まったくも〜っ!! 何がどうなってるんだよ〜〜〜っ! 腹が立つったらない。男子たるもの、あまりイライラと当たり散らすような軽々しい真似はするもんじゃないと、母上がいつも仰るけどっ!! 今日はいいと思う。これくらい、とうぜんだよなっ! 「若様っ! お痛はおやめ下さいましっ!」 「ぎゃあっ! うるさいっ!」 力で押さえつけられてしまったら、おしまいだ。するりと身をかわして、なおも伸びてくる腕をかぷっと噛んでやった。 「ひっ…!」 「若さまっ!!」
夜明けに、乳母の住んでいる離れの戸を叩く音がした。昨日も母上が具合悪いと仰って、父上は僕と雪を乳母に預けた。本当は柚に来て欲しかったけど、どうも柚は昨日の朝から具合が良くないらしい。どうしたんだろう? 夏の暑さでやられたのだろうか…心配だ。 「若様は、いい子でお休みになられますよね…?」 どうしたらいつまでもこうして柚と一緒にいられるだろう。その答えは案外簡単なところにあった。
「…あなたにもそろそろ…良き伴侶を見つけてあげなくてはね」 僕は天が崩れて落ちてくるかも知れないくらいびっくりした。だってそうだろ? 柚がどこかの男の妻になると言うことは、どこかへ行ってしまうかも知れないと言うことだ。柚の田舎は西南のお祖父様の家よりずっとずっと山奥にある。もしもそんなところに行ってしまったら、そう簡単には会えなくなってしまうじゃないか。 あ、そうか。 その時、ぽろんと何かが剥がれるように目の前がすっきりした。急に視界がはっきりして、清々しい気分。僕は元気良く叫んだ。 「駄目だい!! 母上〜柚は僕がお嫁さんに貰うの!! 誰にもあげちゃ駄目〜〜〜!!」 「…あら、まあ…」 「好かれてしまったわねえ…柚羽。それでは春霖も候補に入れなくてはね…」 候補じゃないやい、本当になるんだいっ! そう言いながら、柚の方を見る。柚は僕が想像したとおりの恥ずかしそうな、幸せそうな笑顔になっていた。 「…はい」 柚を僕の妻にする。西南のお祖父様のように若き日の父上のように、側女をたくさん囲って悲しませたりしない。柚だけをたくさんたくさん愛するんだ。出世して偉くなって、お祖父様よりも大きな御館を建てて、そこで柚は何不自由なく暮らすんだ。もちろん、使用人だってたくさんいる。柚は面倒なこと何もしなくていい。ただ僕のお世話だけしてればいいんだ。 今はまだ子供だけど、すぐに大きくなれると思う。もう柚の胸の辺りに頭のてっぺんが来る。背伸びをしなくても柚の顔が分かるんだ。柚はこの数年、少しも上背が伸びた感じがしない、むしろ縮んでいるような感じすらする。縮んでくれたっていい、その方が早く追いつく。 「柚っ! 柚は僕の妻になるんだよね? どこにも行かないんだよね!?」 「う〜ん、若様…」 「でも、柚は若様が大人になられる頃にはもうおばあちゃんになってしまいますわ…それでは申し訳ございませんし…」 その言葉を聞いていた乳母がぶっと吹き出した。何だ下品な奴っ! 失礼だ。 でも、でも。柚もどうしてそんなことを言うんだ。年の差なんて心配しているのか? だったら父上だって母上とは年がかなり違うぞ。母上の方がずっとお姉さんだ。でも夫婦じゃないか。 「駄目だいっ! 柚は僕の妻になるんだから。しわくちゃのおばあさんになっても柚のこと大切にするよ? 捨てたりしないよ? だから、いいだろ?」 「まああ…」 「そんなで宜しいのですか? 本気にしちゃいますよ?」 「もちろんだいっ!!」 柚は僕を思い切り抱きしめると、くすくすと笑った。その微かな振動が心地良かった。
