…番外『雷史一家の一番長い日』・2…

 

三幕・昼、居室の表庭で…春霖

 まったくも〜っ!! 何がどうなってるんだよ〜〜〜っ!

 腹が立つったらない。男子たるもの、あまりイライラと当たり散らすような軽々しい真似はするもんじゃないと、母上がいつも仰るけどっ!! 今日はいいと思う。これくらい、とうぜんだよなっ!

「若様っ! お痛はおやめ下さいましっ!」
 乳母が太い腕をにゅっと出して僕を押さえつけようとする。母上はお体がそれほど丈夫ではなくて、その上ご懐妊ばかりなさるので、一年の半分くらいは床に横になられている。そんなわけで、僕は乳母や侍女に育てられてると言ってもいい。僕だけじゃない、妹の雪だってそうだ。

「ぎゃあっ! うるさいっ!」

 力で押さえつけられてしまったら、おしまいだ。するりと身をかわして、なおも伸びてくる腕をかぷっと噛んでやった。

「ひっ…!」
 さすがの乳母も手を引っ込めた。へへん、恐れ入ったかっ! いつもちゃんと塩で磨いてるもんな。柚が仕上げの磨きだってしてくれるんだ。白い歯の男は格好良いんだ。柚だってそう言っていた。

「若さまっ!!」
 背後から乳母の絶叫が響いてくる。僕はそんなの気にも止めずに、だだだっと居室の前の庭を横切った。そして枝葉が入り組んだ茂みに滑り込む。ここは太った乳母が入れない場所だ。思い思いに伸びている枝だって、竜王様の御庭の物だから、大切だ。安易に痛めていいものじゃない。乳母はそれが分かっているから足を止めてしまうのだ。
 がしがしと音を立てながら、奥へ奥へと進んで行った。

 

 夜明けに、乳母の住んでいる離れの戸を叩く音がした。昨日も母上が具合悪いと仰って、父上は僕と雪を乳母に預けた。本当は柚に来て欲しかったけど、どうも柚は昨日の朝から具合が良くないらしい。どうしたんだろう? 夏の暑さでやられたのだろうか…心配だ。
 雪はまだ赤ん坊だから、乳母が抱いて寝る。僕は兄上だから、甘えてはいけないんだ。でもそんなの寂しくない。乳母の布団より、柚の布団の方がずっといい。僕がぐずると手に余るから乳母は必ず柚を呼んでくれる。宿直のお務めのない日なら、柚はちゃんと来てくれる。そして、柚はいつでも僕に会うと嬉しそうににっこりする。
 乳母より、母上よりちっちゃくて、手もぷにぷにしてる。爪なんてほんとにちまっとして。でも、そんな柚が可愛いと思う。柚は母上や乳母のように乳臭くない。赤子なら乳臭いのが好きかも知れないが、僕はもうそんな物に興味も関心もない。

「若様は、いい子でお休みになられますよね…?」
 そんなの当然だ。侍女の仕事で疲れて戻ってくる柚を早くゆっくり寝かせてやりたい。寒い季節はこの冷たい気候に慣れていない柚の手ががさがさになって可哀想だ。水仕事なんかやらなくていい、立派なお屋敷の女主人になるべきだ。そうすれば柚の手はいつでも柔らかくて温かいはずだ。
 寝着に改めた柚は、僕を寝台に呼んで、しっかりと抱きしめてくれる。柚の身体にきゅっとしがみつくと本当に気持ちいい。ふんわりと温かくて、いい匂いがする。髪もさらさらしてとても綺麗で。御館には色々な髪の女子がたくさんいるけど、僕は柚の赤毛が一番綺麗だと思う。

 どうしたらいつまでもこうして柚と一緒にいられるだろう。その答えは案外簡単なところにあった。

 

「…あなたにもそろそろ…良き伴侶を見つけてあげなくてはね」
 ある日、母上が柚にこんなことを言い出した。

 僕は天が崩れて落ちてくるかも知れないくらいびっくりした。だってそうだろ? 柚がどこかの男の妻になると言うことは、どこかへ行ってしまうかも知れないと言うことだ。柚の田舎は西南のお祖父様の家よりずっとずっと山奥にある。もしもそんなところに行ってしまったら、そう簡単には会えなくなってしまうじゃないか。
 それに、それに、それだけじゃない。柚が夫をもってしまったら、あまりここには来て貰えなくなる。父上は母上と同じ寝所で同じ寝台で寝る。夫婦(めおと)だったら当然なんだそうだ。柚もそうしなければならなくなるのか? 僕の柚なのに。柚は僕のものなのに…っ!

