どこも不況な今日だから。昨春、新入社員として営業部に配属されたのはあたしひとりだけだった。その前の年は、今関さんともうひとり。だから、今関さんにとってはあたしが唯一の「後輩」と言うことになる。もともと面倒見のいいタイプらしく、何かにつけ気軽に声を掛けてくれた。 「菜花ちゃんって、今関君、苦手?」
でも……そうかも知れない。
午後の穏やかな日差しが差し込んでくる窓際の席に向き合って座って。彼がホットで、あたしはミルクティー。お茶に誘われるのは初めてじゃないけど、何を話したらいいのか分からなくて黙り込んでいた。 「なかなか、いい手応えだったんだ」 きっとあたしは、見るからに居心地の悪そうな雰囲気を漂わせていると思う。それなのに、今関さんは少しも気にしてないみたいに、すらすらと話し出した。もう95%確定した商談を確認するように。 「ほら、見て。急揃えのサンプルだから、決定って訳じゃないんだけどね」 これが社内だったら、取り出してばさっと広げるんだろうけど、今は喫茶店の中。さすがに恥ずかしいと思ったのか、今関さんはテーブルの脇から紙袋を開いて中を覗かせた。 そこに入ってたのは、オレンジよりももっと黄色味の強い「蜜柑色」って感じの和風の柄のもの。その脇に入ってるこげ茶は帯かな? ってことは和装っぽいのかも。 「……槇原さんの、お陰だよ。黙っていても良かったんだけど、やっぱりフェアじゃないし。こっそりとお礼が言いたかったんだ」 え? ……何? あたしが驚いて顔を上げると、今関さんはコーヒーのカップを口に運んで、穏やかにこちらを見ていた。話が読めない。あたし、今関さんにお礼を言われるようなこと、してないもの。 「えと……、どういうことでしょうか?」 こういう風に質問することが失礼になるかなとも考えたけど、話の見えないものはしょうがない。ムッとするかと思ったら、その反対。今関さんは、ふっと顔を崩した。 「やっぱり。自分では全然気付いてないんだね」 「ほら、この前の晩の居酒屋さん。岸田部長がごちそうしてくれたあの店だよ。そこに今まで出掛けていたんだ」
そのあと。今関さんが話してくれたのは、あたしにとっては全然想像も付かないような成り行きだった。 あの日は確かに、部長と今関さんが揃ったらすっかりふたりの話が盛り上がっちゃって、あたしは完全に置いて行かれてしまった。分かる単語をつなぎ合わせて、必死に聞き入っていたんだけど、やっぱ周りのざわざわした話し声とかそう言うのが耳にたくさん飛び込んでくるようになる。気が付けば、ぼんやりとお店の中を見渡していた。 「あの時、槇原さんがしきりに店員さんを目で追っているなと思ったんだよね。最初は接客とかが気になるのかと思っていたんだけど……注意して見ているうちにそうじゃないなって。あれ、彼女たちの制服を見てたんでしょ? そうだよね、お店は少し薄暗い昔の民家のイメージで、柱なんかも濃いめのペイントだったから、その中でえんじと紺の地味な色合いじゃ、ちょっと寂しいよね。 「……そう、でしたっけ?」 やだなあ、あたし。そんなにじろじろと見入っていたのかしら? まあ、確かに。店員さんを探そうと見渡しても、周囲の風景に溶け込んじゃって難しかった。厨房の中の調理師さんたちはすっきりとした濃紺の絣でもいい。あっちはライトが綺麗に当たってるし、気持ちよく見えるよ。でも……接客をする若い女の子たちは、もうちょっと可愛い格好をしてもいいかな。思い切って、膝上くらいの丈にして、ぱあっと明るい色にしたら目立つし、華やかになると思った。 でも、……でもっ。そんなことを考えてたのなんて、ほんの数秒。それに、今の今まで綺麗さっぱり忘れていたんだよ。 それなのに、今関さんは。 あのあと「ちょっと」と言って戻ったのも、お店の人に質問するためだった。そして、店長さんが仕込みに入る前の時間を空けて貰って、早速商談。 「幸い、店舗はあそこだけで、従業員の身に付けているものは全てレンタルなんだって。ほら、汚れると新しいのを持ってきてくれる、お手ふきなんかと同じ感じのね。でも割高だし、この先どうしようかなと思っていたみたいなんだよね。 そう言いながら、どんどん頭の中で構想を広げているみたいだ。年上の男性に失礼だけど、目がキラキラして少年っぽいなとか考えてしまう。 あたしもそんな今関さんを前にすると、ぼんやりとだけど色んな事を思い浮かべてしまうよ。そう言えば、和モノが得意なデザイナーさんもいたよな。そう言う人に相談したら、色々いいアイディアが出そう。実際に枚数を作ることになれば端切れも出るから、ランチョンマットとか、目隠し代わりののれんとか、コースターとか……そう言うのも作ったらいいかも。