それなのに、それなのに。まだ早い時間に乳母の離れの前に現れた柚はとんでもない奴と一緒だった。柚が来てくれたのは嬉しかったけど、そいつの顔を見た途端、僕はご機嫌が悪くなっていた。 「何だよ〜、お前は向こうに行ってろっ! なあ、柚、来てくれたんなら、もうちょっと寝ようよ。まだ夜も明けきらないよ。身体が冷たいから、僕があっためてあげる!!」 顔を見ると気分が悪くなるから、思い切り無視して柚の手を引いた。なのに、いつもなら僕の言うことを聞いてくれる柚が今朝に限って動かない。見上げると、困ったように微笑んでいた。 「若様。柚は御主人様とお方様に大切なお話がございますの。今日は申し訳ございませんが…お許し下さいまし」 「えええっ!? 何だよ〜どういうことだよ〜っ!」 今朝はどうなんているんだ? あのいけ好かない男は来るし、柚は言うこと聞かないし。あいつは…と言うと、慌てて起きてきた乳母とその夫と少し離れたところで何やらこそこそ話している。その途中で、乳母が「んまあっ!」と下品な声を上げた。 「若様、春霖様。お離し下さいませ。私はこれから、奥の寝所まで行って、御主人様とお方様をお起こしして参りますから…」 「やだいっ! やだいっ!!」 「あ〜、柚だ〜柚っ!!」 「おはよう、柚。遊ぼう〜!!」 皆も朝から柚を見て、すごく嬉しそうにしている。みんな柚が大好きだ。でも柚は僕のもの。僕はみんなの進路を遮るように立ちはだかった。 「何だよっ! お前たち、うるさいぞっ!! 大人しく向こうに行ってろっ!!」 「若様っ!! お痛はいけませんっ! 雪茜様が…」 「柚っ! 柚っ…!! 柚は僕と遊ぶのっ! 他の奴の相手なんかするなっ!」 「な〜にを、わがまま仰ってるんです? いい加減になさいっ!」 ぐいっと。後ろから抱え込まれ、引き剥がされてしまった。身体が大きくたっぷりと肉の付いた乳母が力づくの行動に出たのだ。 「うぎゃああっ!! 柚ぅ〜〜〜〜〜っ!!」 「柚羽様、今のうちに御主人様方を…」 「も、申し訳ございません。お願いいたしますっ!!」 「…春霖様」 その時。今まで僕には近寄って来なかったあいつがすっと歩み寄る。そして、ものすごい力で僕の手を掴んで、柚の重ねをほどいた。 「柚、ここは任せて。早く行っておいで…」 「何だよ〜、お前なんかっ!! 元はと言えば父上の下男じゃないかっ!! 僕にこんなこと出来る身分じゃないんだぞっ! …生意気だあっ!!」 僕は自分でも信じられないほどの力で乳母の太い腕を振りほどくと、そいつに飛びついた。そして思い切り腕を伸ばしてかがみ込んできた頬に、がりりと爪を立ててやった。 「どうだいっ! 思い知ったか!?」 どうするかな、と思った。奴は黙ったまま、しばらく立ち尽くしている。こちらを見て。 やがて、ふっと口元がほころぶ。大きな手のひらが頬の傷を確認し、それから乱れた髪や衣をささっと直した。 「お気がお済みになりましたか? 若様…」 「…なっ!!」 信じられない奴っ!! ど〜なんてんだよっ! 何、格好付けてるんだっ! 「生意気だ〜〜〜っ! お前なんかここに来るなっ! 帰れっ!!」 思い切り牽制したのに、元通り姿勢を正してしまった奴の顔がとても遠く感じられる。渾身の一撃のみみず腫れも遠目に見ると大したこと無い。すごく腹が立つ。 「御用が済むまでは、戻れませんね。若様こそ、もしも私が目障りでしたら、奥のお部屋にでもいらしていてください」 「何だと〜〜〜!?」 それなのに、僕の攻撃はまたも乳母によって制される。ああ、腹立つっ!! 腹立つっ!!! 「若様〜〜〜、あまりお痛がひどかったら、お灸にしますよ。お尻にやりますか…?」 僕は最高に腹が立っていた。父上が起きられたら、言いつけてやる。言いつけて乳母とこの男を処分して貰うんだっ!! そう思いながら、なおもばたばたと手足を動かす僕に、乳母が何と信じられないことを言ったのだ。 「若様、本日はおめでたき日なれば、少しはいい子になさってくださいましっ! こちらの余市様と柚羽様が夫婦(めおと)になるご報告にいらっしゃったんですから…」