 あ、そうか。

 その時、ぽろんと何かが剥がれるように目の前がすっきりした。急に視界がはっきりして、清々しい気分。僕は元気良く叫んだ。

「駄目だい!! 母上〜柚は僕がお嫁さんに貰うの!! 誰にもあげちゃ駄目〜〜〜!!」

「…あら、まあ…」
 母上は少し驚かれたお顔で、でも嬉しそうに微笑まれた。

「好かれてしまったわねえ…柚羽。それでは春霖も候補に入れなくてはね…」

 候補じゃないやい、本当になるんだいっ! そう言いながら、柚の方を見る。柚は僕が想像したとおりの恥ずかしそうな、幸せそうな笑顔になっていた。

「…はい」
 小首を傾げて、ため息のように返事する。さらさらと髪が流れる。ああ、やっぱり柚は可愛い。

 柚を僕の妻にする。西南のお祖父様のように若き日の父上のように、側女をたくさん囲って悲しませたりしない。柚だけをたくさんたくさん愛するんだ。出世して偉くなって、お祖父様よりも大きな御館を建てて、そこで柚は何不自由なく暮らすんだ。もちろん、使用人だってたくさんいる。柚は面倒なこと何もしなくていい。ただ僕のお世話だけしてればいいんだ。

 今はまだ子供だけど、すぐに大きくなれると思う。もう柚の胸の辺りに頭のてっぺんが来る。背伸びをしなくても柚の顔が分かるんだ。柚はこの数年、少しも上背が伸びた感じがしない、むしろ縮んでいるような感じすらする。縮んでくれたっていい、その方が早く追いつく。

「柚っ! 柚は僕の妻になるんだよね? どこにも行かないんだよね!?」
 そんなこと当たり前だと思うけど、やっぱり嬉しくて、何度も確認してしまう。傍らで妹の雪に乳を与えていた乳母があらあらと呆れたように口を開ける。ふんっ! お前はもう夫がいるんだ、妻になんかしてやらない。残念だけど、柚の方が可愛いし、好きだ。諦めて欲しい、大人なんだから。

「う〜ん、若様…」
 柚はきゅううううっと僕を抱き寄せる。頭の後ろをゆっくりとなでてくれて。ああ、気持ちいい、最高だ。

「でも、柚は若様が大人になられる頃にはもうおばあちゃんになってしまいますわ…それでは申し訳ございませんし…」

 その言葉を聞いていた乳母がぶっと吹き出した。何だ下品な奴っ! 失礼だ。

 でも、でも。柚もどうしてそんなことを言うんだ。年の差なんて心配しているのか? だったら父上だって母上とは年がかなり違うぞ。母上の方がずっとお姉さんだ。でも夫婦じゃないか。

「駄目だいっ! 柚は僕の妻になるんだから。しわくちゃのおばあさんになっても柚のこと大切にするよ? 捨てたりしないよ? だから、いいだろ?」

「まああ…」
 柚は僕を膝の上に座らせると、何とも言えない笑顔になった。

「そんなで宜しいのですか? 本気にしちゃいますよ?」

「もちろんだいっ!!」
 僕は柚の身体に腕を回した。そしてぎゅーっとしがみつく。甘くていい匂いがする。胸はとってもやわらかくて、ふわふわして。

 柚は僕を思い切り抱きしめると、くすくすと笑った。その微かな振動が心地良かった。

 

 それなのに、それなのに。まだ早い時間に乳母の離れの前に現れた柚はとんでもない奴と一緒だった。柚が来てくれたのは嬉しかったけど、そいつの顔を見た途端、僕はご機嫌が悪くなっていた。

「何だよ〜、お前は向こうに行ってろっ! なあ、柚、来てくれたんなら、もうちょっと寝ようよ。まだ夜も明けきらないよ。身体が冷たいから、僕があっためてあげる!!」

 顔を見ると気分が悪くなるから、思い切り無視して柚の手を引いた。なのに、いつもなら僕の言うことを聞いてくれる柚が今朝に限って動かない。見上げると、困ったように微笑んでいた。

「若様。柚は御主人様とお方様に大切なお話がございますの。今日は申し訳ございませんが…お許し下さいまし」

「えええっ!? 何だよ〜どういうことだよ〜っ!」
 僕はびっくりしてしまった。柚が僕の申し出を断るなんて、どういうことだよ?

