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…番外『雷史一家の一番長い日』・3…

 

終幕・夕刻、場末の森で…柚羽

 

 余市が戻ってきた。これからは、ずっと一緒にいられるという。待ち望んでいた現実が重くてなかなか心の中に染み入っていかない。

 

 柚羽は背の高い草をかき分けながら、ふうっと深い息を吐いた。夏の盛りの森は全てが雄々しく沸き立っている。場末の森は王族の方が踏み入れることのない場所であり、結界を強固なものにするためにもあまり人の手が加えられていなかった。青々と生い茂ったものが生命の息吹を感じさせる。結界の外れなのに少しも息苦しくない。
 自分の頬に赤々とした光が当たる。もう夕暮れだ。

 今日も昨日に続いてあまりにもめまぐるしい1日だった。夕まぐれにこんなに疲れが溜まるなんて、柚羽にとっては珍しいことだ。宿直のお務めも難なくこなしてしまうのが自慢だったのに。

 

「すぐに、表の侍従長様に申し上げて許可を頂くから。早い者勝ちだろうからね、柚も暇を見て荷物をまとめておいて」
 朝、雷史様の居室を退出したときに余市が言った。あんまりにもあっさりと、当たり前のことみたいに。

「…え? でも居室を頂くのはまさかすぐに、と言うわけには行かないでしょう? 空いているところがあるかどうかも…」

 10日くらいはかかるかと思った。余市がどうしてこんなに急ぐのかも分からない。大きく目を見開いた柚羽に余市が照れた笑顔で応える。

「もう、離れて眠ることなんて出来ないよ? 出来ることなら、今日だって一日中、柚と一緒にいたいのに」

 思わず、ぼぼっと頬が熱くなる。やだ、何てこと言い出すの!? 心臓の鼓動がばくばくと速くなる。そこに伸びてきた長い指が触れる。ひんやりとして気持ちいい。

「春の配置換えで里に戻った人たちの分が空いてるはずだから。上手くいけば今日中にどうにかなると思うよ? 柚も俺もお務めの合間に全てやらなくちゃならないんだ。柚はそんなに急には休みを取れないだろ? それに休暇はまとめて頂いて、柚の里にもご挨拶に伺わないとね…」

「あ…」
 柚羽にとっては意外な、思ってもみない言葉だった。記憶の底に沈めておいたふるさとの情景が浮かび上がる。秋茜様のご懐妊で今年も去年も…ずっと戻っていなかった。たまに文のやりとりはあるが、柚羽にとって里はあまりに遠い地だった。

「里に…行けるの? 私…」

「当たり前でしょう? 柚と俺のこと、ちゃんとご報告しないと。もしも、お許しもなく妻に頂いたこと、お父上に叱られたらどうしようか」
 胸が詰まって満足に言葉も出ない柚羽を気遣うように、余市が明るく言う。軽い笑い声を上げて。

「う…それはないと思うわ」

 里にいた頃から、何もかもに不器用でのろのろしている柚羽を家族たちはいつも心配していた。この子は年頃になっても嫁の貰い手がないんじゃないか、と。姉や妹たちと一緒に料理や縫い物を習っても、ひとりだけ上手くいかないのだ。
 こんな素敵な夫をいきなり連れていったら、みんなどんなに驚くだろう。お嫁に行った姉上だって、お里帰りして来ちゃうかも知れない。

 そう思ったら、くすりと笑みがこぼれた。

「俺には家族がいないから――」
 余市が少し遠くを見て、静かに言う。

「柚の家族に会うのが楽しみなんだ。柚を育ててくれたご両親に、ありがとうって言わないとね…」

「余市…」
 鼻の奥がツンとする。胸を締め付ける正体の分からない感情がある。それがずしりと重い。

 まとまらない気持ちのまま見上げると、そのまま周りから包み込まれるように抱きすくめられた。余市の長い腕が自分の身体に絡みつく。びっしりと蔓草をまとった樹のようだ。身動きの取れない幸福、と言うものがあるのかも知れない。

「柚…あったかい。本当に嬉しいよ、柚が傍にいてくれて。これからはずっとずっと、一緒だからね」
 余市の言葉は柚羽に言っているというよりも、自分自身の胸に言い聞かせているように思えた。

