎ取られて、揉みほぐされて吸い付かれていくのは、あまり心地よいものではなかった。別に身体に蜜や何かが塗られているわけでもないのに、そんなに味がするわけでもないのに、どうしてそんなにぺろぺろ舐めるの? おいしくもないでしょ?

「…柚ぅ…」
 余市が柚羽の胸元からようやく顔を上げる。その表情がたまらなく可笑しそうに笑っている。

「そんなこと、言うなよ。本当に食べちゃいたくなるだろ? 柚の身体、柔らかくてあったかくて、もう最高においしいよ?」

「やぁんっ…」
 ただでさえ、とろんとして変な気分で。それでいて頬が妙に熱くて。たまらないのに…そんな風に笑わないで、恥ずかしいの、すごく。柚羽は思わず目を閉じて顔を背けた。でも、すぐに大きな手のひらに包まれて、正面を向き直させられる。

「あんっ…!」

「駄目だよ、柚…。柚は俺のものなんだから、その恥ずかしがってる可愛い顔も全部見せてくれなくちゃ。隠そうとしたって、許さないから」
 そう言いながらまた、胸をあわせて口を吸う。何度も同じようにされて、少しずつは反応できるようになった。

 恥ずかしいことは変わらないが、それでも甘く入り込んでくる舌も、舐め回される感触も、気持ちいいとは言えないまでも受け入れられるようになった。でも、そうされながら、両方の手で、胸を愛撫されるとたまらない。
 全体を揉みながら、先端への絶え間ない刺激が襲いかかる。今夜、生まれて初めて味わう感覚。こんなむずかゆくて、切ないおなかからこみ上げてくる刺激がこの世に存在するなんて、柚羽は知らなかったから。余市の手のひらは大きくて、柚羽のようやく膨らんだそれをすっぽり覆ってしまう。

 そしてそれを…見つめられているのだ。口づけの合間に、ちゃんと喘ぐ声も聞かれている。泣き出しそうになりながらも顔を伏せることも出来ない。永遠に続くとも思える、甘い拷問のようだった。

 その押し寄せては引いていく波に次第に飲み込まれて、だんだん余計なことが考えられなくなる。身体の随所に唇を落とされるたびに、ただ、甘い声が上がった。それにまた、余市が敏感に反応する。
 嬉しそうに、もっと他のところに移っていく…いつの間にか袴から足が抜かれて、普段人目には晒さない部分を丹念に味わわれる。膝の裏にすすすっと舌が這っていったときは、思わず叫んでしまった。

「…びっくりした?」
 太股に口づけながら、余市が笑う。

 その余裕たっぷりな表情が気に入らない。こっちはとっくにおかしくなっちゃっているのに。どんなに恥ずかしいか分からないのに、身体が敏感に反応してしまう。もうそんな自分を隠すことも出来なくて、途方に暮れているのに。

「余市、ずるいっ…」
 おなかの奥のじんじんした感覚を必死で堪えながら、柚羽は拗ねた声を上げた。うん? と身を乗り出して覗き込んでくる優しい笑顔をふくれっ面で睨み付ける。まあ、自分は精一杯、そうしているつもりだったけど、実際はどうか分からない。対する余市の表情に、あまりダメージが見られないし。情けない。

「どうして、余市だけ、そんなに普通にしてるの? 女子(おなご)になんて、慣れてるから?」

「え…?」
 きょとんとした目が見つめてくる。意外そうな色を浮かべて。柚羽は自分の中に生まれた感情が嫌で、ぷいと横を向いた。そして早口に言う。

「余市、今までに、いっぱいいっぱい、女子を買ったでしょ? だから、もう慣れっこなんだもの。ずるい、だって、…私、次に何が起こるか分からなくて、こんなにどきどきするのに。怖くて、心許なくて、たまらないのにっ…」

 別にそれほど責め立てているつもりじゃなかった。双方の合意の元に遊女を買うのなら、それは当たり前のことだろう。それは柚羽だって、分かっているつもりだ。余市に今まで何人の女子がいようと、心までを通わせた者がいようと…そんなこと、どうでもいいのに。
 余市は自分を妻にしてくれるのだ。この先ずっと、愛してくれるというのだ、それでいいのに…。こうして、お互いの立場の違いを思い知らされると、やっぱり胸が痛い。たまらない気分になる。

 すると。

 余市の動きが不意に止まった。柚羽の身体から手が離れる。ふっと、ひとりに戻された不安な気持ちに、視線をその人に戻した。

 身を起こしかけた余市が、何とも言えない表情で柚羽を見ている。腰の辺りに乱れて巻き付いた肌着。盛り上がった肩の筋肉、その身体の輪郭が燭台の明かりに縁取られる。余市は着痩せする方なのかも知れない。衣をはぎ取ったその身体は、想像以上に逞しくて。男性の香りに目眩を起こしそうだった。

