ふすまの向こうに耳をすましていた。ぎしぎし、といつも通りの静かな足音。それがだんだん遠くなる。やがて、ちゃぶ台の前に座った気配がした。
今でこそ、こうやって訪れることもなくなったけど、ちっちゃい頃はあたし、本当によくこのお家にお邪魔していた。おばあちゃんがいない時はふたりっきりで、たまにはちょっとしたことでケンカしたりもする。そんなときふたりですごく気まずくなって、狭いお家の中で二手に分かれて。それでしばらくは静かにしていた。どちらかが折れて、ごめんねって言うまで。 「今日は、岩男くんちで遊ぼ?」 でも…それでいいと思っていた。岩男くんのこと、みんなが認めたら、あたしだけの特別じゃなくなっちゃう。そんなのやだった。
あたしの目の前は大きな窓。開け放たれていて、その向こうに傾きかけた日差しを浴びたまぶしい夏がある。蕾が今にも開きそうなひまわりが垣根づたいにたくさん植えられていて、その根元にアスターがあって。窓の前にはヘチマの棚が作られていた。黄色いお花が咲き出したところ。ここで作るヘチマ水はパパのお店の人気商品だ。岩男くんのおばあちゃんは何でも作っちゃう。すごく上手。 窓際には小さめの机がある。岩男くんのパパが使っていた机を貰ったんだって聞いた。その上はきっちりと整頓されていて、机に置かれたデスクマットの下には色々な印刷物が挟まれている。二重になっていて上が透明のやつ。さすがに開けてみたりはしないけど、岩男くんの引き出しの中はきっととても綺麗に整理されていると思う。本棚も整列したみたいにすっきり。 右手の壁には埋め込み式のお仏壇。岩男くんのおじいちゃんとママの位牌が置かれている。それから岩男くんのママのお写真。全然歳を取らないから、初めて見た時と同じ笑顔。今でも毎朝、お茶とお線香をあげてるのかな? 何か作った時はお供えするのかな。 …岩男くんのお部屋になんて、本当に久しぶりに入ったな。 お部屋の真ん中まで来て、くるりと回れ右をする。うんともすんとも言わないふすまの隣りに、一間分の押入があった。天袋付きの奴。そうっと近寄って左側をすすすっと開けてみる。男の子のお部屋なんだから、もしかしたらえっちな本とかたくさん隠してあったらどうしようかと思ったけど。そこは呆れちゃうくらい、昔のままだった。 上の段に岩男くんのお布団、下の段におばあちゃんのお布団。岩男くんは毎朝、おばあちゃんのお布団も自分のと一緒にたたんで、夜になるとふたり分支度するんだって言ってた。おばあちゃんが腰が痛くて大変だからって。今は、おばあちゃんはちゃぶ台の部屋で寝ているらしいけど、やっぱりお布団は岩男くんの担当なのかな? ちっちゃい頃は、よくこの中に籠もって遊んだ。ふすまで開け閉めするお布団用の押入はあたしのウチになかったから珍しかったんだ。ふすまをぴたっと閉めても、隙間から光が漏れて、あんまり寂しくなかった。だからかくれんぼの時はよく使った。お布団の中だからやめなさいって、叱られたけど。 上の棚は昔よりずっと下に見えた。よじ登るのに苦労したのが嘘みたい。さすがに熱のこもった押入の中はむっとしたけど、あたしは何だかとっても懐かしくなって、そっと潜り込んでみた。半開きのふすまと左の柱に手を掛けて、ぐぐっと登る。お布団を掴んだら、そのまま滑り落ちちゃうから。 …すごい、迷惑だと思っているんだろうなあ…。 予感はしてたけど、そんなもんだとは思っていたけど。それでも、あたしがお玄関に顔を見せた時の岩男くんの態度は酷かったと思う。どうしてあんな風になっちゃったんだろう。もしかしたら決定的な「何か」があったんだろうか…? それだって、いっぱい考えたけど、答えなんて出なかった。 なんか、もう…すごい面倒になってきた。どうしたら、どうしたらって、たくさん考えて。どうして、どうしてといっぱい悩んで。でも、岩男くんはあたしの側に来てくれない。あたしが近寄ると逃げちゃう。 お友達と回し読みする漫画や小説には、らぶらぶの恋愛がたくさんあって、みんなどんなに困難があっても最後はハッピーになる。出来すぎてるなあ〜とか思うけど、でもまんざら嘘じゃないと思う。パパとママを見てたら分かる、らぶらぶって永遠なんだ。大好きって心は消えないんだ。 …じゃあ。あたしのこの気持ちはどこに行けばいいの? 岩男くんはきっとあたしのこと振り向いてくれない、どんなにお願いしても無理なのかも知れない。それなのに万年雪のように溶けない恋があったら、どうしたらいいの。