午後の講義までだいぶ間がある。人気のまばらな講義室で、ひとり椅子に座っていた。ふっと目の前が暗くなる。 「おい、上條。どうしたんだよ? このごろのお前は何か変だぞ? 食事のあともそこそこにこうやってひとりで…」 からかっているのではない、心底心配した声で大谷が話しかけてくる。俺はすっと顔を上げると、一瞬目を合わせて、またすぐに問題集に目を落とした。
長い休みを終えて、高校は二学期になっている。 丁度良かったのだ、彼女の予備校が週末だけになって、ふたりが会う時間もなくなる。山ノ上高校では学校独自の課外があり、それで夜の6時過ぎまで残ることになると言う。観覧車を降りて別れて以来、彼女とは会っていなかった。もう半月以上になるだろうか。 その間、俺がこんな感じで机にしがみついている毎日を送っているから、大谷も訳が分からず聞いてくるのだ。理由は話していなかった。話してもきっと理解してくれないだろうし。 何度か、携帯に彼女からのメールが入った。でも読まずに捨てた。だって、もしも読んだら、この決心が揺らいでしまう。俺としても今までの人生で一番の山だと思っている。だから、どうしても乗り越えなければならないのだ。 すぐに結果を出せないのはもどかしい。でもこればっかりはそれなりに時間が必要だ。今までのツケが一気にやってきたと言ってもいい。
梨花ちゃんが俺に愛想を尽かした、と考えるのが当然だ。そのためか、嫌味の応酬だったあの男からの迷惑メールもぱたっと止んだ。現金なものである。あいつもそれなりに頭はいいくせに、かなり分かりやすい単純な性格らしい。 雑音がなくなって、せいせいしている。言わせたい奴には言わせておけばよいのだ。
ひとつ、不安なのは。 こんな風に離れていたら、彼女は俺のことなんて忘れてしまうかも知れないと言うことだ。もともとほんの気まぐれのように始まった関係だった。つかみどころがなくて謎めいていて…それが、梨花ちゃんだった。だから、なかったことのようにふっと消えてしまっても不思議はない。 繋ぎ止めておかなくちゃ不安になる。多分、身に余るような可愛い彼女をゲットした男はみんなこんな気分になるだろう。何しろ誘惑の多い相手だ、ちょっかいを出してくる輩も後を絶たない。いつもガードして、まとわりつく虫たちを蹴散らしていなかったら、いつ…持って行かれてしまうか分からないんだ。 …ま、俺の場合。それならそれで仕方ないかなとも思う。願っているのは梨花ちゃんの幸せだ、彼女が何の憂いもなく微笑む顔を見たいだけ。そのために自分の胸が痛むのは仕方ない。
秋の日はつるべ落とし。9月はどんどん日が詰まる時期だ。予備校で講義を終えて外に出ると、もうとっぷりと日が暮れていたりして驚く。梨花ちゃんと待ち合わせをしていた頃、まだ夕暮れ前だったのに。あの夏の日がとても遠く感じられる。 気のせいだろうか。予備校の外に出ると、向こうの柱の影に制服を着た梨花ちゃんが立っているのが見えた。そんなはずはない、彼女がここにいるはずはないのだ。約束したのだから、彼女の一番欲しいものを持って必ず会いに行くから。それまでは待ってて欲しいと。なのに、そんなことが一度のみならず、二度三度と続く。 きっと俺は…会いたさのあまり、とうとう幻影を見ているのかも知れない。 その方向を見ないようにして、アパートに急いだ。
*** *** ***
俺の部屋の前。暗くなると自動的に点灯する常夜灯の前にいるはずのない人影があった。 「おかえりなさい」 さらさらなのに、濡れているみたいに艶やかで、そして触れるとやわらかい。その感触を手のひらがちゃんと覚えている。見慣れた制服を着込んでいるのは学校から帰る途中なのか。短めのデザインのスカートは、ちょっと涼しすぎるような気もする。 幻じゃないんだよな、これは本物だよな。影だってちゃんとあるし…輪郭もくっきりしてる。
