いつの間にか、シャワーの音が止まっていた。 カチャッと、バスルームの扉が開いて、岩男くんが出てくる。上は半袖のTシャツ、下はハーフパンツ。いつもと同じその姿を振り返って確かめる。岩男くんは絶対にホテルに備え付けのバスローブを着ない。もうこのあとは絶対にえっちをするという状況でも、きちんと身なりを整えてくるんだ。
「……どうしたの?」 ぎしっと、少し離れた左隣が沈んで。一口含んだあと、ペットをサイドテーブルに置いた岩男くんがゆっくりと話しかけてきた。 「この前に会ってから、まだ半月も経ってないじゃない。何か辛いことでもあった? ――仕事?」 ひとつひとつの言葉をしっかりと音にしながら、最後の「仕事」という単語で、少し声がうわずったのが分かる。いつのまにか、あたしと岩男くんの間には、知らない言葉が増えてきた。ううん、完全に知らない訳じゃない。ただ、その言葉が含むニュアンスがふたりの間で微妙に異なっている。 「就活」「仕事」――学生の頃は、講義のことや試験のことをどんどん話題に出せたのに、何となく仕事のことは飲み込んでしまう。ただでさえ、あたしの方が口を開く回数が多いんだから、岩男くんに関係のない話だと、完全に聞き役にさせてしまう。何か、そういうのも申し訳なくて。 「ううん……」 岩男くんはやさしい。いつでも一番にあたしのことを考えてくれる。ふたりでいるときのあたしは、岩男くんにしっかりと包み込まれてる気がするんだ。
梨花の話を聞いて、もういてもたってもいられない気持ちになってしまった。これ以上、岩男くんが遠くに行っちゃったら、もう取り返しがつかなくなりそうで。気が付いたら、強引に連絡を取っていた。声を聞くだけじゃ、安心出来ないの。どうしても、近くに行きたいって。 でも――こうして目の前に来ちゃうと、大切な言葉が出てこない。
あたしは岩男くんにそっと寄り添うと、背中に腕を回した。鼻をくすぐるのは、ちょっときつめのボディーシャンプーの香り。 「岩男くんに、会いたかったの」 こんな風にしているとね、全然変わらないのに。三年前のままの、お互いが同じ時間を共有していた頃のふたりと一緒だなって思う。柔道をやめてしまった岩男くんは少し筋肉が落ちてスリムになった。もともとの骨格ががっちりしてるから、外側から見たらそんなに変化はないけど……くっつくとね、ふにっとなり具合が違うの。微妙な感じだけど。 「そう」 いきなり会いたいって言って、会ったら速攻でえっちしたいって言うなんて、すごい変かも知れないね。そんなあたしの変化を岩男くんがどう思ってるのか怖い。でも、もう……余計な言葉は全部脱ぎ捨てて、しっかりと抱きしめてくれないと駄目みたい。肌から伝わってくる直接的なぬくもりだけが欲しいなんて……おかしい? 卒業後の進路のこと。そんな大切なことを、どうしてあたしには話してくれないの? あたしね、岩男くんは大学の4年間はこっちにいるけど、就職で東京に戻ってくるって信じてた。そしたら、前と同じようにふたりでいられるようになる。「離れていたって大丈夫」って、期限付きの話じゃなかったの? もしかして、岩男くんの「夢」がきちんと叶えられるまで続行されるのかな。 どうしてなの、岩男くんの「夢」はあたしの隣じゃ叶えられないの? どうしてもこっちにいなくちゃ駄目なの……!? 「ね……、岩男くんっ……」 今の今すぐに、あたしのことがとっても大切だって証明して。岩男くんがあたしのことを、やっぱり必要としてくれてるって信じさせて。どんなに振り払っても、あたしを取り込もうとする闇の思考。それを蹴散らして吹き飛ばして。あたしはまだ岩男くんの「一番」だよね、そうだよね? どんな人よりもものよりも、大切なんだよね……? 「菜花ちゃん、――もう」 こんな風にせっぱ詰まって誘うのは初めてかも知れないな。あたしがそれほど必死にならなくても、岩男くんはすぐに気付いてくれるから。そしてすぐに同じ気持ちになってくれるから。 「どうしたの、本当に今日は。いつもの菜花ちゃんらしくない。何をそんなに焦ってるの……?」 やさしい笑顔、あたしを包んでしまうやわらかな声。変わらない岩男くん、あたしの大好きなそのままの姿。もしかして、変わったのはあたしの方? ――あたしが、違ってるの? 「……う……」
