天を染め上げる月明かりが、ひときわ目映い夜であった。
余市はうつむいたまま、足下に長く伸びた自分の影を忌々しげに見つめる。これ以上、歩みを続けることも煩わしくてならなかった。
しかし、彼は進まなければならない。何故なら、それが「お役目」であるから。
火の一族のお屋敷、その敷地を入って程なくの場所にゆったりと建てられた本館。その大広間では寝の刻を遙かに過ぎた今もなお、賑やかな酒宴が続いていた。
笑う声、歌い騒ぐ声、歩き回るいくつもの足音。そして顔を真っ赤にした男たちの脇をすり抜けてゆく侍女たちの朱色の袴――その全てが、彼の目には安っぽく空虚なものに見えている。
――そんな風に浮かれていられるのも今のうちだよ。
千鳥足のまま縁まで出てきた男が、うっかり足を滑らせて庭に転げ落ちている。その間抜けな姿を、少し離れた植え込みの側からひどく冷めた気持ちで眺めていた。
余市はそのとき、ひどく苛立っていた。
つい先ほど、この屋敷の主である御領主様にこっぴどく叱られたばかりなのである。大勢の客人の前でひとことの言葉を返すことも許されず、ただひれ伏すばかりの情けなさであった。
もちろん、それが自分自身の失態によるものであったとしたら、彼も甘んじて受け入れることができたであろう。だが、このたびはそうではなかった。
『なんだっ、この馬鹿者めが! 自分の主の世話も満足にできない、穀潰しが……!』
どうしてあそこまで口汚く罵られる必要があるのだろう。自分だって、できる限りのことはした。だが、当の主様――つまり御領主様の跡目殿が聞く耳を持とうとしないのだから仕方ない。
確かに、御領主様のお怒りはもっとものことだとは思う。
正式な婚礼を挙げて夫婦となった者たちは、その夜から三日続けてしとねを共にしなければならないという決まりがある。それはいわゆる「三日夜の通い」と呼ばれるもので、それを破れば御家に大変な災いが降りかかると言われていた。
しかしながら。
こちらの跡目殿は、宴の最中だというのに、さっさと愛妾の待つ居室に戻られてしまったのである。
これには、さすがの余市も驚きご意見申し上げたが、跡目殿はそれをお聞き届けくださるどころか、とんでもない捨て台詞までお残しになった。
すぐお側には正妻となった御方が控えてお出でだったのに、そんなことにはお構いなしに。……いやむしろ、直接ご自分の意思を知らしめたかったのだろうか。
とにかくそんなわけで、まったく話にならないままで振り切られてしまった。仕方なく、御領主様の下に事の次第をご報告に行けば、先の通りである。
しかも、奥の居室、つまり正妻様が宴席を退出されて向かった今宵の宿に、その旨を報告に行くように申し遣ってしまった。
なにが悲しくて、そんなお役目を自分が引き受ける必要があるのだろう。あまりにも荷が重すぎるというものだ。
こちらのお屋敷には数えきれぬほどの使用人がいるではないか。もっと話の上手い気の利いたものに頼んだ方がよほど角が立たずに済むと思う。
しかし、御領主様はそうはされなかった。これもご自分の跡目殿に対する腹いせだろうか、とばっちりを食らった方はいい迷惑である。
――まったく、これでは先が思いやられるというものだ。
「三日の通い」の初日から道を外すなどという話は、未だかつて聞いたことがない。家と家とが決めた正式な婚礼となれば、適当に手を着ける女子や遊女小屋での女遊びとはわけが違う。
普通の神経を持った女子であれば、自分の顔に泥が塗られたと憤慨して即刻実家に舞い戻ってしまうかも知れない。
このたびの御方は、西南の大臣様直々のお言葉によりお輿入れとなったのである。そうなれば、正妻様への裏切りはそのまま大臣様への裏切りとなってしまう。下手をしたら、お家取り潰しの事態になるやも知れぬ。そのことを、当のご本人はきちんとおわかりになっているのであろうか。
……否。
こちらの若様は大変聡い御方だ。ご自分の行動がどんな結果を招くかということくらいは、とっくにご承知なのだろう。それがわかっていてあえて実行に移したとなれば……相当なご覚悟がおありなのだと思う。
