TopNovelおとめ☆Top>おとめ☆注意報・3

…3…

 

 視線というものは、視覚で感じ取るばかりのものではないらしい。

 

 先ほどから、ちくちくとうなじのあたりに突き刺さる刺激がある。誰かが自分を背後から見つめている。食い入るように、釘付けになってる。それを知っていながら、とても後ろを振り向く勇気はなかった。悠然と構えているように見えるらしいが、実は犬が苦手な小心者だ。

 ぽかぽかと桜並木に注ぎ込む春の日差し。ピーカンの晴れ空。学校と敷地を隣にする市民公園までの坂道をぞろぞろと歩いている。天気がいいのでオリエンテーリングのついでにそこで弁当を広げようと言うことになっていた。

 

 彼の名前は「権藤嶺一」という。これを「ごんどう・みねかず」ではなくて「ごんどうみね・はじめ」と読ませることは前回お話ししたとおり。とにかく画数の多すぎな姓に、あまりにシンプルなファーストネームがくっついている。

 まあ、これにはそれなりの理由がある。実は彼の父親の名前は「権藤嶺巌」という。「いさお」と読ませるこの名前はあまりにも難解で、全てに置いて苦労したらしい。あまりに自分が大変だったため、生まれてきた我が子には愛情を持って易しい名前を付けたのだ。そうはいってもあまりに極端な気もするが。

 

 一は歩きながら、自分の担当クラスの小田巻という男子生徒と話をしていた。

 この生徒は中学時代、剣道で県大会まで進んだという成績を持っている。ただし、まだ高校でも剣道を続けようという気持ちが固まっていないらしいのだ。一は剣道部の顧問。だから部員の勧誘にも積極的だ。さりげなく竹刀の握りの話などをしながら、相手の出方を慎重に伺っていた。

 今日日の高校生は一筋縄ではいかない。だいたい、高校には「思い切り弾けるため」にやってきているとしか思えないような輩がたくさんいるのだ。部活で汗を流して精進するなんて時代錯誤。それよりもかわいい彼女と街を歩き、楽しいイベントに向けての資金稼ぎにバイトに精を出した方がよっぽど魅力的なのだ。

 むさい男子校で竹刀を振り回すことしか考えてなかった一の高校時代とは全てが違いすぎる。たった10年で日本はここまで来てしまったのだろうか。今年で28歳、教員生活6年目の彼は、立ちはだかる世代のギャップに苦しみつつ、それでも必死になっていた。

 

 ちくちくちく。

 やはり首筋が痛い。無視をしようとしても、自分の二倍くらいのリズムの足音が小走りに追いかけてくる。

「せんせー…」
 口説き中(危ない意味合いはありません、想像しないように)の男子生徒・小田巻の方が振り向いて、それからこちらに耳打ちしてきた(大男が二人で、更に危ない構図だが、お願いだから想像しないように)。

「なんか、丸っこいのが後ろからくっついてますけど……?」

 

 そこまで言われてしまっては仕方ない。何より「丸っこいの」が気になっていたら、部活の勧誘もスムーズに行かないだろう。一は観念して、首だけを回して振り返った。

「えへへへへへ〜〜〜〜っ!」

 犬が尾っぽを振るみたいに、頭の後ろで髪が揺れる。別に担任の後ろを並んで歩けと指示した覚えもないが、彼女だけはまるで小学生の遠足のように、一の後ろにぴったりとくっついていた。

 その10メートルほど後方にあきれ顔の女子生徒が歩いてる。確か、記憶ではこの「丸っこいの」とつるんでいる生徒だったと思うが、さすがにこの行動には付き合いきれないらしい。

 

 ……見なければ良かった。でももう遅い。

 