岩男くんがまた、ペットボトルに手を伸ばす。分かってる、待ってるんだよね、あたしが落ち着くの。悲しいまま、満たされない部分を埋めるようにえっちするんじゃ駄目だって思ってるんだ。 でもね、岩男くん。 あたし、気持ちよくなりたいだけじゃないの。もちろん、それも大切だと思うけど……それよりも心がくっつきたいの。あたしたちの距離をゼロにしたい。それだけなんだよ。 岩男くんが今までにあたしにくれた「大好き」は、あたしがあげた「大好き」のお返しだったんじゃないかな。あたしが、岩男くんのことが好きで傍に行きたくて、なりふり構わず突進して、そしたら応えてくれた。それが始まりで、それ以上のことはないような気がする。
知らないでしょ、岩男くん。 あたし、岩男くんが思ってるよりも、もっともっと我が儘なんだよ。今のままでも十分に呆れるほどかも知れないけど、こんなもんじゃないんだから。だって――あたしは、パパの娘なんだよ。三人の子供の中でも一番良く似てるって。 無理して自分を押さえ込んでいるみたいだよって、今関さんに言われた。あの時は意外だと思ったけど、もしかしたらその通りなのかも。だって、あたし。岩男くんのことが好きで好きでたまらないの。ずっと傍にいたいし、一番でいたい。だけど、それを岩男くんに強要しては駄目だって分かってる。
全部を捨てる覚悟で、岩男くんに「キスして」って言った中三の夏。あの時は、もう本当に絶望しかなかったから気が楽だった。 しっかり者の岩男くんだから、あたしに我が儘を言った事なんてない。今までもそうだったし、これからもそうだと思う。自分の足元をきちんと確かめて、頑張れる人。でもね、岩男くん、あたしは違う。あたしが頑張るためには岩男くんが必要なの。岩男くんが傍にいてくれないと駄目なの。 息切れしてるの、酸欠なの。心がみしみしって悲鳴を上げてる。
「……ねえ、菜花ちゃん」 どれくらい経ったんだろう。隣で岩男くんの静かな呼吸を聞きながら、あたしは幾分落ち着いてきた。同じ空間にいるだけで、こんなにも満たされる。なのに、あたしたちの間には天の川みたいに越えられない距離がいつも横たわっていた。それを越えるためには、どちらかが無理をしなければならない。……これからも、ずっと? 「オレは男だし、菜花ちゃんにそんな風に求められれば嬉しいよ? でも、菜花ちゃん、どうしてそんなに欲しいって思うの。――ええと、間があいたから?」 こういう話を茶化して言われるならまだいい。でも、岩男くんの場合はいつも真面目。あたしが、会ってすぐに「して」って言ったこと、頭の中で自分なりに分析していたの……? そうだよって、答えるのもちょっとなあと思った。だって、インランみたいだよ、やっぱり。だいたい、間があいたから不機嫌になったんだねなんて……それこそ、倦怠期の夫婦の会話みたいじゃない。 あたしの沈黙をどう受け取ったんだろう、岩男くんはふっと小さく息を吐いた。 「身体が寂しくなった時って……女の子はどうするんだろう?」 うわ、いきなり何を言い出すの。岩男くんが言うと、どんな言葉も真面目くさって聞こえるけど……でもでもっ、かなりすごいこと言ってると思うよ? た、多分、私がそう言うことで困ってるから、具体的にどうしたらいいのかとか考えてくれてるのかも知れないけど……でも、ううう。 「いっ……、岩男くんは? どうするのっ……?」 思わず切り返してしまってから、猛烈に後悔する。ちょっと、いくら何でもヤバイよ。何話してるのよ、まったくもう。ああん、もう全身ゆでだこ状態。それなのに、岩男くんってば、全然動じずに言うの。 「え? オレは男だし。――もちろん自分で処理してるけど」 当然でしょ、って口ぶり。あっさりと、何でもないように返される。 いやん、やめてよっ! 恥ずかしいじゃない……! そ、想像しちゃった……。そりゃ、岩男くんは健全な若い男の人なんだし、普通に性欲あるんだし。男の人って、精子がどんどん蓄積されて、時々出したくなるんだよね? 確かそんな風に保健体育の時間に習った。 もう、ほっぺが真っ赤。両手で押さえながら、のろのろと顔を上げる。どうして、岩男くんはそんなに平然としてるの! もうちょっとうろたえなさいよ……!
