…13…

 

 

 熱い吐息。それがふっと首筋に落ちる。普段はあまり人目にさらさない場所。そこをかき分けて、唇が辿る。何だか、先ほどまでよりももっともっと震えている気がする。唇、指先。

「…柚、綺麗だよ。本当に…綺麗だ…」

 そうやって囁かれる言葉もまるで喘いでいるみたいで。苦しそうな呼吸にただならぬものを感じる。身体がふっと宙に浮いた気がして。そんなはずないのに、とても心細くて。こんなに近くで、肌を触れ合っている余市がすごく遠く感じる。これから大変なことが起こるのだろうか…? 余市の緊張がぴりぴりと肌に伝わってくる。

 唇を胸元に這わせながら、余市の片方の手がするすると柚羽の身体の側面を辿る。太股の辺りまで来るとそこを何度も何度も往復して、そのしっとりした熱が柚羽のやわらかい肌に移っていくようだった。

「柚…」
 ぐっと。足と足の間に割り込むみたいに余市の身体が入ってくる。え? っと何かをすくわれたような不思議な気分になって。開かれた部分が妙に心細くて。きゅっと閉じようとするのに、余市の身体が邪魔してそれも出来ない。

「ひっ…ひゃっ…っ!! …やんっ!」
 思わず、腰が激しく揺れた。太股をぐっと押して開かれて、その手がだんだん柚羽の身体の真ん中に入り込んでくる。それ以上、入っちゃ、嫌っ! 駄目、触らないでと思うのに。身体も拒否して逃げるのに。ぐっと押さえ込まれて動けなくなる。
 余市はそこを見ているわけじゃない。その唇は相変わらず柚羽の身体の上の方を集中的に吸い尽くして、舐め上げる。その一方で手探りに浸食してくるのだ。知らないうちに力が入ってその侵入を阻むのに、長い指はいとも簡単に入り口を見つける。やわらかく充血してぬかるんだ場所。そこに軽い刺激を繰り返す。

「…う…っ…!」
 柚羽の身体がのけぞる。胸の頂きに吸い付いた唇に翻弄されているその隙に、余市の指が秘境へと進み込んだのだ。たった一本の試みがほころび始めた身体に新しい熱を落とす。おなかの奥からえぐられたような未知の感覚に柚羽の身体が震える。余市の二の腕をぎゅっと握りしめて、固く唇を噛みしめた。

「そんなに怯えないで、柚。俺に全て預けて…楽にして」
 余市もあまり強引にはしてこない。ゆるりゆるりと入り口付近を丹念に探り、確かめていく、当然のことながら未だに誰も受け入れたことのない空間は固くて狭くて、指1本が入っていくのにも抵抗を感じる。やわらかい壁のひだのひとつひとつが絡みついて来るみたいで。

 辺りにはただ、余市の吐息と柚羽の堪えた声…甘いと言うより、細い悲鳴に近くて。楽にして、と言われてもそんなこと無理。余市の指だって分かっていても、耐えているのがやっと。知らず余市の腕を握る手に力がこもる。それが下の方まで伝わっていって、余市の指を押し戻す。快感と言うにはあまりに遠い異物感。

「余市…っ!」
 どうしたらいいんだろう、やめてって言えば楽になれるんだろうか。こんなに恥ずかしくて、たまらないこと、いつまで繰り返すのだろう。

「柚っ…そんなに締め付けないで。もうたまらなくなるよ? 耐えきれない感じで…柚、頼むよっ…大人しくして…」

 狭い壁を押し広げるように、指が一度引き抜かれて、今度は2本になって。それに柚羽の身体の奥から溢れるものが絡みついていく。甘く誘うもの。

 愛らしい外見からは想像も付かないほどに、柚羽はとっくに匂やかな女子(おなご)の香りを身に付けていて。それを秘めるように包んでいた衣を解いてしまえば、もう誘うばかりの存在になる。それが柚羽自身には分かっていないが、その身体を確かめている余市にとってはずるずると引き込まれてしまう沼のように思えた。