 今朝はどうなんているんだ? あのいけ好かない男は来るし、柚は言うこと聞かないし。あいつは…と言うと、慌てて起きてきた乳母とその夫と少し離れたところで何やらこそこそ話している。その途中で、乳母が「んまあっ!」と下品な声を上げた。

「若様、春霖様。お離し下さいませ。私はこれから、奥の寝所まで行って、御主人様とお方様をお起こしして参りますから…」

「やだいっ! やだいっ!!」
 柚の重ねをぎゅうぎゅう引っ張りながら、足をガタガタと踏みならす。その物音に、妹の雪や乳母の子供である僕たちの乳兄弟までが起き出してくる。

「あ〜、柚だ〜柚っ!!」

「おはよう、柚。遊ぼう〜!!」

 皆も朝から柚を見て、すごく嬉しそうにしている。みんな柚が大好きだ。でも柚は僕のもの。僕はみんなの進路を遮るように立ちはだかった。

「何だよっ! お前たち、うるさいぞっ!! 大人しく向こうに行ってろっ!!」
 そう言いながら、両方の腕を思い切り振り回したら、事もあろうに雪の顔をひっかいてしまった。雪はどすんと後ろにしりもちを付いて、うぎゃーと泣き出した。

「若様っ!! お痛はいけませんっ! 雪茜様が…」
 柚はおろおろしている。でも構うもんかっ! 僕は柚にしっかりしがみついた。

「柚っ! 柚っ…!! 柚は僕と遊ぶのっ! 他の奴の相手なんかするなっ!」

「な〜にを、わがまま仰ってるんです? いい加減になさいっ!」

 ぐいっと。後ろから抱え込まれ、引き剥がされてしまった。身体が大きくたっぷりと肉の付いた乳母が力づくの行動に出たのだ。

「うぎゃああっ!! 柚ぅ〜〜〜〜〜っ!!」

「柚羽様、今のうちに御主人様方を…」
 何があっても離さないわ、と言う乳母の鼻息が聞こえる。

「も、申し訳ございません。お願いいたしますっ!!」
 柚がささっと身を翻そうとした。させてなるか、すごく悪い予感がする、それの正体が分からないままに僕は必死で柚の重ねの袖を掴んだ。

「…春霖様」

 その時。今まで僕には近寄って来なかったあいつがすっと歩み寄る。そして、ものすごい力で僕の手を掴んで、柚の重ねをほどいた。

「柚、ここは任せて。早く行っておいで…」
 腹が立つほど落ち着いた涼やかな声で、柚に話しかける。柚は何だかホッとした顔をして、あいつに微笑んだ。何だよ〜、その顔は僕に向けるものじゃないか。こいつになんか、もったいないぞっ!!

「何だよ〜、お前なんかっ!! 元はと言えば父上の下男じゃないかっ!! 僕にこんなこと出来る身分じゃないんだぞっ! …生意気だあっ!!」

 僕は自分でも信じられないほどの力で乳母の太い腕を振りほどくと、そいつに飛びついた。そして思い切り腕を伸ばしてかがみ込んできた頬に、がりりと爪を立ててやった。

「どうだいっ! 思い知ったか!?」
 僕は肩で息をしながら、鮮やかに付いたみみず腫れを惚れ惚れと眺めた。ものすごいダメージだと思う。ふん、僕だって本気になればこんなものさ。

 どうするかな、と思った。奴は黙ったまま、しばらく立ち尽くしている。こちらを見て。

 やがて、ふっと口元がほころぶ。大きな手のひらが頬の傷を確認し、それから乱れた髪や衣をささっと直した。

「お気がお済みになりましたか? 若様…」

「…なっ!!」

 信じられない奴っ!! ど〜なんてんだよっ! 何、格好付けてるんだっ!