「菜花ちゃんは……しないのかな? そういうの」
今度こそ。本当に呼吸までストップするかと思った。大きく目を見開いて息を飲んだあたしの反応で悟ったのだろう、岩男くんの口の端がちょっと上がる。 「ふうん、……するんだ」 まっすぐな視線に、これ以上は耐えきれない。あたしは顔を真っ赤にしたまま、俯いた。 ……うん、岩男くんの指摘は正しい。だって、身体が知らない間に熱くなるんだもん。そりゃあね、あたしだって、それなりに回数はこなしてるんだし、岩男くんのことを思い浮かべるとね、やさしい眼差しとか声とかと一緒に、抱きしめられたときのふんわりとした気分が思い起こされるの。そう言うとき、欲しいなって思うよ。自然な欲求だと思う。 「何だか、意外かも。――どんな風にするの?」
その時。 あたしはさながら、お預けを喰らった犬だった。だって、岩男くんがすぐ傍にいて、とってもとっても抱きしめて欲しいのに、じらされて。いつもだったら、あたしの気持ちを察して、すぐにやさしくなってくれるはずなのに、どうしたの。何かすごく……すごく、意地悪。 これから起こるこを期待してるあたしの身体の真ん中が潤んでじんじんしてる。ぼやけた視界を彷徨って、やがて岩男くんの顔で止まる。少しも表情を崩さないまま、唇が動いた。
「ちょっと、見てみたいな。……やってみてくれる?」 そう言うと、岩男くんはそのままベッドの上に乗り上がって、あぐらをかく。完全に「観客」の体勢だ。あたしは余りにも信じられないこの状況に、頬をひくつかせたまま顔を上げた。 「そんな……、やだよ」 消えそうな声で反論する。出来るわけない、人に見せるものじゃないもん。だいたい、自分でするよりも、岩男くんにして貰う方がずっと気持ちいい。目の前に岩男くんがいるのに、何故そんなことしなくちゃならないの。……嫌、絶対に嫌……! 「いいじゃない、ここにはふたりしかいないんだし」 岩男くんは、動かない。どっしり構えて、少し着崩れしたバスローブ姿のあたしを見据えている。
どうしてそんな、嬉しそうに笑うの。 嘘でしょう、こんなの岩男くんじゃないよ。仮面を被った別人なの……? だってだって、岩男くんはあたしの嫌がることは口にもしない人だよ? 何故、今日だけ、こんなに意地悪なの……っ!?
「や、やあっ……! 出来ないもんっ、そんなの無理だもんっ……!」 胸元をしっかりとたぐり寄せて、あたしは大きく頭を振った。恥ずかしくて、情けなくて、もうどうしていいのか分からない。あたし、岩男くんの言うことなら何でも聞くつもりでいた、岩男くんに気に入って貰えるように、絶対に嫌がられないようにしたいと思った。でもっ、こんなのって、……ないよ。 「――してくれないの?」 それなのに、岩男くんはさらに言い放つ。魔法のようなひとことを聞いた瞬間に、あたしの心に言葉の裏に潜んだもうひとつの意味までもが湧き上がってきた。
――なら、オレもしないよ? このまま帰ってもいいんだけどな。
それは。まだあたしだけが岩男くんを好きだと思っていた頃。何気ない仕草に、胸が痛んでいた。あたしのことを見ると、眉をひそめる岩男くん。声を掛けるとすごく嫌な顔をしてそっぽを向く。そうされると、本当に、空が落ちてくるほどショックだった。 「……う……」 一体、どうしてしまったんだろう。でも、まるで過去への巻き戻しボタンが押されてしまったみたいに、岩男くんの表情も固まる。 ――本当に? しないと駄目なの……? 岩男くんが見てるのに。目の前で?