「やあっ…! 余市…、余市…、私…っ!」
 女子として、感じることを入り口のところで躊躇している。戸惑いが波のように伝わってくる。甘い蜜で、溢れてくる熱さでこんなにも誘っているのに、心がそこまで追いつかない。怖かった、ここでやめて貰えれば楽になれるのに。でも、そうしたら、約束したことを守れなくなる。全部あげるって、頑張るって…言ったのに。

「柚…っ!」
 余市の方も必死で堪えているから、声もかすれてくる。

「怖いっ! 怖いの…っ! どうしたらいいのっ…余市…っ!」
 震えの止まらない身体でその胸にしがみつく。広くて厚くて…柚羽をすっぽりと覆い尽くしてしまう身体。生のままの肌、こんなにやわらかくて、こんなに心地よくて。これだけで、充分なのに。どうしてこの上に行かなくちゃならないの? …怖い、とてつもなく怖いっ…!!

「…好きだよ…柚っ…」
 指で柚羽の中を確かめながら、余市は小さな身体をそっと抱きしめた。髪をかき上げて耳元に囁く。吐息がみみたぶをくすぐっていく。羽根がなでていくように。

「柚が好きだから、全部欲しいんだ…。柚を隅々まで、俺のものにして、俺でいっぱいにしたいんだ…ね、我慢して。本当に、柚が好きなんだ、欲しいんだよ…っ!」

 甘くて、切ない。形容の仕様のない吐息混じりの言葉。震えながら、柚羽を包み込む腕。柚羽よりもずっと緊張して固くなっている肩、背中。みんなみんな好き、大好き。誰よりも好き。

 もっと近くに行けるのだろうか? これ以上無理なくらい、深く触れ合えるのだろうか…? 本音としてはもう限界で、これ以上は絶対に無理、と思っていた。でも、この想いを伝えるためにはもうひとつ飛び越えなければならないのだろうか?

「…いい、来て…」
 どうしてそんなこと言ってしまったのか分からない。唇が勝手に動いて、求めていた。自分の心の一番奥の場所から、呼んでいた。

 

 震えながら、合わさる、ふたりの視線。静かに口づけられる。確かめるように、もう一度想いをお互いに流し込むように。ふたりの今までと、これからと。みんなみんな…思い浮かべて。

 もう一度、柚羽を見つめた余市が…今までで一番温かく笑った。そして、静かに腰を進める…入り口に何かが当たったとき、柚羽の身体がびくんと大きく震え上がった。

「柚…」
 知らず逃げていこうとする腰をしっかり押さえつける。その力の強さ。逃れられない腕。

「は…っ、はうっ…ん…っ!」
 思わず、声が漏れ出る。

 自分の中をこじ開けて、無理矢理入り込んでくるものは先ほどまでの感触とは全然違って。壁を限界まで押し広げて、さらに進もうとする。もう、これ以上動いたら、壊れちゃう。体の中が爆発しちゃう…っ!

 お互いに肩で息をしながら。その感覚にお互いに支配されながら…少しずつ、少しずつ埋め込まれていく。足の付け根がつれるようにじりじりして、その奥の場所がぎりぎりと音を立てて広がっていく。閉じた瞼の奥で真っ白な輝きがはじけていく。ばちばちと…脳に響いて。

「…う…、柚っ…、柚っ…!!」
 余市の腕も背中も汗でぐっしょりで。どうしてこんなに大変なんだろう、柚羽には理解できない。自分の方も極限を超えた痛みで余計なことは考えられなくて。愛されると言うことがこんなに大変だったなんて、ひとりの人を受け入れることがこんなに重いことだったなんて…。

「あっ…! やっ…、やあっ…!!」
 ずりっと、さらに深く入り込まれた感覚に逃げる腰を押さえつけられ、その後、ざりっと何かのこすれ合う音が自分のおなかの下の方でした。少しの身じろぎで、繋がり会った部分がじんじんと痛む。泉のほとりの茂みが絡み合う。余市が一番奥まで入り込んで、身体をしっかり重ね合わせた。そのことにすら、柚羽は気付くことが出来なかった。