「あ…」
 柚羽が思わず腕を伸ばすのに。余市は完全に身を起こしてしまった。ほとんど全裸に近い状態で重ねられた衣の上に横たわっている、自分が急に心細くなった。

「…余市?」
 脇に手を付いて、身を起こしかける。無意識のうちに肌着をたぐり寄せて身体を包んで。ふたりの間にすうっと夜の気が幾重にも流れていく。まだ、身体は怖いくらいに火照っているのに。余市のくれた熱で、たまらなく熱いのに。

 しばらく、顔を伏せていた余市が。やがてその姿勢のまま、ゆっくりと柚羽を見つめた。そっと腕を広げて。

「…おいで、柚」

「…え?」
 柚羽は言葉の意味がよく分からずに聞き返した。

「ここまで、おいで。柚…」

 ゆるゆると身を起こすと、長く伸びて辺りに散らばった髪が扇のように広がって柚羽を包む。きゅっと、唇を噛んで、それからそっと腕を伸ばす。余市の胸元に顔を埋めると、背中に柔らかく腕が回った。しっかり抱きとめられる。

「…普通になんて、してないでしょう…?」

 柚羽の耳に届いてくる、自分のものじゃない心音。とくとくとくと信じられないほどの速さで内側から打ち付けてくる。耳が痛いほど、激しくて。

「そりゃあ、柚の言うとおり。女子は柚が初めてじゃないよ? でも、こんなに欲しかったのは柚だけだし…大体、もう長いこと、女子なんて抱いてない」

「え…?」

 意外なひとこと。ここでだって、その気になれば、どうにでもなるのに。何で?

「すっごく情けないんだけど…いつの頃からか、いくら遊女小屋に行っても楽しくも何ともなくて。もちろん、向こうも仕事だし、それなりのことはしてくれるけど…駄目なんだ、誰が相手でも、頭に柚が浮かんで来ちゃって…」
 きつくきつく、抱きしめられる。ぎりぎりと音がするほど。

「女子を抱くたびに、これが柚だったらどんなにいいだろう、柚だったらどんな風に応えてくれるんだろう…って、そう言う風にばかり考えるようになって。そんな自分が、情けなくて浅ましくて…柚に申し訳なくて。…あの日も悩みながら、だったんだ。だから、本当に…柚にあんな目で見つめられて、もう、口惜しくて情けなくて、どうにもならなくて…もう行くもんか、って決めたんだ」

「……」
 あの日、と言うのはもしや…あの時だろうか。見知らぬ男に襲われかけた自分を助け出してくれたあの時の。聞いてみたかったけど、なんとなく聞けなかった。

「いつも、柚が欲しかった。柚が笑いかけてくれても、すり寄ってくれても、みんなみんな苦しいばかりで。何度、奪ってしまおうと思ったか。柚を自分だけのものにして、しまおうって。…知らないだろう、柚は。いつも必死に耐えていたんだ。…こんな風に、柚を抱きしめられる日が来るなんて、本当に夢を見てるみたいだ…」

「…余市…」
 想いが溢れそうになって、そっと顔を上げる。そして、じっと見つめた。その、深い瞳を。

「私も、同じ。余市に…こうやって抱きしめて欲しかったわ。ずっとずっと、そう思っていた、…ごめんなさい、変なこと言って。だって、恥ずかしかったんだもの…すごく。それに、余市にがっかりされたら、嫌だし。何だか、どうしていいのか分からなかったの…」

「…そんなこと。柚はこんなに素敵なのに。どんなに綺麗だろうって思っていたけど、やっぱり本物には敵わないよ。…でも」
 ちょっと、瞳が曇る。どうしたのかと思ったら、強く抱きすくめられて、その腕の中で次の言葉を聞いた。

「…あのね…、初めてって、すごく大変なんだって。出来るだけ、気持ちをたかめてあげないと辛いって…でも、もう限界なんだ。待てない…柚、我慢できる?」

 思わず、身体がきゅっと強ばった。柚羽だって、話には聞いている。もう経験のある侍女たちの半ば自慢話めいた告白で、そのことはたくさん聞かされた。気が遠くなるくらい、痛くて、大声で叫んでしまうとか。血が止まらなくて、びっくりしたとか。それを思えばやはり怖い。考えたくないけど、恐怖はある。でも…。

「…余市なら、いい。好きにしてくれて。私、頑張るから」
 必死でそう言うと、余市が何とも言えない複雑な顔でこちらを見た。その口元がふっと緩む。

「…頑張るって…、柚っ…」
 こっちは必死で言っているのに、笑うなんてひどい。首筋に顔を埋められて、きゅっと抱きしめられて。くすくすと笑うその振動が伝わってくる。

「余市っ…」

「…でも、嬉しいよ。その言葉、信じてるからね…」

 そう言うと、余市はにわかに熱いもので瞳を揺らす。重ね合わせられた唇を強く吸われて、そのまま、元のように身を横たえられた。

 

 

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