「それでは、2時間後にお迎えに上がります」 自然の光がふんだんに入るように設計されたエントランス。地上45階を5階までぶち抜いたホールは、上を見上げると吸い込まれそうに高い。何しろ、日本を代表する総合企業「ナカノ・コーポレーション」の本社だ。ぴかぴかの硝子張りの壁には手形ひとつ付いてなくて、しかも防弾加工の強化硝子だと聞いて驚いた。何でも畳一枚分の大きさで、何百万円、とかいう世界。自分の年収に匹敵するくらいの額に腰が抜けるかと思った。 深々と頭を下げて挨拶すると、くすくすと楽しそうな笑い声が聞こえた。 「そんなにかしこまらなくても。清宮はいつも緊張してるね」 顔を上げたら、にっこりと微笑む人がいた。身長は僕よりも少し高くて、洒落たスーツに身を包んだ身体は結構しっかりとしている。お抱え運転手という身分柄、着替えシーンなんかをバックミラー越しに見てしまうことも多い。多忙なスケジュールの中で、車内で服装を改めなくてはならないこともあるのだから。どっきりするくらい逞しい二の腕に、クラリと来た。男同士なのに、どうしよう。 「じゃあ、3時半にはここに降りてくるから」 ああ、同級生だというのに! どうして、こんなに落ち着いた物腰なんだろう。最初にお目に掛かったときは、ずっと年上なのかと思っていた。姿形も今とはだいぶ違ったんだ。もっとダサ……もとい、大人っぽかったんだよ。 那珂野島原周五郎様……それが僕のご主人様だ。自分はただの運転手だけど、僕としてはとてもそれだけの位置づけではない。周五郎様とご一緒させて頂いて、本当に充実した毎日なんだから。当たり前の主従関係では済ませられないくらい、僕は周五郎様を尊敬している。 僕の手から、鞄を受け取るとゆったりとした足取りで、周五郎様はエレベーター・ホールの方に去っていった。 「はぁ……」 ほらほら、改めて辺りを見渡せば。エントランス・ホールにいる誰も彼もが周五郎様の姿に見入っているじゃないか。お祖父様は現頭取。要するに世界中に数え切れないほどある支社や関連企業の頂点に立つ一番偉い人だ。何でも、時の内閣総理大臣とも「とても親しく」おつき合いをしているそうだし、もう庶民の僕には想像も付かない程の地位にある人間。そんな方の御孫様に当たられる周五郎様の肩書きも「専務」だ。 そう……ゆくゆくはこの日本の経済をしょって立つ御方……。 「おい、清宮!」 いきなり厳しい声が飛んでくる。ぼーっとしている僕は、ハッと我に返ると声のした方向を見た。そこには豊かな白髪の見るからに威厳のありそうな「紳士」が立っている。パッと見は「水戸黄門」を彷彿させるような感じだが、その瞳はとても厳しくて、視線を感じただけで震え上がってしまう。 「はっ、はい!! 何でしょうか、田所様!」 この御方は、周五郎様の側近だ。周五郎様に「爺」と呼ばれていて……要するに執事のようなものか。お誕生の頃からおそばに仕えて、今なお周五郎様の全てを誰よりもよく知っていると言われている。もちろん、現頭取の覚えもめでたく、このナカノ社内での地位も高い。ブレーンのひとりにしっかり名を連ねているのだから。 そんな男に直接名前を呼ばれてしまった。良くあることだが、未だに慣れない。びくびくとしながら、ちら〜っとその顔を見ると……わわわ、機嫌悪そうだ! 「何でしょうか、じゃないだろう。本日の午後のスケジュールに一部変更がある。まず、会合の場所が……」 「何故、メモを取らない。そんないい加減なことで、お前は周五郎様の足になれるのか!?」 ひっ、ひぃいいいいいっ……!! 慌てて、胸のポケットから手帳を取り出す。これもナカノの社員全てに配布されるものだ。なかなかにして使いやすい装丁になっていて、社内でも愛用している者が多い。そこにボールペンで一通り田所様の言葉を書き留める。要点をまとめないで思いついた順に話されるので、こちらは混乱してしまった。だけどとても言い返せるような相手じゃないし……。 言いたいことをしゃべり終えると、さっさときびすを返す。