「玻璃の花籠」と「てのひらの春」を読んでからどうぞv
ふんわりと。香りの中に閉じこめられているような気がする。何て甘美で何て底深い…もう囚われて逃れられない檻。でもその中にいるのがあまりにも心地よい。 ミルク色のまどろみの中で、秋茜は小さく身じろぎした。すると眠っているものだとばかり思っていた腕がきゅっと強く絡みついてくる。閉じたまつげにふうっと息がかかって、気配に気付く。そろそろと瞼を開けた。 「…体調は? どうかな?」 「…え、ええ。変わりはございませんわ…殿」 逞しい胸板、自分を抱き寄せる腕。綺麗に日焼けした褐色の肌は滑らかでみずみずしい。この人の腕で眠ることにはもう慣れすぎた筈なのに、やはり寝起きは毎回恥ずかしくて。身体を冷やさないようにと羽織った肌着を前で合わせた。 「隠すな、良く見せておくれ?」 「あっ…、おやめになってっ。あの…殿っ…!」 そっと視線を窓の外に移す。まだ夜は明けきっていない様子だ。白い靄が帯になって居室の中に流れ込んでくる。しんとして、物音もしない。でももう一度寝直すには時間が中途半端だ。 「うんっ…、お前をまた赤子に取られてしまうと思うと口惜しいな。子は欲しいが、お前の方がもっと欲しい…ああ、何て美しいのだろう。浮き上がった汗までがこんなに誘うなんて…」 「ああ、殿っ…駄目っ…! 許して…」 さすがに臨月のおなかでは仰向けになれない。腰や胸が苦しく圧迫されて、呼吸も困難になるのだ。妊娠末期の楽な寝姿は身を横向きにして、おなかを支えるように下に衣を敷いた格好だ。 「…っくっ…!」 「…身体は…大丈夫なのか? 無理ならこれでやめるが…」 「…殿っ…」 「秋、何が欲しいのかな? …言ってごらん?」 「…うっ…」 「秋、言わないと…やらないぞ?」 どこでこんな余裕の言葉を知ったのだろう。年下でありながら、こうして自分を翻弄する。こうして身も心も溺れさせることを知っている。どうしてこんなになったのだろう…? 今ではこの人の腕の中から逃れる術など到底思いつけない。 「殿っ……お願いします、動いて…!」 「いい子だ、秋」 「あぁ…んっ…、殿ぉ…!」 「ああ、秋…秋…っ! 最高だ…いいよ…っ!」 「…その様に。どうしてお前は未だに恥ずかしがるのかな? 初々しいのは可愛らしいが…もう、3人の子を成そうとしているのに…」 そのようなことを言われても、恥ずかしいものは恥ずかしい。夜ならまだいい、でもこんな晴れやかな朝に…これから1日が始まろうというのに。どうしてこんなことが出来るのだろうか。 恥ずかしくて、口惜しくて。色々な思考がごっちゃになりながら、顔を上げる。愛おしそうに見つめてきた人がやがて顔を寄せてくる。しばし唇を合わせ、お互いを感じ合った。 「…あれ?」 「何だか、表の方が騒がしいな…」 「春霖…でしょうか?」 やがて戸口に歩いていこうとする雷史よりも早く、申し訳ないように戸口が外から叩かれた。 「――あの…御主人様、お方様。もうお目覚めでしょうか…?」 「あら?」 その声は西南の雷史の館にいた頃に秋茜の侍女をしていた娘・柚羽のものである。彼女は次期竜王・亜樹様の御子の乳母になる秋茜と共に都に上がり、今では秋茜と同じ竜王様の御館の南所で御子様方の御世話を申しつかっていた。 でも…こんな朝早くから何だろう? 「どうした? 柚羽?」 「あっ…あのぉ…」 この娘は昔からそうだった。侍女として主人の閨に睦み合いの後始末にやってくることが当たり前のことだった。雷史には何人も使用人がいたが、秋茜はあまり人好きのしない性格で煩わしい人間関係が嫌だった。だから自分の身の回りの世話は西南の大臣様に輿入れの時に与えられたこの娘ひとりを使っていたのだ。 