TopNovel未来Top>女神サマによろしくっ!・9


…片側の未来☆梨花編… + 9 +

 

 

 梨花ちゃんは小学校の頃から柔道場に通っていて。高校3年生の今ではなんと黒帯有段者だと聞いて仰天した。学校の部活動はやっていなかったが、道場では今でも週に3日、汗を流しているのだという。

 

「…ええっ! ちょっと待ってっ! 俺、そんなの無理だよっ…申し訳ないけど、多分、君よりも弱いし…」

 お手合わせ願いたいとか言われて、投げ飛ばされるのかっ? やだぞ、いくらなんでも、それだけはっ…!!

 俺が情けない声を出すと、梨花ちゃんがころころ笑った。

「やだなあ、そんなことしたら、私がいじめてるみたいになっちゃうわよ?」

 YAWARAちゃんみたいな女の子がたくさんいる道場なのかと思ったら、女の子は梨花ちゃんひとりだったんだという。そう言えば、柔道部ってどこも男子ばっかだもんな〜。「女子柔道」と言う種目があるんだから、絶対にやってるところはあるはずなのに。中学も高校も、剣道部は男女のがあったけど、柔道は男子だけだった。

 いやはや。

 と言うことは梨花ちゃんの練習相手は…もれなく男? 自分の倍も体重のありそうな男と組み合ったりしちゃうわけ? …おいおい、待てよ、想像しちゃうぞ…ああ、自分が哀しい。そんな場合じゃないのに。でも、ホント。梨花ちゃんと組み合って寝技とかに持ち込んだら…いくら武道家とは言え、変な気を起こしそうになったりしないのかなあ。

 

***   ***   ***


 路線バスに乗って20分ほど。閑静な住宅地のど真ん中に二階建ての道場があった。周りを背の高い木々に囲まれて、涼しげな外観だ。

 途中で「差し入れ」と称してカップに入ったかき氷を買う。練習中にむやみに水分は入れてはならないが、終わったあとに食べて貰うように冷蔵庫に入れておくのだという。合宿も出来る施設だと言うことで、給仕場も綺麗にこざっぱりとしていた。

 道場と言っても高校の格技館よりもちゃちい感じ。普通の住宅のちょっと部屋が広めの場所に畳が一面に敷かれていて。色の変わっているところが競技用の枠なんだろうか? 授業でやったんだけど、さわりだけだったから良く覚えてない。奥の方にはロープが天井から吊られていて…ああそうだ、あれをよじ登るんだ。足腰を鍛えるんだよな。
 木の壁の上の方にずらずらと並んだ賞状の額。玄関の靴脱ぎ場の隣にあるガラスケースにたくさん並んだトロフィーや盾。金色の面に浮き彫りされた文字を見ると「県大会優勝」とか「全国大会」とか言う文字が読みとれる。そして、入り口付近まで足を進めると…。

 うわ、臭いっ!

 そう思ってはいけないのだろうけど、臭いぞ。窓を開け放った道場の中は、それでも熱気がむんむんとこもっていた。でかいのからちびまで20人くらいか? 皆、自分に合った練習をしている。ほとんどが色帯や白帯だが、黒帯を締めて、その中をうろうろしている数名の大人が先生なのだろう。
 柔道場も剣道場も…とにかく汗が布に染み付いて取れなくなったようなあの独特の匂いが籠もっているものだ。まだ剣道は分かる、部室には面や胴がしまわれているんだから。あれは洗えるもんじゃないし、いいとこ風通しのいいところに干すしか出来ないそうだ。たまったもんじゃない。しかし、柔道は…なんだろう。もしかして汗が畳に染みこんでいるとか?? うわわ、考えたくないぞ〜!

 いろんな考えが頭を駆け抜けるが、梨花ちゃんが通っている道場のことをあまり悪く言いたくない。かといって気の利いたコメントも出てこないまま呆然としていると、中をぐるっと見回した梨花ちゃんが、ぴたっと一点で視線を止めた。

 …ぎゅっ。

 俺に巻き付けていた細い腕がもっと強く絡まってくる。何かを必死で耐えているような、緊張感が彼女から漂ってきた。

 何を、見てるの?

