気持ちいい秋風が通り過ぎていく。さらさらと頭上の木々が揺れて、本当に心地よい。秋は恋が深まる季節だったよな…たしか。 「…聖矢くん…?」 俺がぼんやりとしているのが感じ取れたのだろう。梨花ちゃんは、不思議そうに首を傾げた。大粒の目は少しもよどみなく美しい湖みたいに佇んでいる。 ああ、そうだそうだ、こんな風にしている暇ではない。俺は、ハッと我に返る。そして、カバンを開けると中からごそごそと薄い紙切れを取りだした。 「…え?」
この模試の結果は、業者の経営する予備校の本校でまとめて集計される。そこから、試験会場になったところにデーターが送られるのだ。前から聞いていた。集計が出る頃本校まで行けば、誰よりも早く結果が分かる。気の早い奴がやったことがあるという話もあった。 今日は予備校を一日さぼってしまった。朝一で東京の本校に出かけていく。窓口で受験番号を言うと、くすっと笑ったお姉さんが、プリントアウトした用紙を持ってきてくれた。 それを手にして俺はまっすぐここに来たのだ。
「あ、…点数のところは、気にしないで。見て欲しいのは、下の…合格判定」 正直、梨花ちゃんと俺ではレベルが違うし、こんなものを見せて何が言いたいのか分からないかも知れない。でも1ヶ月近く必死に頑張ってようやく手にした結果だ。自分としては満足のいくものだった。 「理系の梨花ちゃんには分からないだろうけど…志望校もね、結構レベルの高いところを書いてみたんだ。現役の頃には行けるかなとちょっと思ったけど、今になると少し無理かな…と諦め始めていた感じのとこ。俺さ、現役の頃に担任に言われたんだよね…『浪人しても、今よりレベルの高い大学には入れないから、現役で決めろ』って。そうなんだよな、現役の頃に受かって蹴った大学に、去年は落ちたし」 でも、見てよ、と指し示す。ほら、A判定が付いてる。ちょっと難しそうな大学もB判定…AとBがこんなに多い合格判定は初めてだ。まあ、ものすごくレベルの高い大学とか書いてないけど…それでも。
今まで、心のどこかで思っていた気がする。頑張って無理だったら恥ずかしいと。自分の限界まで頑張って結果が出なかったら、もうどうしようもない。だから、いい加減なところで手を抜いていた気がする。 …今回はあまり頑張らなかったから仕方ない、と。 そんな風に、いつの間にか言い訳する隙を自分で作りだしていた。情けない自分がいつか日常になっていた。このままでいたら、俺は一生を言い訳の人生で送っていたかも知れない。
「これが…、あの。何か…?」 一度くらい頑張っていい結果が出たって、次は駄目かも知れない。模試なんてそんなもんだ。でも、今回はこうしてそれなりの結果が出た。努力して、結果が出たというのは嘘じゃない。 …だから、俺は胸を張れる。 「あのね、梨花ちゃん…」 見ているだけではあまり意味のない紙切れを元のようにきちんと畳む。それをさらに小さく畳んで、手のひらに乗るほどの大きさにした。梨花ちゃんの白い手の上に乗せて、握らせる。 ――俺の汗と努力の結晶。今できる全て。 「これが…俺の、めいっぱいの勇気。必死で頑張る力を梨花ちゃんにあげる」 「…え…?」 しっとりした肌の感触…暑い夏の日もひんやりして心地よかった。繋いだ時のときめきも、きっと忘れない。俺を特別の存在だと言ってくれた、梨花ちゃんとの記憶をずっと大切にしていこうと思う。 「何? …どうしたの? 聖矢くんっ…!?」 「頑張って、…梨花ちゃん」 ああ、離したくないな…まだ、心のどこかで立ち止まりかけてる。そんな未練がましい自分を必死で引きちぎりながら、俺はずっと用意していた言葉を口にした。 