 

「ああ…、柚…」
 余市の言葉に恍惚とした、宙を浮く不思議な音色が混じる。近くにいるのに、遥か遠くにいる柚羽を呼んでいるようだ。

「あったかくて、気持ちいいよ。柚が包み込んでくれているんだね…ほんと、最高だ」
 かすれる途切れ途切れの声。ようやく絞り出す声。一方、受け入れている柚羽の方はとても快感とは言えない痛みで、絶え間なく後頭部を打ち付けられながら、それでも振るえる腕で、汗だくの背中を抱いた。ねっとりと強い汗の匂いを感じる。

「余市…嬉しいの?」
 ふうっと瞼を上げる。照れ笑いをした顔が覗き込んでる。くすぐったい、その視線がたまらなく、刺激してくる。ふっと、吐息がかかって、その後口づけられて。放たれたときに、余市が言う。

「嬉しいよ? …これで柚は本当に俺のものだ。もう、誰にもやらない、俺だけのものなんだから…柚は? そうじゃないの?」

「よく分からない…、だって、じんじんして、ひりひりして、とても重いの。このまま張りつめて裂けちゃいそう…どうしよう…」
 目尻がじんとする。ちょっと涙ぐんでいたのかも知れない。余市が困ったように微笑んで、瞼に唇を落とす。そっと瞳を閉じてそれを受け止める。そう言うことが自然に行われていく親密な行為に自分で酔い始めていた。何だか、次に余市がすることを受け入れることがとても自然な気がした。

「裂けるわけ、ないから平気。みんなそうなんだから…、だんだんやわらかくなって、そうしたら気持ちよくなると思うよ? でも、今日は無理だろうね…我慢できなかったら、言って。…やめるから…」

「う…、うんっ…」
 必死で頷く。

 そうすると余市がそれを待っていたように動き始める。そこの部分がこすれて、さらに痛みが増す。どこかが切れているのだろうか…女子が、初めての人を受け入れるときに破れる場所があると聞いたことがある。人によっては月のものみたいにたくさん出血するって。柚羽の中を隙間なく埋め尽くすものが行ったり来たりする。背筋がぞくぞくして…だんだん何が何だか分からなくなってくる。

「柚っ…! 柚っ…!!」
 ほとんど息だけの余市の声、それが降ってくる。一緒にはじける滴…汗。じんわりと肌に浮かんだ柚羽の汗とは違って、もう余市の身体は触ってもすぐに手が滑ってしまうほどの汗が流れていた。その動きに合わせて、自分の身体が揺れる。そして髪が帯になって流れて辺りに漂う。赤い輝きの向こうに余市が見える。

 自分の受け入れているものが余市の全てで。余市が彼の全部で愛してくれている。私のことだけ、考えて、夢中になってくれているんだ。

 そう思ったら、痛みが少し遠のいた気がした。ふっと、気が遠くなって、引き戻されて。嵐のような激しさの中にあって、確かに自分が内側から変わり始めている、そんな気がしていた。


 

 やがて。波が引いたように、静寂が訪れる。余市の動きが止まって、ただ激しい息づかいが、天寿花の天井に響き渡る。さらっと頬を夜の気がかすめて、ちょっと身震いした。自分の上に覆い被さる余市の身体が重くて、熱くて…そして、その上を行くほど愛おしかった。
 指先が当たった背中がぴくっと動く。柚羽はふうっとため息を付いた。

「…あの、余市…終わったの?」

 柚羽の声に、上になった人が身を起こす。これだけの体格の差がある。ぐったりとのしかかったら、それこそ内臓を圧迫してしまうと言うことに気付いたらしい。けだるそうに両肘を柚羽の身体の両端に付いて、ゆっくりと胸を上げた。

「…終わったのって…? 分からなかった?」
 もう、どんな顔をしていいのか分からないように複雑な表情をして。それから、ふふふっと笑い声を漏らした。そして、身を脇にずらすと、この上なく愛おしいと言うように愛したばかりの小さな身体を引き寄せる。

