…14…

 

 

 宴の明るいさざめきが響いてくる。南所の外れの侍女の寮。そこまで客座のざわめきが届くのだ。客座での催しの時にこんなところにひとりでいることなどなかったから、初めて聞く音だった。

 遠征団の一行を迎えに出ることも、そして、宴の給仕をすることも、出来っこなかった。今日という今日は、もしも竜王様直々の御命令であっても従えなかったと思う。

 柚羽は朝餉の後、気分が悪いと言って、そのまま部屋に引き上げてしまった。実際、立っていることも、お務めを行うことも出来ない感じだった。頭がぐらぐらして、足元がふらつく。こうして寝台に横たわっていても、頭痛がして、頭は割れてしまいそうだ。

 あのさざめきの中に余市がいる。一番竜王様のお側の席で皆の歓迎を受けている。そして、今日はわざわざ、その西の集落の村長(むらおさ)様まで同行した言う。竜王様にこのたびの遠征団の派遣の御礼を告げるために上がられたのだ。もちろん、たくさんの供と貢ぎ物を携えて。それだけでも遠征団に勝るとも劣らない行列だったという。そう言う噂をドアの向こうの渡りを歩く侍女たちのやりとりで聞いていた。
 瑠璃は今日は本当に調子がいいようだ。今まで自分がたくさん休んで柚羽に仕事を代わってもらった恩もあるのだろう。あなたのことはいいように言っておくから、ゆっくり休めと言ってくれた。

「この所、柚羽様は本当にお忙しかったんですもの…きっと疲れが出たのですわ。今日は目の回るような忙しさですもの、これ以上体調を崩したら大変ですわ…ごゆっくりなさって?」
 そう言って、額に当ててくれた冷たい手のひら。むくんでいるわけではないのに、ほっそりしていたはずの彼女の輪郭が少し丸みを帯びた気がしていた。北の集落特有の陶器のように透き通った白い肌。墨色の髪。きれいな白粉に赤い紅。将来の殿方を約束された女子。その穏やかな面差し。

 余市のいた遠征団が派遣された先の西の集落の民は、色素が少ないのか白い肌に銀の髪だ。中には小民族だが、光の加減によって、目の赤く見える種族もあるという。滑らかな肌は珠のようで、男たちの憧れの的。遊女小屋などにその血を引く者がいれば、ひっきりなしに声がかかると聞いたことがあった。浅ましいことだと思う。そんな見てくれで、女子を買うなんて。

 …でも。どうせ、買うなら美しい女子がいいだろう。そして、どうせ娶るなら、美しい妻が。余市は、もうその女子を抱いたのだろうか? こんなに急な話では婚礼の宴などあるわけもない。でも、結婚の意を固めた男女が婚礼の前に床を同じくすることなど良くあること。そして、それを家人の同意の元に行うこともある。「足入れの床 」と呼ばれ、家人の計らいで、寝所を供にするのだ。
 村長の娘が惚れ込んだという遠征団の団長。そうだろう、余市ほどの男が、高貴な御身分の婦女に気にいられても不思議じゃない。身分も保障され、ゆくゆくは村長となるべき地位につく。幼き頃、両親を失い生家を追われ、家族も家も持たずに生きていた余市。彼が掴んだのは信じられないほどの幸運だった。

 …幼馴染みとして。同郷出身で長年慣れ親しんだ者として、彼を心から祝わなくてはならないのかも知れない。おめでとうと言って、微笑めばいいのか? 余市だって、少しくらいは自分との約束を気にかけていてくれると思う。胸を痛めているのだとしたら、それを取り払ってあげなければならない。

 でも。どうして、そんなことが出来るだろう?

 宴の後、余市は西の集落に行ってしまうのだろうか? その様に竜王様においとまを願っているのかも知れない。そうだとしたら? もう時間はない、きちんとお別れしなくちゃ…!!