 こちらが意思表示をしてしまったため、彼女は小田巻を押しのけて、ずいずいっと一の隣を陣取った。これ幸いと、奴はさささっと他の生徒たちに紛れていってしまう。

「もうっ、この上ないいいお天気ですね〜! 初デートがこんなだと、さいさきいいなあ〜。前途洋々という奴ですかっ!」

 ほら、また。

 全く見当違いなことを、口にする。へらへらとしまりのない笑顔が嬉しそうだ。こっちはせっかくの獲物(?)を逃した口惜しさでいっぱいなのに。

「あのだなあ、……久我」
 ああ! もう反射的に名前が出てくるようになってしまった。こんなちんまいのに翻弄されている自分が情けない。自分で自分にショックを受けながら、一は努めて「教師」の顔で語った。

「これは、クラスの親睦を図るオリエンテーリングであって、お前が言っているようなことじゃないと思うが?」

 

 ええい! 黙れ! お願いだから、これ以上騒ぎを大きくしないでくれ……! 朝の惨事が脳裏によみがえる。一は心の中でそう祈り続けた。

 

「あっ……、そっか〜」
 くるくるの前髪が彼女の動きに合わせて揺れている。その奥のどんぐりまなこがくるんくるんと動いて。ようやく合点がいったように、ぱちっと明るい光を放った。

 30センチ近く下で繰り広げられる変化に、ホッと胸をなで下ろした。そりゃそうか、うちの高校は結構レベルの高い進学校だ。そこに入学できるんだから、天然な性格だとしても全くの馬鹿ではないはずだ。

「わっすれてました〜ぁ! ああん、私ってば、抜けてる〜ぅっ!」

 

 ぽんっ、と手を合わせる。その音と叫び声で、半径50メートルの生徒や職員がこちらに注目した。実際に見回して確認したわけではないが、そんな風な空気のざわめきを肌が感じ取ったのだ。

 どうでもいいが、このいちいちリアクションが大きいのをどうにかしてくれないだろうか? 恥ずかしさで身の縮まりそうになっている一は、それでもこのまま事態が収拾することを願っていた。

 

「先生っ! お返事はっ!? 私を彼女にしてくれるんでしょっ!?」

 がしっ! 思い切り腕を捕まれた。そのまま、ぎゅうううっと引っ張られる。こんな小娘に負けるほど弱くはないが、予想していなかったことだったので、身体が素直に従ってしまった。

「私っ! 先生の彼女になりたいのっ! らぶらぶであまあまな恋人同士になりたいんですっ! ねっ、いいでしょ? 彼女いないんなら、私を選んでください〜っ!」

「くっ……、久我っ!?」
 耳元で絶叫されたからたまらない。不意をつかれて思い切り面を打たれたときのように、頭がぐわんぐわんと震えた。

 一体、何故なんだ。冗談ならいい加減にして欲しい。勉学にいそしむ聖域で、どうしてこんな発想になるのか問いただしたい。でも、まずはこの今の状況をどうにかしなくては――……。

 

「ほぉーっ、ほっ、ほっ、ほっ……」

 そのとき。

 ふたりの隣を、高らかな笑い声がすり抜けていった。……まさか、いや、だけど。一は慌てて声のした方向を見た。

 校長が、にこにこと笑いながら、自分たちの脇を通り過ぎていく。どういうことか、オリエンテーリングにくっついてきたらしい。異動後のいろんな仕事は大変なはずなのに、こんなところで油を売っていていいのだろうか?

「若いというのは、全く素晴らしいですなあ〜。ねえ、権藤嶺先生?」

 村山元総理大臣のように、ふさふさを通り越してすだれのようになった真っ白な眉毛。その下の細い目が、何を言いたいのか分からない。

 命短し、恋せよ乙女……。などと口ずさみながら、校長は行ってしまった。

 

「先生?」

 一が固まっているのを不思議に思ったのか、媛子がこちらを覗き込んでくる。

「どうしちゃったの? 早く芝生のところでお弁当を食べようよ。私、隣に座っていいでしょっ!? お弁当、分けてあげる」

 何が起こったのか、全く把握していないこの女子生徒は、勝手に話を進める。校長の後ろ姿を呆然と見送り、振り向く。また、たくさんの視線に晒されていた。

 身体は小さいくせに。普通にしていれば、平均身長の人間の視界にすら入らないくらいの存在なはずなのに。この派手なリアクション、そして馬鹿でかい声。この娘と一緒にいると、自分まで目立ってしまう。

 

 ……やばい、やばいぞ!