「生意気だ〜〜〜っ! お前なんかここに来るなっ! 帰れっ!!」

 思い切り牽制したのに、元通り姿勢を正してしまった奴の顔がとても遠く感じられる。渾身の一撃のみみず腫れも遠目に見ると大したこと無い。すごく腹が立つ。

「御用が済むまでは、戻れませんね。若様こそ、もしも私が目障りでしたら、奥のお部屋にでもいらしていてください」

「何だと〜〜〜!?」
 一度で分からないなら、何度でもやってやる。そのきらびやかな衣にだって泥を塗りたくってやる。何だ、何だっ!! 遠征団の団長だかなんだか、知らないが、偉そうだぞっ!!

 それなのに、僕の攻撃はまたも乳母によって制される。ああ、腹立つっ!! 腹立つっ!!!

「若様〜〜〜、あまりお痛がひどかったら、お灸にしますよ。お尻にやりますか…?」
 ぎゅううううっと、息が出来ないじゃないか。何を考えてるんだ、この女。乳母の癖に生意気だっ!!

 僕は最高に腹が立っていた。父上が起きられたら、言いつけてやる。言いつけて乳母とこの男を処分して貰うんだっ!!

 そう思いながら、なおもばたばたと手足を動かす僕に、乳母が何と信じられないことを言ったのだ。

「若様、本日はおめでたき日なれば、少しはいい子になさってくださいましっ! こちらの余市様と柚羽様が夫婦(めおと)になるご報告にいらっしゃったんですから…」

 

 もうっ! もうっ! ど〜してそう言うことになるんだよっ!!

 この先は深い崖になっている。結界の外れで気も薄い。近寄ると柚が心配して探しに来る。乳母では通れない様な茂みでも柚ならどこまでも付いてきてくれる。

 それなのに、それなのにっ…!!

 柚は僕の妻になると約束したじゃないかっ! 母上だってひどい、僕が先に言ったのに、どうしてあいつのことを認めるんだっ!! 反対してくれたっていいじゃないか。

 柚も柚だ、よりによってあんな奴っ!! あのふてぶてしい態度、涼しげな瞳。腹立つっ!! ああ言う押さえつけるような態度で柚に無理矢理迫ったんだな? 柚は断り切れなくて、仕方なく奴に従ったんだ。そうに決まってる、だって、柚だって僕の妻になりたかったのだからっ!!

 大体あいつは最初から気に入らなかった。西南のお祖父様のお屋敷にいた頃から、腹が立つことが多くて。僕が柚と遊んでいるとやってきて、柚をどこかに連れて行ってしまうんだ。そうか、その頃から柚を狙っていたんだな。下男の分際で侍女に想いを寄せるなんて重罪なのに。ああ、あの頃、お祖父様に申し上げていれば、こんなことには…。

「うわ〜んっ!! 柚ぅ…!!」
 崖っぷちの岩場に腰掛ける。膝を抱えて。あいつに負けるものは年齢と背の高さくらいだ。そのほかは絶対に負けない。柚の気持ちだって僕に傾いているはずだ。

 ああ、柚。

 もしかして、身分の差を気にしたのかな? 柚は侍女、僕は西南の大臣家の重臣の家の直系。父上は一度は勘当されたが、ここに来て竜王様の覚えもめでたくご出世なさるので、ゆくゆくは跡目に、と言われている。そうなれば将来は息子である僕もあのお屋敷の御館様になれる。
 でもっ!! 身分なんてどうでもいいんだ。僕は柚を大切にする。絶対あいつになんて負けない。柚があいつに苛められてボロボロになる姿なんて見たくない。あいつみたいな奴、柚を幸せになんて出来るもんかっ!

 ああ、柚。きっと今に泣きながら父上の居室にやってくるんだ。あんな男とは暮らせないって。そうなることは分かっているのに、分かり切っているのに、身分のせいで僕から身を引こうとするなんてっ!!

