ひんやりとした気が頬をくすぐった。ぴくっと身体が震えて、それからゆっくり瞼を開ける。夏の始まりの明け方。涼やかなものが辺りを満たしている。でも柚羽は温かいものに自分が包まれたままなのを知った。乱れた小袖から覗く胸板。そこに刻まれた傷の痕もその人だと分かる手がかりになる。 余市、本当に帰ってきたんだ。 そう思うと、また、とろとろっと眠りの波が襲ってくる。色々なことがありすぎて昨日は本当に疲れてしまった。朝餉の時の侍女仲間の情報から始まって色々に翻弄された。でも最後に幸せになれれば、もう全てが良しと思える。
「柚、駄目だよ? …もう起きて」 「…う…」 「いくら無礼請な夜とは言っても、夜が明けるまで侍女の寮にいてはまずいよ。今のうちにこっそり抜け出さないと…」 「あ、…そうか」 「…今日は、忙しくなるな、やらなくちゃならないことがたくさんあって…」 「でもその前に御主人様の居室に行きたいんだ。御主人様には昨晩きちんと帰館のご挨拶を申し上げたけど、お方様は御気分が優れないそうで、宴にはいらっしゃらなかったから。柚も行こう、ご報告しなくちゃ」 「え…あ、そうか…」 柚羽も慌てて飛び起きて、身繕いを始めた。何しろ全てにおいて不器用だから、余市の倍くらいの時間がかかる。
「柚、…櫛は?」 「柚ー? 早く支度して。俺の髪は柚に結って貰うんだから…」 「余市…そんなのやったら。みんながおかしいなって思うわ。…恥ずかしいから、普通のにして」 「いいの」 「柚、誰にも何も言ってないでしょう…? 戻ってきて、村長様のご息女との縁談の話で持ちきりなのにも驚いたけど、みんなが柚と俺のこと知らないのはもっと驚いた。まさか、御主人様までご存じないなんて。あまりに驚いて、昨日はとうとうお伝えできなかったよ? …どうして黙ってたの?」 「だって…恥ずかしかったんだもん。私が言ったところでみんなはきっと信じてくれないもの」 「ふうん、俺なんかもう嬉しくて皆に触れ回っていたのに…遠征団の仲間はみんな知ってるよ?」 「え…!?」 振り向いた柚羽の顔が真っ赤になっているのに、余市がまた笑う。笑いを殺しながら、ようやく次の言葉を告げてくる。 「団では夜はいつも自分の女子の自慢大会だった。まだ独り身の男たちは肩身が狭そうで。だから皆で目当ての女子をくどく方法を伝授してやったり。きっと、これから新しく所帯を持つ者がたくさん出てくると思うよ?」 「やだっ、そんな…」 頭がごちゃごちゃに混乱していく。恨みがましく見上げると、余市はうっとりとした目で見下ろしてくる。紐のかたちを少しひっぱって整えてから、ちょっと離れてもう一度確かめる。ひとつ頷くと、静かに言った。 「柚、早く俺の髪を結って。そしたら、靄の晴れないうちに出掛けよう? 渡りで誰かに会ったら大変だから」
◆◆◆
まだ起床の拍子木も鳴らない、そんな刻限に御庭を歩く。露に濡れた草に足を取られると、余市がそっと手を差し伸べてくれた。けむっている気の流れ。白い気泡の帯。慌てて追いつく柚羽を余市が眩しそうに見つめた。 「あの、余市」 「ねえ、瑠璃様。本当にどこに行ったの? 余市は知ってるんでしょう、教えてっ!」 昨日からすごく気になっていた。だって、瑠璃の方は自分と余市のことを知っているのだ。それを承知して部屋を空けてくれた。それなのに、柚羽は彼女のことを知らない。実はずっと彼女の行動や態度には気にかかることがあったのだ。でも大人しい彼女はするりとかわしてしまって、全然答えてくれない。もどかしかった。 「駄目だよ、柚。自分で直接、瑠璃さんに聞けば?」 「ええ? どうしてなの? …ずるいわっ!」 柚羽がぷうっとふくれると、余市がまた笑う。本当ににこにこと笑ってばかりいる。笑顔の堰が切れたみたいだ。 「だって…」 「柚はすぐに人の言うことを鵜呑みにする。俺もそれで被害にあったんだから。瑠璃さんまでそうなったら気の毒だよ…」 「え…? ええっ…!?」 そうか、と思い当たる。村長様のご息女との婚礼のこと、信じてしまったことを言われているんだ。だって、あれはしょうがないじゃない、あれだけもっともらしく言われたら、誰だって信じるわ。そうやって言い返してやろうと思ったが、またにっこり笑っておしまいにされると思うと口惜しい。だから何も言わなかった。
「まだ、夜が明けないなあ…御主人様、お目覚めになられただろうか?」 居室の傍まで辿り着いて。余市が辺りを見渡す。まだ、世話役の乳母夫婦の姿もない。すぐそこの居室はしんと静まりかえっていた。 「うーん…そうねえ、どうだろう。でも、春霖様は朝がお早いから。もう起きていらっしゃるかも知れないわ」 「…え!?」 「俺、若様は苦手だな。何だか昔からとても嫌われてるし…」 その仕草がらしくもなく可愛くて、柚羽はくすくすと笑い声を上げた。 「あら、春霖様。いつか、おっしゃって下さったのよ? 私を妻にしてくれるって…」 「えー? 何だよ、それ…」 「お方様も乗り気でいらっしゃったけど…どうしましょう?」 そう言ってもう一度見上げると、世にも情けない顔の余市が途方に暮れてこっちを見てる。おかしくて、嬉しくて、笑いが止まらない。柚羽が背伸びして余市の頬をつんとつつくと、ようやく思い出したように苦笑いした。 「どうしましょうって…どういうことだよ?」 「…さあ、その時になったら、考えましょうってこと?」 後ろから捕らえられそうになって、慌てて飛び退く。でも余市の腕の長さの方が少し勝っていたので、柚羽はあっと言う間に大きな体に後ろから包まれてしまった。首筋に息がかかる。 「もう、今日は夜が明けたら。朝一番で表の侍従長様のところにご報告に行かなければ。それで居室を頂いて、…これは先手必勝で行くしかないな。柚も荷物、まとめておいて」 「やだ、もう。余市は、何、張りあってるのよ?」 「だってさ、春霖様の方が俺よりずっと御身分が高いんだよ? 柚がお申し出を断れなかったらどうするんだよ?」 「まあっ…!」 春霖様が大人になられる頃には私はすっかりおばさんじゃないの。そんなことも分からないの…? もう、おかしくておかしくてたまらない。でも、心がほおっと温かくなって、幸せが溢れてくる。かたちにならない、やわらかい夢。それがようやく叶う。
了(021002)
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