「柚は良くなかった…? というか…あれじゃ、必死で我慢しているって感じだったね…確かに」

「う…っ…」
 すごく馬鹿にされた気分で、口惜しい。でもその言葉通りだ。もう、痛みを逃すのに必死で、他のことなんて考えられなかった。その行為が愛を確かめ合うもので、この上なく至福の時だって言うのも忘れていた。そんなの嘘だとすら、思っていた。

「ゆーず…っ」
 目尻に落とす唇。艶めかしい舌の動き。その場所に幾重にも流れた涙のあとをなぞるように。

「ごめん、大変だったよね…俺、本当に夢中で…柚のこと、全然考えられなかったと思う…」
 そう言って抱き寄せてくれる腕はいつもと同じに優しくて。さっきまでの嵐のような激しさなんて全く感じられない。あの部分だけが、切り取られて別の出来事みたいだ。でも、下腹部の痛みと重みは確かに余市を受け入れたあとのもの。柚羽は静かにその胸に顔を埋めた。

「ううん…、だって、余市は気持ちよさそうだったから、いいよ。何だか、嬉しかった、余市が夢中になってくれて…」
 そう言ってしまってから、さあああっと恥ずかしくなる。頬が熱を帯びて、みるみる火照っていく。確かにその行為を終えたこと、そして本当に余市のものになったこと…それを思い出すと恥ずかしくて消えてしまいたい。自分が全く別の生き物になってしまったみたいで。

「…離したくないな…このまま、一緒に連れていきたい…」
 それぞれの肌着をたぐり寄せて、身体にかける。汗の上を気がなでるとぞくぞくして、このままだと風邪をひいてしまいそう。でももうしばらく、このままで重なり合っていたかった。

「余市…っ…」
 夜が明けたあと、別れが待っていること。それを思い出すとたまらなくなる。どちらからともなく唇を重ね合って、確かめ合う。そして、強く、抱き合った。

「柚…必ず無事に戻ってくる。そうしたら、すぐに許しを貰って、居室(いむろ)を借りよう。ずっと、一緒にいられるよ…もう、離さないから。一生、俺の出来る限りの力で幸せにする、だから、待っていて…」

「うん…私、本当に余市の妻になるんだよね…本当だよね…」
 まだ、信じられない。こんな風に、本当に余市と一緒になれるなんて。この想いに気付いた瞬間から、悲しい記憶しかなかったのに。こうして肌を合わせて抱きしめあっていると、身体が溶けてしまいそう。

「今更、取り消したって駄目だから…」
 余市は耳元でくすくす笑う。甘くて、やわらかくて、春のまんなかの笑い声。

「誰にも負けないくらい、幸せになろう。たくさん子供を作って、にぎやかで温かい家を造るんだ。柚とそんな風に生きていくのが、俺のひとつだけの夢だったから。もう、他には何もいらない…」

「…うん…」
 答える唇が震える。嬉しくて、切なくて。余市の明日を全て受け止めた自分がずっしりと重い。そして、その重みと同じだけ幸せだった。体の中、心の中…みんなみんな、温かいもので満たされていた。


 

 東の空が白むまでしばしまどろんで。お互いの体温を確かめ合っていた。やがて静かに揺り起こされる。重い瞼をゆっくりと開くと、切ない瞳がこちらを見ていた。気が凍えて帯になって流れる。白い朝の流れ。もう一度、しっかりと抱き合って、身体を離す。それだけで、たまらなく心細くて、胸が詰まった。

「…柚…」
 お互いに背を向けて身繕いをしていると、先に支度を終えた余市が声をかけてくる。そちらを見上げると彼は、そっと自分の懐刀を差し出した。

「少し重いんだけど…ごめんね。俺が家を出るとき、持ってきたもの」
 そう言いながら、自分の胸に手を当てる。そこに忍ばせているのは間違いなく柚羽の差し出した懐刀だ。侍従と侍女。自分の主を守るものとして、懐刀は何より大切なものだ。今の柚羽にとってはこれだけが余市のものである証だった。