今関さんはカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。うわ、本当にちょっとの休憩だ。あたしも慌てて紅茶を胃に流し込む。 「今日のところは、俺にごちそうさせて」 ……って。そりゃ、400円のミルクティーだけど。まさか、経費で落とすわけないし、自腹だよなあ。いいのかしら、そんな。すごーくやりにくい、後ろめたい気持ちになっちゃう。 困ったなあと思ってると、今関さんはまたくすくすっと笑うんだ。 「正直言うとね、今回のだけじゃないんだ。今まで槇原さんに助けられたこと、何度もあって。いつかそう言うことをきちんと言わなくてはならないと思っていたんだ」 行こうか、って立ち上がるから、それに続く。今関さんの持ち上げた紙袋が誇らしげにカサカサと音を立てた。
「――最初は、槇原さんが配属されてすぐの企画会議だったかな?」 会社まで10分掛からないくらい。あたしたちは肩を並べて歩くかたちになった。広々とスペースがある歩道だからそうしないと不自然かなって。 「もうほとんど、製品としてまとまってるサンプルが何点か出てきて、みんなであれこれ意見を言ったでしょう。その時に、水色のスーツを見て、槇原さんが言ったんだよね、ボタンの色を白っぽく変えたらいいのにって。小さくて、控えめで、聞き落としそうになる程の声だったけど、ハッとしたな。すぐに付け替えてみたら、ぐっと良くなったんだ。 そう言った今関さんがあたしに向けた笑顔は、ちょっとおどけた雰囲気を漂わせていた。自嘲気味を50%くらい軽くした感じ。 「俺、その時まで、槇原さんのことを見くびっていたと思う。入社試験の頃から、君はとても目立っていたし、社内のみんなも最初はモデル志望かって囁きあっていたくらいだよ。いくら岸田部長の知り合いのお嬢さんだとはいっても、ちょっとなあとか思ってた。あんな子が会社に入ってきて、きちんと仕事出来るわけないって」 「は……あ」 何かひどい言われような気もするんだけど。今関さんの口調があまりに和やかで、全然腹も立たなかった。 「あの時だけじゃないよ。その後も何度も何度も、槇原さんは大切なところで貴重なひとことを言うんだ。いつもはぼんやりしていて、きちんと仕事出来てるのかと心配になるほどなのに、実は人の話も周りの状況もちゃんと把握してるしね。可愛いタレントさんは頭の中はからっぽなんて、良く言われるけど、そうでもないんだなって、少し価値観が変わったかな。 大きなトラックがすぐ脇を通り過ぎて、土煙が上がる。トラックが呼んできたみたいに、冷たい風が辺りを吹き抜けて、飛ばされそうになる。バサバサになった髪の毛を手櫛で整えていたら、今関さんはさりげない感じで、すっと車道側に移った。 一瞬、肩に手が触れる。もう、それだけで、身体に電撃が走ってくみたい。 矢継ぎ早に降りかかってくる言葉たち。振り払うことも受け止めることも出来ない。何か答えなくちゃって思うのに、言葉がひとつも浮かんでこないよ。きっと今のあたしは、入社試験の面接の時よりも緊張してる。 「ねえ、槇原さん。部長から、話は聞いてるんでしょ? 俺、槇原さんと組めたら、今よりも色んな可能性が見えてくると思うんだ。試してみない? 大人しく部長が話を進めてくれるのをゆっくりと待つつもりだったんだけど、そういうのって性に合わないんだよね。