「それを持って、梨花ちゃんの一番会いたい人のところに行くんだよ。そして、我慢なんかしないで、自分の想いを全部伝えて。…お姉さんのものだから諦めなくちゃならないなんて、おかしいよ。大好きなら…ぶつかっていけばいい。梨花ちゃんなら、きっと上手くいくから」 「聖矢…くん?」 俺を見つめる梨花ちゃんが、泣き出しそうな目をしてる。大丈夫、不安だろうけど。俺が梨花ちゃんの幸せをここで祈ってるから。ずっとずっと祈ってるから。こうしてもう一度頑張る勇気をくれた梨花ちゃんが、今度は自分で幸せになる番だよ…? 梨花ちゃんをこの手から羽ばたかせる最後の呪文。俺は大きく深呼吸すると、言った。 「彼、まだ夏休みなんでしょ? 大学。今日も、道場に来てるんじゃないの?」
*** *** ***
…梨花ちゃん、心細そうだったな。 可哀想だったかなとも思う。でも…あの場から黙って立ち去ることしか、俺には出来なかった。梨花ちゃんにはちゃんとお似合いの相手がいるんだから。そいつと幸せになればいい。
その男のことを調べるのは容易かった。何しろ、こっちにはあのオタッキー小杉がいる。槇原ファミリーに関する情報なら事欠かないのだ。 …でも。ちょっと聞きかじっただけで、もう嫌になった。彼は梨花ちゃんのお姉さんの同級生。ほとんど槇原ファミリーと生活を共にして大きくなっていった。それは幼稚園時代からだと言うから、年季ありすぎ。梨花ちゃんとのつき合いもそれだけ長くなる。 聞けば聞くほど、梨花ちゃんの彼氏として、彼以上の人間はいないんじゃないかと確信してしまう。そりゃ、短大を出てOLをしてるお姉さんとのつき合いは長く、とても仲睦まじいらしい。でも…あのお姉さんよりも、梨花ちゃんの方が、ずっと彼に似合っている。柔道場でちらっと比べただけでも分かる。梨花ちゃんこそが、彼の隣にふさわしいんだ。 今まで、ずっと自分の想いを押し殺してきた梨花ちゃん。俺にだけ告げてくれた、切ない胸の内。あれをふたりの前にぶちまける勇気こそが、今の彼女に必要なものだと思う。それなりに混乱はあるかも知れない、でも本気を出せば、梨花ちゃんの方が強い。きっと…大丈夫。 幸せって、人を押しのけないと手に入らないこともあるんだな。それは辛いことだけど、梨花ちゃんには乗り越えて欲しい。これからの人生で、心から信頼出来る人の存在はとても大切だと思う。梨花ちゃんも自分のために戦っていいんだ。相手が実のお姉さんだったとしても。 彼の夏休みが今週までのことも調査済み。ギリギリまでこっちにいることも、道場で子供たちに教えていることも知っていた。だからこそ、短期間に必死で頑張って、どうにか結果を出さなくちゃならなかったのだ。
こんな事なら、今日だけはやけ酒に溺れてしまいたいなと思ってしまうが、それはあまりにも情けない。仮にも一時でも、梨花ちゃんが「彼氏」と思ってくれた俺だ。それに恥じないようにしなければ。梨花ちゃんに好かれるだけの、それだけのものを持っていたんだと、思われなくては申し訳ない。 梨花ちゃんがそばにいてくれた頃は、それだけで満足していた。でも…これからは自分で自分を奮い立たせないといけないんだ。梨花ちゃんがいなくても立派に生きていかないと。 いつかあの男と幸せそうにしている梨花ちゃんを微笑んで見つめられる日が来る。それくらい、器の大きな男に生まれ変わるんだ。