 目を凝らしてみるが、どれも同じ稽古着と短髪で区別が付かない。だいたい、梨花ちゃんは何を思ってここに来たのだろう。…そう思っていると、するっと腕が抜けた。


「…岩男くんっ!」

 裸足でぱたぱたと畳の間に駆け込んでいく。躊躇ないその足取りは慣れ親しんだ空間を横切って、奥へ奥へと進んでいった。俺は後を追うのも気が引けて、入り口付近にぽつんと取り残されていた。

 梨花ちゃんの声を聞いて、ひとりの男が動きを止める。

 あれ? …先生じゃないんだ。すごく体格が良くて、堂々としているから一番偉い師匠か何かなのかと思っていた。振り向いた姿を見ると、彼が思ったよりもずっと若くて自分と同年代であることに気付く。まだ学生なのかな…?

「あれえ、梨花ちゃん」
 彼は柔道着の袖で額の汗を拭いながら、驚きの声を放った。

「どうしたの、全然来ないからさ。寂しかったよ…」
 そこまで言うと、技を教えていた子供に何か指示をする。その子がひとりで動き出したのを確認して、もう一度梨花ちゃんに向き直った。

「だって、受験生ですものっ。勉強が大変なのよ、分かるでしょ?」
 梨花ちゃんは彼にタオルを差し出しながら、明るい声で言った。今までに俺に見せたことのない様な明るくて無邪気な笑顔。

 彼女の広いおでこ。そこを彼はピンと指で弾く。

「そんなこと言ったって、机にかじりついているばかりじゃ駄目だろ? オレが帰省してくる日はちゃんと教えてあるんだから、上達したところを見せてくれないと…」

 彼の方もまんざらじゃない様子だ。そりゃそうだろうなあ、あんなに可愛い女の子に親しげに話しかけられるんだから。梨花ちゃんは髪を指に巻いたり解いたり。口元に手を当てて笑い声を上げたりしてる。そんなふたりを見ていて、自分が急にひとりぼっちで取り残されたような寂しさが胸をよぎった。

 彼が当たり前みたいに梨花ちゃんの頭を撫でる。彼女もくすぐったそうに反応する。


 …なんだ? …何なんだ? 何が言いたいんだろう…。


 一頻りの談笑が終わるまで、俺は情けなくもずっと柱にかじりついて立ちつくしただけだった。やがて、ふたりの視線がこちらに向かう。彼が不思議そうな顔で俺を見た。

「…聖矢くんって言うの」
 梨花ちゃんは彼の胴着をぐいぐい引っ張りながらこちらにやってきた。道場を突っ切るんだから、他の子供たちもじろじろとこちらを見てる。

「紹介するわ、聖矢くん。こちら、私の道場の先輩で杉島岩男くん。今は関西の大学で三回生なの」

 俺の方を見ている彼の目がふっと細くなった。見下ろされている…うわ、身長いくつあるんだよ、でもって体重とか胸回りとか…一体どれくらい? 俺はほとんど全国平均の標準体型だ。思わず見上げてしまうくらいの巨漢に後ずさりしそうになった。

「杉島です、よろしく」

 でかいのは図体だけじゃない。何て言うんだろう…落ち着いた物腰に堂々とした気迫が感じられる。ぴーんと一本しっかりと張った糸のように、すっきりとした男らしさが伝わってきて。当たり前のように差し出された手を握り返す時、暑いからではない汗がどっと噴き出してきた。

「びっくりしたよ、梨花ちゃんに彼氏なんて。いいのかい? …受験生だろ?」
 彼は梨花ちゃんをからかうように明るく言った。彼女もちょっと照れながらも嬉しそうだ。

「だって〜いいじゃないの。こういう息抜きだってあるでしょ?」

 さ、戻らなくちゃと彼が時計を見る。梨花ちゃんにタオルを渡すと、にっこりと俺たちの方に微笑んだ。

「良かったら、少し見学していってください。皆も観客がいた方が張り合いが出ると思いますし…」

 どかどかと道場の奥に戻っていく広い背中が、どこまでも男らしくて惚れ惚れした。


 ――で。一体、何者?