あたしは困り果ててしまった。だって今関さんは、あたしの考えたこともなかったことをどんどん口にするんだもん。「可能性」なんて、一番遠い言葉だと思ってた。自分のやりたいこともなりたいものも何も思いつかなくて、いつも宙ぶらりんで。 そんなあたしのことを、どうして? 今関さんがよく分からない。 もちろんね、ちっちゃい頃からあたしの周りには「菜花ちゃんがいい」と言ってくれる男の子がいっぱいいた。彼女になってくれとは言わないけど、一度でいいからデートをして欲しいとか。涙目で訴えられたことだって、一度や二度じゃない。正直、岩男くんがあたしのことを「彼女」としてくれるまでは、そんな言葉に流されて、好きじゃない男の子と一日おつき合いしたこともあるよ。 でも、そんな男の子たちとは違う。今までは外側から褒められて、可愛い可愛いって言われるばかりだったけど、今関さんはあたしの見た目なんてどうでもいいみたい。内側から、褒めてくれる。こんなのって初めて、やっぱり嬉しくなる。
「返事は急がないけど」 いつの間にか会社の前に辿り着いていた。一歩先に出て、自動ドアを開けてくれた今関さんが振り返って言う。 「俺の気持ちは、今言った通りだから。あとは君のいい答えを待ってる」 口を一文字に結んだまま、あたしは頷くことしか出来なかった。
すらりとした後ろ姿。眺めながら、考える。何故、こんなにも躊躇してしまうのか。全部、もう分かってるの。答えなんて、とっくに出てるの。でも、気付かないふり、ずっとしてた。 あたしが、今関さんと不自然なほど距離を置いてしまう理由。傍に行っちゃ駄目と、心が警告を鳴らす意味。
――そう。今関さんは、似てるんだ、パパに。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
今となっては、そのポジションにいるのが岩男くんのような気がしているけど、その前に大好きだったパパがいた。どうしても、パパの「一番」になりたくて、でもどうしてもなれなくて。悲しくて悲しくて仕方のなかったときに、岩男くんが現れた。 あたしが一番して欲しいことも、一番言って欲しい言葉も、なかなか出てこないけど。それでも、岩男くんが大切だった。あたしがあたしであり続けるために、岩男くんが不可欠だった。 「へえ、君が菜花のお気に入りなのか」 幼稚園の頃、樹が産まれてすぐの頃。あたしが岩男くんを特別扱いしていることに気付いて、パパはとても意外そうな顔をした。それがすごく嬉しくて、心の中でにっこりしたんだ。そうだよ、パパ。あたしのこと「一番」にしてくれないパパなんてもういらない。あたしの「一番」は岩男くんなの。 パパみたいに、鬱陶しいくらい愛の言葉を投げかけてくれなくていいの。そんなの安っぽいし、嘘くさいわ。真実はいつもしっとりと重みを持っているものなのよ。知らなかったでしょう、パパ。 いつの間にか、そんな意地悪な心は消えていた。岩男くんのことを追いかけるのに夢中で、最初のパパへの勝ち誇った気持ちはどこかに行ってしまったんだ。だから、ずっと忘れていた。あたしの心の一番底にある、最初の気持ち。 この世で一番苦手で、そして一番憧れる人。それがパパなんだ。だから、……困る。
今関さんに初めて会ったのは、営業部に配属された日。 ひとりひとり名前を告げられて、あたしはかちかちに緊張していた。年齢順だったから、最後に今関さんの番が来た。にっこり笑った口元から白い歯がこぼれて、あたしの心の裏側を何かがかすった。 今まで。あたしの周りにはたくさんの男の人が現れた。中には岩男くんという存在を知っていながら、告白してきた人もいる。もちろんきちんとお断りしたけど、それは彼らがあたしの心を微塵も動かさなかったからだと思う。だから、怖いモノなんて何もなかった。 けど……今のあたしは。明らかに、今関さんを意識してる。気にしないようにしようとしても、気付くと視線が追いかけているんだ。 そして、何より。今関さんが、重なるの。若い頃のパパに。もしかすると、そう思ってるのはあたしだけじゃないかも。岸田部長も……そうかも知れない。だって、パパの昔を知ってる人だもん。 今関さんと仕事をするのは悪い話じゃない。どきどきわくわくがいっぱい飛び込んできそうな予感がする。今まで以上に、仕事がとっても楽しくなりそうだ。
――でも。こんな風にぐらぐらするあたしの心はどうしたらいいの?