あたしはきっと行かず後家になるんだ。清らかなまんまで一生を終えるんだ。ああん、悲しいよ〜。 ごろん、って、横になってみた。真ん中よりも奥に行かないと布団ごと下に落ちちゃう。ほっぺの片っぽを薄掛け布団に押しつけたら、岩男くんの匂いがした。新品のトレーナーからしてきたのより、ずっと濃い匂い。クラクラするくらい。きっと岩男くんがきゅってしてくれたら、こんな匂いがするんだ。 四つ折りの薄掛けとタオルケットが身体の上に乗っかって、さすがにずしっと来る。身体が敷き布団に沈んでいく気がする…。 何だか、こうしてると悲しいことも辛いことも…全部全部お布団に吸い取られて行くみたいだ。岩男くんがあたしの側にいる。ううん、あたしを抱きしめてくれているんだ。大好きだよって、苦しいぐらいに力一杯背中に腕を回して。あたしだって、好きだよ…大好きだよ〜、岩男くんが大好き。死ぬほど好き。岩男くんのことを考えると息も出来なくなる。 こんなにも好きになっていたんだって、驚いた。 お布団に抱きついていた。これは岩男くん、岩男くんなんだから。ちょっとふかふかしすぎているけど、やわらかい岩男くんなんだ。もうあたしはだんだん、現実と妄想の区別が付かなくなってきた。鼻の奥がじーんとする、新しい涙が溢れてくる。ごめん、岩男くん…お布団が濡れちゃう。許してね。 そのまま、意識が遠くなる。とろとろとけだるい波が押し寄せてきた。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
あれは4年生の時、図画工作の時間だった。クラスの友達を描きましょう、と先生が言って。そのあと何を考えたのか、こんな風に言ったのだ。 「男の子と女の子でふたり組になってね」 当然のことながら、クラスの中は大騒ぎになった。そんな、どうやって相手を決めるの? だったら隣り子と、とか言ってくれればいいのに。先生はみんながどうするかじっと見守ってる。あたしは当然、岩男くんと組みたいと思った。岩男くんはお絵かきが上手だ。小学校に入っても、毎年コンクールにはクラスの代表で出る。いつも全国大会まで行くんだ。どうせなら、素敵に描いて欲しいじゃない。 「菜花ちゃん、一緒に組もう」 これが、岩男くんだったら即オッケーだったのに。どうして関係ない人が来るの? すがるように目的地に目をやると、そこには信じられない光景が見えた。 岩男くんがお隣の女の子とペアを組んで、もう画板を広げて準備をしていたのだ。 ちょっとっ…! 待ってよ、どういうことなの? どうしてあたし以外の子と組んじゃうの? 今、声を掛けようとしたところだったのにっ。 あたしの想いが通じたのか、岩男くんがちらとこっちに顔を上げた。でもすぐに視線をそらして、下描きを始めた。もう口惜しくて、信じられなくて、裏切られた気持ちがどばどばと湧いてきて。 そして、あたしはその場でわんわん泣き出していた。あたしがこんな風に泣きわめくなんて学校では初めてだったから、クラスのみんなも先生もすごく驚いた。泣いちゃったのは自分でもびっくりしたけど、これでいいと思った。これだけ騒げば、岩男くんはきっと分かってくれる。分かってくれたらあたしと組もうと思ってくれるかも知れない。…でも。 大騒ぎになっているクラスの中で、岩男くんだけは冷静だった。ペアを組んだ女の子の方が心配そうにこちらを見てるのに、岩男くんは知らんぷり。どうしてなのか、分からなかった。 それで。あたしはとうとう誰ともふたり組にならなかった。先生も仕方ないと思ったんだろう、先生を描きなさいと言ってくれた。
岩男くんなんて、どうでもいいと思った。気にすると、イライラして、お目目がつり上がってしまう。人相が悪くなったって家族に言われるし。パパは「女の子はいつでもにこにこしてなさい、ママのようになりなさい」って、念仏のように繰り返して唱えるから、ますます腹立つし。 それでも中学受験の勉強だけは意地になって続けていた。春菜ちゃんも「西の杜」に行くって言ってたし、いきなり成績の上がったあたしに先生方も期待していた。卒業生から、ひとりでも多くの私学進学者を出すことが先生方のステータスになるらしい。大人の世界の裏側を知ったようでやだったけど、本当にそんな感じだった。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
