いつから、こんな風になっちゃったんだろう…? 考えても、よく分からない。あたしは難しいことが嫌いだ。本当なら、勉強をするのだって好きじゃない。でも…今通ってる学校は地元でも有名な進学校だ。私立ならではの中学高校一貫教育のカリキュラムが、毎年の卒業生の進学先にその結果を轟かせている。あれを見たら、普通の親は「我が子もっ!」と、考えるだろう。
ウチのパパとママに関してはその一般常識が通用しなかった。春菜ちゃんに言わせると「菜花ちゃんのパパとママは若いから、頭が柔軟に出来てるんだよ」とか言う理由になるらしい。どうなんだろう…う〜ん…。 「パパはガリガリと勉強する女の子は好みじゃないな。もちろん頭が空っぽじゃ駄目だけど。世の中を渡っていくには、学校の成績だけじゃ通用しないことがたくさんあるからね」 お酒を飲んでちょっとお口が軽くなると、パパはいつもそんな風に言った。それから、お決まりのようにママの方を見る。 「千夏はね…やっぱり最初から、ああ違うなって思ったよ。そんな風にきらっと光るモノがあればいいとパパは思うな…」 ああ、もう。ママってば、耳まで真っ赤になってるよ? 人前でそんな風に言われたら、誰だって普通じゃいられないだろう。それがリビングでギャラリーは子供たちだったとしても。
「西の杜ねえ…」 でも、あたしの心には微塵の迷いもなかった。小学校3年生の時だったけど。
だって、だって。 「僕、中学受験をすることにしたんだ」 「じゅ、受験っ!?」 「父さんがね、大阪に来ないかって言ってるんだ。でも…もしも、中学受験して『西の杜』に行けるなら、こっちにいてもいいって…」 ぼそぼそと、口の中で岩男くんが説明する。いつも恥ずかしそうにしゃべるけど、今は特別にそんな感じだ。でも、特別な秘密をしゃべってくれるのがとても嬉しくてたまらない。あたしはみんなに気付かれないように、歩く速度を落として岩男くんに並んだ。 岩男くんのパパは単身赴任先の大阪で再婚した。新しい奥さんと暮らしているお家に岩男くんを呼びたいって言ってるらしい。それは岩男くん本人じゃなくて、おばあちゃんから聞いた。そして、岩男くんが行きたくないって思っていることも。 「西の杜に行くには、いっぱい勉強しなくちゃいけないね…」 とはいえ。岩男くんはいつもクラスで1番だった。大人しくて、いるかいないか分からないような男の子だったけど、かけっこは早いし、リコーダーだって素敵に吹ける。もちろん、西の杜に行くには特別の進学塾に通ってたくさん勉強しなくちゃいけないけど…それでも、岩男くんにとってはそう遠くない場所だと思った。 …そうかあ。岩男くんは違う中学に行っちゃうんだ…。 突然、目の前が真っ暗になった。崩れちゃうくらい悲しいってこういうことを言うのかも知れない。岩男くんとはお家も近いし、だから中学の学区も同じだし…上手く行けば高校だって同じところに行けると思っていたから。 「…菜花ちゃんは…?」 「菜花ちゃんも、西の杜に行かない?」 「…え。――ええっ!?」 「無理だよぉ〜、あたしが行けるわけ、ないじゃないの。やだなあ〜、岩男くんは…」 そう言うのと一緒に、あははって乾いた笑いがこぼれてしまった。すごく情けない気分。 ――なのに、岩男くんの方は。そんなあたしの態度なんて、全然無視して。ちっちゃい目でまっすぐにあたしを見て、言った。 「行こうよ、菜花ちゃん。一緒に、西の杜に」
だって、だって、岩男くんは。そんな風に自分から何か言ったりするような男の子じゃなかった。あたしは遊びに来て欲しい時に誘うけど、岩男くんから「一緒に遊ぼう」って言ってもらったことない。弟の樹は生まれた時から岩男くんと一緒だったから、来ないと不機嫌になる。そのころにはもう、樹はあたしよりも岩男くんの方がずっと好きになっていた。 心臓がばくんと波打って、信じられないほどの熱いものが胸の内側で爆発する。嬉しい、と言うよりももっと大きな感情があたしを支配していた。
パパがいつも言ってる。大好きというキモチは何もかも塗り替えてしまうって。それくらい、大切なモノだって。パパはママのためにならどんなことだって頑張れるって。 その時。愛の力、と言うものをあたしは初めて知った。