 辺りの気がじんわりしてくる。夏の日は西南よりもずっと涼しいこの土地でもやはり訪れる。僕は重ねの袂から饅頭を取りだした。

「…腹が空けば帰ってくると思ってるんだろ? ふ〜んだ、そんなはずないだろ? ぬかりないんだよ、僕はっ!!」

 神棚から取ってきた饅頭は3個。ものすごく大きい奴だ。これだけあれば、大丈夫。柚があいつの妻になるのを辞めると言うまで帰るもんか、帰ってやるもんか。そうすれば、柚だってきっと思い直してくれるはずだっ!

 4歳だからって舐めるなよっ!! 負けないからなっ!!

 …ああ、柚。でも遅いなあ。いつもならすぐに来てくれるのに…そう言えば今日は南所でのお務めもあるって言っていた、もしかして僕を放って行っちゃったのかな? そんなのやだよ〜。

 ううん、僕も男だ。これくらいのことで負けるもんか。だいたい、柚の為なんだから。

 饅頭はぱさぱさしてあまりおいしくなかった。それでも僕はそれを必死で飲み下していった。



四幕・夕刻、居室の前で…雷史

 辺りはひんやりと夕闇が降りてきている。慌ただしい1日だった。ただですら遠征団の帰館で沸き立っていたのだ。それにもうひとつ、おめでたいことが重なってしまった。

「…ふう」
 雷史は気分転換に庭先まで出て、大きく伸びをした。今日はお務めも全く仕事にならずにざわついていたので、早々に引き上げた。何しろ自分の可愛がっていた使用人がふたりで夫婦になるという。その意外すぎる組み合わせに、自分も妻も朝から面食らってしまった。

 妻は可愛がっていた侍女の嫁入りだから、それなりの支度をしなければと躍起になっている。昨日まで身体の調子が悪くふせっていたというのに、それが仮病かと思うくらいに元気がいい。人間、やはり生活には「張り」が必要なのか? 

「でも…柚羽が余市となんて…まあ、仲の良いふたりだとは思っておりましたが。そう言う関係にはならないだろうと考えていたみたいですわ、わたくし…」

 雷史の居室には実家から持ってきた祭壇がある。ささやかな物ではあるが、名家の子息としてその様な物を居室に備えるのは当たり前のことなのだ。朝晩、きちんと清めの杯を捧げてお祈りする。そこを飾り付けながら、秋茜は戸惑いの色を隠せないでいるようだった。

 

 今でも覚えている。初めて妻の居室を訪れたとき、奥から出てきた童女のなりの柚羽を。肩の辺りで髪をふっつりと揃えたあどけないばかりの少女だった。

 妻が連れてきたただひとりの侍女。侍女をひとりきりしか置かないなんて、雷史の正妻としてはあまりにもみすぼらしいと思った。でも不器用ながらも必死で仕事をこなし、明るく気だてのいい娘はなかなか打ち解けることの出来なかった夫婦にとって貴重な存在だった。

 妻とはわけあって、なかなか心を通わせることが出来ない悲しい日々を送っていた。あの行き場のない葛藤の中、ヤケを起こしてしまうこともあった。

 そう、それに一度だけ。雷史は出来心を起こしたことがあったのだ。


 妻が実家に里帰りをしていたときだと思う。何だか人寂しくて、余市に酒の相手などさせながら、奥の居室でくつろいでいた。あれは息子がまだ小さい頃だったと思う。

「…酒はあっても、女がなくてはな。良い、余市、連れて参れ」

「…は?」
 余市は目を大きく見開くと、ぽかんと口を開けた。

 妻とこうして同じ居室で暮らすようになってからそれまでの女遊びが嘘のようになくなったことを余市は知っていたはずだ。何しろ自分の下男なのだ。その辺の女に気軽に手を出しては後の面倒なことは全て余市に任せていた。御領主の世継ぎであるから、女には不自由したこともない。侍女も領民もみな自分に刃向かうことなど出来なかったのだ。だから、余計行き場のない心でヤケになっていたと思う。

「あの…美祢様…ですか?」
 余市はかつての雷史の愛妾の名を口にした。そう言えばあの居室に戻らなくなって久しい。余市は食事の膳の世話などをしているらしいが、雷史自身はもう長いこと彼女の顔も見ていない。ふっと思い浮かべようとしたが、何だかうつろでぼやけていた。