 そしてそれを懐に収めると、再び抱き寄せられる。小袖の胸元に顔を埋めると、長い指が髪を梳いてくれた。その優しい感触が、地肌に熱を落としていく。忘れたくないと思った。髪にかかるこの吐息の熱さまで。
 長い時間をかけて、口づけあう。小鳥たちが朝の挨拶をするように。繰り返し繰り返し確かめ合って。それが終わってしまう、その時間に、柚羽の瞳からまたほろりと涙がこぼれた。

「行ってくるよ…なるべく、早く戻るから」

 泣き濡れた頬で必死に微笑みを作る。さらさらと流れ込む金の帯が新しい夜明けを告げていた。

 

◆◆◆


 朝靄をかき分けながら、息を潜めて自分の部屋に戻る。戸口から御館の建物に入って、渡りをそろそろ歩いて部屋のドアをそっと押す。衝立の向こう、部屋の隅の寝台の上で、瑠璃は静かに寝息を立てていた。いつ頃戻ってきたんだろう、自分が出ていってすぐなんだろうか? そう思うと胸がドキドキした。

 …夜通し起きていられて、責め立てられたらどうしようかと思ったけど…。

 今までお互いにそんなことは一度もなかったから。朝帰りなんて、そんな何をしてきたのか誰にでも分かる行為を経験したことはなかった。たまに春霖様のご機嫌が最悪で、雷史様とお方様の居室に泊まることはあった。でもそう言うときは前もってきちんとその旨を伝えていた。
 柚羽は息を潜めて、瑠璃と反対側の壁際にある自分の寝台に潜り込んだ。そして、節々の痛む身体をしとねの上に横たえる。すぐ傍の窓からもう朝の光が漏れている。それを瞼の裏で感じた。身体が未だに熱くて、胸も高鳴って、とても休める状態じゃない。静かに息をすれば、未だに余市に愛されている自分を感じてしまう。

 体の中にしっかりと余市の感触が息づいて。入り口も中もじんじんしてちょっと足を動かしただけで、痛みが走る。でも、嫌じゃなかった。ずっと覚えていられたらと思った。…だって、余市のくれた痛みだから。余市の身体で心で落としてくれた甘美な痛み。それを抱えていることが誇らしくさえ思えた。


「…柚羽様、もうお目覚めになられた方が宜しいわ。お務めの時間に遅れてしまうと大変ですわよ?」
 とろとろっとまどろんだかな、と思ったとき。そんな声に起こされる。寝返りを打つと、もうすっかり支度を終えた瑠璃がいつものやわらかい微笑みをたたえて寝台のすぐ傍に立っていた。

「う…っ?」
 起きあがろうとすると、身体がぎしぎしと言ってる。おなかに力を入れたら、下腹部の奥がじんとした。思わず赤くなってしまう頬。瑠璃に見られたくなくて、俯いてしまった。

「遠征団の御出立は朝餉のあとでしょう? 皆で見送りに出るそうだから、一緒に行きましょうよ?」

 何でもないように話しかけてくる。何も聞いてこない友の真意が分からない。大体、瑠璃はどこに行っていたのだ。宴が終わって一刻…他の侍女と立ち話していたにしても、ちょっと長すぎる時間だ。自分が出た後にすぐに彼女が戻ってきたと言う証拠もない。

 …でも、どうしてそんなこと、訊ねられるだろう?

 瑠璃が聞いてくるまでは、自分も何も言わないことにした。こんなに親しい間柄の瑠璃に対してすら、柚羽は余市との出来事を語ることが出来なかった。彼女だったら、騒ぎ立てたりしないだろう。きっと心から喜んでくれるに違いない。…それでも、恥ずかしくて。

 

 寝台から降りて、身支度を整える。すっと背後に回った瑠璃が柚羽の髪に手を伸ばした。

「…柚羽様…天寿花の花びらが、こんなに…」

 思わず胸がどきんとした。花びらは余市が手で梳きながら、取り除いてくれたはず。でもしとねがわりの衣の下は一面がふわふわした花びらの絨毯だった。柚羽の長い髪にそれが絡みついてしまったのだ。取り損ねたものが残っていたのだろう。とても恥ずかしくて消えてしまいたかった。