運転手の僕はここまでで済むが、側近の田所様は始終、周五郎様にべったりとくっついているのだ。だが、数歩歩いてまた振り返る。 「ところで。今日のネクタイは色が良くないな。お前は周五郎様と共に色々な場所に出向くことになっている。あまり軽々しい格好をすると、そのまま周五郎様の恥になる。そのことを肝に銘じておくように。冬のボーナスでも出たら、スーツも新調しろ。なんなのだ、その成人式のようなスタイルは!」 「はっ、はい! すみません!!」 ……あああ、体中から蒸気が噴き出して、一気にしぼんでいきそうだ。僕がまた腰を折って礼をしているウチに、田所様はさっさと立ち去っていた。
これで2時間はホッと出来る。もちろん、いつ何時スケジュールの変更が再度起こるか分からない。そんなことは良くあることだ。 携帯の電源が入っていることをもう一度確認して、僕は社員食堂に足を向けた。遅めの昼食をとるために。周五郎様と田所様は先ほどの会議の時にお弁当が出たと言うが(しかも赤坂の高級料亭の特注品だと言うこと)、僕にはそんなものはない。
パーティーション代わりに置かれた樹の鉢の脇をすり抜けたとき、後ろから小走りの足音を感じた。 「……ああっ! やっぱり。万太郎く〜んっ、良かったぁ、これからお昼? ねえねえ、一緒に食べよう!」 ――うわあ。 背中越しに、ざわわわっと視線が集まったのが分かる。大勢の人間が行き交うホールだから、人目が多いのは当然。だが、周五郎様とは全く違い、歩いていると人がぼんぼんぶつかってくるような存在感のない僕にはあまり経験のないことだ。 「……愛美花ちゃん」 「わあ、今日は遅番で良かったっ! このごろ、万太郎くん、忙しいんだもん。ねえ、しばらく大丈夫なんでしょ? 私、友達にお願いしてくるっ、外に行こうよ」 僕だけを見つめてにっこりと微笑むのは、周囲の視線を全部集めてる女の子。ナカノの制服を着て、胸には顔写真付きのネームタグを付けて。他の女性社員と同じ姿をしているのに、全然違うんだ。こぼれそうな大きな瞳に、綺麗にカールした長いまつげ。肩先でふわふわと踊る髪の毛はどこまでも軽やかで、かといってケバくない。 これだけ注目されるのも無理はない。何たって、愛美花ちゃんは今年度の『ナカノ・マスコットガール』だったりするのだ。 完璧に空調設備の整った屋内で、冬でも半袖のブラウスから伸びた細くてしなやかな腕が、僕の腕にくるんと絡まる。そして、僕を見上げて首をすくめるその仕草も可愛らしい。周りの奴らが、嫉妬と好奇に満ちた目で僕たちを見守る。でも、彼女ときたらそんなことになどお構いなし。ああ、もうどうしよう。久しぶりに会えたのはすっごく嬉しいんだけど、……こんなところで、なあ。 ――そう、愛美花ちゃんは僕の彼女。 信じられないけど、誰もが疑うけど、正真正銘に僕の彼女。未だに信じられないけど、僕の彼女。こんな風にふたりでらぶらぶ・ツーショットをしていても、鼻先で彼女特有のあま〜い香りを感じても、実感がないけど。 「ね、早く行こっ!」
「若翼会」と名付けられた若手社員の親睦会に参加したのはその日が初めて。何だか「や」の付く人たちの組名みたいで怖いなとか思った。どこから湧いてきたのか、そこに集まったのはナカノやその関連会社で働く25歳以下の若者たち。知り合いなどひとりもいなくて、僕は壁際にぼーっと佇んでいた。
何せ、「ナカノ」には10月1日付で中途採用されたばかり。それもバリバリに「縁故」入社だ。いや、別に僕の家がすっごい名家とか、大金持ちとか、政治家とかそんなことはない。単に父親の仕事の跡を継いだまでのこと。二浪して入った大学をどうにか卒業しても、この就職氷河期が続く中、働き口が見つからなかった。そんなとき、追い打ちをかけるように父親の持病の腰痛が悪化してしまったのだ。 突如として、不幸のどん底に突き落とされた我が家。……というのは大袈裟だが、本当にどうしようかと途方に暮れてしまった。そんなとき、今まで父が送迎のお世話をしていた周五郎様とそのお祖父様(要するに現頭取)からお話があったのだ。 