もうっ! もうっ! ど〜してそう言うことになるんだよっ!! この先は深い崖になっている。結界の外れで気も薄い。近寄ると柚が心配して探しに来る。乳母では通れない様な茂みでも柚ならどこまでも付いてきてくれる。 それなのに、それなのにっ…!! 柚は僕の妻になると約束したじゃないかっ! 母上だってひどい、僕が先に言ったのに、どうしてあいつのことを認めるんだっ!! 反対してくれたっていいじゃないか。 柚も柚だ、よりによってあんな奴っ!! あのふてぶてしい態度、涼しげな瞳。腹立つっ!! ああ言う押さえつけるような態度で柚に無理矢理迫ったんだな? 柚は断り切れなくて、仕方なく奴に従ったんだ。そうに決まってる、だって、柚だって僕の妻になりたかったのだからっ!! 大体あいつは最初から気に入らなかった。西南のお祖父様のお屋敷にいた頃から、腹が立つことが多くて。僕が柚と遊んでいるとやってきて、柚をどこかに連れて行ってしまうんだ。そうか、その頃から柚を狙っていたんだな。下男の分際で侍女に想いを寄せるなんて重罪なのに。ああ、あの頃、お祖父様に申し上げていれば、こんなことには…。 「うわ〜んっ!! 柚ぅ…!!」 ああ、柚。 もしかして、身分の差を気にしたのかな? 柚は侍女、僕は西南の大臣家の重臣の家の直系。父上は一度は勘当されたが、ここに来て竜王様の覚えもめでたくご出世なさるので、ゆくゆくは跡目に、と言われている。そうなれば将来は息子である僕もあのお屋敷の御館様になれる。 ああ、柚。きっと今に泣きながら父上の居室にやってくるんだ。あんな男とは暮らせないって。そうなることは分かっているのに、分かり切っているのに、身分のせいで僕から身を引こうとするなんてっ!! 辺りの気がじんわりしてくる。夏の日は西南よりもずっと涼しいこの土地でもやはり訪れる。僕は重ねの袂から饅頭を取りだした。 「…腹が空けば帰ってくると思ってるんだろ? ふ〜んだ、そんなはずないだろ? ぬかりないんだよ、僕はっ!!」 神棚から取ってきた饅頭は3個。ものすごく大きい奴だ。これだけあれば、大丈夫。柚があいつの妻になるのを辞めると言うまで帰るもんか、帰ってやるもんか。そうすれば、柚だってきっと思い直してくれるはずだっ! 4歳だからって舐めるなよっ!! 負けないからなっ!! …ああ、柚。でも遅いなあ。いつもならすぐに来てくれるのに…そう言えば今日は南所でのお務めもあるって言っていた、もしかして僕を放って行っちゃったのかな? そんなのやだよ〜。 ううん、僕も男だ。これくらいのことで負けるもんか。だいたい、柚の為なんだから。 饅頭はぱさぱさしてあまりおいしくなかった。それでも僕はそれを必死で飲み下していった。
辺りはひんやりと夕闇が降りてきている。慌ただしい1日だった。ただですら遠征団の帰館で沸き立っていたのだ。それにもうひとつ、おめでたいことが重なってしまった。 「…ふう」 妻は可愛がっていた侍女の嫁入りだから、それなりの支度をしなければと躍起になっている。昨日まで身体の調子が悪くふせっていたというのに、それが仮病かと思うくらいに元気がいい。人間、やはり生活には「張り」が必要なのか? 「でも…柚羽が余市となんて…まあ、仲の良いふたりだとは思っておりましたが。そう言う関係にはならないだろうと考えていたみたいですわ、わたくし…」 雷史の居室には実家から持ってきた祭壇がある。ささやかな物ではあるが、名家の子息としてその様な物を居室に備えるのは当たり前のことなのだ。朝晩、きちんと清めの杯を捧げてお祈りする。そこを飾り付けながら、秋茜は戸惑いの色を隠せないでいるようだった。
