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… 「片側の未来」番外☆菜花編その2 …
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「…何?」

 モスグリーンで胸のところに英語のロゴの入ったTシャツを着て、下は普通のジーンズ。ターコイズだけどはき込んでいるらしくて、膝の辺りはだいぶ白い。前髪が少し長めのスポーツ刈り。いつも学校で会ってるはずなのに、私服だとちょっと違う人に見える。

 岩男くんはお玄関に現れたあたしを不思議というよりも不審の目で見ながら、それでも廊下を進んできた。

「あ、あのっ…ママにお届け物を頼まれて…届けに来たの」

 ああん、どうしてこんなに緊張するんだろう。紙袋の取っ手を持った手のひらが汗ばんでる。耳元でリボンがかさかさと揺れる。今日はパンダさんみたいなお団子をふたつ作ってる。その周りに細いリボンをぐるんと巻いた。
 フチに白いレースの付いたTシャツはタンクトップと半袖の二枚重ね。チェリーレッドの地に細かい水玉模様。スカートはオフホワイトの細かいプリーツだ。パパは短いスカートは嫌と言うけど、あたしのクローゼットはテニスのスコートみたいなスカートばっかだわ。

 これでも、一生懸命コーディネートして来たんだよ。分かってるのかな? …分かってないだろうなあ。

「そう」
 岩男くんは短くそう言うと、さっと右手を出した。その瞬時の反応に付いていけずに顔を上げると、また岩男くんの視線とぶつかってしまう。もう泣きたくなっていた。

「あ、あのっ…」

「千夏さんに頼まれたものがあるんでしょう? じゃあ、渡して。用事はそれだけでしょう」

 …ひどい。そんな風に言わなくたっていいじゃないの。ママ、やっぱりあたし来ない方が良かったんだよ。無理に勧めてられて、こんな辛い思いをするなんて。すごい悲しい。

 あたしは涙が溢れそうになるのを我慢して、そろそろと差し出された手の方に紙袋を持ち上げた。でも、もうちょっとで手に取れる、という距離で、ばっと自分の方に戻してしまった。

「…菜花ちゃん?」
 ふざけないでよ? という非難を含んだ声。いつしか岩男くんの声のトーンはぐぐっと低くなった。大人の人の声だ。おなかから出しているみたいな響きには何とも言えない威圧感がある。

「用事、それだけじゃ、ないもん…」
 消えそうな声を絞り出すと、きゅっと唇を噛みしめた。

「あ、あたしね。数学で分からないところがあるの。一生懸命考えたんだけど、どうしても分からなくて。だから、岩男くんに教えて欲しいのっ…!」

 精一杯の勇気だったと思う。分からない問題があったのは本当だ。でも…参考書とかまで持ち出してみた訳じゃない。半分はでっち上げだったかも知れない。もう必死だったから。

「菜花ちゃん」
 岩男くんは、困ったようにひとつため息を付いた。

「オレだって、明日のテストの勉強してるんだけど。他の人に聞けば? …水馬さんとか、数学得意じゃないか」
 水馬さん、というのは春菜ちゃんの姓だ。ひどいよ、お願いしてるのにこんな風に突っぱねるなんて。だって…樹の宿題は見てやったんでしょう? 特殊アイテムだって手に入れてあげたんでしょう? 弟の樹には優しくできて、どうしてあたしにはこんなに意地悪言うの…?

 …もう、限界。これ以上、惨めにはなりたくない。「君と付き合えないなら、もう身の破滅だっ!!」とか馬鹿馬鹿しい告白をしてくる男の子たちを冷たく見つめてきたけど、実際自分がそうされるのはあまりに悲しい。しぼんでいく心。もうここから逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。

 でもっ、でもっ…! 今日はもう勇気をてんこ盛りで来たんだから。絶対に諦めないぞって思って来たんだから…!

