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『清宮万太郎くんの事情』
…2…

 

 

 翌朝。酒のせいではない二日酔いで出勤すると、僕を待っていたのは突き刺さるような無数の視線だった。

 今までの人生、晴れがましいことなんて一度もなく、いつでも人の後ろに隠れるように生きてきたのに。もう、老若男女、若手社員から年配の役員さん、はたまた外部からのお客様までが僕を見ている。

 最初は背後に誰かが立っているのかと思った。振り向いて何度も確かめてそうじゃないことに気づくと、今度は着ているものを改める。まるでスラックスでも履き忘れたかのような注目のされ方なのだ。よもやそんなことがあるわけもなく、もちろん社会の窓も開いてない。

「やあ、清宮くん。おはよう、いい天気だねえ……」
 ふと見ると、運転手の控え室でいつも一緒になる先輩社員がにこやかにこちらにやって来た。いや、にこやかにしているのは表面上のこと。だって、目が全然笑ってない。正直怖い。普段はこんなところで声を掛けてくることなんてないのに。

「もうねえ、君のこと、社内じゅうの噂だよ。いいねえ、代われるものならそうして欲しかったよ。本当に羨ましい限りだ!」

 何のことやら……と、先輩の手元を見ると。そこには社内報の号外が握りつぶされていた。その一面にはでかでかと写真が!!

『天使の洗礼を受けたラッキーボーイ』……ぎゃあ、待ってくれ。この間抜け面は誰だよ!

  だいたいラッキーでもなんでもないよ。あのあと、壇上でみっともなく倒れてしまい、次に目を覚ましたのは社員用に用意された控え室の長いすだった。そこにあのかわい子ちゃんが心配そうに付き添ってくれていればロマンティックなドラマも始まるんだろうけど、そんなはずもないし。
 それでも頬にかすかに残る(様な気がする)感触を確かめて、そのままひとりで帰宅した。10月の終わりの寒々しい夜風が僕を現実に引き戻してくれた。

 

 それからしばらくは、何だか落ち着かない日々が続いた。

 あのときの女の子はエントランスの奥にあるご案内カウンターに座っている受付嬢だと聞いた。でも、ばったり会ってしまったらどうしよう。そう思うと、運転中でもないのに緊張してしまう。周五郎様を車に乗せるとき以外は出来るだけリラックスして体調を整えるのも僕の大切な仕事だ。そうは思っても駄目なのだ。

 ……愛美花ちゃん。

 植木鉢の影から、受付カウンターを覗く。天下の「ナカノ」の受付嬢。普通の女性社員とはちょっと一緒にならないような美人が揃っている。まるで「モーニング娘。」のようによりどりみどりの品揃えで。でも、彼女はすぐに分かる。その中でもひときわ目を引くんだから。

 にこやかな笑顔を振りまきながら、お客様を取り次ぐ姿。あの笑顔はあの日、僕に向けられたのと同じなんだろうなあ。

 まあ、人の噂も何とやら。忙しい日常の中で、僕の心からも周囲の人の心からもあの日のことは消えていく。そうなるまでに1週間もあれば十分だった。

 


 その日は周五郎様がカナダの支社に出張なさるというので、午後から成田にお見送りをした。

 後部座席に乗っているのは周五郎様と田所様。海外出張の時もお二人はご一緒だ。田所様が一方的に話しかけ、周五郎様はぼんやりと受け答えをしていた。少しお疲れなのかも知れない。

 

 父の話によると、周五郎様は中学を卒業したあとずっと海外で過ごされた。

 世界に通用する帝王学を身に付けるためには、日本の教育制度では未熟だと頭取が判断したからだと聞いている。元々がご優秀な方だったので、飛び級を繰り返し、20歳の時にはアメリカでも有数の大学で博士号を取った。その間、父は他の要人の方を送迎する仕事をしていたが、周五郎様の帰国後、お抱え運転手に復帰している。

 ……驚いたなぁ。周五郎様が戻られたとき、僕はまだ浪人中だったんだよ。それを……周五郎様と来たら同じ5年間のうちに高校大学から大学院まで全て網羅してしまった。入ればあとが楽な日本の大学とは異なり、アメリカでは「入るのは簡単でも出るのは容易ではない」と言われるらしい。どんなときにも自主性と実行力が試される。僕が敵う相手ではないのだ。

 

 成田からの帰り道は少し渋滞に巻き込まれたが、ひとりのドライブは気が楽だった。これで1週間は本社勤務になる。声が掛かれば運転手をつとめるが、それ以外は他の部署の助っ人をするのだ。仕事に就いてからこんなに長い周五郎様の出張は初めてなので、ちょっと新鮮だった。