今でも覚えている。初めて妻の居室を訪れたとき、奥から出てきた童女のなりの柚羽を。肩の辺りで髪をふっつりと揃えたあどけないばかりの少女だった。 妻が連れてきたただひとりの侍女。侍女をひとりきりしか置かないなんて、雷史の正妻としてはあまりにもみすぼらしいと思った。でも不器用ながらも必死で仕事をこなし、明るく気だてのいい娘はなかなか打ち解けることの出来なかった夫婦にとって貴重な存在だった。 妻とはわけあって、なかなか心を通わせることが出来ない悲しい日々を送っていた。あの行き場のない葛藤の中、ヤケを起こしてしまうこともあった。 そう、それに一度だけ。雷史は出来心を起こしたことがあったのだ。
「…酒はあっても、女がなくてはな。良い、余市、連れて参れ」 「…は?」 妻とこうして同じ居室で暮らすようになってからそれまでの女遊びが嘘のようになくなったことを余市は知っていたはずだ。何しろ自分の下男なのだ。その辺の女に気軽に手を出しては後の面倒なことは全て余市に任せていた。御領主の世継ぎであるから、女には不自由したこともない。侍女も領民もみな自分に刃向かうことなど出来なかったのだ。だから、余計行き場のない心でヤケになっていたと思う。 「あの…美祢様…ですか?」 「う…そうではない」 「柚羽を連れて来い」 「は…!?」 「何をぐずぐずしているっ! あれは侍女だ、主人が侍女を好きにして何が悪いっ! 早く支度して参るように言え! あれだって、そのくらい心得ているはずだっ!!」 そのとき。 今思えば、余市の抵抗が異常だった気がする。いつもなら、自分の言うことに二つ返事で対応するのに、あの時ばかりは反応が鈍かった。それでも言いつけには従うしかないと分かっているのだろう。彼は一度、座を退くとややあって戻ってきた。柚羽の姿はなく、単身で。 「何をしているっ! お前は俺の言うことが聞けぬのかっ!?」 真っ青な顔をしてひざまずく下男を思いきり罵倒していた。妻と心が通じ合わないその苛立ちをそのままぶつけているように。ぞんざいに扱ってもこの男は自分を見捨てたりしない。それが分かっていたから、いいようにしていた。 「……っ…」 「あの…御主人様。柚は、今日は…月のさわりがあるそうですので…」 「何だと!?」 「真実なのか、確かめたのか? 良い、ここに連れてきて見ろっ! 俺がきちんと確認してやるっ、早くっ!!」 余市はハッとして顔を上げた。蒼白になった頬が震える。でも彼はしっかりと雷史を見ていた。 「…それは…出来ませんっ…」 「誰に対して、ものを言うのかっ!! いい加減にしろっ!!」 雷史はがばっと立ち上がると、いきなり余市を蹴り上げた。思い切り腹にそれが入り、彼は苦しそうにうずくまった。酒のせいで、抑えがきかない。別段、柚羽がどうしても欲しかったというわけではない。でも久々に生娘の味も恋しくなっていた。あんな何も知らない女子を抱くのも悪くない。それにこう盾をつかれるとさらに欲求が湧いてしまう。 彼はそのまま男の脇をすり抜けようとした。 「お待ち下さいっ! なりません、雷史様っ…!!」 「何をするっ! お前なんて俺に従っておればいい。勝手な真似をするでないっ!!」 「…雷史様っ!!」 振り払おうとしても、どうしてかそれが出来ない。ここに来た頃はまだまだ貧相な少年、といった風貌だったこの男も数年で見違えるほど逞しくなった。今では雷史と身丈も同じくらいだ。剣ではまだまだ負けないが、実は弓を使うのは男の方が上手い。 「離せっ!!」 「若様っ!! 柚はまだまだいたいけな年齢です。その様にお戯れはお辞め下さいっ!! お願いします…こう言うことは…きちんと時期が来てからに…」 すすり泣く声にハッと我に返った。酒の力とは言え、何てことをしていたのだろう。急に自分が恥ずかしくなった。 「…良いっ! もう休むぞ。床の準備をしてくれっ!」 その後、余市はずっと俯いたままで、言いつけられた仕事をこなしていった。そんな姿を酒を飲みながら見守る。 その日以来、二度と柚羽に対してどうこうする気持ちはなくなっていた。