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こんこん、と控えめにノックの音がして。お部屋のドアが開いた。 お友達のよりは少し狭いけど、あたしたち姉弟には3人ともちゃんと個室がある。プライベートルームはそんなに立派じゃなくていいというパパの考えで、あたしの家はリビングだけがとにかく立派に造られている。ホームパーティーも出来るくらいだ。だから、小さい頃は勉強の机もそこに置いていた。 「ママ…?」 テスト前だと言うのに。あたしはベッドの上でごろごろしていた。ママはそんなあたしを見て、ちょっと困ったように笑ってから、部屋の中に入ってきた。小首を傾げる角度とか、頬に手を当てる仕草とか…とにかくママはぶりっこじゃないのに可愛い。どうしてなのかなと思っちゃう。 「あのねえ、菜花ちゃん」 ママはもったいぶったように微笑むと、後ろに隠していた紙袋を取り出した。 「お使いを、頼まれて欲しいの」 「え〜〜〜〜っ…?」 「嫌なら、いいんだけど…」 「これを…岩男くんに、届けて欲しいのよ」 「――えっ!?」 がばっと、起きあがってしまった。えええ、どういうこと? ママ、どうしていきなりそんなことを言い出すのっ!? 慌てて紙袋の中をがさがさすると、中に入っていたのは男物の服だった。Tシャツにトレーナーにハーフパンツに…。新品のタグが付いているモノもある。どれもパパが着てた覚えのない服だ。 「ほら、ショーのお仕事を持ってきてくださる大垣さんがね、色々なお仕事で使った服を定期的に下さるでしょう? でもこのごろの服は大きくて…パパも体格がいい方だと思うんだけど、着きれないし似合わないのもあるの。今まではリサイクルとかに出してたんだけど、この前そうかと思って。岩男くんに似合いそうなものを見繕っておいたのよ」 「え? でも…」 さっきまで、岩男くんが来てたんでしょう? どうしてその時に渡さなかったの? 持っていって貰えば良かったのに。あたしの気持ちが分かったのだろう、ママはちろっと舌を出して首をすくめた。 「…忘れちゃってたの」 そのあと、お口の中で「わざと、ね」と呟いた。 あたしは少しの間、う〜んと考えていた。でもそのあと、起きあがった身体をもう一度ばふっとベッドに埋める。 「樹にでも頼んでよ。…あたしが持っていっても、岩男くんは喜ばないわ」 「そんなことないわよ、大丈夫よ?」 あたしを慰めようとしてくれてるのか。ママはベッドの端に腰掛けたみたい、マットレスが少し傾く。 「…そんなこと、あるもん…」 「菜花ちゃん…」 「駄目だよ、菜花ちゃん。好きなら、もっと頑張らなくちゃ」 …え? あたしはママの手を払いのける感じで、ごろんと仰向けに向き直った。どうして? ママがそんなことを知ってるの? ママはびっくりしているあたしの顔を優しい瞳で辿りながら、話を続けた。 「とってもとっても好きなら、きちんと伝えなくちゃ。ちゃんと気持ちを伝えないで諦めちゃ駄目だと、ママは思うわ…」 「ママ…」 何だか信じられなかった。ママがこんなことを言うなんて。絶対に似合わない。ママはパパにすごく愛されている。もう、うざいってくらい愛されて、恥ずかしいくらいの愛の言葉をいっぱい言われてる。 大変そうだなと思いつつも、心のどこかで憧れていた。あんな風に息も出来ないくらい愛されてみたいなと思って。馬鹿馬鹿しいと思いながら、その反対側ですごいなと思っていた。 「ママは…どうだったの? パパにちゃんと、言ったの…?」 ちょっと非難がましい感じだったかな? だって…想像付かないもん。パパはママを押しの一手でゲットした、そうとしか思えない。 「う〜ん、そうねえ…」 するとママは。ちょっと遠くを見るような目になって言った。 「どうだったかしら、良く覚えてないの。だって、ずっと昔のことだもん」 「良くは覚えてないけど。でもね、菜花ちゃん、ママはパパのこと、すごくすごく好きだったと思う。だって泣き虫ですぐに諦めちゃうママが、パパのことだけは絶対諦めなかったんだから。それくらい、好きだったんだと思う…」 …うわ。 