自分の元にやってきた頃はわずか11の童女であった。髪も肩の辺りでふっつりと揃えたおかっぱで。それが今ではさらさらと足首まで流れている。娘時代の数年は何てすごいのだろう。少女が徐々に花開いていく姿を秋茜はずっと見ていた。そして15になり…ますます美しさを増した娘に良き伴侶をと夫と話し合っていたところだ。 「余市が。…遠征から戻ったので、お方様にご挨拶申し上げたいと。出仕の前に参っているんですが…その…」 その時。また、戸口の向こうでぎゃーという悲鳴が聞こえた。間違いない、息子のだ。続いて乳母たちのなだめる声が響いてくる。 「さてはいつもの騒ぎか」 「はあ…若様は、余市がお嫌いだから。お顔を合わせたら、もうあんな感じで…」 柚羽が説明している間にもとんでもない奇声と悲鳴が上がっている。春霖と乳母のものだろう。それにしてもものすごい荒れようだ。 「すぐに身支度を整えてしまいますから、あなたは春霖を見てやって頂戴」 「あの…、御支度、お手伝いいたしましょうか?」 今では同じ身分なのに。この娘は昔のまま、自分に仕えてくれている。それが申し訳なくも有り難い。子守から身の回りの世話から色々と助けて貰っている。確かに仕事は早いとは言えないが、それでも一生懸命な姿には好感が持てる。 秋茜はふっと微笑んだ。 「まずは春霖をなだめてもらわないと。あの子、この頃とみにご機嫌が悪いの…私の産み月が近いせいもあって不安定になっているのね。お願い、柚羽」 「…はい」 「せっかく、くつろいでいたのにな…」 「なあ、秋?」 「何でございましょうか?」 「柚羽、何か言いたそうだった気がしないか?」 そのことには全く気付いていなかった。秋茜は小首を傾げて思案した。 「とりあえず…早く参りましょう。春霖は乳母に頼んで連れだした方が宜しいかも知れませんね…柚羽にでも頼んだ方がいいでしょうか?」 寝台から降りて、草履を履く。その時ふわっと朝の光が部屋の中に注ぎ込んできた。
「まあ、…あの、それは。もしや、春霖が?」 そう言って大きく目を見開く女主人。もう臨月だというおなかは遠征団の出立の前にご挨拶申し上げた倍にもなっている気がする。すっかり母親の体型なのに、その物腰やお姿は変わらずに匂やかで艶やかだ。その瞳が申し訳なさそうに揺れた。 余市は改めて彼女の視線の先にある自分の頬に手をやる。指先でもしっかりと感じ取れるみみず腫れ、微かに血が滲んでいるらしい。指先に朱色の跡が出来た。 雷史様の居室。今となっては雷史様も自分も同じ竜王様の侍従になるのだが、どうしても身体に染みついたものが抜けない。西南にあった頃はこの方々の下で働いていた。立場が変わろうともそれはおいそれと改まるものでもない。 「あ…、いえ、大したことございません。お気になさらないでください」 広々とした居室。部屋数もこの竜王様の御庭の先にあまたと点在する居室の中でも特に多い方だろう。離れには乳母夫婦の居室もある。 入り口からひとつ進んだ客座に通される。客ではあるが身分上、こちらが低い位置に座る。雷史様と秋茜様は部屋の奥にこちらを向いて、一段高い台座の上に座していた。 またひとつ、うぎゃあと声が上がる。庭の方から。若様がいては話にならないと乳母に連れだして貰ったが、とても押さえきれない荒れようだ。 柚羽が心配そうに声の方を見ている。これは早いところ話を付けた方が良さそうだ。 「…あまり急に申し上げて、お方様が驚かれて体調を崩されたら大変だわ」 でも、ここはそんなことを言ってはおれない。余市はどうにか言葉を繋げながら、柚羽と夫婦(めおと)になりたいという意向をお二人に伝えた。何気ないことだと思っていたが、実際に口に出してみるとことのほか重々しくて、自分たちが大きな岐路に立っていると言うことを改めて感じた。