闇の中を明るい蒼の重ねが揺れている。歩く姿も凛々しい。本当にいい男になったものだ。今回の遠征でさらに風格が漂ってきた気がする。こちらに向かってくるかつての下男を、雷史は感慨深く見つめていた。 「お務め、ご苦労。大変だっただろう…」 「…ただ今、戻りました。今朝は色々、申し訳ございませんでした」 「手続きは一通り、済んだのか?」 顔を上げた余市が少し赤くなる。 「…はい、御心配お掛けしました」 竜王様の御館にお務めする使用人たち。単身者には寮が準備されている。柚羽は南所の中にある女子寮に、余市は御庭の先にある男子寮にそれぞれ住まっていた。しかし、夫婦の届けを出せばささやかながら居室を借りることが出来る。でもふたりが所帯を持つなんて、本当に不思議な気がする。 でも、幸せになって欲しい。余市は、そして柚羽は自分たち夫婦を支えてくれた大切な者たちだ。ふたりがいなかったら、今の幸せもないかも知れない。
寂しい瞳の少年だった。遊女小屋の呼び込みをしていた余市はまるで人生を捨てたような荒れた目をしていた。両親が早くになくなり、それなりの家だった生家を叔父の陰謀で追われてしまった。信じるものがない荒んだ心で。 そして、それが鏡の中の自分を見ているように、雷史には思えたのだ。
「…雷史様っ!! 雷史様っ!! そちらにいらっしゃるんですか!?」 冷たい土牢、穴を掘っただけの今にも崩れ落ちそうなところに、父親に投げ込まれた。少し頭を冷やせと言うことで。 妻が、誰よりも愛する妻が、次期竜王候補であられる亜樹様の御子の乳母になるため都に上がるという。自分を捨てて。代わりに新しい妻が来るという。そんなことが許されることはない。自分の妻は秋茜だけだ。こんなに愛しているのに…!! でもそんな訴えも「大臣様のご息女をいただく」と浮かれている父の前では全く聞き入れられることはなかった。 お互い泥だらけになってようやく牢から這い出る。汚れた顔を見て、共に吹き出した。 「雷史様、行かれるんでしょう? 都へ…ご一緒します」 「え…?」 「付いてきてくれるのか? 一緒に…」 「はい、どこまでもご一緒いたします」 嬉しかった、あの一言が。家も捨て、地位も捨て、何もかもなくした人間になって、それでもまだ付いてきてくれるという。こんな嬉しいことはない。金でも名誉でも買えない大切なものを見つけたような気がした。
…でも。 雷史はくすっと喉の奥で笑った。余市が不思議そうな顔をしている。 あの時に自分に付いてきてくれると言ったのは、やはり都に柚羽がいたからなのかも知れない。もしも柚羽が館に残っていたら、そうは言ってくれなかっただろう。でも、それでもいい気がする。今は皆が幸せだ。
「ああ、春霖がな。森向こうに籠もったまま出て来ないので、迎えに行って貰ったんだ。まあ、安全であることは分かっているんだが…きっと他の誰が行っても無駄だろうからな。乳母の夫を見張りに頼んでいたんだ。柚羽が戻ってきたから、申しつけたところだ」 「…そう、ですか…」 「…今度、お前とは酒を酌み交わしながら、とことん語り合ってみたいものだ」 その言葉に目の前の男がふっと顔を崩す。 「はい、喜んで…」
彼がちゃんとそのことを本人に伝えたのか、それも謎である。その後の柚羽の態度が全く以前と変わらなかったことからもあれが余市の名芝居だったのではと思えてしまう。 聞きたいことはたくさんある。その日が楽しみでならない。 雷史は眩しい気分でもう一度天を仰いだ。
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