あたしは無言だった。自分が言葉を扱うことも忘れてしまった。 震える右手をバスローブの胸元に滑り込ませる。頼りないふくらみに触れて、それを下からすくい上げた。 「……ふっ……、くっ……!」 人差し指が胸のてっぺんに触れて、そこがだんだんこりこりしてくる。真ん中からじんじんと何とも言えない感覚が湧き上がってきて、身体の隅々まで流れ落ちてくる。 岩男くんはあたしの反応を見て、どんな風に解釈したのか知らない。でも、あたしはそんなに何度もしてるわけじゃない。だって、こんなことしても、満たされないんだもん。ちょっとだけ気持ちよくなっても、そのあとすぐに虚しくなる。 何してるの、岩男くん。マットレスのきしみすら感じない。あたしのこと、見てるの? それとも……まさか、どこかに行っちゃった? いくら岩男くんの真似をして手のひらを這わせても、これはあたしの手。岩男くんのようにたっぷりしてないし、やさしくもない。平べったくてちっちゃくて、心許なくて。そう……あたし、そのまんまみたいに。 それでも、ささやかな刺激を受けて、岩男くんを待ち望んでいるあたしの奥が、だんだん熱くなってくる。どんなにか待ちこがれているのだろう。自分で自分が情けなくなるほどに、岩男くんが欲しい。
あたし、変わりたくなんてなかったのに。いつまでも岩男くんの大切な「菜花ちゃん」でいたかった。肉欲のままに求めるみたいな、そんな刹那的な感覚は一生いらなかったのに。ただ、抱きしめられて満たされたかっただけ。 ――あたしって、とてつもなく馬鹿かも知れない。こんな恥ずかしいことすら、岩男くんに言われると出来てしまう。これを愛の深さとか言っても、情けなさ過ぎて笑われてしまいそう。
足の付け根。柔らかい肉の部分に、指が辿り着く。いつも不思議、どうしてここはこんな風に濡れているんだろう。男の人を受け入れるためにそうなるんだと知っても、自分の身体が自分のものじゃないみたいな違和感を感じる。前の方をさするとすごく気持ちいい。でも、本当にいいのは身体の奥。 ――でも。 「……う、ううっ……!」 ここまで来て。あたしはいつもと同じ感じで、指を止めてしまった。潤んだ入り口、そこの中に指をいれることがどうしても出来ない。やり方は知ってる、岩男くんがいつもしてる。そんなに難しいこともなく、すんなりと埋め込まれていくはず。だけど、怖い。 その奥には、一番あたしの欲しい刺激が眠っている。でも、それを呼び覚ますことが出来ない。怖い、自分の身体なのに、踏み込むことが出来ない。腕が肩が震える。もう、これ以上は無理、出来ない。 「うっ……、岩男……くぅん!」 幻に、叫んでいた。もう自分が今どこにいるのか、どうしてこんなことをしているのかすら思い出せなくなっていた。 でも、ただひとつ分かっていること。あたしは岩男くんが欲しい、岩男くんの傍に行きたい。抱きしめられて、もう心も身体も少しの隙間が空かないほどぴったりと寄り添って、自分の全てを満たして欲しい。岩男くんじゃなくちゃ駄目、岩男くんがいい。 まだ、入り口で戸惑っている指。先っぽ、爪の部分すら埋め込んでない。頬を涙が伝っていく。唇が勝手に動く。言葉がほとばしっていく。 「岩男くん、岩男くん、岩男くん、岩男くん……、岩男くん……!」 どうか、勇気をちょうだい。あたし、もう一歩踏み込めるように。だって、それを岩男くんが望むなら、あたしは喜んで従いたい。馬鹿でもいい、岩男くんが好き。こんなに情けなくなっても、まだ好き。
だけど、駄目なの? あたしがきちんと自信を持って語れる「夢」に辿り着いていないから。もうとっくに前を歩いてる岩男くんには、あたしがもどかしくて仕方ないのだろうか。その隣で一緒に歩いていけるのは、自分をしっかりと持ってる大人の女性。いつも心のどこかに岩男くんの存在を探しているあたしじゃ、駄目なんだよね。 たくさんの季節を越えて、もう不安しか残っていないあたしの心は、岩男くんに受け止めてもらうことも、岩男くんを受け止めることも叶わないのだろうか。
空いた片手はいつの間にか滑り落ちてシーツを固く握りしめていた。手のひらが汗をかいて、じっとりしてる。呼吸が苦しい、吐くのと吸うのが上手にコントロール出来なくなってきた。横座りしていた身体が、だんだん前に沈んでいく。
――と、その時……。
「ああっ……、菜花ちゃんっ……!」 辺りの空気を切り裂くような叫び声がして。その次の瞬間に、熱い腕があたしをすっぽりと包み込んでいた。
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