何でなんだよっ!? 会わないって言ったじゃないか、待っててって約束したはずだ。梨花ちゃんだって忙しい受験生だ。しかも俺なんかよりもずっと難関の大学を目指している。いくら秀才とは言っても、ちゃんと勉強しなくちゃ無理だと思う。 …こんなところで、油を売っていていいはずないんだ。 「どうしてって…? そんなの決まってるじゃないのっ…! 聖矢くんが会ってくれないからでしょう? いくらメールしても駄目だし、携帯に直接掛けても切っちゃうし…どうしてって聞きたいのは私の方だわ。どうしたのよ、急にっ…!」 「…待っててくれって、言っただろっ!?」 ここで、梨花ちゃんが現れたら…あの幸せな時間が戻ってしまったら、俺は今までの努力の全てを失うことになる。駄目なんだ、器用な人間じゃないんだから。ひとつのことに頑張ったって力不足で躓いてしまうことが多い。脇目を向いていたら、ひとたまりもないんだ。 …俺は、梨花ちゃんみたいに出来た人間じゃないんだからっ…! 「そんなこと、言ったってっ…!」 「理由も何も言わないで、ただ待ってろなんてひどいっ…! 待ってろって、こんな長い間とは思わなかったわっ! …いいじゃないの、ちょっと会ってくれたってっ! 5分やそこら、話をすることも出来ないの? 受験生だって、誰だって、忙しくたってみんな普通にやってるでしょっ…聖矢くんだって、前の彼女とはちゃんと付き合ってたんでしょっ…!」 「え…?」 思わず、息を飲んだ。何で…、何でそんなことまで知ってるんだ? そりゃ、俺には春まで彼女がいた。予備校で知り合った同級生だ。一緒に頑張って合格しようと言い合って、いつも一緒にいた。ここに泊まったことだって、数え切れないくらいある。半同棲状態だった頃もある。…でも。 「私、知ってるもん。聖矢くんのこと、色々。だから、どうして会えないのか、ちゃんと理由を聞かせてくれないと、帰らないっ…!」 「りっ…、梨花ちゃんっ! もうっ、いい加減にっ…!」 何だか、変だ。今日の梨花ちゃんはいつもと違う。余裕がないというか…焦っているというか。ぎりぎりのところでいる感じで。 凛として、年下なのにお姉さんみたいで。ドキドキするくらい素敵だった梨花ちゃんはどこに行ったのだろう。何にそんなに怯えているんだろうか。 俺が少しくらい威嚇しても、ひるむような彼女じゃない。ドアにぴったりと背中をくっつけて、俯いたままで言った。 「…中に、入れてよ」 「え…?」 俺が聞き返すと、梨花ちゃんは顔を上げて、怒りの色をした目で、俺を見た。 「この前のこと、怒ってるんでしょ? だから、冷たくするんでしょ…?」 ゆらり、と視界の中の彼女が揺れる。揺れたのではない、こちらに向かって近づいて来たんだ…と思った瞬間。ぎゅっと、細い腕が背中に回った。 「そんなに欲しかったなら、あげるから…っ、だから、中に入れて。あんなことで、聖矢くんが変わってしまうなら、…逃げたりしなかったのに…ごめんなさいっ!」 …は? 一瞬、何のことか分からなくて、意識が飛んだ。梨花ちゃんの身体の柔らかさが直に感じられて、立っているのもやっとの状態。その上、彼女自身のものなのか、甘酸っぱい匂いがする。 「そうだよね、私は彼女なんだから。当然の事だったのに…怒ったんでしょ、だから、こんな風に無視するんでしょ? …嫌いになったの?」
――ああ、そうか。 ここまで来て、ようやく彼女の言葉の意味が分かった。そうか、この前ここに来た時のことを、彼女は言ってるんだ。俺が無理に…。そのことを、まだ考えていたのか。