「はあ…?」 おふたりは余市の言葉を一通り聞くと、ぴったりと同じような反応を示された。言葉は一応耳に入った。でもそれが上手く飲み込めない、そんな感じに見える。 辺りは水を打ったような静けさに包まれ、しばらくは誰も声を上げなかった。 「…ま、まあ…。柚羽、それは…本当に?」 「つきましては…本日、表の侍従長様に申し上げて許可を頂き、早速住居の手配をお願いしたいと存じます。しかしその前に御主人様とお方様にお許し願いたく…」 「…許すも許さないも。お前たちが決めたことならば、我々が口を挟むことではないであろう…なあ」 「しかし、殿。夫婦とならば…それ相応の形式を整えてあげなければなりませんわ。これからでは婚礼の餅の手配も間に合いません…とても、すぐになど…」 「お方様、あの、宜しいんです。そんな丁寧なことは…」 「そんなこと。柚羽は私と殿にとって家族同然の大切な娘。それをお嫁入りさせるのですから、何もないというわけには参りませんわ…如何致しましょう…」 お方様の言葉に、雷史様も困ったように答えられる。 「如何致しましょうと…言われてもなあ…こればかりは我慢しろと言ったところで、我慢できるものではないだろう? すぐにでも部屋を借りたいのだろう? 余市」 何とも直球な物言いだが、その通りである。出来ることなら今日中にでも居室を借りたい。柚羽のことだけを思って遠征の地から引き上げてきたのだ。余市の中では柚羽はもう自分の妻であった。離れて暮らすことなど考えられない。 ふうっとため息をつかれる御主人様をそっと覗き見る。端正な顔立ち。がっしりとした体躯。衣に包まれていても裸体を晒しても、美しい御方だ。この方に仕えて、この方に付いてここまで来た。今回の遠征団の団長という快挙も元はと言えばこの人ありき、なのである。
初めて目の当たりにしたときから、お美しい方だと思った。絵巻物から出てきた殿上人のように。お育ちの良さもさることながら、その奥にあるしっかりとした柱を感じた。しかし、出逢った当時のこの方は心が荒んだお寂しい方だったと思う。その頃、余市は叔父夫婦から生家を追われ、当てもなく御領地内をさまよっていた。 遊女小屋の呼び込みをしていたときに、そこに現れたのが雷史様だった。初めてお目にかかるので、その御身分の程は分からなかったが、雑踏の中を頭ひとつ分高い方が歩いてくるのが見えた。まだお若くいらっしゃるのに着ているお召し物も町人とは明らかに違う高貴なもの。これはまたとない上玉だ、と思った。 金回りのいい貴人を連れて行けば、遊女小屋の主人は手当をはずんでくれる。それは知っていた。自分の主人となるその男は金に汚い性格で、客から多く巻き上げることばかり考えていた。時には人の良さそうな客に浴びるほどの酒を飲ませ、前後の記憶を無くさせた上で法外な料金を請求したりした。それが払えぬと聞くと身ぐるみ剥がしてでもせびり取った。 「…何だ、お前」 しかし。その人を前にして、余市は言葉を失っていた。濃緑の瞳に見据えられると、口の中がカラカラに乾いて声も出ない。ここはこの人をその気にさせるような上手い文句を言って、どうにか店の戸口まで連れ込みたい。そうは思っても、ひとことも発することが出来ずに固まってしまった。 すると、目の前の貴人はククッと喉の奥で笑った。そして、面白そうに余市をまじまじと見る。その口元がいやらしく上向いた。 「…辛気くさい奴。お前、連れ込み宿の呼び込みなら、もっと景気良くやったらどうだい? それにその態度、女を売るのが嫌で嫌で仕方ないと言う感じじゃないか。そんなじゃ、客は逃げちまうぞ?」 「…なっ…!」 「まあ、いいよ。