 18時少し前に本社に戻り、地下の駐車場に公用車を片づける。そのまま運転手の控え室へ向かおうと足を進めた。その部屋は1階エントランス奥にあるので、エレベーターを使うまでもない。非常用の階段で地上まで出ると、通路を右に折れた。

 

 ――と、いきなり胸ポケットの携帯が震え出す。仕事柄、携帯の電源はなるべくオンにするように決められていた。でも公共の場でところ構わず鳴り響いたら迷惑になる。マナーモードにするように心がけていた。

 こんな時間になんだろう……と、反射的に開いてしまった。プライベート用は受信方法を変えてあるので、仕事用の連絡だと言うことはすぐに分かる。だから、躊躇はなかった。

「……え?」
 思わず、息を呑む。だって、目に飛び込んできたのは、全く予想もしなかったメールの本文だったのだから。

 

『そのまま、立ち止まって。前を向いたまま動かないで』

 

 驚いて差出人を確かめる。N-000796*****――これはナカノの社員用のメアド。何なんだよぅ、一体っ……と辺りを見回そうとしたとき、背中にごりっと異物感を感じた。何か、金属質の……ええええっ!? まさか!

「どうしたの? 何を慌てているのかしら?」

 ガチガチに固まった僕の背中に、可愛い女の子の声が響く。今度の今度こそはずささっと振り向いた。そこには……携帯を握りしめた笑顔の――。

「あっ……、ああああああっ! えとっ、そのっ……?」
 そのまま、背後も確かめずに後ずさったら、すぐに壁に激突した。でもその強化硝子の衝動も感じないほど、僕は最高に混乱していた。

「こんにちは、お久しぶりです」

 僕を見上げてにっこり微笑んだのは……すっかり帰り支度を終えた、あの「愛美花ちゃん」だったのである。この前会ったときはパーティー用のドレスを着ていたが、今日は普段着。それでも子鹿のような色をした細身のコートがすごく似合っている。襟元のファーがふわふわして。

「はっ、はいっ!」
 慌てて、自分の格好を改める。ネクタイは曲がってないか、ネームタグはずれてないか……ええと、ええと。

「この前はっ……そのっ、お世話になりました!!」
 思わず、120度くらい腰を折ってしまった。だって、いつもとてつもなく偉い方ばかりと接しているんだから、もうこの姿勢だけは慣れている。反射的な行為だった。

「あら、やあだ。お世話なんて……」

 くすくすくす。鈴が転がるような笑い声、というのはこのことか。ファッション誌のグラビアですましている綺麗なモデルのように整った顔。あのイベントの壇上では夢のように思えたが、こうして再び目の前で再現されるなんて。しかも、きちんと音声付きで。

 定時上がりの職員が、僕たちの脇をすり抜けていく。みんながみんな、愛美花ちゃんを見ている。そんな視線をばりばりと感じた。傍にいる僕がこんなに感じ取るんだから、本人はいかほどのものか。でも彼女自身はそんなのは慣れているらしく、全然気にも留めてない様子だ。

「そっ、それで! あの、何か……?」

 もしや。先ほどのメールも、目の前の彼女が!? ええっ、だって僕はメアドなんて教えてないぞ。どういうことだよ!? これで、肩にゴミが……なんてオチになるんじゃないだろうな?

「万太郎くんが、全然連絡くれないから。私、もう待ちくたびれちゃった」

 すううっと伸びた綺麗な指が、いきなり僕のスーツの胸ポケットに突っ込まれる。この際、いきなりファーストネームで呼ばれてしまった驚きなども吹っ飛んでいた。

「これ、気づかなかったでしょ? もう、嫌になっちゃう」

 

 そういえば、この前のイベントの時もこのスーツを着ていた。砕けすぎない格好で……と言われたので、仕事着のまま向かったのだ。目の前に突きつけられたのは彼女の名刺。くるりと裏返したところに、職場用とプライベート用の携帯ナンバーとメアドが走り書きしてあった。

 

 呆然とそれを見つめた僕に、彼女はぷうっとふくれっ面になる。でもさ、可愛い子ってそんな風にしても絵になるんだよな。ほら、あややが唄っているときに「むきーっ!」って顔したりするじゃん、そんな感じで。

「普通さ、ちょっとお客様の取り次ぎをしてあげただけで、その夜は『お礼に』とか食事に誘われるものよ。断っても断っても、そりゃしつこいの。それを何よ、全然誠意が感じられないじゃない。人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよね」

「は、はあ……すみません」

 何を謝っているんだ、自分。だけど、こんな風に小学校の先生みたいにぴしっと言われたら、何となく素直に詫びを入れなくちゃならない気になる。

 彼女は僕の態度に一応満足したのか、とんがらせていたピンク色の口元をふっとほころばせた。

 

