一体、何が起こったんだ。どうしたらいいんだ、どうするべきなのか。 彼女が去った部屋で、しばらくは呆然と直立不動で動けずにいた。そのあと……俺がしたことと言えば、情けないことだが、財布の中身を確かめることだった。「援交」という耳慣れた言葉が脳裏に浮かんだのだ。毎日のようにニュースで「不祥事」とか言って、警察の職員とかが免職になったと報道されているアレだ。そりゃ、女には不自由していた。何しろ彼女が途切れてんだから。だけど…。 まさか、俺は。 酔った勢いで、こともあろうに女子高生を買ってしまったんじゃないだろうか? 相場なんて分からない、あんなの基準があるわけではないし。もしかして、財布の中から万札がごっそりなくなっていたら…。しかし、財布の中はそのまんま。昨日飲み会で使ったはずの分もなくなってない。しこたま飲んで潰れて、それで誰かに建て替えさせたのか? そういや、昨日は見境がなくなるほど飲みまくった。 「ううううっ〜〜〜〜〜〜……!」 そのまま、もう一度ベッドに倒れ込む。次に目覚めたら、全てが悪夢であって欲しい。悪酔いが見せた幻覚として、全部片づけてしまいたかった。
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翌日。まだすっきりしない頭を抱えつつも、真面目な俺は予備校へ向かう。何しろ、今年は3度目の正直の浪人だ。年子の妹は今年現役合格して、俺を追い抜きやがった。しかもその次の妹も高2になっている。こんなところでいつまでも足踏みしてるわけにはいかないのだ。 悪夢で済ませようとしたあの出来事は今朝も現実として俺の前に横たわっていた。朝、目覚めて瞼を開いた時、俺が最初に見たのは長い髪の絡まった自分の手だったのだから。ひえええっ、と思って、慌ててタオルケットをどけてみる。まあ、ごっそりと言うわけではないが……拾い集めると10本。30センチの定規では計りきれない長さの髪の毛が発見された。 「……ひいいいいいっ……!」 あんなにあっさりしていたんだから、もう二度と会うこともないかも知れない。でも…。 未練がましく、その発見した髪の毛をセロテープで丁寧に壁に貼り付けた。
そこにはもう講義を受けるたくさんの生徒たちが集まっていた。うげ、どうしてそんなに日焼けしてるんだ、目の前の男子。お前、受験生だろう? なにバカンスを楽しんでるんだ? 現役3年生みたいだけど、その分じゃあ、来年もここに通うことになるぞっ!! ああ、あっちの女子も水着のヒモのあとがうなじの下に…。 そんな風に情けなく人間ウォッチングをしていると、ふいに声を掛けられた。 「いよっ、元気ィ〜!?」 こともあろうに後ろから、肩に顎をかくんと乗せてくる。ひげ面のただですら暑苦しい男。俺の腐れ縁とも言える大谷だ。高校から一緒のこの男は俺と共に2浪目。去年、1浪だった頃にはたくさんいた仲間もすっかりいなくなってしまった。気付けば、このむさ苦しい男とふたりで取り残されたのだ。俺を見限って去っていった女も今では花の女子大生。どうせ、サークルとかで青春を謳歌しているんだろう。ちっ、嫌な女っ! 「暑苦しい〜、離れろよっ!」 ……と。ふと、思いだした。 「なあ、大谷。俺の飲み代って、誰が立て替えてくれてんだ? 俺、払った覚えがねーんだけど…」 そーだ、そーだ。昨日は高校からの仲間との飲み会だった。メンバーの誰かの誕生会という名目だったと思う。何せ、今年で二十歳。オトナの祝いと称して、ただの飲み会を繰り返してる。 「……ふに?」 「あああっ! そうだっ! ……おいおいっ、思いだしたぞっ!!」 「……っわわっ、何だよっ、てめえ」 いきなり灯りがばばっと点いたようにわめき出す男を制する。ぎょえ〜、そこいらじゅうの奴らが振り向いてるっ! 俺たちは何だか、ただですら目立つらしいのだ。そりゃ、ほとんどが1浪の奴ら、夕方からは現役の3年生も通って来るという予備校だ。だんだん「浮いている」という単語が背中に貼り付いている気がしてきた今日この頃。 「お前さっ! あの美人、どうしたんだよっ!? あの現役女子高生っ!!」