 ばんばんと畳に身体を打ち付ける音や摺り足の音。腹の底から湧きあがる声、うなりを上げる呼吸。そんな様々な喧噪をしばらく黙ったままで見ていた。梨花ちゃんの視線の先に必ず彼がいることももう分かっていた。

 …もしや。

 俺の心の中にひとつの確信にも似た想いが湧いてきた。思わず息を飲んで綺麗な横顔を見つめる。でも…彼女の視線がこちらに向かうことはなかった。ずっとずっとひとりの人だけを見ていた。吸い寄せられるように。


 その時。

 バタバタと庭先から、大きな物音が聞こえてきた。ぎょっとして振り向くと、走り去るタクシーを背にして、猛ダッシュで駆け込んでくる小さな女の子が見える。…女の子、と言うのは違ったか。身体は小さいが、綺麗にメイクしてそれなりに大人っぽい。スーツも着ているし…OLさんか…就職活動中の学生さんだろうか?

 彼女は、俺たちなんててんで視界に入っていない感じで隣をすり抜け、そのまま道場に飛び込んでいった。

「…岩男くんっ!! 会いたかった〜〜〜っ!」
 それこそ道場の空気を裂くような声。すごく可愛いソプラノで、何とも言えない甘さを秘めていて。

 それだけじゃない。彼女はそのまま例の「岩男くん」にぎゅううっと抱きついたのだ。そう、公衆の面前、と言うか、他の道場の人間たちの前で。俺たちもいるというのに。

「なななななっ、菜花ちゃんっ! ちょっと、やめてよっ…練習中だろ〜!?」

 すると、彼の方も真っ赤になっちゃって。あれ、梨花ちゃんの時のしっとりとした落ち着いた態度はどこへやら、全然余裕がない感じだ。自分の半分くらいしかないようなちっちゃい女の子…というか多分女性を前にして、ありんこのように身体を小さくしている。いや、アリにはなれないか、あの身体では。

「だってぇ〜っ!!」
 ぺりぺりっと身体を剥がされて、それでも彼女は名残惜しそうに抗議する。

「どうして、あたしが関西に研修に行く期間に、岩男くんがこっちに戻ってくるの? 酷いわっ! 危うくすれ違うところだったじゃないのっ! もう、もうっ…研修なんて頭に入らなかったんだから〜っ、早く会いたくて、すっ飛んで来ちゃったっ!」

 息を切らせながらも、言葉が止まらない。そこまで一気にまくし立てると、まだ言い足りなそうな顔で彼を見上げる。

 うわ、それにしてもあの子も可愛いなあ。ふんわりしたミルク色の肌に、くるくるの茶色の巻き毛。あれ、カールだろうか、地毛だろうか? ちっちゃいけど、全身から可愛い感じのオーラが出ていて…もう、何て言うのかな、アイドルの領域。梨花ちゃんもそうなんだけど、目の前のきゃぴきゃぴさんはまたタイプが違う。

「…え? 梨花の彼?」
 彼が耳元で囁いた言葉に反応して、彼女は振り向いた。大きくてこぼれそうな茶色の瞳でまっすぐに俺の方を見る。ひ〜〜〜〜っ、何だかすごいぞ。魂を抜かれそうだ。ここまで完ぺきに仕上がった可愛い子が存在するんだ。信じられない。

 その視線にも緊張したが。もうひとつ、身体がガクガクになるくらいの緊張感が走る。もう縦断しているこの想い。身体が凍り付くとはこのことか。

 梨花ちゃんの腕が。俺の腕に巻き付いたまんまの腕が、小刻みに震えていた。もう絶対に解かないぞと言うようにぎゅうっと絡みついている。

 

 くるくる巻き毛の彼女は「もうちょっと待っていて」と言う彼に説得されて、ぽてぽてとこちらにやってきた。

「梨花〜、ただいまぁ〜!」
 俺の方を意識しながら、彼女は梨花ちゃんに話しかける。

「ただいま、じゃないでしょ? 何よ、家に戻る前にここに来るなんて。パパが聞いたら気絶しちゃうわよ。全く何考えてるのよ、お姉ちゃんは」

 そう答える梨花ちゃんはいつもの口調に戻っていた。俺のよく知っている梨花ちゃんに。あの「岩男くん」の前にいた梨花ちゃんはどこか違っていて、違和感があった。

 …そうか、お姉ちゃんって…。伝説のカリスマ夫婦には3人の子供がいると聞いていた。その真ん中が梨花ちゃんで、下に弟がいて、上にお姉さんがいる。でもな〜、どう見ても「お姉さん」と言うより「妹」だよな…身長だって梨花ちゃんよりも小さいし、全体的にぽてぽてしてるし。
 