「いっ…岩男くんっ!! 人に教えると言うことは、自分の中にその知識を植え付けると言うことなんでしょう? だったら、あたしに数学を教えてくれたら、岩男くんの為になるんだよ。ついでだもん、いいじゃないの、教えてよっ!!」

 あたしの言葉を受けて。岩男くんは心底呆れた顔をしていた。でも、とうとう観念したようだ。すっと身体を横にして、道を空けてくれる。

「…いいよ、ちょっとなら。上がって」


 開け放った窓の外、風鈴が揺れてる。岩男くんはお座敷のちゃぶ台の上に教科書やノートを広げていた。奥のお仏壇の部屋に岩男くんの机はあるんだけど、南向きのそこは夏場の日中は陽が入って、かなり暑いのだ。ここのお家はクーラーもないし。畳の上に置かれた冷風機が涼しげな風を運んできていた。冷えたお水や氷水を使って、外気よりも何度か低い風を送る奴だ。

「どこ? 分からないのって…」

 岩男くんはあたしに座布団を勧めながら、ノートをのぞき込んできた。ふわっと、岩男くんの匂いがしてくる。それがあんまりに男の人みたいでどきどきした。

 問題の解き方を教えて貰っている時も、鉛筆を握る太い指先ばかりが気になって落ち着かない。不謹慎だと思うけど、ふたりっきりだと思うとすごく緊張していた。

 …あたし、今、岩男くんの側にいるんだ…。

 心臓があまりにどきどき言うので、知らないウチに呼吸まで速くなる。でもっ、気付かれちゃ駄目。あたしがこんなになってるって分かったら、岩男くんはまた呆れちゃう。普通にしてなくちゃ、普通に。

 だって、一緒に、こんなに近くにいられるなんて、本当に久しぶりなんだから…。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 西の杜の中等部に入学した頃。だいぶ遠くなってしまった岩男くんに少しでも近づきたくてもくろんだのは…同じ部活にはいることだった。西の杜は文武両道の精神に乗っ取っていて、もちろん進学率もいいんだけど、スポーツや芸術関係も盛んだ。たくさんの部活動があって、どれも活発に活動していた。

 …でも。

 情報通の春菜ちゃんが仕入れてくれた事実。なんと岩男くんは柔道部に入ってしまったのだ。それも入学式の後、速攻で。あたしはがっくり来た。せめて野球部とかサッカー部だったら、女子マネになれたし、バスケやバレーなら男女一緒だ。同じ武道なら剣道にしてくれたら。それなら女子部もあったのに。
 柔ちゃんがTV画面でにこやかな笑顔を振りまいてくれても、女子の柔道部がある学校なんて少ないと思う。それどころか、ウチの柔道部は女子禁制でマネージャーも男子のみだったのだ。

 春菜ちゃんはもちろん音楽部に入ってしまって。あたしはひとりで途方に暮れた。でも、どうにかして岩男くんの側にいたい。同じ部活じゃなくても、近くで活動していれば…格技館の建物の周りをあてもなくうろうろしていると、足元にボールが転がってくる。テニスの黄色い奴だった。格技館の、柔道場の近くまで飛んでくるボール…その瞬間、あたしの入部先が決まった。


「あ、ごめ〜ん…」

 あたしのお決まりのフェンス越えに、ペアを組んだ美月ちゃんが苦笑いしてる。テニス部の同級生のみんなには岩男くんのことは話してなかったけど、先輩や同級生の男の子たちに呼び出されては告られるあたしがだれにもなびかないのには、それなりの理由があるんだと内心、思っていたみたい。
 まあ、テニス部のみんなはあたしのパパの私設ファンクラブを作っている。「あんな素敵なパパがいたら、縁遠くなっても当然ね」と言われていた。

 ボールがフェンスの外に出た時、拾いに行くのはいつもあたしだった。自分の時はもちろん、先輩が飛ばしたボールだって拾いに行った。1年生の頃は気が利く後輩だと誉められて、ものすごく後ろめたかったけど。…だって、そんな素敵な心がけじゃなかったもん。それは3年生になっても変わらなかったりする。