もともと、意にそぐわないお話だったらしい。
いくら身分の高い女子様とはいえ、お相手となった正妻様は「戻り女」――つまり、一度他に嫁いだ御方なのだ。
御領主様の跡目というお立場にあった若様は、今まで女子にはまったく困らない生活をしていた。もっともこれは、ある一定の身分のある御家の方々なら当然のことで、いちいち目くじらを立てるような話でもない。
お屋敷に上がる侍女は当然、領地内の宿所での女遊びも派手にして、ときには領地の村々を巡り好みの女子を次々つまみ食いにした。
もちろん、若様の誘いを断る不届き者などいるはずはない。領地の女子たちは、生娘であろうと人妻であろうとお召しがあれば喜んでご寵愛に預かる。その開き直りの速さといったら、お側で一部始終を見ていた余市であっても舌を巻くほどの潔さであった。
確かにそのようなお立場にあった御方が、言葉は悪いが「使い古しの女子」を娶るのは許せないことなのだろう。だが、これはすでに決まってしまったこと。その上、あの大臣様のお言葉とあっては黙って従うほかないはずだ。
――まったく、若様にも困ったものだ。
余市の両の肩には今、この屋敷の、「火の一族」と呼ばれる御家の未来が掛かっていると言っても良い。お伝えする内容がひどいものであることは重々承知であるが、ここは嘘も方便。どうにかあちら様の気持ちを損ねないよう細心の注意を払わねばならない。
一度はそう思い切るものの、次の瞬間にはもう、この先のことなどどうでもいいと投げやりな心地になっている。
正直、あの御領主様にはご恩などまったく感じていない。大臣様からどのようなお咎めを受けようと、自分にとっては関係のないことだ。
下々の者の気持ちを察することのできない領主など、没落して当然ではないだろうか。まったくもって、笑いぐさだ。
自分は――若様のお言葉のとおりに進んでいくだけ。あの御方が右と言えば右に曲がる、ただそれだけだ。
余市には幼年時代の幸せな記憶がない。
もともとは裕福な糸問屋の跡目として何不自由ない暮らしをしていたらしいが、物心がついた頃には両親は既に亡く、叔父が店を切り盛りしていた。
そしてその者が両親の遺言を破り、余市ではなく自分自身の息子に店を継がせたいと思ったことが不幸の始まり。まるで使用人のようにこき使われた挙げ句、店の金に手を着けたとありもしない言いがかりをつけられ、狭い納屋に押し込められた。
自分に味方をしてくれる者など、ただのひとりもいなかった。店で働く者は皆、余市の両親には大変世話になったはずなのに、その恩よりも自分の保身に走ってしまう。あからさまに罵られるよりもむしろ、遠巻きに見つめられ憐れんだ視線を向けられる方が屈辱であると知った。
食うものも満足に与えられず、このまま見殺しにされるのかと覚悟したが、ある日監視の目をかいくぐって脱出することに成功する。とにかく逃げた、どこまでもどこまでも気力が続く限り走り続けた。
しかし、その後も過酷な試練が彼を待っていた。
十にも満たない若造を雇ってくれる働き口などそうあるものではない。しかも素性の知れない薄汚い有様を見たら、石を投げてでも追い返したいと思うのが当然だろう。その上、不幸な幼年時代を過ごしたことで、余市は愛想笑いもできない陰気くさい子供だった。
ときには日雇いでわずかばかりの給金を受け取り、またあるときは物乞いのようなことをして飢えをしのぐ。そんなその日暮らしの生活を続けながら村から村へと渡り歩き、ついには自分の生まれ故郷がどこにあったのかすら、わからなくなっていた。
最後にたどり着いたのは、とある宿所の一角にあるみすぼらしい遊女小屋である。
それがどんな場所であるのかもわからぬままに迷い込み、教えられるままに客引きの真似事を始めていた。他の兄貴たちのようには上手くできない、でも運良く呼び込みに成功すればわずかばかりの駄賃がもらえる。客が食い散らかした残飯も、腹の足しには十分だった。