 

「あ…」
 がさがさ、と音を立てながら進んでいくと、遠目に人影が見えた。樹の影に立っているその人は柚羽の探している人ではない。あちらも柚羽に気付いて、こちらに近付いてくる。「しっ」と口に指を当てながら。

「あの向こうにいらっしゃいます。とうとう疲れてお休みになられたみたいですよ?」

「そうですか」
 乳母の夫は小声で柚羽に告げる。それに短く答えた。

 おへそを曲げて森に入り込んでしまった春霖様。とうとう一日中お戻りもならなかったと聞いて、驚いた。朝、心配ではあったけど、いつも通りにお務めがあるので引き上げてしまったのだ。小さな子供を危険な場所におひとりで置くわけにも行かず、かといって誰が何と言っても動かない。とうとう乳母の夫が一日中、気付かれないように番をしていたという。

「後はお願いして宜しいでしょうか? 私は仕事がありますので…」
 乳母の夫は秋茜様がこちらに上がられるのと一緒に西南の里から都に上がった。今では雷史様の居室の使用人として薪割りから修繕まで何でもこなす。寡黙であるが、とても誠実で働き者だ。

 柚羽がにっこり笑って頷くと、彼は足早に引き上げていった。今日1日、色々と仕事はあっただろうに…全く困った若様だ。それでもお小さいながら、こんな風に自分に対して想いを寄せてくださるのはやはり嬉しい。自然に顔がほころんでしまう。

「…春霖様…?」
 影から覗くと、春霖は樹にもたれかかって寝息を立てていた。その上に乳母の夫が掛けてくれたのだろう、重ねが置かれている。結界のフチは夏とはいえ夕暮れになると気が冷たい。柚羽はそっと前に回ると、お顔がよく見えるようにしゃがんだ。

「全く、困った御方ですこと…」
 どこから持ち出したのか、饅頭の食べかすがその辺に散乱している。いくつ召し上がったのだろう、最後は飽きてしまったのか、中の餡だけ指でほじってあった。お口元にもあんこがべったりとこびりついている。

「春霖様、おっきしてくださいませ? もう夕餉の時間になります…」
 そっと手を添えて揺り起こすが、だいぶ良く休まれているらしく、うんともすんとも言わない。勢いよく揺すったら、力の入っていない身体がぐらりと傾いた。

「あ、危ないっ!」
 慌てて抱きとめる。柚羽の胸に顔を埋めた春霖がうん、と呻いた。

「柚ぅ〜…」

 お目覚めになられたのかな? と一瞬思ったが、すぐに寝息に戻る。柚羽はその体勢のままで、くすくす笑った。

 やっぱり、お可愛らしい。お生まれになったときからずっとご一緒させて頂いていた。あまり奥の居室から出られない秋茜様に代わって、雷史様のお父上である御館様の敷地内を散策したり、花を摘んだり。髪の色も長いまつげもやはり雷史様によく似ていらっしゃる。

 雷史様もこんなお子様だったのかな? と思う日もある。何しろ柚羽にとって、雷史様は初恋の人だ。畏れ多いことであるが、本当に眩しいくらいに憧れていた。妻になれる身分ではない、でも一夜の御相手でもさせていただけたらと思ったこともある。それが叶えられることは、ついになかったけど…。

『柚は、僕の妻になるんだよね?』
 春霖がそう言って、膝の上で見上げてくると、何とも言えない気持ちになった。こんなこと知れたら、余市は気を悪くするだろうか? 甘酸っぱくて切ない、形容のし難い感情。柚羽は小さな身体をきゅうっと抱きしめた。

 

「あー、何だか危ない感じ…」
 がさがさ、と目の前の草が左右に分かれて、蒼の重ねをまとった青年が現れる。そのままこちらに歩み寄って、隣りに腰を下ろした。

「あーあ。本当にお休みになっていらっしゃれば、お可愛らしいんだけどなあ…」
 そう言いながら、余市は柚羽の抱いている春霖の頬をつつく。眠りの中でも天敵の存在を察するのか、彼はぴくんと眉をひそめた。