「今、散ったようにきれいですわよ」
 瑠璃はにっこり微笑んで、片手に集めたそれを渡してくれる。

 窓からの気に流れて花びらがこぼれる。さらさらと降る花吹雪。昨日の晩、余市の肩ごしに見つめた夢のような情景。全て全てが余市に繋がっていく。もう、余市と同じになってしまった気がする。今までだって、柚羽の小さな胸は余市のことでいっぱいだった。でも、それがもっともっと大きく膨らんで、胸を圧迫する。

 耐えきれない痛みにそっと手を添えれば、固い包みに当たる。今、自分の部屋で、余市も出立の支度を整えながら、懐刀を胸に忍ばせているのだろうか?  そう思うと胸の奥が熱くなった。

 

◆◆◆


 御庭の先に出て、遠征団の出立を見送る。たくさんの御館の人々が沿道を埋め尽くすそのずっと遠くで、柚羽は瑠璃とそれを見送った。一段は旅の装束に身を包んではいるが、そこは遠征団。竜王様の命でその任に付いた若人たちは晴れやかな衣装に飾られていた。 

 先導に続いて歩く余市は竜王様の名代としても正装。きらびやかな金銀を散りばめた重ねに濃緑の袴、頭には冠を付けている。今までで一番立派な姿だった。
 ごくりと息を飲む。昼間の輝きに照らし出される心の背の君は何て美しいんだろう。遠目にも背が高いのでちゃんと確かめることが出来る。たった数刻前、肌着の下で産まれたままの姿で抱き合っていた人。そんなこと、どうして信じられるだろう。身体の奥の痛みを持ってしても、確信できない距離を感じた。

 

「…もう数日の猶予があればね…」
 名残惜しそうに柚羽を抱きしめた余市が言った。朝方の天寿花の森で。

「そうしたら、柚とのこと。ちゃんとお許しを頂いて、皆に知らせられるのに。何だか口惜しいな…柚をひとり残していくのが辛いな」

 そんなこと、柚羽だって同じだった。こうしてようやく想いが通じ合ったのに、すぐにこの人は遠くに行ってしまう。いつ戻るかの保証もない。それなのにたった一度抱きしめられただけで…もう別れなければならないなんて。

「無事に、戻ってきて。私のところに、戻ってきて…」
 堪えないととめどなく溢れてくるもの。広い胸に頬を寄せて、くぐもった声で必死に言う。会えないのは、嫌、別れるのは嫌。余市がいなくなっちゃった後、私は一体どうしたらいいの? きちんと息をして、生きていられるの?

 

 一行が柚羽の視線の先を通り抜ける。ふっと余市がこちらを向いた。そんな気がした。そして、ゆっくりと微笑みかけてくれる。柚羽も出来る限りの想いでそれに答えた。もう、それだけで充分だった。

 

◆◆◆


 季節は春から夏へと移ろう。遠征団の一行が去った後の竜王様の御館は何だかひっそりして、覇気がなかった。賭弓にも御前試合にもあまり盛り上がりがない。生気溢れる若者たちがいないのだ。やはり、寂しい感じがする。

 そんな中で明るい話題と言えば、柚羽たちのお仕えする南所の御主人様・沙羅様がご懐妊されたことだろう。姫君さま、若君様に続いて3人目の御子になる。亜樹様は少しけだるそうなお后様のお世話をご自分の御手でなさろうとする。相変わらずに眩しいくらいのご寵愛にお付きの侍女たちも当てられてしまうこともしばしばだ。
 それと時を同じくして、一の姫様の乳母であらせられる多奈様もお二人目の御子を身籠もられた。そして、若君様の乳母である秋茜様はもう産み月も間近だ。

「小さなお母様」である柚羽はそんなわけで、目の回るような忙しさだった。余市のいない寂しさを紛らわせるにはもってこいだったとも思うが。昼は南所で、夜は雷史様の居室で、お子様の御相手に明け暮れていた。