命令されるままに盗人紛いなことにも手を染めていく。飲んだくれて道端で寝入っている男の懐から財布を抜き取ることなど当然、酔って記憶が定かでなくなった客からはべらぼうな代金を巻き上げた。
このようなときに嘘の言えぬ面をした子供はとても役に立つ、そういう意味でも店主は余市を重宝していたらしい。
それまではどの村でも長居をすることが叶わなかったが、ようやく水が合ったのかそこでの暮らしは数年続いた。
ある日のこと、いつものように客引きのために通りに出た余市は、向こうから歩いてくるひとりの貴人に釘付けになった。ひとめでこの土地の者とは違うとわかる豪奢な衣装を身につけて、いかにも羽振りが良さそうである。
これはまたとない上客ではないかと浮き足立つ。そして驚いたことにお世辞にも上手いとは言えない余市の呼び込みに、彼はふたつ返事で頷いてくれた。
それが、雷史様であった。
なにがお気に召したのかは知らないが、その後も何度か店を訪れてくれるようになる。そしてある日、彼は余市にこう言った。
「お前、俺のところへ来ないか?」
どうも、身の回りの世話をする小姓のような役割をしてくれる者をお探しになっていたらしい。そうは言われても、何故自分などにお声が掛かるのかまったくわからなかった。
「は、はあ……でも」
正直、断る理由はない。この店にも少し居づらくなっている。上客を呼び込んだ余市を店主が褒め称えるので、兄貴分たちがやっかんで嫌がらせを仕掛けてくるようになったのだ。
「今はまだ父親が実権を握ってるから、たいした地位はやれない。だが、やがて俺の代になれば、そのときは侍従職を与えてやることだってできるぞ」
その言葉を鵜呑みにした訳ではない。
しかるべき御館にお仕えし居室と呼ばれる主様のお住まいに上がることのできる侍従は、村長かそれに準じた家の出身者にのみに許される役職である。ただ人の余市にとっては、夢のまた夢の話であった。
「こんな場所で、一生這いつくばって生きるつもりか。お前はいい目をしている、俺についてくれば悪いようにはしないぞ」
その瞳に魅入られ、気づけば首を縦に振っていた。
その日から、余市の生活は一変した。
髪を整え高い位置で結ぶことを許され、小綺麗な衣を与えられる。三度の食事にもありつけ、夜は大部屋ではあったが「寄り所」と呼ばれる使用人たちの住まう小屋でゆっくりと休むことができた。
朝はまだ夜の明けきらぬ頃に部屋をあとにし、雷史様の住まう表の居室を訪れる。そして、かまどに火を入れて、周囲を掃き掃除した。
こちらの居室には、美祢様というたいへんお美しい女人がご一緒に住まっている。おふたりが男女の関係にあることはすぐにわかった。
美祢様は数多くの雷史様のお手つきの中でも別格の地位にある方で、それだけに気位も相当に高い。雷史様が別の女子のところに入り浸って居室にお戻りにならなくなった折には、怒り任せに余市に向かって茶碗を投げてくることもあった。
まさか女子にそのような仕打ちをされるとは思わなかったが、黙って堪えるしかない。この屋敷では主様が絶対的な地位にあり、その愛妾とも言われる御方であればなにをしても許される立場にあるのだ。
雷史様が表の居室にお戻りになるのは月の半分ほど。大臣家への出仕もあるが、別の女子の元や遊女小屋で夜を過ごすことも少なくない。端から見れば、ずいぶんとお盛んなことと思うが、当のご本人はいつもどこか冷めていらっしゃった。
年端もいかぬ頃から男女の愛欲のるつぼの中で生活してきた余市には、そのお心が少しばかりは理解できるような気もした。どんな女でも、権力の前では容易く足を開く。顔かたちは違っても、一様にそうなってしまう。
――なにもかもが満たされているようでありながら、本当はお寂しい方なのかも知れない……。
もちろん余市であっても、そのようなことを直接口にするような失態はしない。だが、雷史様のお美しい濃緑の瞳は、いつかどこかで見たものととても似ている気がした。