「うう〜んっ! だって〜早く会いたかったんだもんっ!」
 くるくる巻き毛さんはにこにこと屈託なく笑う。

 へえ、ホント、仕草も表情も姉妹で違うんだなあ。どっちも特上品には違いないけど。こうして並べると圧巻、松浦亜弥ちゃんと上戸彩ちゃんが並んでいるなんて、Mステーションくらいじゃないか!? 俺はマイクを握りしめたタモリさんか。ああ、もうコメントありません。

「そうそうっ! 岩男くんがね、練習が終わったら、ご飯を食べに行こうって。みんなで一緒の方が楽しいじゃない? 梨花と彼氏さんも一緒に行こうよっ!」

 どうしてまあ、こんなに弾むようにしゃべるんだろうなあ、スゲーよなぁ…。あんまりの勢いに押されて、俺が言葉をなくしていると、梨花ちゃんがさっさと言葉を遮った。

「いいわよ、そんな。私たちだって忙しいんだから…おふたりでごゆっくりとどうぞ。また、夜遅くなると、パパが怒りまくるわよ? 気を付けてよね」

「梨花〜っ…!?」

 お姉さんが訴えてるのに、俺の腕を取る梨花ちゃんは「行くわよ」とか言って、すたすた歩き出す。それきり怒ったみたいに後ろも振り返らないから、俺だけがくるんと後ろ向きになって会釈した。お姉さんが哀しそうに立ちつくしてた。

 

***   ***   ***


 ずんずん歩いて、どこまでも歩いて。夏の日が傾き掛けた歩道の上で、彼女は乱暴に腕を解いた。俺の歩みが遅いのが気にくわなかったのかも知れない。すたすたとサンダルの音を立てながら、50メートルも前に歩いていく。彼女の心が全然分からなくて、俺は途方に暮れた。

 それから、ようやく普通の歩幅に戻って。涼しげに吹いてくる風に髪を揺らしながら、彼女は振り向いた。その顔が泣いてるみたいに見える。

 気のせいだろうか? …どうして?

「お姉ちゃん、…可愛いでしょ?」
 いきなり、そう言って。梨花ちゃんはふふっと微笑んだ。ああ、本当に瞳が濡れてる。もともと黒目がちでそんな風に見えるんだけど、今は「見える」だけじゃないんだ。

「…え?」

 何で、急にそんなことを言うんだろう? 全然分からない。突然、道場に連れて行かれたと思ったら、また突然帰ろうという。意味不明の行動ばかりに振り回される。女の子は気まぐれだと言うが、今日の梨花ちゃんには関連づけが全くない。

「お姉ちゃんね、ちっちゃい頃から本当に可愛かったの。見た目ももちろんだけど、性格も。だからみんなに好かれて、いつでもお友達がいっぱいいて。いつもいつも、真ん中にいるの、人の。…おひさまみたいだった」
 ひとつ、息を吐く。とても苦しそうだった。

「お姉ちゃんみたいになりたかったけど…全然無理。お姉ちゃんは…私の欲しいものを全部持っていっちゃうんだもん…でも、駄目って言えない。だって、仕方のないことなんだもんね…」

 梨花ちゃんは、笑っていた。すごく辛そうなのに、言葉をひとつひとつ重ねながら、それでも笑っていた。

 俺には、分からなかった。

 どうして、梨花ちゃんのような子が、こんな風に言うんだろう。俺から見たら、梨花ちゃんは素敵すぎるくらい素敵で、俺の欲しいものをそれこそ何でも持っている。成績も良くて、とても綺麗で、運動神経だってずば抜けているとか。きっと大学だってストレートで合格して、いずれ獣医さんになるんだろう。彼女の輝かしい将来が全て遠くまで見渡せる。