 ああ、やっぱり笑ったほうがもっと可愛いな。

 それにしても、どうしてここまで整っているんだろう。小さめの輪郭に大きな瞳、形のいい小さくてでもすうっと通った鼻筋。きめ細やかな肌には薄目のファンデーションが吸い付いてるみたいだ。シミもそばかすも見あたらない。ただ、唇の右下の辺りに薄茶の小さなほくろがある。それがまたキュートで。

 

「で、今日はあとどれくらいで終わるの?」
 僕がついじろじろと観察してしまうのも、彼女にはくすぐったく感じるんだろうか。首をすくめながら、さっさと話を進めた。

「え……ええと、あと簡単な報告書を提出して明日のスケジュールを聞くだけだから……15分くらいで」

「よろしい」
 腕組みをして、うんうんと頷いている。ちょっとお姉さんぶってるけど、実は彼女のほうが2歳も年下。それくらいのことは調べてしまった。……その、つい。

「じゃあ、15分後に、ここで待ってるわ。分かったわね?」

「……???」

 スミマセン、分かってません。一体何が言いたいのでしょうか、お嬢さん。別に待ってくれなくてもいいんですけど。そう言いたげに見つめると、愛美花ちゃんはまたちょっと唇をとがらせた。感情がすぐ顔に出る。でもそれが全然嫌みじゃない。

「ご飯、おごってよ。『天使のキス』のお礼に」

 


 ――何だよ、一体。どうなっているんだよ!

 そう思いつつも、俺は誰もが立ち止まり振り返る女の子の後ろを、へこへこと付いていった。颯爽と歩いている彼女の背筋はピンと伸びていて、本当に気持ちがいい。それに対して、ウインドウに映った僕はなんてさえないんだろう。うわ、がに股になってる! 情けね〜。

「おごってよ」と言われたけど、気の利いた店なんて知るわけない。僕の行動範囲はオレンジの看板の牛丼屋か、立ち食い蕎麦屋。いいとこカツ丼専門店くらいだ。じゃなかったら居酒屋。まだここに勤めだして1月なんだから、全然分からない。……それに、だいたい何で僕が彼女におごる必要があるんだろう?

 そう思っているうちに、小さな背中はさっさと通りの角にある可愛らしいレストランに入っていった。 

 

「友達からも、すっごく馬鹿にされたんだから。どうしてくれるの」

 ほっそりした体型に似合わず、彼女は出てきた皿を綺麗に片づけた。付け合わせのパセリまでちゃんと食べている。でもがっついてるとかそう言う感じはなくて、僕の目にはすごく気持ちよく映った。

 一方、こっちは。女の子と一対一で食事するのなんて慣れてなくて、しかもナイフとフォークの使い方もよく分からなくて、ぽろぽろこぼしたりと恥ずかしい限り。すっごく緊張して食事を味わうどころじゃなかった。盛りつけも洒落ていていかにも女の子好み。こんな場所、初めてだ。

 デザートのプチケーキと小さなカップに入ったコーヒーを頂いたあと、彼女はナプキンで口を拭きながらちょっと拗ねた口調になった。

「私、こんな風に無視されたの初めてなんだから。本当にむかついたわ。責任取ってくれるんでしょうね?」

 

 ……えと?

 何なんだよ、どういうことだよ。いきなり一方的に非難されたって、どうしようもないだろ? だいたい、こっちに非があると思ったから、こうして食事をおごってるんだろうが。

 

 僕がきょとんとしてると、彼女は先に立ち上がる。そして「まあ、いいわ」と小さくため息をついた。

 可愛い女の子が僕の目の前で色々に変化する。上手に出来たシミュレーション・ゲームみたいだ。息を呑むほどの綺麗な顔が、こちらの言葉で瞬時に色を変える。頬の動きも、瞬きも、つくりものみたいなのにすごくリアルだ。いやホント、ここまでの映像だっておいそれと拝めないって。

 ……本物、なんだよなあ。

 正直、食事の最中も落ち着かなかった。いつ、カメラを首から提げた広報部の社員が飛び出してくるか、そればかりが気になって。だって、普通じゃない。絶対に「どっきりカメラ」なんだから。上手い具合に担がれてる馬鹿面をシャッターに納めようと思われてるんだ、そうに決まってる。

 そう思いながらも、心のもう片隅では、素晴らしいリアル映像を楽しんでいた。さながらデジタルハイビジョン放送だ。本当に、愛美花ちゃんは可愛い。陳腐な表現しか出来ないけど、今まで出会ったどんな女の子よりも可愛いと思う。だよなあ、『ナカノ・マスコットガール』なんて、最終選考に残っただけですごいステータスになるらしい。見合いの釣書にそう書くと全然違うって話も耳にした。