心にぽっかりと開いた空洞、それを塞ぐ術も持たぬままさすらい続ける主様。いくら口汚く罵られようと理不尽な態度に出られようと、余市はその向こうにある真心をどうしても忘れることができなかった。
◆◆◆
山の中腹にあるその村は、切り出される材木やその加工品、そして山裾を切り開いて作られたささやかな農作物にて細々と生計を立てていた。
天候の落ち着いている年はまだいい、痩せた土地でもどうやら作物が実りいくらかの収穫が望める。しかし、一度山が荒れれば、嵐はなにもかもを根こそぎ奪い取っていってしまう。
その年は、いつにない不作であった。
春先からの天候不順に加えてとんでもない冷夏に見舞われ、挙げ句の果てが繰り返し襲いかかる嵐。畑どころか植林地も大打撃を受け、どうやって年を越そうか村人たちは途方に暮れるばかり。それでも互いに肩を寄せ合い助け合い、どうやら新しい年を迎えることができたが、そろそろ村の備蓄も底を尽きそうになっていた。
そんな頃である、ひとりの男が村を訪れたのは。
山をいくつも越えたその村までたどり着くのは、よほど物好きな行商人と決まっている。だが、その者は大きなつづらも背負ってはおらず、まったくの身軽ななりであった。そして自分は西南の大臣様のお側近くで仕える者で、気の利く若者を何人か探してくるように申し遣ったのだと言う。
もちろん、村人たちは初めて見るその男にむき出しの警戒心で接した。
そのような話、にわかに信じられるものではない。人を見たら盗人と思え、とは言い過ぎかも知れないが、とにかく上手そうな話には必ず裏があると思った方がいい。
しかし、どうしたことだろう。その男は幾日か村で過ごすうちに皆の心を巧みに掴んでしまった。ついには村長様までが、あの者の話なら信用してもいいだろうと言い出す始末。度重なる災害で苦しみ続けていた村人たちの心は大いに揺れた。
柚羽には十人兄弟の五番目。上には兄と姉がふたりずつ、一番下の妹はまだ産まれたばかりだった。一番上の姉はすでに嫁いでいたが、長兄はほどなく妻を娶ることになっている。次兄も山仕事には欠かせない労働力であったし、すぐ上の姉には想い人がいた。
もちろん姉は、声が掛かれば自分が行くつもりであったらしい。一家に新しい家族を迎え入れるとなれば先立つものがどうしても必要になる、そのために家族の誰かが犠牲になるのは当然だと言うのだ。しかし柚羽はその話にどうしても納得することができなかった。
「私が行きます」
彼女がそう切り出したとき、家族みんなが泣いた。しかし、皆はそれで納得するしかなかったのである。
男は柚羽を連れて村をあとにした。あと何人か連れて行きたかったようだが、他の家ではまずは様子見ということになったらしい。柚羽の家族にしてみても、娘がそのような立場にあれば、ひどい仕打ちは受けまいと少しは安心したようだ。
山から山へと続く道はとても険しく、大人の足でも相当に辛い。柚羽は生まれてから一度も村を出たことがなかった。どんどん遠くなるふるさとがいつまでも自分の名を呼んでいるような気がしたが、そのうちに前を行く男のあとをついていくだけで精一杯となる。
途中の宿所で一泊し、翌日の夕暮れ近くにようやく賑やかな街道までたどり着いた。
何故、このようにたくさんの人々が往来しているのだろう。初めての風景に柚羽は度肝を抜かれていた。どうしよう、自分はとんでもない場所に来てしまったのではないだろうか。そんな不安で胸が痛くなる。
通りを行く人は皆早口で、なにを話しているのか聞き取ることすら難しい。さらには荷車がとんでもない速さで目の前を通りすぎ、何度も牽かれそうになった。
そのまま真っ直ぐに大臣様のお屋敷に上がることになるのかと考えていたのだが、どうも勝手が違うようである。男は途中でいくつも寄り道をし、わざと歩みを遅くしている様子だった。
柚羽が不思議に思って訊ねると、男はばつが悪そうに言う。