それは…6年生の冬。中学受験前の追い込みの時期だった。進学塾のスケジュールも過密になって、いつも戻りは真っ暗。遠い子はみんなパパやママが車でお迎えに来ていた。 お正月明けの、冷たい雨がしとしとと降る日だった。真っ暗になった外に出て、傘を開く。車が何台も狭い路地を出入りして、そのたびにライトに照らし出された空間に透明な糸が無数に落ちていくのが見えた。 ひとりで歩き出して、しばらくして気付く。あたしの後ろをぴたっとくっついてくる足音がある。あたしが立ち止まると、足音も止まる。歩き出すと、また聞こえてくる。でも…どうもあたしより歩幅があるみたいだ。どんどん、足音が近づいてくるのが分かった。振り向くのは、怖くてどうしても出来なくて。ちょっと足を速めたら、いきなり肩を掴まれた。 「……っ!」 「ねえ、君…可愛いねえ。実はずっと前から、君のこと見てたんだよ? あの塾に通ってるの?」 青ざめてるあたしにお構いなしに、お兄さんは話し始める。その声がねっとりしていて、何だか気持ち悪くて、これ以上近寄りたくないと思った。肩に置かれた手を振り払って飛び退くと、お兄さんはちょっとびっくりした顔をしたけど、すぐにまた笑顔になった。 「何、怒ってるの? 僕は、悪い人じゃないよ…、ほら雨に濡れると風邪ひくでしょう…車で送ってあげるよ?」 ちりりん、とキーを取り出す。でも、ものすごく怖くて、早くこの人から離れたいと思った。 「けっ…結構ですからっ…!」 走り出そうとしたら、足がもつれる。やだ、こんなだったらすぐに追いつかれちゃうっ! あたしは傘を後ろに投げて、濡れながら必死で走った。でも、どう見てもお兄さんの方が足が速い。どうしよう、捕まっちゃう、へんな人には注意しなさいってパパとママに言われていたのに。でも…あのお兄さんはあたしを捕まえようとする、どうしようっ!! 「待ってよぉ〜、ほら、傘、落としたよ? …へえ、君は菜花ちゃんっていうのかぁ…」 やだ、やだやだっ…! 名前なんて呼ばないでよっ! 慌てて角を曲がったところで、前に歩いていく人を見つけた。黒い傘、男の人だ。その人の側までどうにか近寄って、すがりついた。 「すみませんっ…、あのっ、助けてくださいっ! 変な人が…!」 「…え?」 呆然としてあたしを見下ろしてる、その顔を見て驚いた。 「岩男…くん…?」 同じ塾の授業を受けていた岩男くんが前を歩いていたのだ。お兄さんはすぐ側まで来ている、どうしよう、岩男くんは…もしかしたらあたしを無視して行っちゃうかも知れない…。 「ねえ〜、逃げないで遊ぼうよ? 僕といいことしよう〜ねぇ〜…」 すぐ後ろから声がする。岩男くんが顔を上げてそちらを見たのが分かった。あたしは、もう怖くて怖くて、ガクガクと震えながら、必死で岩男くんの腕にしがみついていた。やっと辿り着いた体温があったかくて、これを離したらおしまいだと思ったから。 「――なんだ、お前っ…」 「何だぁ…ガタイがいいかと思ったら、まだガキじゃないか? …悪いことは言わない、その子をこっちによこしな? 怪我したくなかったらなっ…!!」 かちっと音がした方を見て、ぎょっとした。お兄さんは大きなナイフを手にしている。サバイバルナイフって奴だ。ニュースで殺人鬼が使ったって出ていた。やだっ…あんなの、怪我しちゃうよ本当にっ!! 「いっ…岩男くんっ…!!」 顔を上げている彼の表情が見えない。何考えてるんだろう、あんなものを見せられたら誰だって慌てるだろう。それに…岩男くんが怪我をしたら大変だ。岩男くんの右手がポケットの中でごそごそっと動いた気がした。 「…菜花ちゃん、ちょっと後ろにどいていて」 「なっ、何するのよ! いっ…岩男くんっ…!!」 あたしの目の前で。 切れかかって瞬きしてる街灯の下、岩男くんに投げ飛ばされて、宙を舞っているお兄さんがいた。 「こっちかっ!!」 「やあ、君か。通報してくれたのは。助かったよ…」 「コイツはこの辺でうろついている奴でね、何件か被害届けも出ていたんで、巡回はしていたんだが…良かったよ、捕まえることが出来て。そっちのお嬢ちゃんは? 大丈夫かい…?」 あたしは、何も答えることが出来なかった。ホッとしたら、涙がたくさん溢れてきて、止まらなくなっていたのだ。岩男くんはそんなあたしの側によって、そっと傘を受け取った。 「オレは…この子を送りますから」
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