 

 遠征団からの知らせは余りなかった。個人に当てた文などは届くわけもなく、竜王様の御許にすら、時々の早文の使者が訪れるのみ。その詳細は耳の早い侍女仲間がすぐに届けてくれたが、遠く離れた異境の地のお務めはやはりそれほど簡単にはいかないようであった。
 村長(むらおさ)側と村人の衝突。双方に言い分があり、どちらもが自分の正義を信じている。やりきれない状況だろう。争いに巻き込まれて死傷者も出ていると聞く。余市の安否もさだかではない。もう、夜も眠れないほどの不安だった。

 

 胸に手を当てて、余市のくれた懐刀を確かめる。妻にすると言ってくれたのだから、必ず戻ると言ってくれたのだから。自分はそれを信じて待つしかない。それしかないのだ。そう思っても、涙が溢れてしとねを濡らす。誰にも告げられない胸の痛みをもてあましていた。

 一番の落胆は月のものを見たときだったかも知れない。ちょっと期待していた。もしも、余市の子を身籠もっていたなら、どんなにか幸せだろう。余市の落としてくれた命をはぐくめる自分を少しでも早く味わいたかった。秋茜様や沙羅様がお幸せそうにお過ごしになっているのを見ると、自分だってと言う気になってしまう。
 それに、そう言うことになれば、余市のことを公にしないわけにはいかない。未だに誰にも言えない秘密だった。何の証拠もなくひとりで余市の妻を名乗るのはやはり心細かったから。

 

 西南の御館にいた頃よりもひっそりと夏が現れる。気の早い季節の花が次々に咲き誇っていく。歩き始めた雪茜様の手を引いて、花の中を歩き回った。美しい竜王様の御庭、早く背の君となった余市と並んで眺めたいなと思った。

 

◆◆◆


 その知らせが御館に届いたのは、朝露のまだ消えぬ頃だった。朝餉の膳を揃え終わった南所に、ひとりの侍女が転がるように駆け込んできた。

「ねえ、みんなっ!! 大変なお知らせが来たわよっ!! 遠征団のご一行が本日の夕暮れにお戻りになるんですってっ!!」

 ええっ! と一同から何とも言えないどよめきが起こる。その時侍女の居所には20人近い女子がいた。王族の皆様の御支度を済ませて、ようやく自分たちも膳を囲んでいた。でも皆、もう箸も止まっている。その視線は頬を紅潮させた先の侍女に集中していた。

「きゃあ、皆様ご無事かしら? …余市様は? ご立派なお働きだったのでしょうねっ!!」

「それにしても早くない? 早文の使者と1日も違わずにご到着なんて…」

「じゃあ、今夜は宴になるの!?」

 気の早い侍女たちが彼女の周りを取り囲んで口々に言う。柚羽は瑠璃と部屋の隅の方で膳を囲んでいた。その箸はやはり止まっていたが、他の皆のように大声ではしゃぐことは出来ないでいた。実感がないというか…信じられない感じで。待ち望んでいた帰還なのに…余りに急ですぐに受け止められない。
 ふと見ると瑠璃は何食わぬ感じで食事を続けていた。その口元にうっすらと笑みを浮かべながら。この所、瑠璃は体調が優れずに寝付くことが多かった。心配したが、季節の変わり目の持病だという。食欲もない様子だったが、今日は少し箸が進んでいる。様子がいいのかも知れない。

 柚羽は耳の神経だけを向こうに向けて黙っていた。

「何でもね、団長である余市様の優れたご采配で、どうにか双方が和解なさったんですって!! 村長様がそのことにいたく感激して、馬を出してくれたそうよ? 皆、それに乗って戻るの。あちらでも盛大な宴をして下さると言うのを、断って急ぎお戻りになるんですってっ!」