「あのときは、いきなりだったからびっくりしただけなの。嫌だった訳じゃないのよ、だからっ…ね? 元の通りになれるなら、それでいいから。もう嫌がらないから。聖矢くんのしたいようにしてくれていいからっ…!」 そう言いながらも、巻き付いた腕は震えている。全然平気なんかじゃないはずだ。なのに…必死にすがりついてくる。 「ち、違うからっ…! そうじゃないからっ…!!」 もう駄目だ、限界だ。梨花ちゃんの腕を強引に解く。いい加減にしてくれ、こうして目の前に現れただけでも焦ってしまうのに…さらに…こんな。 「違わないでしょっ! だって、それくらいしかっ、思いつかないものっ!!」 「…嘘なの? 一番って、そう言ってくれたのも、嘘だったの? 本当はもう私のことなんて、どうでも良かったんでしょ? …だから、こんな風に冷たくなったの…?」 「違うってっ…!」 もう、どう言ったら、納得してくれるんだろう。どうしてこんなに食い下がるんだろう。 だって、他人だったじゃないか、ついこの前までは。ほんのちょっとのアクシデントで、少しの間恋人ごっこして…梨花ちゃんだってすごく余裕で、いつも惑わされていたのは俺の方で。
それに…、もう俺は気付いてしまったのだ。彼女ですら気付いていない事実に。 梨花ちゃんが本当は何が欲しいのか、何を手に入れれば一番幸せになれるのか。あんな風に悲しんだり、自信をなくしたりしないで、梨花ちゃんらしく笑えるようになるのか。 そのために、頑張っているんだから。だから、こうして心を乱さないで欲しい。俺は弱い人間なんだ。すぐに流されてしまうんだから…梨花ちゃんと一緒にいたら、この決心が揺らいでしまうこと、分かって欲しい。はっきりは言えないけど、分かって欲しいんだ。
「もう…、彼女失格なの? …聖矢くんの隣にはいられないの?」 今にも泣き出しそうな瞳。するりとかわす。今、この腕を回して抱きしめてあげれば、彼女には一時の平穏が訪れるかも知れない。でもそれは…彼女に本当に必要なものではないのだ、間に合わせの紙細工でしかない。 梨花ちゃんが…もしも、俺の思っている通りの、女の子だったとしたら。幸せになる方法はひとつしかない。だから、それを知って貰うために、俺は頑張らなくちゃならないのだ。 「…送るよ、駅まで。もう暗いから…電車で帰った方がいい」 「聖矢くんっ!?」 梨花ちゃんの左手を掴む。そして、くるりと向き直ると歩き出した。 「待って、…待ってよっ! 話を聞いてっ…ねえってばっ…!」 黙ったままだった。何を言っても答えてくれないと悟ったのだろう。二言三言言ったあと、梨花ちゃんも無言になった。 ――ただ。強引に指を絡めてきた彼女の力が、たとえようもなく強かった。そして…薬指に引っかかる堅い感触が何であるか、振り返って確かめるまでもなく分かった。彼女の想いは痛いほどよく分かる。 どんな気持ちでここまでやってきたか、どんなにか俺を必要としているのか。 それは有り難かった、梨花ちゃんの様な女の子にここまでしてもらって、悪い気のする男なんていない。俺だって、普通の男だから、当然嬉しい。でも…だからといって、すぐにありがとうと受け取るわけにはいかないのだ。 細い路地に、ふたりの足音が響く。駅までの道のりは、ただ長かった。
やがて、地下鉄の乗り口がぼんやりと見えてきたところで、手を離す。 「きちんと待っていてくれれば…必ず会いに行く。俺のこと、信じていて」 確証の持てない約束をするように…梨花ちゃんは俺の言葉にそれでも黙って頷いてくれた。
*** *** ***
山ノ上高校の場所はよく知っていた。俺の実家からもそう遠くない。子供の頃は当たり前のように前を通り、もしかしたらここに通うことになるのかも知れないなんて夢を見た。 真っ白な校舎はあの頃と同じように青い空をバックにそこにある。ぐるりとフェンス越しに植えられた樹木の緑もそのまま鮮やかで、10年や20年の月日なんて大したことないなとか思える。 無邪気な幼い頃の憧れ。「もしかしたら」がまだ不可能に思えなかった幸せな頃。 夢見る時間はとても早く過ぎてしまう。「もしかしたら」が叶うはずのない夢だと分かってしまうまで、あっけなかった。俺の人生には「やっぱり、駄目だった」ばかりが付きまとう。今回も…考えてみればそんなもんなのかな。