「おらおら〜っ! 何、へなってるんだっ!! 声出せっ、声っ!!」

 とんがり屋根の格技館。道場に響き渡る声が外まで漏れてくる。うわ、すごい。男の世界だ…。そろそろと足音を立てないように近づいて、半開きの扉からのぞき込む。むわっと独特の匂いがして、ちょっと怖いけど、扉の向こうは逞しい男たちの世界だった。その中で腕組みしてひときわ目立っている…中等部の主将。それが岩男くんだ。

 小学校の頃から道場に通っていたから。1年生で入部した時から結構強かったみたい。時々は先輩に混ざって団体戦に出たり、あと個人戦にも同級生の中で一番早く名前を連ねた。普段は大人しい岩男くんが、部活の時はとても勇ましくて。時々かいま見るその姿には。足の底から何だかぞわぞわっとしたものが湧きあがって来るくらい、感動していた。
 柔道着の袖からぬっと出た腕が太くて逞しくて。練習中にはだけた胸元にくらくらして。何十人も部員がいてもあたしは岩男くんしか見てなかった。

「…あ、もしかして。菜花ちゃんじゃないの…?」

 道場の奥から、そんな声が突然聞こえてハッとする。柔軟を終えて、一休みしていた部員たちがあたしのことを見つけたらしい。もうびっくりして、ささっとその場を離れた。でも、まだ名残惜しくて扉に隠れてもうちょっと佇む。彼らの話が続いていた。どうも2年生の後輩たちみたいだ。

「テニス部なんだよな〜可愛いねえ…あんな子が彼女だったらどんなにいいだろう」

「馬鹿いえ、この前3年の生徒会長が告って玉砕したってもっぱらの評判だぞ。俺たちなんて相手にされるわけねえじゃないか…」

 あたしがここにいるなんて知らないから。だから、扉の向こう側でごしごしと汗を拭いながらおしゃべりに興じている。

「でもな〜駄目モトで…上手く行けば1日くらいデートして貰えたりしてな…」

「サテンでお茶するだけでもいいぞ。菜花ちゃんににっこりと微笑んで貰ったら…」

「何せ、3年連続『ミス・西の杜』だろ? 高等部のお姉様方を差し置いて、すげーじゃないか」

 …と、そこに。会話をかき消すほどの勢いで、どかどかと畳の上を歩いているのにすごい地響きが聞こえてきた。

「おいっ! いつまでダレてんだっ!! 次行くぞっ!」

 ドアが少ししなる。向こう側で立ち上がったらしい。「すみません、主将!」とか言う声が聞こえてくるけど、それを聞かなくても怒鳴ったのが誰だか分かっていた。

 …すごい、格好いい…。

 鉄製の扉越しに聞いた怒鳴り声なのに、胸がときめいてしまう。あたしはボールを持ち直してテニスコートに足を向ける。一瞬だけ見た、岩男くんの立ち姿がその日一番の収穫だった。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


「じゃあ、菜花ちゃん。似たような問題を出すから解いてみて?」

 その声で、あたしは現実に戻ってきた。岩男くんがすらすらと参考書から問題を移してくれる。ついでに図形まで、フリーハンドなのにとても綺麗に描いてくれた。ああ。もうこのノートは永久保存版かも知れない…だって、岩男くんの直筆なんだもん。こんなに素敵なモノはない。