「…余市、ほっぺ、傷が残ってる…」

 柚羽の声に、余市が自分の頬に手をやる。朝、春霖に思い切りかじられた後だ。子供の力だが、顔なので少し目立つ。

「名誉の負傷と言ってくれよ? 俺、身体を張って、柚を守ったのだから」

「まあ」
 柚羽は楽しくて、首をすくめて笑った。

「余市は春霖様と張り合わなくてもいいのに…何だかムキになって、おかしいわ」

「張り合いたくもなるよ、コイツ、男の顔してるもの。はっきりさせておかないと、将来、柚を寝取られるかも知れない…」
 そう言いつつも、余裕の微笑みで寝顔を見つめるのは、夫となった余裕なのだろうか?

「柚…そんなことになっても、出来心を持つなよ? 分かっているんだろうなあ…」

「もう、何を言ってるのよ?」

 そう言いながら余市の方を向くと、あまりに近くに顔があってどきんとする。そのまま、頬に指が添えられる。春霖を抱いたままで両手が自由にならない。されるがままに余市の行為を受け入れて、瞳を閉じた。

「…柚、お方様が宴の準備が出来たから戻ってきなさいって。俺、春霖様、運ぶから…」
 唇を離すと、とろけそうな笑顔でそう言う。あんまり自然に行われていく行為に、また頬が熱くなった。

 

「瑠璃様、赤さまがいるんだって」
 春霖をおぶった余市の隣りを歩きながら、柚羽は思いついたように言った。

「もう、びっくりしたわ。…実は、赤さまのことは薄々、そうかなとか思っていたのよね。瑠璃様はお上手にお隠しになったおつもりだったらしいけど…絶対、そんな感じだったもの。でも――…」

 若姫様の乳母である多奈様に事情を説明して、お務めを早めに上がらせて頂いた。そして、寮の部屋に戻って辺りを片付けていると、瑠璃がやってくる。その時、初めて聞かされた話に腰が抜けるくらい驚いてしまった。

「まさか、瑠璃様の御相手が満鹿様だったなんて。余市は知ってた? …もう、瑠璃様ってば、びっくりしちゃった」

「う〜ん、俺も御相手が瑠璃さんだってことは知らなかったけど。満鹿に想い人がいるんだろうなってことは何となく…」

「ふうん…」
 柚羽は小さくひとつ息を吐いた。

「…大丈夫なのかなあ、お家の方は…」

 瑠璃の実家は北の集落の一族のひとつだ。分家筋ではあるが、産まれたときから長の家に嫁ぐことが決まっていたという。瑠璃には選択の余地がなかった。それを哀れだと思うことも、反対に羨ましく思うこともあった。嫁ぐ相手が最初から決まっていれば、相手の気持ちを量りかねて思い悩むこともなかっただろう。
 柚羽が言うのも何だが、満鹿という男は何とも心許ない気がする。あの瑠璃が本気で惚れる相手だとは思えない。それなのに、瑠璃は家も一族もみんな捨ててでも、彼と共に生きる道を選んだのだ。そう言う煩わしいこととは無縁の柚羽でも、その決意がどれほど重いものであったかは察することは出来る。
 妊娠したのなら、婚約者の子だと思っていた。婚礼の前にそう言うことになってもそれほど驚くことでもない。瑠璃は多産の家系であることを見込まれて、後妻にはいるのだ。子は早いに越したことはない。

「大変でも何でも。頑張るんでしょう? そうじゃなかったら、男じゃないと思うし、満鹿も」
 余市は何ともない感じで言う。背中の春霖を揺り上げながら。それから微笑んで柚羽を見る。

「居室、隣りなんだって。これからも仲良くできるよ?」

「へえ…」
 何とも言えない感じ。正直、瑠璃と過ごした部屋を出るのはちょっと寂しかった。居室には余市がいるけど、柚羽は瑠璃のことも大好きだったから。

「俺が届けを出したら、満鹿もすぐに真似してさ。何だか恨まれてでもいるみたいだよ。俺、別に心当たりもないんだけど…」

 ちょっと唇を尖らせて。そんな横顔が愛おしい。

 こんな風に会話しながら、ずっと歩いていくなんて、何だかとても不思議な気がする。そして、ふたりの歩き付く場所が同じなのだ。これからはずっとずっと一緒にいるんだ。余市の行くところが柚羽の行く場所になる。柚羽が余市の帰り着く場所になる。