「清宮の息子なら、間違いないだろう」 それはまるで、曇天の空が突如として割れて、そこから輝かしい天の恵みが降り注いできたような幸運だった。それが7月の半ばのこと。その後、2ヶ月余りの研修を受け、大切な御方を乗せる車のハンドルを握る者としてのノウハウをばしばしとたたき込まれた。何しろ、習得しなくてはならないのは運転だけではない。おそばに仕える者として、礼儀作法まで一通りこなさなくてはならないのだ。どういう訳か、お茶やお花の講習会にまで行った。 その大変さと言ったら、今までの人生の中でこんなに勉強したことがないと自分で思うほど。でも、せっかくありがたいお話を頂いたのだ。ここで頑張らなくてはどうなるのだ。 そして、配属。 もちろん、最初は見習いで、僕の隣の座席には堂々とした貫禄のあるベテラン運転手がどっかりと座っている。自動車教習所よりもずっと緊張する状況だった。 朝から晩まで、張りつめた気持ちで過ごす毎日。その上、運転手という職種は他の社員とは全然違っていて、みんなで一緒のフロアで仕事をするとか、楽しく昼食を取るとかそう言うことが皆無だ。「ナカノ・コーポレーションの正規社員」と言えば聞こえがいいが、そんな実感もまるでなかった。 僕と父は背格好がよく似ている。同じスーツがそのまま共用できるほどで、礼服なんかも父のを借りていたりする。こんな仕事に就いてしまったので、それなりの服装を求められるのだが、父の服でどうにかやりくりしている。ズボン丈もウエストも直さなくていいのだ。 そんな感じで半月余りは風のように過ぎた。そして、その日「若翼会」に出るようにと、周五郎様の側近である田所様から「命令」されたのである。
気が進まないパーティー。せっかく久々に早く上がれるなら、家に帰ってゆっくりしたかった。知り合いもいないよそよそしい場所で、時間を潰さなくてはならないなんて。だって、そんな場所に周五郎様がいらっしゃるわけもないし。 ああ……早く帰りたいなあ。 心の中でぼやきながらあくびを噛み殺したとき、壇上でスポットを浴びている進行役が、声高らかに叫んだ。 「さあっ! 宴もたけなわになって参りました! みんな盛り上がっているでしょうか!! さあ、本日のメインイベントのはじまりでぇ〜す!!」 パラパラパラパラパラ……訳もなく、小太鼓の音が鳴り響く。そして、ステージ奥のスクリーンにどどんと大きな文字が映し出された。 『勝ち逃げじゃんけん大会』 ――日本を代表する企業の明日を担う若者たちのイベントとしてはあまりにアナログチックだと思った。だが、隣の見知らぬ男が教えてくれたことには、これはナカノ創業以来の伝統的なものであるらしい。 ――だ〜〜〜っ、かったる……。 全然やる気もなく、その声を掛けてきた男と最初にじゃんけんして負けた。そして彼が去ってしまうと、また別の男とじゃんけんする。7:3で男性の多い職場だけど、何度かに一度は女性に当たることもある。まあ、そんなことをして数回かけ声と共に繰り返したら……最後に僕にスポットライトが当たっていた。 「おおおっ! 結果が出たようです! 今回の主役は彼に決定です!!」 ええっ? ええええええっ!? 辺りをきょろきょろと見渡す暇もなく、ぐいぐいとステージに引き出される。そこで、高校の全校集会の時よりも大勢の人間たちの前に晒された。こちらは明るくて、向こうは少し照明を落としている。だから、ぼんやりしているが、皆が好奇の目でこちらを見ていた。それだけで、恐怖に縮み上がりそうなのに、陽気な司会者はさらにマイクを近づけてくる。 「おや〜、見慣れない顔ですね? えええっ、そうですか、10月に配属になったばかりの新人っ! 皆さん、彼はなんと、我が社の専務、那珂野島原周五郎様の運転手をなさっているそうです。おお〜っ、すばらしいですねえ……」 なんて盛り立ててくれるが、こっちは生きた心地もしない。正直、さっさと終わりにして欲しい。それにみんな「誰、あいつ」ってざわついてるじゃないか。ああ、どうしたらいいんだ! 