…ああ、やっぱ。梨花ちゃんの事ばかり考えてしまう。最後に握りしめた手の柔らかさも、あの戸惑って悲しそうに揺らいだ瞳も、みんなみんな忘れられない。 俺、すごく好きだったんだ。梨花ちゃんのこと、本当に好きだったんだ。最初はあんなに綺麗で頭のいい子が彼女になってくれただけで舞い上がっていた。でも、少しずつ彼女の心に触れていくと、もっともっと好きになった。夢中だったんだ、マジで。 とうとう、梨花ちゃんのためになりふり構わず頑張ってしまうくらい、それくらい好きだったんだ。
…なんだよ〜、どうして泣けてくるんだよ〜。馬鹿か、俺はっ! こんなの情けなくて、見られたもんじゃないぞ。ええい、シャワーでも浴びて、ピシッとしようっ! バスタオルを持って。俺はユニットバスに飛び込んだ。
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ひとり暮らしの部屋なんだから、格好なんてどうでもいいんだけど。 実は思い切り、水を浴びてしまったので、本気で凍えそうだった。いくら何でも9月に凍死したくないぞ。伸ばした腕に鳥肌が立ってる。マジかよ〜っ…! コックをひねったら、何故か水が出てきた。給湯器のスイッチがちゃんと入ってなかったんだと、その時気付く。でもいつまで経っても温かくならない水シャワーを浴びていて、何だか自分がだんだん修行僧になった気がしてきた。女断ちして悟りを開くのだ。…と、イマドキのお坊さんには奥さんも子供もいるんだよな〜全然普通の人なんだ。うう、さらに寒い…。
…と、その時。部屋の入り口に転がっていたバッグの中で、携帯が音を立てた。思わず硬直する。 だって。 部屋の時計を確認した。6時半だ、夕方の。外はもう真っ暗。…どうしたんだろう、今頃。俺は妙な胸騒ぎを感じていた。そう…忘れていた。あの長いトンネルの中にいた頃、梨花ちゃんからの電話に間違えて出ないように、着信音を変えていたのだ。だから、すぐに分かる。でも、どうしたの? 不安には勝てなくて。つい、ごそごそと探り出して、通話のボタンを押してしまった。
「もしもし?」 「もしもし? …聖矢くん、梨花です」 …まあ、梨花ちゃんのあの性格自体が、お姉さんの反動なのかも知れない。足枷を取り払ったら、明るいキュートな女の子に生まれ変わるのかも。それもそれで、素敵な梨花ちゃんだ。 「…どうしたの? 何かあった?」 「ううん、別に…。それよりね、私、聖矢くんにお礼をしたくて。素敵なプレゼントを貰ったんだから、こう言うことはきっちりしたいの。直接手渡したいんだけど、これから行ってもいいかな?」 「……は?」 「な、お礼なんて別に。いいよ、そんな…」
何なんだよ〜っ、頼むよっ! 俺が今、どんな気持ちで梨花ちゃんのことを吹っ切ろうとしているのか分かってくれないのかっ? 頼むから、今はやめて欲しいんだ。会いたくないんだよっ! 君のこと、もっと穏やかに考えられるようになるまで。俺が俺らしくしっかりと立ち上がって歩いていけるまで。他の奴と幸せになる梨花ちゃんを、笑って祝福出来るまで…俺、まだ自信ないから。いや、本当は会いたい。離れるなんて、もう会えないなんて耐えられるか自信ない。あの幸せな日々がもう一度戻ってきたらと願ってる。 そうだよ。今、会ったら、きっと――。
「家にいるんでしょ?」 それなのに。梨花ちゃんは勝手に話を進めている。ああ、駄目駄目、絶対に駄目っ! 俺は祈るような気持ちで携帯を握りしめた。 「ううんっ、今は友達と呑んでるんだよ。今日はすごく遅くなるから、アパートに来てくれたって、いないし。だから――」 「嘘」 がちゃん。 いきなり、背後でドアが開く音がした。え、…嘘だろ? 俺は恐る恐る振り向く。そういや、鍵なんて掛けてなかった。 やはり。彼女が開いたドアの向こうで、にっこりと微笑んでいた。