 

 朝からどれくらい泣いたか分からない。余市がまさか、他の女子を妻にするなんて、絶対に想像できなかった。彼が今回の遠征で立派な働きをすれば、こういう状況もあるのだと言うことをどうして気付かなかったのだろう。優れた働きをした者に自分の娘を与えて褒美とすることなど、良くあることだ。…それなのに。

 抱きしめられて。痛みと共に余市を受け入れて。たった一度のその行為で、すっかり妻の座が約束されたと信じていた。彼が戻れば、一緒に暮らせると、ずっと一緒にいられると疑わなかった。あの夜の出来事を後悔する気はない。本当に、幸せだったから。でも、その後の絶望を抱えて、自分はどこへ行けばいいのだろうか?

 

「…村に。帰ろうかな…」

 うつぶせになって、しとねに顔を押しつけたまま、そう呟く。山間の何もない村で、何もなかった頃のように暮らせないだろうか。余市のことも、西南の御館での暮らしも、こうして過ごした都の暮らしも。みんなみんななかったことにして。そうすれば、いつか…余市のことも忘れることが出来るだろうか?
 家のために、給金と引き替えに村を後にした。でも、今は竜王様の御館の侍女として、家にいくらかの金銭を送れるようにさえなった。これだけの働きをしたんだ、もう、戻ってもいいんじゃないだろうか…?

 余市のいない、彼の噂も届かない。そんな場所に行ってしまいたい。

 窓の外はすっかり闇になっている。遠征団が御館の表についたのは夕暮れのことだった。すぐに一行は客座に通されて、宴が始まる。それがどれくらい続いているのだろうか。今日は時を告げる拍子木も鳴らさない。全てが無礼講になっているようだ。館全体がお祭りムードに満ちあふれている。
 お方様は、秋茜様のご容体は如何だろうか? 一応、瑠璃に自分の体調のことをあちらの居室まで告げていって貰った。その時に聞いてきた話では、まだ、今日や明日にどうなる感じでもなく、いたって安定しているとのことで。それには胸をなで下ろした。村に戻るにしても…お方様の御出産が済んで、健やかになられてからではないと。

 宴は夜通しなのだろうか…? そして、今は…いつ?

 

 時を告げるものが拍子木しかないこの地で、柚羽は時間の推移も分からす横になっていた。自分の頬の下のしとねはもう、どうにもならないくらい濡れていて、朝に着替えたままの小袖の袖口もしっとりと重い。どれだけ泣いたら、気が晴れるのがそれを知りたかった。
 これから先、枕が上げられなくなっちゃうんじゃないだろうか? そんなことになって、余市が責任を感じたら可哀想だ。彼には晴れやかな未来が待っているのに、こんなところに心配を残して欲しくない。そう思う反対側で、余市の心に一生残る染みになってくれないかと思ってしまう。なんて、浅ましい未練がましい女なのだろう…?

 涙がまた思い出したように溢れ出てくる。一頻り泣いて泣いて、そしてハナをすすり上げて、目元を拭う。乱れた重ねをたぐり寄せて肩までかけ直す。この地ではいつも上にまとっている重ねが休むときの掛け布団になるのだ。

 

 そして。また静寂が部屋に戻ったとき。戸口で、ことりと音がした。

「…瑠璃様?」
 この部屋に入ってくるのは同部屋の瑠璃だけだ。そう思ったから、声をかけた。心配して様子を見に来てくれたのかも知れない。そうなると、この泣き顔は良くない。余計に心配をかけてしまう。そう思って、振り返らずに背中で彼女の言葉を待った。

「…柚?」
 しかし。耳に届いたのは、思いも寄らない人の声で。柚羽は驚いて寝台の上で振り向きそうになった。でもすぐに思いとどまって向き直る。声を聞いただけで、その人を確かめるのには充分だった。そして、きゅっと、唇を噛みしめた。

「あの、どうしたの? 柚…どうして、迎えてくれなかったの? 俺、柚が一番に迎えてくれるって、そう信じていたのに。瑠璃さんが、柚の具合が悪いって教えてくれて。…それで、驚いて…あの」