「―― へ……?」 俺が呆然としていると、奴は後ろから技を掛けてくる。ぐぎぎぎっと背骨がのけぞる奴だ。 「ぎゃあああっ! 何するんだっ! 離せっ……!!」 しかし、大谷の締め付けはすごい。このまま窒息してしまったらどうするんだと言うくらいだ。しかも男臭くてキモい。どうせならふくよかなお姉ちゃんに締められたいもんだ。 「離して欲しけりゃ、話せっ!! ほらっ、次の店がなかなかリザーブ出来なくて、時間待ちで入ったショップで、隣にいたあの子だよっ! お前、絡んでいただろっ……、で、次の店に着いたらいなくなってるしさっ。正直に言えよっ!! あれから、どうしたんだっ! あの子は誰なんだっ!! ……いつの間に!」 「……っんなことっ! 俺が知るかっ!?」
……あの子、だ。
長い渡り廊下の突き当たり。50メートル以上向こうの通路を事務室に向かってまっすぐに突っ切って歩いていく。彼女の周りにキラキラと金色の光の輪が広がっていくみたいで。本当に、すげー美人。特級の女だ。そうじゃなかったら、こんなに遠くからでもはっと気付くことはないだろう。
「……は、話をすりゃあ……!」
……と、後ろから、大谷ではない第三者の声が響いてきた。俺たちは声の方向を振り向く。ついでにぺちぺちと大谷の腕を払った。可愛い女の子にしがみつかれるのは気持ちいいが、こう言うのは頂けない。 するとそこには、俺たちの後輩・1浪中の男子生徒が立っていた。小柄で黒縁眼鏡、マッシュルーム・カット…いかにも、いかにもと言う感じだ。何だろう、あの小脇に抱えているB5版のハローページみたいな本は。色とりどりの付箋が貼ってある。 「あの子はここの生徒じゃないです。隣りの栄進光予備校の生徒で、まだ現役の県立山ノ上高校3年生。名前は槇原梨花ちゃん、身長は160.2センチで体重は47.5キロ。ちなみにスリーサイズは―― 」 「うわわわわわああっっ!!」 ハッとして振り向く。げええっ、もういないじゃないかっ!! ウチの生徒じゃなければ、大変だ。どうしてここまで来たのかは知らないが、もう二度と会えなくなるかも知れない。そりゃ、顔を合わせるのは怖かった。衝撃な出逢いだったのだ。向こうだって俺のことをどんな風に捉えているのか分からない。あれ、下手したら警察沙汰だし……。 ―― でも。 「あっ! おっ、おいっ!! どうしたんだっ、上條っ!! もう講義の時間っ……!」 大谷が慌てて声を掛けてくる。でもその頃には俺はもう、ダッシュで走り出していた。 「わりぃっ! 代返頼むぜっ!!」
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とりあえず、事務室を覗いてみたが、もう彼女の姿などどこにもなかった。……と、予鈴が鳴り響く。急ぎ足になる生徒たちが次々に教室の方へ吸い込まれていく。人気のまばらになった吹き抜けのエントランス、その視界の一番遠くに回転ドアから出て行く背中が見えた。 ―― いたっ!! 俺は息が上がった身体を追い立てるように走り出す。だだだっと、ドアまで進み、閉まりかけた間から身体を滑り込ませる。建物の外に出ると、きょろきょろと周りを見渡した。
「……っちっくしょう〜〜〜っ! どこへいっちまったんだよ〜!!」 膝に手を置いて、がくっと腰を折る。だれた身体をいきなりフル回転させたら、どっと疲れが来た。ああ、信じらんねえ。いくら運動不足とはいえ、こんなでいいのかっ! 俺はまだ誕生日が来てないから、ばりばりの10代なのにっ!! じりじりと脳天に突き刺さる日差し。ああ、最悪……。
「……あの?」 ふっと、目の前に影が出来る。のろのろと顔を上げた。そこには、間違いなく昨日の朝に見た彼女が立っていた。 「……あ……」 「何か、ご用でしょうか?」 彼女はいわく付きのはずの俺を前にしても何もひるむこともなく、黒目がちの目でしっかりとこちらを見つめる。瞬きするとまつげが揺れる。ほんっと、コレ、天然物なのかなあ……? 疑いたくなるほど整っている。でも間近で見ても化粧っ気のない綺麗な肌や唇を見ていると、とても顔に手を加えたようには思えない。 「あ……ええとっ……その……」 うわ。見つめられたらそれだけで血圧が上がってしまいそうだ。こんな第一級の美人、彼女にしたことはもちろん、こんなに近寄って話をしたこともない。どうして、世の中にこんなに綺麗な子がいるのか不思議でたまらない。しかも山ノ上高校だろ? もう東大・京大に現役で10数人入ってしまうと言う有名な進学校だ。公立なんだから、金を積んだって入れねえ。本当の秀才だ。 彼女は、話の続けられない俺をじーっと見ていた。表情を崩すことなく。それから、ちらっと自分の腕時計に目をやる。それからすっと片腕を伸ばすと、俺の肩をぽんぽんと叩いた。 「……え?」 ハッとしてまじまじと見つめてしまうと。彼女は穏やかな表情のまま、ふんわりと微笑んだ。 「こんなところで突っ立ってたら、ひからびちゃうでしょ? ちょっと、その辺に座ってお話ししませんか?」