 あたしは鉛筆を動かしつつ、岩男くんの方をちらっと盗み見た。彼は勉強の方は一休みなのか、生徒会のファイルを広げている。真面目な横顔がりりしい。

「あの…岩男くん」
 これ以上、嫌な顔はされたくないから、出来るだけシンプルに話しかける。

「生徒会、忙しい? …大変なの?」

 岩男くんはファイルから顔を上げた。そして、心配していたほどは冷たくない瞳であたしを見る。

「そりゃあね、ウチの学校だと生徒がしっかりしてるから。やりがいがある分、気が抜けないね。生っちょろいやり方だと、非難ごうごうだし…」

 そうなの。岩男くんは中等部の生徒会副会長をしていた。ふたりいるうちのひとり。先生方が「是非、会長に」と強く勧めてくれたのだけど、それは器じゃないって辞退して。結局は副の座に落ち着いた。
 でも実際は口ばっかで全然実行力のない会長だから、縁の下の力持ちで全てを円滑に進めているのは岩男くんだと思う。柔道部の方だって忙しいのに、本当にすごいなと思う。

「そうかぁ…」
 あんまりしつこく聞いたら嫌われるだろう。あたしは話を切って、問題に目を落とした。岩男くんに教えて貰った解答への道筋はとても分かりやすくて、今度はすらすらと解ける。一度クリアしてしまえば簡単なんだよなといつも思う。

「菜花ちゃんだって」
 岩男くんが話を続けてきたのでびっくりした。すぐに会話は打ち切られると思ったのに。

「生徒会、やれば良かったのに。立候補すれば絶対に当選だったでしょう…?」

 …え?

 思わず、顔を上げてしまった。でもその時には岩男くんはもうファイルを読み始めていて、あたしたちの視線は絡み合うことはなかった。

「だ、駄目だよ〜。あたしなんて、柄じゃないもん…」

 適当にちゃかして、ノートに戻る。でも、ちょっと口惜しかった。どうして今更、そんなこと言うのよ。酷いじゃないの。


 今から3年以上前、5年生の終わり頃のことだったと思う。小学校の児童会役員を決める時。受験組で成績の良かったあたしたちは当然のように候補者のリストに上がった。それまでも岩男くんもあたしもクラスの委員は良くやっていたし。先生の推薦の子もいて、自分から名乗りを上げた子もいて、人選は難航した。
 中でも絶対に譲らないと頑張っていたのは幼稚園が一緒だった成川鷹司くんだった。覚えてる、政治家の息子。…おじいちゃんが参議院に行っちゃったので、今はパパが県議会議員だ。そのうち、市長選に出るらしいわ。

 正直言って、あたしは児童会には興味がなかった。岩男くんが一緒だからやりたいなとか思ったけど、強い希望があった訳じゃない。だから先生に断ろうと思った。そして、職員室に入ろうとしたら、先客がいた。岩男くんだった。

「…どうしても、降りるのか? 何か理由があるのか?」
 担任の先生がそんな風に聞いてる。あたしはドキッとした、どうして岩男くんがそんなことを…。

「誰か気に入らない奴でもいるのか? 先生は杉島には絶対にやって欲しいんだけどな」

 杉島、とは岩男くんの姓だ。あたしはとんでもないことを立ち聞きする羽目になって、どうしていいのか分からなくなった。でも立ち去ることも出来ないまま、話を聞いていた。そのために、聞かなくてもいいことを聞いてしまう。

「菜花ちゃんが…一緒だから、嫌です」

 そして、本当に。岩男くんは児童会の役員候補から外れた。あたしは立候補して当選。副会長として2期務めた。あたしも乗り気ではなかったけど、先生から児童会をやっていれば受験に有利になるからと言われて断れなかった。でも…岩男くんがいない場所なんて、つまらなくて。それより、岩男くんのあの言葉が本当にショックだった。

 だから、同じように中等部で生徒会の話が上がって。生徒会役員の先輩が打診に来た時に、あたしは頑なに断った。岩男くんのところにも話が行っていることは知っている。だから、もしもあたしがやると言えば、また彼は降りてしまう。そんなのは嫌だった。