なんとなしに、そんな風に言わないでよ。あたしの方が真っ赤になっちゃうじゃないの。ママ、どうしちゃったの。いつもと違うよ? ゆっくりと顔を上げて。ママの方をじっと見た。ママは春の霞のような素敵な笑顔になって、あたしのおでこと自分のおでこをこつんとぶつけた。 「ママ…?」 「大丈夫、菜花ちゃんはとびきり素敵な女の子よ? …だって、パパの娘ですもの」 「ままままま…ママっ!?」 ひ〜、どうしちゃんたんだろう。もう、調子狂っちゃう。でもママは慌てふためくあたしを、そのままぎゅーっと抱きしめてくれた。ママのお花のような香りがして、それが自分に移っていくような気がする。とっても気持ちよくて、でもって少しだけ泣けた。
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幼稚園の時。家族が留守で寂しくて泣いていたあたしを、岩男くんは一生懸命慰めてくれた。それまでは恥ずかしがり屋でいるかいないか分からないような男の子だと思っていたけど、その日を境にあたしの中で岩男くんはとても大切な存在になっていったのだ。 小学校に上がる頃には。もう樹は岩男くんに夢中だった。兄ちゃん、兄ちゃんと雛鳥のようにくっついて離れなくて大変だったのだ。でも、それはあたしにとってもちょっとだけ嬉しいことだった。 「樹がね、岩男くんにやって欲しいことがあるんだって」 たとえばプラモの組み立てだったり、TVゲームの特殊技のあみだし方とか。そう言うのを樹は岩男くんに聞きたがった。あたしも梨花も男の子の遊びはよく分からない。だから、呼んできても遊んでるのは彼らふたりで、あたしは隣で眺めているだけだった。 分からないとすぐにヒステリーを起こす樹に、岩男くんは根気強く何度も何度も言って聞かせる。学校の先生よりもずっと忍耐強いと思った。時々はあたしや梨花が勉強の分からないところを聞くこともあったけど、そう言う時にも同じだった。いつもよりしっかりした自信のある声で、岩男くんは鉛筆を動かしながら説明してくれる。くすぐったくて、温かい時間だった。 いつもいつも、一緒だったのに…どうしてなんだろう。
だって。岩男くんは、あたしが何か話しかけようとするとすごく嫌そうな顔をするんだもん。あの態度を見たら、どんなに心臓に毛が生えている人だって躊躇すると思うわ。これが、誰に対しても同じような態度を取るならまだ分かる。でもっ…違うの、岩男くんが毛嫌いするのはあたしだけなんだ。 せっかく、苦労して西の杜に入ったのに。全然駄目じゃないの。岩男くんと約束したあの日から、あたしはもう人が変わったみたいに頑張って勉強した。それまではクラスで真ん中くらいだった成績が、3年生が終わる頃には5本の指に入るくらいになってきて。もちろん、進学塾にも通った。 学年が上がるにつれて、岩男くんとあたしの身長差がだんだん開いてきた。あたしの身長は150センチを過ぎた辺りで伸びなくなってしまったのに、岩男くんはぐんぐん伸びていく。中3の今ではなんとパパよりも大きくなってしまった。パパは確か180センチ近くあるはず。それよりもでっかいなんて。
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タチアオイがすっくりと伸びて出迎えてくれる。このお花は岩男くんのおばあちゃんが丹誠込めて育てたもの。彼女は70才を過ぎてもやっぱりしっかりしていて、お稽古ごとやその他の用事で家を空けることが多い。岩男くんももう大きいから心配ないし。お泊まりの時もあるって聞いたことがある。太い茎の根元の辺りでは、松葉ぼたんが眠そうに花びらを閉じていた。
ピンポーンのないお家だから、がらがらとお玄関を開けて中を覗く。あ、おばあちゃんの草履がない、今日もお出かけなんだ。 「ごめんくださ〜い…」 そんなに大きな声じゃなかったけど、きっと奥まで聞こえたはずだ。がたがたっと物音がして、そのあとミシミシと足音がしてきた。 「あ…」
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