「まあ、すごいわねっ! 余市様、御出立の前にはとうとう女子をお選びにならなかったわ。これはお戻りになったら、先手で行くしかないわねっ!! どんなにご出世なさるかしら、いきなり表の侍従長になられたらどうしましょうっ!!」
 余市に付きまとっていたという噂の侍女が皆に牽制するような大声で叫ぶ。

「あらあ、それは駄目なのよ?」
 知らせを告げてきた侍女が、それをぴしゃりとはね除けた。あざけるような意味深な言葉だ。

 柚羽は、まさか自分のことが知れたのかと思って、胸の鼓動が収まらなかった。そりゃ、余市が戻ったら、皆が知ることになるだろう。でも、余市のいないこの状況でその話題になったら、どうしたらいいんだ。身の縮まる思いだった。

 でも、次の言葉を聞いたとき、柚羽はもう、立っていられないほどの衝撃を受けることになる。

「早文の使者が竜王様に申し上げたそうよ? 村長様は余市様をとても気にいられて、ご自分のご息女をお与えになったんですってっ! 村長様には男君がいらっしゃらなくて、余市様には村長の地位を継いで頂きたいと仰せになったとかっ!」

「ええっ! 嘘っ!! 余市様、もうお戻りにならないのっ!」

「ううん、そう言うわけにはいかないでしょう? 今回のことを竜王様にご報告申し上げなくちゃ。でももしかしたら輿にでも乗せて、奥方様を同行なさっているかも。村長様のご息女はそれはお美しい御方なんですって。その方が、余市様をひとめで見初められたそうよ? まあ、そりゃそうでしょう…あの余市様ですものっ!」

 興奮にも落胆にも取れるため息が一同から漏れ出る。

「まあ、余市様…そんな遠い御方になってしまわれるのね…悲しいわ」

「ええ、でも――」
 ひとりの侍女が思いついたように言う。

「村長様ともなれば、側女(そばめ)を囲える御身分よ? 今からでも遅くないわっ! そうお願いしてみるのもいいかもっ!! 一緒に西の集落に連れていって頂けるかも…」

「そうかぁ…村長様の側女と言うのも悪くないわねっ…!」

 

 柚羽は。もう、何が何だか分からなかった。…どうして? そんなはずないじゃない? …余市は私の夫になる人よ、そう約束したんだからっ! 遠征から戻ったら、きちんと妻に娶るお許しを得てくれるって、ずっと一緒にいてくれるってっ!!

 …それを、それを…どうしてっ!?

 

 青ざめたまま俯いた柚羽を瑠璃の視線が心配そうに見つめている。そんなふたりの耳に、別の侍女が呟く声が聞こえてきた。

「…ねえ、でも。本当に余市様はそんな外れに行ってしまわれるの? そのお話をお断りになることはないの?」
 おずおずと、遠慮がちに。その声は余市に想いを告げた、と噂されている侍女のひとりのものだった。

「ばっかねえ〜、あなた、今更。何、言ってるのよっ!」
 すがるようなその言葉も他の侍女たちに一笑されてしまう。

「村長様のお申し出を断る者がどこにいるのよ? 大体、大きな村をまとめる家に婿に入れるって言う快挙をみすみす逃す人間がいるって思う? そんなことして、もしもあちらがご立腹されたら、切り殺されたって文句言えないわよ?」

「…あ…」
 その侍女が絶句したのが分かった。身分の高い御方のお申し出をお断りするなど出来ることではない、もしも自分の意にそぐわなくても受け入れなければならない。そう言う世の中なのだ。

 

 それくらい、柚羽にも分かっていた。西南にあって、大臣様の御命令に従わない者はいない。秋茜様だって雷史様の元に嫁ぎ、そして亜樹様の若君様の乳母となったのは皆、大臣様のお言葉だった。重臣の妻とはいえ、従わないで済むはずもなかったのだ。
 ましてや余市はただ人。家も地位もない。その様な者が、栄えある村長様のお申し出を断れる筈もない…。

 

「…柚羽様?」
 瑠璃が心配そうにこちらを覗き込んでいる。でも、柚羽には、もう何も聞こえない。何も感じられなかった。…こんな絶望は産まれて初めてだった。