…15…

 

 

 ひんやりとした気が頬をくすぐった。ぴくっと身体が震えて、それからゆっくり瞼を開ける。夏の始まりの明け方。涼やかなものが辺りを満たしている。でも柚羽は温かいものに自分が包まれたままなのを知った。乱れた小袖から覗く胸板。そこに刻まれた傷の痕もその人だと分かる手がかりになる。

 余市、本当に帰ってきたんだ。

 そう思うと、また、とろとろっと眠りの波が襲ってくる。色々なことがありすぎて昨日は本当に疲れてしまった。朝餉の時の侍女仲間の情報から始まって色々に翻弄された。でも最後に幸せになれれば、もう全てが良しと思える。

 

「柚、駄目だよ? …もう起きて」
 すっと入りこみかけた眠りの淵から、押し戻される。そっと揺り起こされて、けだるく身じろぎした。

「…う…」
 そして声の主を見上げてしっかりと視界に収める前に、ふっと辺りが暗くなって唇が落ちてくる。そっと吸い付いて、味わうように一頻り語らう。くすぐったい気持ちが胸を満たしていく。

「いくら無礼請な夜とは言っても、夜が明けるまで侍女の寮にいてはまずいよ。今のうちにこっそり抜け出さないと…」

「あ、…そうか」
 名残惜しそうな声に、はたと気付く。いつもだったら重い罰に処せられる行為なのだ。いくら昨日の宴の立て役者である余市にあってもそれは例外ではないだろう。それでも身を起こしていく彼を名残惜しく見つめる。もっともっと一緒にいたかった。今までずっと離ればなれだったんだもの、またひとりに戻るにはまだ時間が足りない。

「…今日は、忙しくなるな、やらなくちゃならないことがたくさんあって…」
 余市はにっこり微笑んで、さっさと身支度を始める。まず、汲み置いた手桶の水で身を清める。本当は湯を使いたいところだが、今日のところは仕方ない。肌着と小袖を合わせてきちんとまとって。袴をはいて帯を結ぶ。

「でもその前に御主人様の居室に行きたいんだ。御主人様には昨晩きちんと帰館のご挨拶を申し上げたけど、お方様は御気分が優れないそうで、宴にはいらっしゃらなかったから。柚も行こう、ご報告しなくちゃ」

「え…あ、そうか…」
 ぼーっと余市の支度を見ていた柚羽はようやく思いついたように答えた。そこまで思いつかなかった。でも、考えてみれば当然のこと。余市とのことを一番先にご報告申し上げなければならないのは御主人様とお方様だ。おふたりをおいて他にいない。

 柚羽も慌てて飛び起きて、身繕いを始めた。何しろ全てにおいて不器用だから、余市の倍くらいの時間がかかる。

 

「柚、…櫛は?」
 柚羽がまだ小袖の前を合わせているのに、余市はもうさっさと支度を終えている。そして寝起きでくしゃくしゃになった柚羽の髪を取ると、ゆっくりと梳きはじめる。もう、それだけでドキドキしてしまって手が止まってしまうのだ。

「柚ー? 早く支度して。俺の髪は柚に結って貰うんだから…」
 余市はとても楽しそうだ。そんなことを言いながら、くるんくるんと脇の髪をきれいに編み込んでいく。とても素人には真似できないような技巧を施していくのだ。いつの間にまた覚えたのだろう。

「余市…そんなのやったら。みんながおかしいなって思うわ。…恥ずかしいから、普通のにして」
 小さくかぶりを振って制するのに、余市は聞く耳も持たない、と言った感じ。勝手に箱から飾り紐を取りだして結んでしまう。

「いいの」
 短くそう言うと、喉の奥でククッと笑う。

「柚、誰にも何も言ってないでしょう…? 戻ってきて、村長様のご息女との縁談の話で持ちきりなのにも驚いたけど、みんなが柚と俺のこと知らないのはもっと驚いた。まさか、御主人様までご存じないなんて。あまりに驚いて、昨日はとうとうお伝えできなかったよ? …どうして黙ってたの?」

「だって…恥ずかしかったんだもん。私が言ったところでみんなはきっと信じてくれないもの」
 柚羽はばつが悪くて俯いた。余市は人気者なんだ、御館の侍女のどれくらいが妻の座を狙っていたか知れない。今回の働きできっとその人数は増えたはず。今でも、これからの皆の様子を想像すると身の縮まる思いなのに。

「ふうん、俺なんかもう嬉しくて皆に触れ回っていたのに…遠征団の仲間はみんな知ってるよ?」

「え…!?」

 振り向いた柚羽の顔が真っ赤になっているのに、余市がまた笑う。笑いを殺しながら、ようやく次の言葉を告げてくる。

「団では夜はいつも自分の女子の自慢大会だった。まだ独り身の男たちは肩身が狭そうで。だから皆で目当ての女子をくどく方法を伝授してやったり。きっと、これから新しく所帯を持つ者がたくさん出てくると思うよ?」

「やだっ、そんな…」
 もう、私のことを何と言っていたの? 恥ずかしくてこれから表を歩けないじゃないの。余市は本当にこっちのことを考えてくれないんだもの…!!