お前の店に連れてってくれ…いい夢見せてやるぞ」 その言葉の意味はよく分からなかった。でも、客として来てくれるというならこんなにありがたいことはない。他の者に較べて余市は成績が悪く、ひとりも客を取れない日も珍しくなかった。そのことで店の主人から小言を言われることも多く、皆のせせら笑いの対象にされていた。どうにかして見返してやりたい、そんな気分で一杯だったのだ。 その貴人を店に入れると、店の主人は今まで見たこともないほど大はしゃぎだった。そこまで喜ばせることが出来て、余市も鼻が高かった。別に自分が誉められているわけではなく、連れてきた客が良いだけなのである。それでももうそう言う違いすら分からないほど、余市の心は荒れはてていた。 「これはこれは…若君様。わざわざのお越し、誠にありがとうございます…我が店に貴方のような御方がいらっしゃって下されば…」 しかし、貴人はそんなお世辞ベタベタの言葉をうるさそうに遮りながら、言い捨てた。 「親父、この店一番の上玉を2人ほど見繕ってくれ。それから、この男を借りるぞ?」 「…は…?」 「あ、若様っ! 恐れながら、こやつは全くの新参者で…とてもお役に立てるような者では…」 「良いではないか、客の言うことは黙って聞くもんじゃないのか? それとも、この店は俺の言うことを聞かぬとでも申すのか…?」 「うっ…」 店の主人が慌てて裏に下がると、貴人はにやにや笑いのまま、余市を顎で促した。 普段は後始末の掃除のためだけに入る部屋に貴人について足を踏み入れる。それほど綺麗な部屋ではないが、ほの暗い燭台の灯りのせいか、艶やかな空間が形成されている。そこにはしどけなく寝着の腰ひもを片結びしただけの遊女がふたり控えていた。どちらも甲乙付けがたい、この店のとっておきの客取りだ。 貴人は鼻でふんと笑うとひとりの女の手を取った。その者の口元に歓喜の笑みが浮かぶ。客を取ってなんぼの商売だから相手にされるのは嬉しいものだと思う。それがこのように見るからに高貴な身分の、しかも若々しい好青年だったらどんなに嬉しいだろう。彼女の心中が手に取るように余市にも感じ取れた。 しかし、貴人の次の言葉にはその女ももうひとりの女も…そして余市本人もが驚愕した。 「お前、こっちの奴を男にしてやってくれ」 「…え…!?」 一体何を言い出すんだ。どういうことなんだ。余市には目の前の男の言葉が全く分からなかった。するとその貴人がこちらをじっと見る。吸い込まれそうな瞳だ。射抜かれた、と言ってもいいのかも知れない。 「お前、客引きしていて楽しくないだろう? それは女を知らないからだ。女の味を知れば、買いに来る奴の楽しさと滑稽さが分かって、自然と楽しくなるはずだ。…ほら、誰にも遠慮することはない。楽しませて貰え、俺のおごりだ」
「楽しませて貰え」
瞳を閉じて、腕組みをして。しばらく思案していた雷史様がふっと目を開けられた。そして、微笑んでお方様をご覧になる。 「そうだ。本日、遠征団の帰館を祝って、祝賀の餅が振る舞われると聞いたよ? それで代用してもいいのではないか? 皆の餅を綺麗に盛って飾り付ければ。余市の快挙を祝う餅だ、丁度いいだろう?」 「…そう…でございますか…?」 「それならば…すぐに祝いの塗り盆を準備させますわ…ああ、忙しいこと。でも、めでたきことなればやりがいがありますわ…」 余市の隣りでことの推移を心配そうに見守っていた柚羽が小さな安堵の息を漏らした。そっとその細い肩に触れる。ぴくっと反応してから、口元をほころばせてこちらを見た。
そして。余市はそんな雷史様のことを以前よりずっと好きになっていた。
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