 本当なら、侍女の部屋に男が足を踏み入れるのは禁とされている。その様なことが見つかったら、地下牢にぶち込まれても文句は言えない。女子の寝所にそうやすやすと男が忍び込めるようになっていたら、治安が乱れてしまう。この地では男女のことは合意の元に行われなくてはならない。そのために、それようの一夜宿も用意されているのだ。
 男女のことにはおおらかな場所だが、一定の秩序は保たれていた。そうでなくては大変なことになる。

 余市だってそのことくらい知っている。だから、こうして初めて訪れた女子の部屋に足を踏み入れることを躊躇しているのだろう。でも柚羽が言葉を発せずに背を向けて横たわったままの状況ではどうにもならない。やがて彼は観念したように、扉を閉めて、念のためのかんぬきをしたあとで、こちらに向かって進んできた。

 その一連の行為を柚羽はじっとそばだてた耳で聞いていた。でも、何と言って迎え入れていいものか、言葉を見つけることが出来ない。自分の心の収拾がつかないのだ。そんな中でいきなり来られても…それに、どういうことなのか、余市は自分が出迎えなかったことをなじるようなことを言う。あんな状況で、どうしてそれが出来るというのだろう…?

「柚、俺…柚に会えることだけを信じて、ここに戻ってきたんだよ? ねえ、顔を見せて。そんなに具合が悪いの…まさか」
 そこで一瞬、言葉が止まる。もう、足音が寝台のすぐ傍まで来ていた。

「起きあがれないほど、具合が悪いって…あの、まさか。そうなの…? 柚…もしかして…」
 震える余市の声がどこか甘やかな期待を含んでいた。それが何を意味しているのか、声を聞けばすぐ分かる。そっと、確かめるように肩に手が置かれる。それを次に瞬間、ばっと払った。

「…柚…!?」

「ちっ、違うわよっ…そんなんじゃないっ!! 赤さんなんかじゃないんだから…気にしないでっ! もう、宴に戻ってちょうだいっ!! 出ていってっ…!!」
 身体を丸くしてうずくまり、頭まで重ねを被った。もう、余市のことなんか知らないんだから。他の女子を妻に娶った男なんて、もういらない!! 私が、笑って出迎えるなんて、そんな出来た女だと思っていたの? そんなはずもないじゃないの…っ!

 情けない、そんな風に軽々しく思われてしまったなんて。ひどい、いくら長年の付き合いだからと言って、そんな簡単に行くわけないじゃないのっ!?

 きっと声は聞こえているんだろうけど、そんなのもう構っていられなかった。涙がぼろぼろとこぼれてくる。柚羽は声を上げて泣きじゃくった。こみ上げる嗚咽が苦しくて苦しくて息が上がる。肩が大きく震えた。

「…柚…?」
 途方に暮れた声。もういいんだから、分かっているんだから、そんなに優しくしないで。私は大丈夫なんだから、恨んだりしないんだから…!!

「どうしたの? 本当に…おかしいよ、今日の柚。どうして、俺のこと、ちゃんと迎えてくれないの? …何で? こんなに待たせたから、気が変わっちゃった?」

 ぎし、と寝台が音を立てる。壁にくっつくようにうずくまっている柚羽の傍に余市が近づいてきたのだ。懐かしい香りがする。もうたまらなかった。自分のものじゃないって、そう分かっているのに…それでも、たまらなくて…。どうして、こんな風に何でもないように振る舞えるのか、分からない。余市のすることが、行動が柚羽には理解できなかった。

「そんなことないだろ? 柚は俺の妻になってくれるんだよね? …柚? そうじゃないの…?」

「何でっ!! そんなこと言うのよっ!!」
 うずくまったまま、必死で叫んだ。もう、身体がバラバラになってしまうくらい辛かった。

「余市は、素敵な方を妻に頂いたんでしょう!? 分かってるんだからっ! …もう、知ってるんだからっ!! 今更、しらばっくれなくていいわよっ…私、恨んだりなんか、しないんだからっ…」
 最後の方は力が入らなくなった。声がかすれて、言葉が出なくなる。涙がとめどなく溢れてきた。言葉にしたことで、自分の心に事実が深く突き刺さる。せっかく戻ってきてくれた大好きな人を笑って迎えられない自分が口惜しい。そして、妻になれない自分を、こんなに辛く思う自分が情けない。

「…え…?」
 余市の手が柚羽の肩に触れて、止まる。

「…何? それ…」
 ずずずっと、膝で身を寄せて、覆い被さるように顔を寄せてくる。重ね越しにもそれが分かった。

 どこまでしらばっくれるつもりなんだ、と情けなくなった。後から聞かされるくらいなら、今、この場所ではっきりさせて欲しいのが分からないのだろうか? 余市って、そんなに思慮の浅い男だったのか?