「…あたし。髪の毛、黒く染めようかな…ストパーもかけて、さらさらになったら素敵だと思うんだけど…」

 解けた問題を確認して貰っている時、ぽつんと呟いてしまった。岩男くんが驚いて顔を上げる。

「なんか、軽々しく見えて…嫌なんだ。この髪…」

 生まれつき、茶色味が強い癖っ毛。まるでパーマを掛けているみたいだった。先生方にそうやって疑われたこともある。証明書を書かされたこともある。パパとママは全然気にしてないけど、あたしは落ち込んでしまった。ちゃらちゃらして見えるなってすごく嫌いになった。

「菜花ちゃん…」
 岩男くんは眉をひそめて顔を上げた。

「ご両親から頂いたものを、そんな風に言っちゃ駄目でしょう…?」

「だ、だってぇ…」
 岩男くんの言ってることは、正しい。あたしは言葉が続かなくなって、下を向いてしまった。


 …だって。

 岩男くんと同じ、副会長の鈴原さん。違うクラスの子だけど、いつも岩男くんを呼びに来るでしょう? 髪の毛がさらさらのストレートでその上、真っ黒だ。知的美人と言った感じ。くっきりした眉毛も闇のような瞳もみんな羨ましかった。
 でも、何よりも羨ましかったのは。彼女には…岩男くんが普通に話をすることだった。時々、笑い声が聞こえたりもする。聞きたくないのに、耳に飛び込んでくる。そのたびにあたしはすごく嫌な女の子になっていくような気がするんだ。

 岩男くんが、あたしのどこを気に入らないのか、全然分からない。あたしは昔と変わったつもりはない。それなのに、岩男くんが遠ざかっていく。岩男くんに嫌われるあたしなんて、もういらないと思った。岩男くんの隣にいて、笑っているのはあたしのはずだったのに。あたしがいつでも岩男くんの一番近くにいられるんだと思ってたのに。

 …どうして?

 どうして、離れていくの? あたしから遠いところに行ってしまうの…?

 みんなはあたしのこと、可愛いって言ってくれるんだよ? 男の子も女の子も。性格だってそんなに悪くないでしょう? タカビーな女は同性から嫌われるって言うけど、あたしはそうじゃないもん。女の子のお友達だって、いっぱいいるよ?

 ――岩男くんだけだよ、あたしのこと、嫌うのは。

 岩男くんに嫌われないためにだったら、あたし何でも出来るよ? どんなに大変だって頑張るよ? …でもっ…岩男くんは離れていくばかりで。


「ほら、ちゃんと出来ているよ。…これでもういいでしょう? 千夏さんのことづけって何かな、それ受け取ったらもう用は済むんでしょう?」

 あたしにノートを渡しながら、あっさりと言う。言葉は優しいけど、響きの冷たさがあたしの胸にぐさっと突き刺さった。

「…お洋服。パパに大きすぎて着られない奴。ママが、岩男くんにどうぞって」
 おずおずと、紙袋を差し出していた。

「へえ…」
 岩男くんはその中を見て、少し嬉しそうな顔になった。その微妙な笑顔はあたしのためのモノじゃなかったけど、それでも胸がじんとした。だから、ちょっぴりだけ、勇気が出る。

「あ、あのっ…着てみない? 試しにどれでも」
 そう言いながら、あたしは紙袋を奪い取って、ごそごそした。そして、薄目のトレーナーを取り出した。時間稼ぎをしなくちゃ。ちょっぴりでも一緒にいられる時間を延ばすんだ。

「これなんか、きっと似合うよ? すごく格好いいと思う…今の服の上からで大丈夫だし」

 パパが良く着てるメンズブランドだ。さりげないかたちと色合いだけど、シックで大人っぽい。そして素材もすごくいい。真夏にトレーナー。岩男くんはちょっと迷ったようにしてたけど、頭からばふっと被って着込んだ。裾を引っ張るとあたしの方に向き直る。