今度は受話器越しじゃない、生の声だ。俺の心にすとんと飛び込んでくる。 …あ。 狭苦しい玄関先。その場所が、ぱっと華やいでいる。何て…満ち足りた温かい笑顔だろう。今まで見た梨花ちゃんの中で一番可愛い。身体の奥から溢れ出る幸せが、彼女を輝かせている。雨上がりの葉っぱみたいに艶々して、思わず目を細めてしまうほどだ。 梨花ちゃんは、真っ白なワンピースを着ていた。袖無しでシンプルなデザイン、上半身は身体にぴたっと付いて、ウエストのところから、ふんわりと広がっている。どうしたことだろう、ただの服なのに、何故か…花嫁さんの着るドレスみたいだなとか思えてしまった。 膝丈のスカートだから、何もそんなはずはない。…でも。二度目に見る彼女の私服姿は、余計な色も装飾もなくて、その分、持って生まれた清らかさとかみずみずしさを俺に伝えてくる気がした。 男なら、一度は夢見てしまうだろう。付き合ってる彼女の晴れ姿。息を飲むほど美しく飾り立てたドレス姿で、こちらに向かって駆け寄ってくる。淡い色のブーケ、流れるベール。あなただけが好きと語っている瞳。 今の梨花ちゃんは、まさにその姿を思い描くのに格好のスタイルだった。
そう言って、問いただしたい。俺の決死の覚悟を崩すようなことはしないで欲しい。さっさと追い払いたいのに、もう駄目だ。一度視界に捉えてしまった梨花ちゃんから、目が離せない。ああ、まるで夢の中の情景みたいだ。 「上がっていい?」 「あっ…、あの――」 何なんだ。部屋の住人である俺がこんなに慌てていて、梨花ちゃんの方が落ち着いていて。すううっと音もなく部屋の入り口で固まっていた俺の脇を通り抜ける。その瞬間、今まで嗅いだことのない、透き通った花の香りがした。
どどど、どうしたらいいんだっ! でもっ、今の俺は呼吸を整えるだけで精一杯だ。それ以上のことを望まれたら、心不全で倒れてしまうかも知れない。
雑誌や服が床に散乱した俺の部屋。風呂やトイレの水回り以外はここしかないから、全てをぎゅうっと突っ込んである。小さな洋服ダンスからあふれた服が、壁の鴨居にずららっと引っかかって。1年以上暮らしているこの部屋は、情けないくらい所帯じみた光景だ。 梨花ちゃんはその中にすたすたと入っていく。部屋の隅に寄せてあるベッドのところまで進むと、手にしていた小さなカバンをぽんと置いた。
「ごめん、直接じゃないと渡せなかったから。いきなり来ちゃった」 大きな目をこちらに向けて、すまなそうに微笑む。でもそれでも彼女の全身からは何だかふわふあした幸せそうな空気が湧いてきていた。
…とりあえずは、梨花ちゃんはちゃんとしてる。そう思って、ほっと胸をなで下ろす。自分の第六感は信じているはずだった。俺の描いたシナリオでは彼女はきっと幸せになれるのだ。…もしかしたら、もう何らかの結果が出たのだろうか? だからこんなに明るいのか? すぐに追い払わなくてはならないのに。声が出ない。ただ、梨花ちゃんから視線が逸らせない。身体が固まってしまって、自分の意志では動かせなくなっていた。
すると。 しばらく立ったままこちらを見ていた梨花ちゃんが、表情も変えないまま、すっと手を後ろに回した。 …え? 何してるのと思った時に、白い布がふわっと落ちる。その下から現れたのはなめらかな素材のスリップ。やっぱり真っ白。裾にレェスなんて付いていて。 それの肩ひもを抜くと、するするっと身体の線に沿って滑り落ちた。
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