「う…そうではない」
 雷史はふと思いついた。どうしてそれを今まで思いつかなかったのか、自分でも不思議だった。

「柚羽を連れて来い」

「は…!?」
 余市は言葉の意味が分かっているはずなのに、腰を上げることもせずに聞き返す。雷史はイライラしてきた。

「何をぐずぐずしているっ! あれは侍女だ、主人が侍女を好きにして何が悪いっ! 早く支度して参るように言え! あれだって、そのくらい心得ているはずだっ!!」

 そのとき。

 今思えば、余市の抵抗が異常だった気がする。いつもなら、自分の言うことに二つ返事で対応するのに、あの時ばかりは反応が鈍かった。それでも言いつけには従うしかないと分かっているのだろう。彼は一度、座を退くとややあって戻ってきた。柚羽の姿はなく、単身で。

「何をしているっ! お前は俺の言うことが聞けぬのかっ!?」

 真っ青な顔をしてひざまずく下男を思いきり罵倒していた。妻と心が通じ合わないその苛立ちをそのままぶつけているように。ぞんざいに扱ってもこの男は自分を見捨てたりしない。それが分かっていたから、いいようにしていた。

「……っ…」
 余市は俯いたまま、唇を震わせていた。そして全身を震わせながら、それでも次の言葉を口にする。

「あの…御主人様。柚は、今日は…月のさわりがあるそうですので…」

「何だと!?」
 押し出すようにやっとの思いで発した声を振り払う。

「真実なのか、確かめたのか? 良い、ここに連れてきて見ろっ! 俺がきちんと確認してやるっ、早くっ!!」

 余市はハッとして顔を上げた。蒼白になった頬が震える。でも彼はしっかりと雷史を見ていた。

「…それは…出来ませんっ…」

「誰に対して、ものを言うのかっ!! いい加減にしろっ!!」

 雷史はがばっと立ち上がると、いきなり余市を蹴り上げた。思い切り腹にそれが入り、彼は苦しそうにうずくまった。酒のせいで、抑えがきかない。別段、柚羽がどうしても欲しかったというわけではない。でも久々に生娘の味も恋しくなっていた。あんな何も知らない女子を抱くのも悪くない。それにこう盾をつかれるとさらに欲求が湧いてしまう。

 彼はそのまま男の脇をすり抜けようとした。

「お待ち下さいっ! なりません、雷史様っ…!!」
 余市がものすごい力で雷史の足を掴んだ。思わずよろめく。

「何をするっ! お前なんて俺に従っておればいい。勝手な真似をするでないっ!!」

「…雷史様っ!!」

 振り払おうとしても、どうしてかそれが出来ない。ここに来た頃はまだまだ貧相な少年、といった風貌だったこの男も数年で見違えるほど逞しくなった。今では雷史と身丈も同じくらいだ。剣ではまだまだ負けないが、実は弓を使うのは男の方が上手い。

「離せっ!!」
 なおも足を振り上げようとしたが、後ろからがしっとしがみつかれた。

「若様っ!! 柚はまだまだいたいけな年齢です。その様にお戯れはお辞め下さいっ!! お願いします…こう言うことは…きちんと時期が来てからに…」

 すすり泣く声にハッと我に返った。酒の力とは言え、何てことをしていたのだろう。急に自分が恥ずかしくなった。

「…良いっ! もう休むぞ。床の準備をしてくれっ!」
 うずくまる男の脇をすり抜け、元の場所にどかっと腰を下ろした。そして、杯に残っていた酒を一気に煽った。

 その後、余市はずっと俯いたままで、言いつけられた仕事をこなしていった。そんな姿を酒を飲みながら見守る。

 その日以来、二度と柚羽に対してどうこうする気持ちはなくなっていた。

 

 闇の中を明るい蒼の重ねが揺れている。歩く姿も凛々しい。本当にいい男になったものだ。今回の遠征でさらに風格が漂ってきた気がする。こちらに向かってくるかつての下男を、雷史は感慨深く見つめていた。