 馬鹿は死ななきゃ治らない、と言う。こいつは全然分かっていない。自分がどんなに場違いなことをしているか、それによってどんなにこっちが迷惑しているか。

 教師なんて、半分ボランティアのようなものだ。身を削って働いても、それに見合っただけの収入は望めない。この仕事が好きでなかったら、絶対にやっていられないんだ。

 だがしかし、いくら奉仕の精神があるとは言っても……この「誤解」は早く説いてやった方が親切だと思う。この全然分かっていない勘違いに。

 

「あのな、久我。『彼女』とか『恋人』とか言うのはな、そんな簡単になれるものじゃないんだ。分かるだろ、双方の合意が必要なんだから。だいたい、お前と俺は――」

 生徒と教師じゃないか、そう言葉を続けようとした。だが、媛子がそれをさせてくれなかった。

「な〜んだ、そっか。……先生、私のこと、好みじゃないんですね? やっぱ、ぼいんぼいんじゃないから?」

 

 いきなり、太陽が雲に隠れたように、しょぼくれてしまう。うつむいたときに、長めのまつげが揺れるのを見て、ちょっと胸が痛んだ。だが、すぐに考え直す。

 こんなのっ、本気のわけがないだろう。単なる冗談なんだから、あまりマジになっては他の生徒たちからも馬鹿にされる。

 

「…商品に手を付ける趣味はないし、まあ、3年たって久我の気持ちが変わらなかったらそのときに考えてやってもいいが? ほら、もうこんな話、終わりにしよう」

 軽く冗談を挟んで。おおう、我ながら上手い台詞がでたぞ。そうだそうだ、この手があった。

 自分で自分の言葉に思わず悦に入ってしまった……が。

 媛子はそれを聞くなり、ぱた、と足を止めてしまう。そして、こともあろうに、360人の新入生がぞろぞろ歩いている遊歩道で、うつむいたままぼろぼろと涙をこぼし始めたのだ。

 

「うっ……、うううっ……っ!」

 本人としても不本意らしい。本来なら、女性が涙を流すシーンというのは男心をくすぐるものである。だがしかし、この子犬が威嚇するようなうめき声ではくすぐられるどころか、悪寒が走る。何度も言うが、一は犬が苦手なのである。

「せっ……、先生っ! ずるいっ……! 嫌いなら嫌いって、はっきり言ってくださいっ! そしたら、私、諦めるのにっ……!」

「……はぁ?」

 やっぱ、ちょっとずれている。

 だいたい、好き嫌いの問題以前なのだ。一にとって、きゃぴきゃぴの新入生の女子なんて言うのは、仕事上指導する対象物として認識はされるが、とても恋愛対象として見られるものではない。もしも、超好みの子だったら、万が一という事態も起こりうるが、ここにいるのはそれとはかけ離れた、一番遠い存在だ。

「先生はっ……私のこと、嫌いなんですねっ! ぼいんぼいんじゃないから? それとも入試で、先生の担当教科の数学が45点だったからですか……っ!?」

 だ〜か〜ら〜っ!!! 違うのである。何で泣くんだ、はっきり言って迷惑だ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。こんなのいちいち構ってられるか!

 正直なところ、放っておいて立ち去りたいところだ。だが、自分が泣かせたという責任もある。変なところで真面目な性格が、こういうときに災いする。

「あのなあ、久我……」

 

 ざわざわざわ。通り過ぎていくネイビーブルーの人並みが、自分たちを眺めている。ああ、恥ずかしい。どうにかしてくれ。

 

「せっ……、先生っ……!」

 仕方なく、彼女のそばまで戻った。すると媛子は嗚咽をあげながらも顔を上げる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、制服の袖口でぐしぐしとぬぐった。

「かっ……、彼女にはしてもらえないんですね?」

 がしっ! 背広の袖を捕まれる。いまいちべとついているような気のする手のひら。これは涙か鼻水か。…あまり考えたくない。

「だ、だからな。3年経って――」

 

 そう言いかけて、はっとする。

 なんだ、こいつはっ!? 涙が出てないぞ。つい一秒前は泣いていたのに、いつの間に止まったんだ!?