 …比べることはないのに。

 今のままで、十分すぎるくらいに梨花ちゃんは素敵なんだから。そばにいるとまぶしくて、息をするのも忘れてしまうくらい、輝いていて。

 …比べる必要なんてないのに。誰もそんな風に思ってないのに。

「あっ…、あのさっ」
 どうやって、言葉を綴れば彼女が分かってくれるか、想像付かなかった。でも、思った通りに一生懸命言うしかないと思った。

「梨花ちゃんは、すごく可愛いし…ホントのホントに素敵な女の子だと思うよっ!」

 …一緒にいて、幸せだったし。俺がもっと立派な男で、誰にも自慢出来るようなものを持っていれば、ずっとそばにいたいくらいだったし。それがないと分かっていても、諦めるのが大変だったし。

「…無理、しなくていいのに」

 俺の言葉は、届かない。閉ざしてしまった梨花ちゃんの心は何を言っても、全部はじき返してしまう。震える口元が、苦しそうに言った。そこにはいつもとは違って、少しだけピンクの色が乗っていた。どことなくフルーツの甘酸っぱい香りもする。

「みんな、お姉ちゃんが一番なの。…私は二番目なの…そうなんだもん、ずっとずっとそうだったんだもん」
 綺麗なピンク色が歪んで、そのまま俯く。泣き出しそうで…今にも崩れそうで。

 本当に、突然。どうしたんだろう? どうして道場に行きたいなんて言い出したんだろう? …それは…。


 分かった。

 いくら鈍感な俺だって、それくらいは分かる。あのとき、梨花ちゃんの腕が大きく震えて、立っているのも辛そうだった。嬉しそうな表情も、いつもよりはしゃいだ声も、可愛い仕草も。みんなみんなひとつの理由から来てるんだ。

 はっきり分かる。本当は――梨花ちゃんがどうしたいのかも。


「そっ…そんなことないよっ!!」
 もう必死で、叫んでいた。俺の中にある、絞り出せるだけの勇気だった。

「梨花ちゃんが、一番可愛いよ? 一番素敵だよ…っ。世界中で一番、もちろんお姉さんよりも、梨花ちゃんの方がずっとずっと…っ!!」


「…え…?」

 かすれるような、信じられないような声で。そう呟いてから、顔を上げる。嬉しいと言うよりも、驚きの表情で俺をじっと見ていた。


「梨花ちゃんが、一番だよっ…!」

 口から出任せなんかじゃなかった。本当にそう思ったんだ。いくらあんな可愛いお姉さんが出てきたからって、どうして彼女の方が良くなるんだ? 梨花ちゃんが一番なんだ。俺の女神様は梨花ちゃんなんだから。

 そして。大切な女神様だから、一番幸せになってくれなくちゃいけないんだ。

 

 どこかで時計台が鳴っている…5時だ。ひたひたと辺りに満ちてくる夕方の光。金色の帯が徐々に色を濃くしていく。それに照らし出されながら、梨花ちゃんがゆっくりと言った。元通りに、ゆったりとした笑顔になって。彼女の指にある石がきらりと輝いた。

「そろそろ…時間だよ? 行こうか」

 

***   ***   ***


 だんだん周りの風景が下に下に沈んでいく。自分たちが浮き上がっていると言うより、地面が下がっているような気がする。一周20分のふたりきりのささやかな空間が、静かに巡り始めた。

 平日の午後で、思ったよりも観覧車は空いている。梨花ちゃんが、行き先も告げずにまっすぐに歩いた先にあったのは、あの伝説の大観覧車だった。窓口でふたりで半分ずつ出し合ってチケットを購入する。どちらが言い出したのでもなく、きっちり財布から1500円ずつ取り出したことが可笑しかった。待ち時間もなく、下に降りてきた青いドアに乗り込んだ。

 東側に海、西側に丘陵…日が沈んでいくのはあの山の向こうだ。俺たちがだんだん上へと向かって行くに従って、空の色も目に見える速度で赤く輝き始めていた。

 

「…そっち、行ってもいい?」
 向かい合って座っていた彼女が、いきなりそうきり出した。

 そう言えば、乗り込む時、あとから乗った俺が当たり前のように向かい側に座るのを、乗り口にいた従業員が不思議そうに見ていたっけ。4人掛けの椅子なのに、大抵のカップルは並んで座る。その時には外側に座った方が風景が良く見えるかも知れない。そのくらいの傾きは計算して作られた乗り物なのだ。