「いやはや、あちらの大臣様は大変気むずかしい御方だからな。その御方が寝所に入られたあとの方が、なにかと好都合なんだ。……いやいや、そんな顔をするな。悪いようにはしない、お前の親とはちゃあんと約束したんだから、大丈夫だ」
よくよく話を聞けば、この者は大臣様と直接の面識はないらしい。村ではあのように名乗った方がとおりがいいと思っただけで、実際は裏口から入るご用聞きのような身の上であった。
「だが、仕事を世話してやるのは本当だ。あの館には俺の知り合いが山といる、必ず話をつけてやるよ」
そんな風にしていくらか進んだところ、なにやら騒々しい一角に出くわした。たくさんの者たちが忙しく働いている姿をみて、男は目の色を変える。
「……ちょっと待ってろ、なにか仕事が取れるかも知れない。お前を大臣家に渡してしまえば、俺もまた暇ができる。時は金なり、ちょっとの仕事でも次々引き受けていれば、いつの間にか小金持ちだ」
彼は口の中でぶつぶつと呟きながら、人だかりの中に臆することもなく首を突っ込んでいった。そして程なくして柚羽の元に戻ってくる。
「おおうっ、こりゃ大変だ! ここの館にお住まいになっている女人様が、明朝にこの東にある御領主様の御家にお輿入れをなさるそうだ! こりゃ、いい仕事が見つかりそうだ。そうそう、お前も一緒に来い。とにかくは中に入って話を聞こう」
言われるがままに塀で囲まれた屋敷の中に入っていく。田舎暮らしの柚羽にとって、そこはとんでもないお金持ちの館に見えた。
「そりゃそうだろう、こちらにお住まいの御方は都にあっては大変高貴な御方の側女であったそうだ。いわゆる戻り女というわけだが、そこんじょそこらのとはわけが違う。これは馬引きでもなんでもいいから、花嫁行列のひとりに加えてもらいたいものだ。きっと褒美もたんまりいただけるぞ!」
里にいた頃に村長様の館で一度だけ見せてもらったことのある絵巻物、その中には確かこんな御殿が描かれていた。まるで夢の中を歩いているかのような心地になりながら、男のあとをついていく。
柚羽は気が気ではなかった。こんなところまで断りもなく入り込んでしまってお咎めをいただいたりはしないのだろうか。怖い男たちがたくさん出てきたらどうしよう、この者は足が速そうだが自分は途中で捕まってしまいそうだ。
男は勝手知ったるとばかりに庭をずんずん奥へと進んでいき、やがて一番奥まった建物の前で立ち止まった。
「ごめんくださいましーっ!」
男が建物の奥に向かって、物売りのような大声を出す。
しばらくは静けさが続いたが、ややあってから奥の部屋よりしゅるしゅると不思議な音が聞こえてきた。
「……どなた?」
いきなり目の前に現れたその人のお姿に驚きすぎて、柚羽はその場に腰を抜かして座り込んでしまった。
――すごい、このような方が本当にいたなんて。
まるで絵巻物の中からそのまま抜け出てきたかのような御方、艶やかな赤髪は身丈よりも長くお召しになったご衣装もあまりのお美しさに目がくらみそうだ。
「やや、お初にお目に掛かります! 手前はこの先にある大臣様のお屋敷の小間使いをさせていただいております者なれば、是非明日のお輿入れになんなりとご用命いただけたらと思いまして……」
その女人様は少し驚かれたお顔で、にやけ顔の男と柚羽を代わる代わるに見つめる。
「そう……それで、そちらの者は?」
女人様の視線が自分の前で止まったことで、柚羽はさらに震え上がる。
こういうときにはきちんと頭を下げて礼を尽くすべきなのだろうか、だがその気はあっても身体がまったく言うことをきかないのだから仕方ない。
「へっ、へい! この者は、これから大臣様のお屋敷に奉公に出るものでして! ええっ、大臣様の直轄地の山また山のその奥から連れてきたばかりなんです! ほらっ、なにをしている。お前もきちんとご挨拶を申し上げろ!」
男は呆然としたまま動かない柚羽の頭を髪を持って振り回し、どうにか姿勢を正そうとする。
とにかく夢中なのだろうが、やられている方はたまらない。ただですら長旅でぼさぼさになった髪が、もっとひどいことになっていた。