「知ってるの、私。余市が西の集落の村長様の…ご息女様を妻に頂いたこと。余市が西の集落に行ってしまうこともみんな。だから、もういい、宴に戻って。私のことなんて、気にしないで…っ!!」
 ぽつんぽつんと、自分が落とす言葉が新たな痛みを胸に呼んでくる。心では苦しんでいるのに、淡々と告げることが出来る。どうしてなんだろう。強すぎる衝撃はもはや身体と心を切り離してしまったと言うのか。

 余市が。息を飲んだのが分かった。それから、大きくため息を付く。色々なものを吐き出していくように。そして、柚羽の身体に上からやわらかく抱きついてきた。

「…や、何するのっ! …やめてっ!!」

「…柚…」
 重ねをたぐりとられる。耳が露わになる。この地の者特有のエラの耳。柚羽のそれは明るいオレンジ。夕暮れの空の薄い色と少し似てる。そこにそっと唇が寄せられた。

「柚は…俺が、村長様のご息女様を妻にした方が、良かったの?」

 耳が熱い。吐息が触れただけで、ぞくぞくする。身体が待ち望んでいたものを受け入れるように疼いていく。それが口惜しい。

「…そんなのっ! 当たり前じゃないのっ。余市は、将来の村長様になるんだわ。同郷の者としてそんな栄誉を受けたことを喜ばしく思っているわよっ…」

 出来るだけ、突っぱねるように冷たく言い放つ。なのに、余市は柚羽の身体に腕を回す。強い力でだんだん抱きすくめられていく。逞しい腕の中ではあまりにも小さな柚羽の身体。もう、震えが止まらない。

 柚羽の言葉を黙って聞いていた余市が、また、ひとつため息を付いた。

「…俺、嫌だな。そんなの、嫌だよ? 俺の妻は柚なんだから、柚以外の妻はいらない。柚は…そうじゃないんだ、ひどいじゃないかっ…!」

 身体が抱き起こされて、後ろからぎゅっと抱きすくめられた。熱い吐息が首筋を流れる。どういうことなのか分からず、柚羽の心は動転していた。

「…え、だって。早文の使いの方が…」

「…やっぱり」
 余市は小さく呟いた。それから、くすっと笑う。

「ここに戻ってきたら、その話で持ちきりなんだから。本当にどうしようかと思ったよ? でも、柚は分かってくれてると思ったから、気にもとめてなかった。だって、そうでしょう? 約束したんだから、一緒に暮らすって。一生離れないって…そうでしょう? だから、柚がそんなこと気にしてるなんて思わなかったよ?」

「え…だって…。そんな、村長様のお申し出を…」
 信じられないまま、口ごもる。

「いくら村長様のお申し出だって、駄目なものは駄目だもの。きちんとお断りしたよ?」

「……」

 余市の腕に力がこもる。

「俺には、都に残してきた大切な妻がいますって。妻を悲しませることは出来ませんって…そうでしょう? 俺の妻は柚なんだから。いくら目がくらむ金塊を積まれようと、そっちになびいたりしない。柚のことだけしか想えないから…」

「そんなことっ! …許されることじゃあないでしょう? 余市…っ!?」

 後ろから首筋を辿られる。唇で、舌で。味わうように…懐かしい息づかい。

「柚、身分のある御方のみんながみんな、西南の大臣様みたいな横暴な方じゃないよ? きちんと話せば分かってくださる方もいらっしゃる。村長様はきちんと承知してくださった。もしもご立腹なさったとしても、刃を向けられても…俺は頷くつもりはなかったけど。柚を妻に出来ないなら、生きていても仕方ないから。それくらいの気持ちでいたよ…?」

「…そ…そんな…」
 がくっと、身体の力が抜ける。余市の腕を逃れて、寝台の上に四つん這いになって。もう、何が何だか。混乱の極みの中にいた。

「…柚?」
 やわらかい余市の声がする。恥ずかしくて、そちらを向くことが出来ない。でも、こちらを向いて両手を広げて待っている。それが分かる。本当に、本当に余市が自分の元に戻ってきてくれたの? そして、私を妻にしてくれるの…? これらからはずっと一緒にいられるの…?