 

「えへへ、……いいんですよ、彼女になれないなら」
 媛子は濡れたまんまの頬で、にっこりと微笑んだ。

「セフレでも構いませんっ! 先生のおそばにいられるなら、私、どんなかたちでもいいですからっ! 性のはけ口にしてくださいっ!!」

 

「――は、はぁ……?」

 

 いったい何を言い出すんだ。どうなってるんだ。あんまりにも突っ込みどころが満載で、どうしていいのか分からない。そんな彼の態度をどう勘違いしたのか、媛子は台詞とは裏腹な笑顔で話を続ける。

「あれ〜、先生。知らないんですか、『セフレ』って、セックス・フレンドの略ですよ? 愛情なんてなくても、身体だけ結ばれるの。私、それでも構いませんっ! だから、いいでしょっ!?」

「くっ……久我」

 

 ぱくぱくぱく。酸欠の金魚状態だ。体中の血の気が引いてくる。何を考えてるんだ。どうしていきなりそんなことを言い出すんだ!?

 冷水を頭からかぶったように、一気に冷静になった。大きく深呼吸をする。身体の大きな一だから、媛子の10倍くらいの肺活量がありそうだ(ちょっと大げさ)。

 

 きょとんとした媛子の肩に、両手を置く。説得するみたいな姿勢になった。

「あのだな、久我。よく考えてみろ。若い娘が、そうやすやすと自分の身体を売り物にするようなことを言うのは間違っている。軽い気持ちで言っていいことじゃないんだぞ。お前は軽い冗談のつもりでも、それだけで済ませられなくなったりするんだからな」

 

 気がつくと、生徒たちの波は、ずっと向こうに行ってしまっていた。列から遠く離れたところにふたりで立っている。近くにいたはずの媛子の友人もいつの間にか消えていた。

 

「何を考えて、こんなことを言ってるのか俺には分からない。だが、軽はずみな行動は将来きっと後悔することになる。言動には慎みなさい、分かるな?」

 今の若者の性への認識は嘆かわしいものがある。まあ、買うものがいるから売るのだろう。だけど、そんな風にして自分を安売りしたツケはいつか必ずやってくる。そのときに後悔しても遅いのだから。

 あまり真正面から否定しても、かえって馬鹿にされるだけだと思っていた。だが、やはり、人間として超えてはならないものがある。それを教えるのも大切な教師の仕事だと、一は思っていた。

 

 しかし、媛子の方も負けてはいない。身体をぶんぶんと振ると、一の腕を払いのける。

「わっ……分からないもんっ! 私、先生が大好きなんだもんっ……、だから、先生とらぶらぶしたいんだもんっ……!!!」

「久我――……」

 

 一はどうしたものかと思案した。

 敵も手強い。今までの人生、色恋沙汰にはとんと興味も関心もなかったが(正確には縁がなかった)、いきなり28年分のツケが回ってきたのか。だが、どうせ回ってくるなら、もっとやり方がありそうなものなのに。

 ――この娘は、もしや本気でほざいているのではないだろうか。そうだとしたら……?

 

「先生を、好きになっちゃ、駄目なんですか?」

 潤んだ瞳が、悲しそうにこちらを見上げる。涙のこぼれるそのぎりぎりの場所で、想いを伝えようとする。馬鹿な男なら、くらっと来るだろう。据え膳食わぬは……と考える奴だっているだろうと思う。

 

 一がそう言う男でなかったことは、媛子にとって幸いなのか不幸なのか。

 

 少女漫画的なこの展開は、あっけなく幕切れする。一は淡々と、でも真面目な表情で媛子に言った。

「俺はな、一生に一度の女でいいんだ。運命の女性と結婚して、一人の嫁さんだけを愛すると決めている。だから、悪いがお前のありがたい誘いにも乗れないんだ。……残念だがな」


つづく♪(031121)

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