「お務め、ご苦労。大変だっただろう…」
 ぶっきらぼうにねぎらいの言葉をかける。

「…ただ今、戻りました。今朝は色々、申し訳ございませんでした」
自分よりも立派に見える男、しかし以前と変わらず礼を尽くしてくれる。有り難くも、気恥ずかしい気がする。

「手続きは一通り、済んだのか?」

 顔を上げた余市が少し赤くなる。

「…はい、御心配お掛けしました」

 竜王様の御館にお務めする使用人たち。単身者には寮が準備されている。柚羽は南所の中にある女子寮に、余市は御庭の先にある男子寮にそれぞれ住まっていた。しかし、夫婦の届けを出せばささやかながら居室を借りることが出来る。でもふたりが所帯を持つなんて、本当に不思議な気がする。

 でも、幸せになって欲しい。余市は、そして柚羽は自分たち夫婦を支えてくれた大切な者たちだ。ふたりがいなかったら、今の幸せもないかも知れない。

 

 寂しい瞳の少年だった。遊女小屋の呼び込みをしていた余市はまるで人生を捨てたような荒れた目をしていた。両親が早くになくなり、それなりの家だった生家を叔父の陰謀で追われてしまった。信じるものがない荒んだ心で。

 そして、それが鏡の中の自分を見ているように、雷史には思えたのだ。

 

「…雷史様っ!! 雷史様っ!! そちらにいらっしゃるんですか!?」

 冷たい土牢、穴を掘っただけの今にも崩れ落ちそうなところに、父親に投げ込まれた。少し頭を冷やせと言うことで。

 妻が、誰よりも愛する妻が、次期竜王候補であられる亜樹様の御子の乳母になるため都に上がるという。自分を捨てて。代わりに新しい妻が来るという。そんなことが許されることはない。自分の妻は秋茜だけだ。こんなに愛しているのに…!!

 でもそんな訴えも「大臣様のご息女をいただく」と浮かれている父の前では全く聞き入れられることはなかった。

 お互い泥だらけになってようやく牢から這い出る。汚れた顔を見て、共に吹き出した。

「雷史様、行かれるんでしょう? 都へ…ご一緒します」

「え…?」
 まさか、この男が一緒に来てくれるとは思ってなかった。この館で下男として暮らした方がどんなに楽か知れない。都では生活の保障すらないのだ。

「付いてきてくれるのか? 一緒に…」

「はい、どこまでもご一緒いたします」

 嬉しかった、あの一言が。家も捨て、地位も捨て、何もかもなくした人間になって、それでもまだ付いてきてくれるという。こんな嬉しいことはない。金でも名誉でも買えない大切なものを見つけたような気がした。

 

 …でも。

 雷史はくすっと喉の奥で笑った。余市が不思議そうな顔をしている。

 あの時に自分に付いてきてくれると言ったのは、やはり都に柚羽がいたからなのかも知れない。もしも柚羽が館に残っていたら、そうは言ってくれなかっただろう。でも、それでもいい気がする。今は皆が幸せだ。


「あの…柚は?」
 こちらにいると聞いてきたのだろう。出迎えもしない彼女を不思議に思っているらしい。

「ああ、春霖がな。森向こうに籠もったまま出て来ないので、迎えに行って貰ったんだ。まあ、安全であることは分かっているんだが…きっと他の誰が行っても無駄だろうからな。乳母の夫を見張りに頼んでいたんだ。柚羽が戻ってきたから、申しつけたところだ」

「…そう、ですか…」
 今朝の惨事を思い出したのか、余市がふうとため息を漏らす。その横顔を見ていたら、ひとつの考えが浮かんだ。

「…今度、お前とは酒を酌み交わしながら、とことん語り合ってみたいものだ」

 その言葉に目の前の男がふっと顔を崩す。

「はい、喜んで…」


 柚羽を寝所に召そうと思ったとき。

 彼がちゃんとそのことを本人に伝えたのか、それも謎である。その後の柚羽の態度が全く以前と変わらなかったことからもあれが余市の名芝居だったのではと思えてしまう。

 聞きたいことはたくさんある。その日が楽しみでならない。

 雷史は眩しい気分でもう一度天を仰いだ。


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