このままだと、あたしの中で、岩男くんと今関さんの比重が入れ替わるんじゃないかしら。まさかとは思うんだけど、今まで十五年も不動だった「一番」のポジションが、入れ替わることになったらどうしよう。こんな風に、起こる前から色々気に病んでも仕方ないんだけど、何だかどんどん、岩男くんの存在があたしの中で小さくなっていく気がするの。 ううん、岩男くんが小さくなるんじゃなくて。そのほかのことが膨らんでくるんだろうね。 学校という、小さな閉ざされた空間の中。みんなでひとつの目標に向かってひた走っていた。行き着く先がそれぞれ別の場所だと言うことは知っていたのに、それでも同じ立場にいることで安心しきっていた。あたしにとって一番の理解者は岩男くんだったし、岩男くんにとってもあたしはそう。お互いの夢を掴むために必要な存在だって信じてた。 けど、今。 あたしにとっても、岩男くんにとっても。お互いはあの頃のように大きな存在じゃなくなっているんじゃないかな。 岩男くんが今目指している「未来」。あたしも一緒に応援したいと思う。でも、それを岩男くんが望んでいないとしたら? 高校時代の延長のような気持ちで、何となく彼女のポジションをあたしに残しておいてくれているとしたら……?
自分の心が不安定になることで、岩男くんの気持ちもどんどん遠くなる。そして、また。今関さんの存在。あたしはもう、どうしたらいいのか分からない。自分の中から、岩男くんが消えたらどうしたらいいの。その瞬間に、今までの素敵な思い出も全部消えちゃうんじゃないかしら。 ――あたしが「好き」って言わなかったら、ふたりの恋は始まらなかったんだよ……?
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
「お姉ちゃん、お帰り」 梨花は眠気覚ましのコーヒーをいれに来たみたい。年が明けて、受験勉強も終盤。まあ、我が妹ながら、どうしたんだと思うくらい頭のいい梨花だから、どうにかなるんじゃないかと楽観してる。もちろん、そんなこと口に出したら、逆にプレッシャーになっちゃうから言わないよ。そのくらいは経験者として分かる。 梨花はすぐに部屋に戻るつもりだったらしいけど、あたしがやって来たと知って椅子に座り直した。そして、ココアをいれてる間、静かにコーヒーをすすってる。……やっぱ、落ち着いてるよな。梨花は何かに驚いたり落ち込んだりすることがあるのかしら? 何か、とっても羨ましい。 「……何?」 あんまり、じーっと見つめていたからかな。梨花が恥ずかしそうに首をすくめる。もうお風呂には入ったんだな。毛先の辺りが濡れてる。そうすると、さらに女が上がったみたいよね。梨花って、本当に綺麗だな。 「あ、……ううん。何でもないけど」 こっちまで恥ずかしくなっちゃう。視線を落としたまま自分の席に座ると、ふうっと溜息。そしたら、梨花のカップの丸みをなぞっていた指が止まって、綺麗な瞳がまっすぐにこちらを向いた。 「岩男くん、どうするのか聞いた……?」
「え……?」 いきなり名前が出てくるんだもん、焦っちゃう。でも、どうするって、何のこと? 話が見えずにぼんやりしてるあたしに、梨花が話を続ける。 「言ってなかった? 岩男くん、卒業後も大学に残ることを勧められてるんだって。ゼミの担当教授にとっても気に入られて、一緒に研究を手伝ってくれって言われてるらしいよ。私も詳しくは知らないんだけど、パパとママが話してるの、聞いちゃった」
カップの取っ手を取ろうとした指が、滑って空を切った。
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