「まあ、……お止めなさい。そのように乱暴にしてはならないわ」
女人様のお言葉に男がぱっと手を離す。柚羽はふたたび尻餅をついていた。
すると。
それまでは建物の縁から柚羽たちを見下ろしていたその御方が、衣擦れの音を立てながら庭へと降りていらっしゃる。そして衣や髪が地に着くのも構わずに進み出て、柚羽の前にお立ちになった。
「まあ、……まだほんの子供ではないの。あらあら、髪がこんなにくしゃくしゃになって……可哀想に」
ふわんと花のような香りがする。それが女人様のお身体から漂ってくるものであることに、柚羽は少し遅れて気づいた。目の前にお美しいお顔、そう、女人様は跪いた姿勢で柚羽を見つめている。
その眼差しが田舎の姉様たちのようにお優しくて、柚羽は少し泣きたくなった。鼻の頭がぴくぴくする、涙腺も緩んできたようだ。
しばらくして、女人様はゆっくりと立ち上がる。そして、男の方を向き直った。
「この子はわたくしが、預かりましょう。詳しい話は、家の者に伝えておきますから後日もう一度お出でなさい。今日はもういいわ、あなたはもうお帰りなさい」
「へ? ……へいっ! わ、わっかりましたぁっ!」
なにがなにやらわからずにいるうちに頼みの男は走り去っていた。そして、あとに残ったのは柚羽とお美しい女人様のふたりだけ。
「え……ええと」
柚羽は途方に暮れたまま、女人様を見上げた。そのお顔はゆったりと微笑まれている。
「さあ、お立ちなさい。まずは足を洗って御部屋に上がりましょう。すぐにあなたのための装束を用意させなくてはね……」
差し出された御手は白くてすべすべしていた。このようなお美しいものに触れていいのだろうか、あまりに畏れ多い心地になる。
女人様は縁に上がる階段の前でゆるりと振り返る。
「あなたには、これからわたくしの身の回りのことを手伝ってもらいます。どうぞおよろしくね……そう、名はなんというの?」
「ゆっ、柚羽、柚羽です!」
――この御方が、私のご主人様!?
柚羽は女人様に気づかれぬよう、こっそりと自分の頬をつねってみる。……とても、痛かった。
初めて纏う侍女の装束はとても窮屈で、一歩足を進めるごとに裾を踏んでしまいそうになる。
その上、牛車。これも絵巻物の中で見たことがあるだけの乗り物、柚羽にとっては空想の道具でしかなかった。しかも徒歩で付き添うものだとばかり思っていたのに、同乗させてくださるという。
「柚羽、あなたは今やわたくしにとって一番近しい者なのですよ。ですから、片時も離れず側にいてもらわなくてはね」
昨夜は興奮のあまりほとんど眠れなかった。
なにしろ、夜が明けたらすぐに輿入れ先の御領主様のお屋敷に出立されるというのだ。もしも寝過ごして置いて行かれたらどうしよう、そう思えば胸の鼓動が止まらなくなり、目が冴え冴えとしてくる。
しかも招き入れられた「別所」と呼ばれる建物は、どこもかしこもぴかぴかに磨き込まれていてあまりの眩しさに目がくらみそうだ。目を閉じても、瞼の裏がムズムズして落ち着かない。
「道中は一刻半ほどになりましょう。あちらに到着したら忙しくなりますから、今のうちにゆっくりと休んでおきなさい」
そう仰る女人様の方は背筋をピンと伸ばして、とてもお行儀良く座っていらっしゃる。
この御方は秋茜様というお名前で、なんと西南の大臣様の姪御様に当たられるという。なるほど、そうであるからこその気品なのだ。このような御方をお迎えできるなんて、夫君となる方はとてもお幸せだと思う。
「えっ、ええと! 秋茜様っ、火の一族のお屋敷はどのような場所なのでしょう。やはりご立派でお美しいのでしょうか……!」
柚羽の言葉に、女人様は困ったように微笑まれる。
「さあ、……それはわたくしにもわからないわ。なにしろ、初めての場所ですから」
「……えっ、そうなんですか!?」
思わず言葉を返してしまい、あとから反省する。
――そうなのか、高貴な御方はお輿入れのその先がどんなところなのかもわからないままにお出でになるのだ。そんなの、私だったら絶対に無理……!