「さあっ!! では運命の瞬間です、本日は何が起こりますか、思い切って引いて頂きましょう!!!」 ――え? きょとんとしてしまった僕の前に、真っ赤な箱が突き出される。ミカン箱くらいの大きさで、上の部分に丸くくりぬかれた穴が開いていた。 「どどどど……どうするんですか、これはっ!?」 「さ〜て、それは神のみぞ知る! 前回、8月のイベントの時は企画部の菅野くんが、ストリップ劇場をやってくれたんですよね。その前は、総務部の樋口さんのバニーガールで……今回は、もっと過激なのもいっぱい入ってますよ! 皆さんも大いに期待してください!!」 ひいいいいいいいいっっ!! なんだ、その時代錯誤な恥ずかしいパフォーマンスは! やだぞ、帰りたいぞ! ここから、逃げ出したいぞ!! だが、そんなこと出来ない。せっかくのナカノの正社員、それがフイになるかも知れない。ここはっ…脱いでもコスプレでも、なんでも切り抜けないと……えええええいっ!! 腕を丸い穴に突っ込んだら、葉書大のカードがそれこそ何百枚も入っていた。もう、どうにでもなれ! がばっと、一枚掴んで持ち上げる。でもとても自分でそれを確かめることなど出来なくて、そのまま司会者の男に突き出した。 「おおう、男前ですね、潔いですねっ! じゃあ、発表します…………、えっ、ええええええっ!!」 僕は思わず、俯いていた顔を上げて彼を見た。今までのノリノリのムードはどこにやら、あわてふためいている。そんな彼を見て、ステージ下の社員たちもざわつき始めた。 「あっ……あのですね……そのっ……」 彼がこちらをじーっと見る。何とも言えない……ちょっと、威嚇するような瞳で。何が何だか分からないままに彼を見つめて、僕は瞬きを繰り返した。 「今日の主役、清宮万太郎くんのパフォーマンスは……そのっ……『ナカノ・マスコットガール』愛美花ちゃんの愛のキッスを受けること〜〜〜〜っ!!」 どどどどど〜〜〜〜んっ!! その次の瞬間、場内に地響きが鳴り渡った。もしや、とうとう恐れていた大地震か!? と思ってしまうような轟きに身がすくむ。もうもうとドライアイスが流れ込んできたステージからおそるおそる覗くと、男性社員たちが僕を殺気立った目で見ていた。その数、数百・数千。 「じ、じゃあっ! 愛美花ちゃん、どうぞ〜〜〜っ!!!」 司会者の声に続いて、ステージの袖からオレンジ色のふわふわが飛び出してきた。大きな花びらがいっぱい重なったみたいなワンピースを着ている女の子なんだと言うことに気づくのに若干の時間を有する。ミニのスカートからすうっと伸びた綺麗な脚。妖精のようなピンヒール。さらに、その顔を見て腰が抜けるかと思った。 ――うわっわわわわっ! すごい、可愛いっ!!
信じられなかった。当時の僕は「ナカノ・マスコットガール」という名称も、愛美花ちゃんのことも全く知らなかったのだから。こんなに可愛い女の子がウチの社にいたのか。まあ、何しろ一流会社だ。女性社員の質も高いとは思っていたが……。 僕に向かってまっすぐに進んでくる彼女に視線は釘付け。心臓が胸の皮を突き破って飛び出してきそうなのに、声も出ない。
あっという間にすぐ傍まで歩み寄った彼女は僕に親愛を込めた笑顔をプレゼントしてくれた。そして、右手を少し挙げると、ひょいひょいとジェスチャーする。少し屈んでくださいと言う意味だと気づいて、僕は慌てて膝を曲げた。 「失礼します」 何か耳打ちでもされるのかな、と思った次の瞬間。いきなりふんわりと花の香りがして、頬が暖かくなった。柔らかいぬくもりがじんわりと広がっていく。 な、何だよコレっ! どうなってるんだよ〜〜〜っ……。
「――うおおおおおおおおおおっっ!!!」 弓なりにのけぞる司会者の雄叫びに続いて、場内のあちこちからもどよめきが起こる。今度こそ、地割れが起きたかと思うような大きな音の波に飲まれて、僕の意識はそのまま水底まで深く沈み込んでいった。
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