「…どうかな…? おかしくないかな」
 少し恥ずかしそうに、ほっぺが動く。あたしをまっすぐに見ている瞳。もう心臓が飛び出しそうだった。

「だ、大丈夫だよっ! すごく似合ってるっ…」

 ママの見立てだもんね。ママはお洋服選びが上手だ、それもその人にきちんと似合った素敵な組み合わせを考えてくれる。たとえばあたしにはビビットカラーの可愛いデザインが多いけど、妹の梨花はシンプルなあっさり系。弟の樹はやんちゃな男の子の装いだ。パパのお洋服だってちゃんとコーディネートしてる。

 お友達のみんなは。岩男くんのこと、ダサイねとか地味男くんだね、とか言う。でもっ…そんなことないもん、岩男くんはとっても素敵。あたしにとっては誰よりも輝いて見える。こうして質のいいお洋服を着たら、もう更に素敵になって、ドキドキしちゃう。

「…ふふ、なんかパパみたい。パパがこのブランド、よく着てるんだもん…」

 パパみたい、と思ったら。何だか今までのわだかまりがすうっと抜けていった。まるで仲良しだった頃に戻ったみたい。自然に頬がほころんでいく。

 そうっと、手を伸ばした。トレーナーに指先が触れる。しっとりと吸い付く感触…パパの服と同じだから、だんだん勇気が膨らんできた。

 …あたし、岩男くんの側に行きたい。

「ふふふ…本当。パパみたい…」
 膝で前に進み出て、そっと腕を回してみる。パパよりも広くてがっしりした背中。そのままきゅっと、しがみついた。

「ななな…菜花ちゃんっ!?」
 突然の行動に、岩男くんが慌てて叫ぶ。

「何してんだよっ! 離れてくれよっ…」

「やっ…」
 拗ねるように鼻を鳴らした。頬にトレーナーの柔らかい感触を受け止める。そっと目を閉じたら、岩男くんの匂いがした。パパとは違う、全然違う男の人の匂い。でも…これはパパだって思うことにする。パパになら、きゅうって出来る。いいじゃないの、少しの間だけ昔に戻ってよ。あたしと仲良しでいつも一緒だった岩男くんに戻ってよ。

「なっ、菜花ちゃんっ!! 駄目だってっ…!」

 岩男くんの身体が一瞬、きゅっと固くなって。次の瞬間、あったかい感触が消えた。

 ――ばんっ!!

 背中が。壁に打ち付けられる。その痛さにくらっときて、それからゆっくりと瞼を開いた。

「岩男…くんっ…?」

 目を開けたら。さっきまでとは全然違う、ものすごい怖い顔をした岩男くんが視界に飛び込んできた。怒りのせいか、体中がぶるぶる震えている。

「馬鹿っ!! どうしてっ…、やめてくれって言っただろうっ!」

 払いのけられて、その反動で身体ごと吹っ飛んだのだ。勢い余って壁にぶつかって。自分に起きている今の状況を把握するまでにあたしはいくらかの時間を要した。


 …岩男くん。


 あたしの中で、何かががちゃんと壊れた。それはとても大切なモノで、壊れたら元には戻らないモノだった。唇が自分の意志を離れて、勝手に動く。

「いっ…岩男くんの方こそ、馬鹿っ…!! 大嫌いっ…!!」

 何もこんな風に乱暴にすることないじゃない。ほんのちょっとの間くらい、どうしてだめなのっ!?


 今まで我慢していた涙がどどどっと溢れてくる。それが頬を伝っていくのも構わずに、あたしは部屋を飛び出していた。そして後ろ手にふすまをしっかりと閉める。

「…菜花ちゃんっ!」
 ふすま越しに岩男くんの叫び声がする。でも、もう答えられなかった。涙が後から後から溢れてきて、絞りだそうとしても声が出なかったのだ。

「菜花ちゃん…」

 あたしを繰り返して呼ぶ岩男くんの声が、だんだん小さくなる。そして、最後に、ぽつんと呟いた。

「…どうして、オレの部屋に籠もるの?」


 

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