「ただいま、柚。待たせたね…」

「…う…っ!!」
 もう夢中で、その胸に飛び込んでいた。柚羽の勢い余った身体も余市は揺らぎもせず抱きとめてくれる。柚羽が彼の背に腕を回すと、余市もしっかりと抱きしめてくれた。寝台がまた少しきしんだ。

「…会いたかったの、余市。寂しかったの…っ! 余市がいなくて、ずっとずっと身体が半分、どこかに行っちゃったみたいだったわ。すごく、会いたかったのっ…もう、どこにも行かないでっ、離さないで…!!」

「…柚…」

 涙がとまるまで、ずっと優しく抱いていてくれた。髪を梳く長い指。温かく心の中まで入り込むもの…大好きな、大好きな人。ずっと、こうされたかった。こんな風に抱きしめて欲しかった。その日が来ることだけ、願っていた。

「いいの? 私でいいの? …私と一緒になったって、村長様にはなれないよ? 一生、竜王様の侍従で…それでいいの…?」

 耳元をくすぐるくすくす笑い。それから、腕が緩められて、胸の中、そっと顔を持ち上げられた。涙にまみれたそれが恥ずかしくて俯こうとするのに。余市のてのひらが両方から柚羽の頬を包み込む。

「柚が、いいんだよ? 柚だけが、俺の妻だ…」

 そっと唇が重なる。そのぬくもりが懐かしくて、愛おしくて。ああ、余市だ、帰ってきてくれたんだ、と実感した。でも、首筋に顔を埋めた人が、次の瞬間、とんでもないことを言い出す。

「ああ…、柚、もう待ちきれない。ここで、このまましていい?」

「…へ?」
 同意をする前に、しとねの上に仰向けに倒される。

「ちょっと、駄目っ! こんなところでっ! …瑠璃様が戻ってきたらどうするのっ…やあっ!」

「大丈夫、瑠璃さんにはちゃんと了解貰ったから…」
 そう言いながら、するするっと袴の帯を解かれる。今日のは寝着ではない、きちんとお務め用の袴だ。固くほどけないように結んである。それなのに余市の手に掛かると、それが片手で難なく解かれてしまうのだ。

「…それに…」
 緩んだ胸元に唇を落とす。

「瑠璃様だって、今夜は戻ってこられないから…」

「…え?」

 柚羽はびっくりして余市を見た。細くなった目、優しく揺れている瞳。何かを含んでいる。…どういうこと?

「何? 瑠璃様が…どうして…ねえ、余市っ?」
 訊ねても、もうその先は答えてくれない。答える代わりに柚羽の衣を一枚ずつはぎ取っていく。寝台がギシギシきしんでなんとも艶めかしい感じがする。

「余市――」

「柚、もう、黙って。…俺のこと、見て…」
 そう言われて、口を吸われたら…もう次の言葉なんて出てこない。無理、もう絶対に無理。柚羽は余市の熱さを受け入れながら、彼の重ねに手をかける。きらびやかな装束を床に落として、小袖に腕を回す。余市が自分で袴の帯を解いた。

 たどたどしく。柚羽の手が余市の小袖を引く。袴の中から裾を引きだして、前を開け、そっと肩から落としていく。でも、その途中で、柚羽の手は動きを止めた。

「…余市!?」

 青ざめた柚羽の視線の先。それがどこに向いているか、余市には分かっているようだった。小袖を握りしめたまま震えている腕を優しく取って、にっこりと微笑みかける。でも柚羽にはとてもそれに応える余裕はなかった。自分の上体から小袖が落ちていることも、だから何もまとっていない姿でいることも気に留めていられない。神様に縁取られたやわらかな曲線が小刻みに震えている。