「あ〜、宴なんか、さっさと終えて。早く居室に戻りたいなあ…」

 足元を確かめながら、余市がポツリとそう呟いたとき。

 背中に眠る人が、突然、むくっと起きあがった。

「駄目だいっ! 柚は、僕が妻に貰うんだからっ!!」

 大きな声にびっくりしてふたりは顔を見合わせた。でも、次の瞬間、ぱったんとまた、背中に張り付いて寝息を立てる。思わず、どちらからともなく吹き出していた。

「あ〜、何だか波乱の予感…」

 余市が首をすくめてこちらを見る。柚羽は小首を傾げて応えると、その人の胸にそっと寄り添った。

「…柚?」
 春霖をおぶっているから両手の自由にならない余市が、ちょっと驚いた顔で立ち止まる。

「……よ?」
 小さく呟く。胸に顔を押しつけると、余市の匂いがする。ふんわりと辺りを満たしていく温かいもの。

 これからが、始まりなのだ。最初はふたり分のささやかなぬくもりで。お互いにお互いしかいなくて。そこから長い時間が流れ出す。その瞬間に立っている自分。足元の気泡が昇っていくように、全て全てが天に昇っていくように。新しい心が湧き出てくる。

「え? 何? …聞こえないよ?」
 余市が身をかがめて柚羽の顔を覗き込む。いつもながら、苦しい身長差だ。柚羽も余市の重ねの襟元を掴んで、必死で背伸びした。

「幸せよ、余市。何だか、とっても、幸せ」
 ささやくように告げると、余市の顔がほころぶ。短く唇を合わせた。

「…ドキドキする」
 余市の声が耳元を揺らす。え? と首を振った。

「柚が、どんどん綺麗になる。遠征にたつ前よりも、ずっとずっと綺麗になった。どこまで綺麗になるんだろう、想像が付かないよ?」

 …もう、と思う。私、そんなに綺麗じゃないのに。それでも余市にそう言われると、だんだん本当の様な気がしてくる。余市のために、もっともっと素敵になりたいな。いつまでもこんな風にいられるように。

「…私を、綺麗にするのは余市だよ?」
 そう思ったから、本当にそうだと思うから言ったのに。余市は急に真っ赤になる。どうしたんだろう…。

「う、そんなこと言って…」
 意味ありげに微笑む。手が使えないから、軽く身体を脇に当ててくる。

「そんなこと言うと、今夜は眠れなくなるよ? 覚悟して?」

「えっ…」
 思わず言葉を飲んでしまった。こちらまで赤くなっちゃうじゃないの。

「そ、そんなつもりじゃないもんっ!! もう、どうしてそう言うことばっかり考えるのっ!」

「え〜?」
 余市がくすくすと笑う。

「じゃあ、しないの? 今夜はやめる?」

 そんな顔して見つめないでよ。心臓が飛び出して来ちゃうじゃないの。私が何て答えるか、楽しんでいるんでしょう? もう、嫌だわ。

 上目遣いに見つめると、余市がまだ笑っていた。


 暮れかけた視界の向こうにちらちらと灯りが見える。雷史様の居室の灯り。そこで秋茜様が婚礼の儀の準備をして下さっているはずだ。こんな風にかたち取られる幸せ。大切にしなくちゃなと思う。

 どんな未来が待っているかは分からない。でも頑張らなくちゃ。せっかく、手に入れたものなんだから。

 柚羽はすっと前に出て、足を速めた。後ろから付いてきてくれる足音を背中で感じながら。その音をこの上なく愛おしく感じながら。

おしまい (20021129)



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追記>>「てのひら」と「氷華」合同の「らぶえっちキャラへの質問」があります♪ 多少、本編のシリアスタッチが崩れてもいいやと思う方は、どうぞお楽しみくださいね!

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