 肩を寄せ合って座るのに丁度いい座席。でも、彼女の隣に座るのはどうしても出来なかった。

 俺の返事なんて聞かないで、彼女がすっと立ち上がる。反射的に身体をずらす。俺が彼女の空間を確保してやらないと、ずっと立っているかも知れないと思ったから。
 隣に座った彼女がそっと俺の方にもたれ掛かってきても、それでも腕を回して抱きしめる事なんて出来なかった。情けないなと思ったけど…それはしてはならないことだった。

「あのね、…私ね」

 彼女は静かに語り出す。俺は確かなぬくもりを肩に感じながら、海を眺めていた。一呼吸の間に、夕暮れの浜辺が遠くなる。

「どうしても、欲しいものがあったの。大抵のものは、諦められた。でも…それだけはどうしても欲しくて。だから、絶対に手に入れようって思っていたの…そのために、たくさん頑張ったんだよ…?」

 観覧車の窓は少しだけ開いている。指が二本差し込めるくらい。そこから風が吹き込んできて、梨花ちゃんのやわらかい黒髪を踊らせる。

「でも…駄目だったの。だって、それは最初から、他の人のものだったから。どんなに私が求めても、手に入れることが出来なかった…駄目だったの、私は二番目だから…」

 するり。

 梨花ちゃんの手が俺の手を握る。窓枠にもたれていない左手を、なめらかな両手が包み込む。

「でも…私、なれるのかな? 一番に…本当に、なれる?」

 

一番、二番と。そんな風に繰り返す彼女が痛々しかった。彼女を解放してやりたい。そんな馬鹿馬鹿しい観念から自分を解き放って、最高の笑顔で生きて欲しい。そのために、俺は一体何が出来るのだろうか? 

 何をしても上手くいかなくて、貧乏くじばかり引いていた。努力することさえもいつか虚しいだけのことになっていって。それでも、俺にしか出来ないのなら。今しか、出来ないのなら。

 

「聖矢くんが…私を一番にしてくれるんだよね? …そうだよね?」

 ふっと肩が軽くなる。彼女は窓の向こうの山並みを見ていた。今まさに沈んでいく夕日、空を全て赤く染め上げて、小さなこの閉ざされた空間もオレンジ色の光に溢れていた。斜め上を進んでいた、前の箱が沈み出す。…ここがてっぺん。

 梨花ちゃんはぎゅっと俺の手を強く握りしめる。そして、こちらを見上げて、静かに瞳を閉じた。

 


 微かなきしみの音が耳に届く。ゆっくりと沈み始めたことを知った。

「…どうして?」
 梨花ちゃんは今にも泣き出しそうな顔で俺を見ている。その目には一杯の涙を溜めていた。

 俺の唇は彼女の額に当たった。彼女が望んだ場所までは、どうしても辿り着くことが出来なかったから。そこは…俺の行き着く場所じゃないんだ。それがもう分かっていたから。

「聖矢くん、伝説を知ってるでしょ? 永遠を誓う恋人同士のこと…知らないわけないよね?」

 こんな風に人前で泣くような子じゃないはずだ。梨花ちゃんはもっともっと笑っていなければならない。世界で一番幸福な女の子にならなければ。

 今の俺に出来ることは、ひとつしかない。それが、はっきりと分かった。

「大丈夫だよ? …梨花ちゃん」
 自分でも驚くくらい、穏やかな声が出た。自分の心がどこまでも澄み渡っているのが分かった。今まで道を定められずに迷っていた。それがようやく拓けた。梨花ちゃんのお陰だ。やはり、梨花ちゃんがすごいんだ。

 大きく深呼吸して。それから震える肩に両手を置いた。

「待っていて、梨花ちゃん。俺、梨花ちゃんが一番欲しいものを持ってくる。今は無理だけど…しばらく待って。そしたら、きっと…君は一番になれるから」

 言葉の意味が分からず、揺れている瞳。静かに見つめ返す。小さな頼りない身体を抱きしめないでいることが、今、自分に出来る最大の愛情表現だった。


 

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