「柚…そんな顔、しないで」
 余市は震える柚羽の腕を取る。しっかり小袖にしがみついたままの小さな手。そこまでそっと辿り着いて包み込む。ぷっくりして、指も短くて、飾り紐も上手く結べない不器用なてのひら。それをとても愛おしいもののように余市は扱う。片手を手に取ると、そっと口づけた。

「だって、余市…」
 柚羽が涙目で訴える。静かな視線に向かって。余市が小さくため息を付いた。

「…怖い?」

 その言葉には大きくかぶりを振った。そう言う訳じゃない、でも――。

 余市の左の肩に。ざっくりと切り込まれた痕があった。確かに遠征に出る前にはなかったはずの。もう患部は塞がって乾いていたが、それでも盛り上がったその場所は牡丹色に変わって、抜糸した糸の跡も生々しく残っていた。

「…痛そう…」
 おずおずと手を伸ばす。その指先が震えて。

 余市は喉の奥でくすっと笑って、柚羽を見つめた。

「もう痛くないよ? 押したりぶつけたりすれば痛いけどね。普通にしてたら平気」

「そうなの?」
 柚羽の瞳から溢れたものがすっと頬を伝った。それを余市の指が拭っていく。頬にかする、温かい体温。

 余市は柚羽をそっと抱き寄せると、腕の中にしっかりと包んだ。そして、長い髪を梳いていく。慣れた手つきで。そうされると柚羽はどんどん落ち着いていく。いつもそうだった。余市が髪に触れてくれると穏やかな気持ちになれる。

「暴動を起こしたある村人の陣に行ってね、説得しようと思ったんだ。大勢で行くと牽制するみたいになって良くないかなと思って、ほんの少人数で武装もしないで。そしたら、殺気立った兵にいきなり切り込まれて」
余市の腕の中で、小さな身体がきゅっと固くなる。まるで自分が同じ目にあったように、瞳を伏せて。そんな彼女を余市はますますやわらかく抱きすくめる。

「傷も深かったし、何よりあまり良くない剣だったから。化膿して、高熱が3,4日引かなかった。後になって聞いた話だと、一時はかなり危ない状況だったんだって」

 柚羽は思わず息を飲んだ。それからきゅっと余市にしがみつく。

「…ごめんなさい」
 消えそうな声で言う。涙混じりに、かすれた音。

「うん? どうして謝るの?」
 余市が耳元に唇を寄せる。内緒話するみたいに、小声で訊ねる。

「だって…」
 柚羽が涙目のまま、余市を見上げた。

「余市、こんな大変な目に遭ってたのに。私は何にも出来なくて…戻ってきてくれたのに、ちゃんとお出迎えもしないで」

「柚…」
 そっと顔を寄せて、唇を重ねる。何度も何度も味わった後で、そっと離れて、見つめ合った。

「もう、駄目かなって思った。熱が下がらなくて、朦朧として。このまま楽になってしまいたいって、何度か思ったよ? …でも、そう思うたびに脳裏に柚が浮かんできて…柚が、泣くから」

「…え?」
 柚羽はぱちぱちっと瞬きをした。こぼれそうなまん丸い瞳。ビー玉の様な濃緑のそれを余市がゆっくりと見つめ返した。

「私、泣いてなんかいなかったわ」

 …寂しかったけど、切なかったけど。泣いちゃ駄目だと思った。都に残された者は皆、同じ気持ちを抱えて待っているのだ。自分だけが泣き言を言っては駄目だから。我慢しなくちゃと思った。夜中にふと目覚めて天の輝きの彼方を見るとき。あの向こうに余市がいるのかも知れないと思った。そう思うと、胸が詰まって、ほんのちょっと涙がこぼれたりした。そう言うときは慌てて拭ってたし。

 ちょっとむくれて、俯く。余市が微かに笑った。

「俺、柚が泣くのは苦手だから。柚を泣かすようなことは出来ないなって思った。傷の痛みも乗り越えれば柚に会えると思ったから。柚がいるから、頑張れたんだ。柚が…俺の妻になってくれたから」