 頭がごちゃごちゃに混乱していく。恨みがましく見上げると、余市はうっとりとした目で見下ろしてくる。紐のかたちを少しひっぱって整えてから、ちょっと離れてもう一度確かめる。ひとつ頷くと、静かに言った。

「柚、早く俺の髪を結って。そしたら、靄の晴れないうちに出掛けよう? 渡りで誰かに会ったら大変だから」

 

◆◆◆


 まだ起床の拍子木も鳴らない、そんな刻限に御庭を歩く。露に濡れた草に足を取られると、余市がそっと手を差し伸べてくれた。けむっている気の流れ。白い気泡の帯。慌てて追いつく柚羽を余市が眩しそうに見つめた。

「あの、余市」
 そっと手を繋いで歩きながら。ふと思いついて訊ねる。

「ねえ、瑠璃様。本当にどこに行ったの? 余市は知ってるんでしょう、教えてっ!」

 昨日からすごく気になっていた。だって、瑠璃の方は自分と余市のことを知っているのだ。それを承知して部屋を空けてくれた。それなのに、柚羽は彼女のことを知らない。実はずっと彼女の行動や態度には気にかかることがあったのだ。でも大人しい彼女はするりとかわしてしまって、全然答えてくれない。もどかしかった。

「駄目だよ、柚。自分で直接、瑠璃さんに聞けば?」

「ええ? どうしてなの? …ずるいわっ!」

 柚羽がぷうっとふくれると、余市がまた笑う。本当ににこにこと笑ってばかりいる。笑顔の堰が切れたみたいだ。

「だって…」
 ちょっと首を傾げて顔を覗き込む。

「柚はすぐに人の言うことを鵜呑みにする。俺もそれで被害にあったんだから。瑠璃さんまでそうなったら気の毒だよ…」

「え…? ええっ…!?」

 そうか、と思い当たる。村長様のご息女との婚礼のこと、信じてしまったことを言われているんだ。だって、あれはしょうがないじゃない、あれだけもっともらしく言われたら、誰だって信じるわ。そうやって言い返してやろうと思ったが、またにっこり笑っておしまいにされると思うと口惜しい。だから何も言わなかった。

 

「まだ、夜が明けないなあ…御主人様、お目覚めになられただろうか?」

 居室の傍まで辿り着いて。余市が辺りを見渡す。まだ、世話役の乳母夫婦の姿もない。すぐそこの居室はしんと静まりかえっていた。

「うーん…そうねえ、どうだろう。でも、春霖様は朝がお早いから。もう起きていらっしゃるかも知れないわ」

「…え!?」
 柚羽の言葉に余市がぴたっと足を止めた。それから、ふうっとため息を付いて頭をかく。

「俺、若様は苦手だな。何だか昔からとても嫌われてるし…」

 その仕草がらしくもなく可愛くて、柚羽はくすくすと笑い声を上げた。

「あら、春霖様。いつか、おっしゃって下さったのよ? 私を妻にしてくれるって…」

「えー? 何だよ、それ…」
 余市がびっくりして聞き返してくる。今度は柚羽がにっこりと微笑み返す番だ。

「お方様も乗り気でいらっしゃったけど…どうしましょう?」

 そう言ってもう一度見上げると、世にも情けない顔の余市が途方に暮れてこっちを見てる。おかしくて、嬉しくて、笑いが止まらない。柚羽が背伸びして余市の頬をつんとつつくと、ようやく思い出したように苦笑いした。

「どうしましょうって…どういうことだよ?」

「…さあ、その時になったら、考えましょうってこと?」

 後ろから捕らえられそうになって、慌てて飛び退く。でも余市の腕の長さの方が少し勝っていたので、柚羽はあっと言う間に大きな体に後ろから包まれてしまった。首筋に息がかかる。

「もう、今日は夜が明けたら。朝一番で表の侍従長様のところにご報告に行かなければ。それで居室を頂いて、…これは先手必勝で行くしかないな。柚も荷物、まとめておいて」

「やだ、もう。余市は、何、張りあってるのよ?」

「だってさ、春霖様の方が俺よりずっと御身分が高いんだよ? 柚がお申し出を断れなかったらどうするんだよ?」

「まあっ…!」

 春霖様が大人になられる頃には私はすっかりおばさんじゃないの。そんなことも分からないの…?

もう、おかしくておかしくてたまらない。でも、心がほおっと温かくなって、幸せが溢れてくる。かたちにならない、やわらかい夢。それがようやく叶う。


 てのひらにそっと包んだひとひらの春のように。ささやかな、だけど大切な想い。それをこれからも大事に守っていきたい。ゆっくりと、時間をかけて。


 寄り添うふたりの頭の上。きらきらと夏の夜明けが輝き始める。辺りの靄がゆるやかに晴れて、新しい1日が始まろうとしていた。

了(021002)

 


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