 

 地下鉄の入り口まで来て、彼女は振り向く。僕はもうちょっと歩いたところにあるJRで帰宅する。ふたりの通勤に使う路線は違うのだ。

「……今夜は、ごちそうさま」
 闇に溶ける淡い白に染まる息。11月に入ったばかりなのに、今夜はすごく冷え込んでる。街灯のオレンジ色が彼女に降りかかって、綺麗な陰影を作った。瞳のきらめきが強調される。

「え……いや。そんなこと……!」

 こんな風に笑顔を向けられて言葉をかけてもらえるなら、懐なんてちっとも痛まない。それに彼女が選んだ店は食事の内容や味にしては、かなりチープな値段設定だった。居酒屋でちょっと飲めば飛んでしまう1人分の料金で、ふたり分のディナーとテーブルワインまで楽しむことが出来たんだ。

 素直にお礼を言われて、こちらまで頬が熱くなる。どっきりカメラの幕切れはまだなんだろうか? ああ、こんな間抜け顔をまた社内報に載せられるのかなあ……。

「……あの、万太郎くん?」

 じゃあね、とか言われておしまいかと思ったのに。彼女は階段の降り口で立ち止まったまま動かない。どうしたんだろうなと思っていると、ものすごーく不満げな目で僕を見上げてきた。

「どうして、次のスケジュールを決めてくれないの? 段取り悪すぎだよ。私だって忙しいんだから、万太郎くんに合わせて全部あけとくわけには行かないんだからね」

 

 ――次の土曜日の予定はある? 専務はまだ出張でしょ……そんな風に言いながら、自分のスケジュール帳をぱらぱらと確かめてる。白い皮の表紙、お花の浮き模様。

 

「ちゃんと、チケットは前売りで買っておいてね」

 にっこりと笑顔で念を押されると、もう反論のしようがなかった。

 


 気が付いたら、すっかり彼女のペースに乗っかっていた。瞬く間に僕は愛美花ちゃんの新しい彼、と社内でも認識されてしまっている。もう、何が何だか、どうなっているんだか。「おはよう」のメールから始まる僕の一日はすっかり彼女色に染まっていた。

 いつの間にか、お互いの携帯のナンバーがプライベートなものに変わる。着信音だって、すぐにそれというものに変わっていた。だけどそれは、僕の意志ではなくて気が付いたら彼女がいじっていたもの。ちょっとしたいたずらは日常茶飯事で、そのたびに僕をドキドキさせた。

 

「今、どうしてるの?」

 KinKi-Kidsの新譜の着メロ。すぐに分かるから、車を道路のはじっこに寄せて停車する。一息ついてから着信ボタンを押すと、軽やかな声が響いてきた。電話を取れるときが限られているので、出なければさっさと諦めてくれる。そんな潔さが彼女の魅力だと思う。

「ええとね……実は、道に迷っちゃって」
 今日は土曜日だけど、休日出勤だった。午前中に雑用を済ませて、午後からは周五郎様を送迎する。会合が2つと、夜には別件のお約束が。一応、社員ではあるが、勤務時間外のプライベートの運転も僕の仕事になっていた。

 田所様から書類を届けるようにと言われたが、どうしても相手先の会社が見つからない。都内なんてあまり知らないし、時間はなくなってくるしで焦っていた。カーナビを使って、何度も住所を確認するのに……変だなあ、これって最新式型のはずなのになあ。

「まあ、今どこにいるの?」
 彼女の方は耳を澄ますと掃除機の音がしている。休日にひとり暮らしの部屋を綺麗にする……一流会社のOLも普通の女の子なんだなと思う瞬間。その部屋に上がったことはないけれど。

 僕が電信柱の住所を言うと、彼女はすぐに心得たようだ。丁度通っていた大学の近くだという。

「じゃあ、分かった。ナビしてあげる」

 シガープラグに差し込む携帯用のスピーカー。こちらがハンドル操作をしやすいような的確な道案内に舌を巻く。

 どうでもいいけど、愛美花ちゃんは可愛いだけじゃなくてかなり頭も切れるんだろう。高校時代に生徒会長だったという噂も本当かも知れない。もっとも、こんなに可愛い生徒会長が壇上に上がったら、みんな話を聞くどころじゃないだろうな。

 彼女の声に導かれながら、一方通行の道を上手にすり抜けて目的地にたどり着くことが出来た。こちらが恐縮していると、電話越しの彼女はなんてことない感じで言う。

「このくらい当然でしょ、気にしないで」

 にっこりと微笑んだ顔が浮かんでくるようで、何ともくすぐったい気分になった。


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