「…余市…」
 柚羽の目からまた新しい雫がこぼれ落ちてきた。余市が静かに身体をずらして袴を取る。

「実は、足にも…あったりして」

「…え?」

 現れた逞しい太股の丁度真ん中に、ざっくりと深い刺し傷があった。

「…ちょっと、情けないんだ、これは石矢。まさか、俺が敵の矢を受けるなんてね…あんまり公にしたくないんだけど」
 名実共に都一の弓の名手だ。そんな彼が矢を自らに受けるというのは恥ずべきことなのかも知れない。こちらの方が新しい傷なのか、まだ腫れも引いていない。化膿して盛り上がった部分が赤紫色に変わっていた。中心は黒ずんでいる。

「ひどい…どうして? どうして、余市がこんな目に遭わなくちゃいけないの? 余市に傷を付けた人は? ちゃんと罰を受けたの?」

 柚羽の問いかけに、余市が静かに首を横に振った。

「命を落とした兵もいれば、深い傷を負って、一緒に戻ってこられなかった兵もいる。反乱軍の方にも多数の負傷者がいるんだ。みんなお互い様だから…」

「…だって…」

 早文の使いの話でも、遠征団が到着した後に表の渡りを歩く侍女たちの語らいからも、柚羽はかの地での余市の行動を聞き及んでいた。

「余市は一度も弓を引かなかったって。剣も鞘から出さなかったって。どこまでも話し合いで解決しようって、頑張ったんでしょう? それなのに、どうして? どうして、それを分かってくれない人がいたの…?」

「仕方ないでしょう?」
 柚羽がいつまでも泣きやまないので、余市は少し困ったように笑った。

「みんな、必死だったんだ。村長様の陣も、暴動を起こした民の陣も、もちろん遠征団のみんなも。竜王様の元、腕のいい者を集めたんだから、力で押し込めればいいって意見も強かった。でも、嫌だったんだ…力で力を封じ込めても、そんなの何の解決にもならないでしょう? きれい事だって言われたけど、どうにか和解して欲しかったんだ…そのために時間がかかってしまったけどね。柚、本当に待たせてごめんね…」

「ううん…ううん、そんなことないっ!」
 柚羽は余市のはだけた胸に飛び込んだ。少し傷を避けながら。熱い腕に抱きすくめられる。気が遠くなるような幸せの波が襲いかかってきた。柔肌を重ね合わせたことで、本当に余市が戻ってきたことを実感する。長い時間だった気がする、でも、あっと言う間だった気もする。待ち続けた日々、祈り続けた日々。

 

「余市…」
 しとねに横たえられて、降るような口づけを体中に受け止めていく。恥ずかしさの中に何とも言えない悦びが湧いてくる。初めての時よりもずっと早く身体がたかまっていく。身体の奥からじわじわと湧いてくる熱。

「…柚?」
 柚羽の身体を這っていく大きな手のひらが、ゆっくりと茂みを越えてその場所にたどり着いた。柚羽がぴくんと反応する。

「どうしたの…柚…?」
 余市が信じられない、と言うように柚羽の顔を覗き込む。驚きのの理由が分かるから、恥ずかしくて顔を背けてしまった。しとねの冷たさが火照った頬に当たる。

「そんな…言わないで、恥ずかしいから…」
 もう、どうやって反応したらいいのか分からない。このまま溶けてしまいたいくらい恥ずかしい。柚羽は余市の首に両腕を回してしがみついた。そうすれば少なくとも、顔を見られることはないから。

「だって…まさか、もう…」
 ゆっくり確かめる指。そのひんやりとした感触に背筋がしなる。何の抵抗もなく差し込まれる指先。それがゆっくりと中を探っていく。

そこが、もう溢れるばかりに潤っていて。じゅわじゅわと湧いてくるくらいに満たされていて…熱い想いが余市の指に絡みついていく。こんな感覚は以前はなかったし、余市も知らないはずだ。天寿花の下で、余市のものになったとき。頼りない潤いしかなかったから、柚羽の中はこすれてとても痛かった。