色々、思いだしてみる。 考えてみれば、いつも梨花ちゃんの方が俺のところに来てくれていた。予備校の近くの公園で待ち合わせした時も、彼女は地下鉄を途中下車してくれて俺を待っていてくれたのだ。だいたい、最初の出逢いから言って…彼女はあまりにも突然に、当たり前に俺の前に現れた。 待ち合わせの場所に、梨花ちゃんの姿を確かめて。やはり嬉しかった。いつも期待半分、だったから、来てくれるだけでとても嬉しくて。ああ、良かった、会いに来てくれたんだと思った。 俺だけを見つめる瞳、俺のためにだけ奏でられる声。すぐ隣でさらさらと髪の毛の流れる音まで聞こえるような場所で、見慣れた風景も特別のものに変わった。 ――彼女って、楽しいね。 不思議なことを言う子だと思っていた。特定の彼氏がいたことがないと言うのも、何だか半信半疑だったし。でも…もしかしたら、梨花ちゃんはどこまでも純粋な女の子だったのかも知れない。 出逢いが出逢いだったから、最初からヨコシマな感じで見てしまったけど、あれはまあ…置いておいて。それ以外の梨花ちゃんはどこまでも綺麗で汚れがなかった。 おろしたての真っ白なパレット。絵の具をしぼり出すと、綺麗にその色に染まる。そんな風に俺との色々なことを、いちいち喜んで楽しんで…そうなんだ、「恋人ごっこ」をしていたんだね。
梨花ちゃんにはずっと、好きだった人がいたんだ。 でもその人は、絶対に手に入らない人で、諦めるしかなかった。でも…彼の代わりになる人間なんているはずもない。だから、ひとりだった。会わなくて済むんなら、忘れられるならまだいい。でも…そうじゃなくて。彼はとても身近な人だったから。 吹っ切れない想いを抱いて、ずっとずっと生きてきたんだ。ひとりぼっちで。 一番になりたい、と彼女は願った。でも…一番にしてくれる男を見つけるというのは…ちょっと違うんだよ? 一番好きな人と幸せになることが、大切なんだ。 梨花ちゃんが、ずっと大切にしてきた想いを、隠すことなくぶつけるだけの勇気。それを持って欲しかった。簡単なことのはずなのに…どうしてだろう、あんなに足踏みして。最後には自分の足元すら、見失いそうになっていた。 …勘違いしないで、梨花ちゃん。 俺じゃ、駄目なんだよ。梨花ちゃんが誰よりも輝いて、世界で一番の幸せな女の子になるためには…俺じゃ駄目だったんだ。口惜しいけど、無理なんだ。…だから。
たくさんの生徒たちの中で、それでも長い黒髪の女の子は視界にすぐに飛び込んできた。クラスメイトか何かなのかな? 他の女の子たちと楽しそうに笑ってる。俺の知らない梨花ちゃん、あれが本来の梨花ちゃん。あんな風に…これからはいつもいつも笑顔でいられるようになる。梨花ちゃんが、もっと素敵になるんだ。
…あ。 校門を出たところの、木陰に立っていた俺に、彼女が気付いた。表情がふっととまる。信じられないように目を見開いて。でも次の瞬間、周りの女の子たちに何か話しかけて手を振ると、こちらに駆け寄ってきた。 「…聖矢くんっ…!」 ああ、なんて嬉しそうな顔をするんだろう。ようやく巡り会えた大好きな人に見せる特上な笑顔を俺に向ける。 違うんだ、違うんだよ、梨花ちゃん。君は勘違いしてるんだ。大切な想いを封印するために、俺の彼女になろうなんて思って。でも…もういいからね、そんな風に思わなくていいんだからね。 そう思いながら、まだ迷っている。今なら間に合う、こんな馬鹿げたことをする必要はないんだ。彼女に気付かせる必要なんてない、このまま…。 「もういいのっ? 用事は済んだんだよね? …嬉しい、わざわざここまで会いに来てくれたのねっ!」 通りを歩いていく生徒たちがこちらをちらちらと見ている。俺は、大好きな笑顔を見つめながら、曖昧な笑みを浮かべた。
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