柚羽にとって、お嫁入りなど夢のまた夢の出来事であった。
兄弟の中でも一番頼りなく、皆から心配ばかりを掛けていた身である。手仕事も上手くこなせずに、口惜しい思いをしてきた。
――もしも、もっと皆のために役立つ自分であったなら、あのまま里に残ることもできたかも知れない。
そう思うと、つんと悲しい気持ちになる。でも泣いては駄目だ、私はこれからこのお美しい方の侍女としてずっとお側でお守り申し上げるのだから。
柚羽の胸は、そのとき期待と不安でいっぱいであった。だが、そんな彼女であっても数刻後に起こるとんでもない事態は到底予測できるものではなかった。
天の輝きが、少しずつ角度を変えていく。
本館の喧噪から遠く離れた奥の居室、柚羽はその戸口近くにしゃがみ込んでいた。
別にそうするようにと命ぜられたわけではない。だが奥の御部屋で秋茜様と共にお出でにならないご主人様をずっとお待ちしているのが、だんだん辛く息苦しくなって、とうとう逃げ出すようにここまで出てきてしまったのである。
――こんなじゃ、侍女失格かも。
婚礼の宴の最中に、急に立ち上がり広間をあとにしてしまったご主人様。
秋茜様の夫君となったその人は大変凛々しくお美しい御方ではあったが、その一方でとても気性の荒い一面があるようだ。今まで山間の村でのんびりと過ごしてきた柚羽にとって、それはあまりにもすごい衝撃であった。
――いったい、ご主人様はどちらにいらっしゃったの? どうして、いつまでもこちらにお越しくださらないの……?
秋茜様が本館を退出されてから、すでに一刻が過ぎている。そのことは、人を介してあちらの御方にもきちんとお伝えしたのに、どうしてお出でにならないのだろう。行き違いでもあったのかと本館まで足を運んでみたが、そこにもお姿はなかった。
――まさか、今夜このままいらっしゃらないということは……
あまりにも信じられない予感が浮かび、次の瞬間に慌ててそれを打ち消していた。
そんなはずない、あってはならないこと。
正式に婚儀を迎えられたら、最初の三夜はきちんとお戻りになるのは当然のことなのだ。それは、どんなに高貴な方であっても破っていいことではない。
奥の居室の裏手には小高い山が控えている。そこからゆっくりと流れ降りてくる気、柚羽のとなりを不思議そうに通りすぎていった。あたりの樹木もさわさわと音を立てる。
――あっ……!
そのとき、柚羽は心の中で叫んでいた。
墨色に霞んだその向こうから、ちらちらと見え隠れする白っぽい衣が見える。
――もしや、ご主人様がいらっしゃったのだろうか。そうだ、そうに違いない……!
柚羽は慌てて立ち上がると、衣の乱れを改めた。そして姿勢をしゃんと伸ばして、お迎えの準備を整える。おろしたての桜色の重ねの袖がふわふわと揺れる、それに合わせて柚羽の鼓動もさらに高鳴っていった。
やがてその男は柚羽の前までやってくると、こちらをじろりと睨み付ける。
「おい、そこの者」
つっけんどんな言い方に、思わず目を見開いていた。
違う、この人はご主人様じゃない。だって、お召しものが全然違うし……それにしても、なんでこんなに意地悪そうなお顔をしているの?
「なんだ、女の童か。お前じゃ話にならない、誰か話のわかる奴を呼んでこい」
つんと取り澄ましたその言い方が鼻についた。だから、柚羽も負けじと睨み返す。
「なにを言うの、私が秋茜様の侍女よ。女の童なんて……あなたって、とても失礼な方ね!」
水干に小袴。下男の装いの男に高い場所から見下ろされ、それでも気丈に言葉を返す。
季節は春から夏へ、しんと静まりかえった夜の御庭を天上の輝きが美しく照らし出していた。
了(110830)
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