「や…だって、分からないの。余市のこと考えると、自然にこんな風になるの…あの夜のことを考えるとひとりでに身体が熱くなって、体の中から何かが溢れて来ちゃって…もう、自分で止められなくて。夜、寝台に休んでも眠れなかったの。身体が…どうしたらいいのか分からないほど…もう…」

 余市の腕に抱かれていた自分を思い出す。熱い吐息と絶え間ない波と、それから自分の名前を呼ぶ余市の声と。恥ずかしくてどうしたらいいのか分からなくて、それでもとても満たされていて。
 そんなことを想うと、自然に身体が変化してきた。下着が濡れてしまうほど、潤ってくる自分をもてあましていた。止める術も知らなかったから。

「柚――」
 余市がたまらない、と言うように柚羽を強く抱きしめる。唇を合わせて強く吸って、その熱を送り込んでくる。片手が休みなく柚羽の熱くなった場所を確かめていた。

「もう、いい? こんなになって待っていてくれたなんて…もう嬉しいよ。柚、本当に俺を待っていてくれたんだね」

「…う、余市…余市っ…!!」
 たまらず、その首にしがみつく。待ち望んでいたものがすぐに入り口を探し当て、ゆっくりと中を満たしてくれる。最初の時が信じられないくらい、それはあっさりと埋め込まれていった。

「柚…大丈夫?」
 余市が心配そうに柚羽を覗き込んでくる。でも、もう頷くことしか出来なかった。おなかの奥を満たしている熱さが余市のものなのか自分のものなのか分からない。もっと、欲しいなと思う。もっと強いものが。

「好きだよ、柚…っ!」

 そうっと動き始める。最初は探るように浅く。でもそれじゃ、物足りない気がしていつの間にか柚羽は自分から腰をくねらせていた。余市がくすりと笑って、うなじに口づける。そして、だんだん勢いを増してきた。

「あ…んっ! 余市っ! あっ…、あんっ!」
 甘くて切ない自分の者じゃないみたいな声がかすれながらこぼれてくる。身体の真ん中から湧き出てくる感覚が心地よくて、でも切なくて。まだやめないで、もっと続けて、と思ってしまう。余市もそれに応えてくれる。柚羽の感じた場所を丹念に探りながらそこを何度もこすり上げる。たまらなかった。幾度となく波に飲まれそうになり、引き戻される。余市の熱さが自分の熱さになる。

「柚…柚っ…、俺の、俺の柚…!!」
 てのひらが唇が体中を支配していく。吹き上がってくる快感、飛び散る汗、熱い息。ふたりの想いがひとつに溶けていく。

 こんなにも余市を待っていたんだと思う。余市もこんなにも自分を求めていてくれたんだと思う。繰り返される波が愛を告げる。一番大好きな人の一番大好きな想いを乗せて。

「柚っ…! ああっ、…柚ぅ…!!」
 余市の動きが一段と激しさを増して、何度も突き上げた後、苦しいうめき声が上がる。その瞬間が柚羽にも分かった。余市が自分の中ではじけて、満たされていくのを。心も身体もひとつになったそのたかなりを小さな身体で必死に受け止めた。

 

 繋がり合ったまま、胸を合わせて。しばらくは激しい呼吸を繰り返す。どくどくと大きな響きで、お互いの心臓が命の音を刻んでいく。しっとりと絡みついた身体の熱さがこの上なく愛おしいと思った。自分はもう余市のもので、余市ももう自分だけのもの。もう離せない、一番深いところで絡み合った心。誰にもほどけはしない。

「ゆーず…」
 吐息の中に自分の名が混ざる。甘い音色。絡みつく腕。それを全部受け止めて、優しい胸に顔を埋めた。

「…おかえりなさい、余市…」
 小さい声で囁く。髪をなでながら、応える声。

「ただいま、柚…」

 けだるい感覚に引きずり込まれる。もう、何も憂うこともない。あるのは安らかな心だけ、静かなぬくもりだけ。生まれて初めて味わう幸福に柚羽はしっとりと抱き取られていった。