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どうしたもんかと思っていたら、彼女の方が先導して、少し歩いたファーストフードに入った。すたすたと歩いていって、勝手に自分の分の飲み物を頼んでいる。アイスコーヒーだ。さっさと会計を済ませると、俺のために場所を空けてくれた。 「……ええと……」 メニューを見ながら悩んでしまう。ひとり暮らしだし、朝飯なんて食ってない。でも、いきなりこんなところで……そう思ってると、隣から声がする。 「どうせ、朝ご飯抜いたんでしょ? モーニングセットでも食べておかないと体に悪いわ。ホットケーキとチーズバーガーどっちがいいの? ほら、サラダも付けた方がいいわよ?」 気がつくと、俺のトレイの上は山盛りになっていた。ついでに千円札を出したのにいくらも戻ってこない。サンキューセットとかで売っている店じゃね〜のかっ!! まあ、並べられた物を「やめます」とも言えず、重いトレイを手によろよろとテーブルに着いた。
ぷす。ストローを取り出して、紙コップに刺して。一口飲むと彼女は口火を切った。ちらと時計を見る。でも焦っている風でもない。 「え……、あのっ……、その、時間っ?」 「あ、いいの、別に」 「夏期講習に遅れちゃうかなって。いいよ、もう間に合わないから。午前中、さぼっちゃう」 「は……?」 俺が話が読めないで困っているのに気付いたのか、彼女が説明してくれる。 「今日はここに、この前の模試の結果を貰いに来たの。何だか間違えてデーターが流れちゃったんだって。送ってもらうのも面倒だし、丁度途中だし? ホントはこの先の駅で降りて、栄進光に通ってるのよ」 「……はあ」 さっきのオタクくんの情報は正しいらしい。っていうか、あいつ、身長体重の次はスリーサイズまで知っていたぞっ! どういうことだっ、聞きそびれた(少し口惜しい)。にしても、学校がすごければ、予備校もランクが違う。栄進光なんて受けに行って落ちたんだ。今時の少子化で予備校に入るのに試験があるなんて嫌になる。
「で、話って、何?」 テーブルに肘をついて、小首を傾げる。美人は何をしても美しいと言うが、何気ない仕草ですら思わず息を飲んで見つめてしまう。さっきから、彼女を目の前にして、言葉らしい言葉が出てこない。 「え……、えとっ……。あの、その……。このたびは……その、とんだことを……」 あああああっ! 情けねえっ!! 打ち合わせのない記者会見のようにしどろもどろだ。たくさんのマイクやカメラを前にしたらコレでも致し方ないが、俺の目の前にいるのは彼女ひとりだ。しかも涼しげな落ち着いた感じで座っている。焦っているのはこっちだけ。 「……え?」
心臓がどくどくと血液を排出する。すごい鼓動。身体からにじみ出る汗。
何をしたのかは覚えていない。でも何かしたはずだ、確かに取り返しのつかないことを。そうじゃなかったら、あんな朝を迎えるわけがない。 「―― ああ」 「何だ、あんなこと。気にしていたの? いいじゃない、別に」 「……そんな……」 こんな風にきっぱりと言い切られてしまうと、どうしていいのか分からない。はいそうですね、と引き下がればいいのか、彼女もそれを望んでいるのか? でもっ……押しも押されもしない、優等生高校の生徒、こんなにあっさりとしているのか? 今時の女子高生はこんなにすごいのかっ!? 「話それだけ? だったら、もう行くわよ。どうでもいいけど、それは全部食べなさいよ? 健康の基本はきちんとした食生活。ひとり暮らしだったら、そのくらいきちんとしなさいよね」 そう言うと、彼女はさっさと立ち上がった。自分のトレイを持って歩き出そうとする。俺はハッとして顔を上げた。 「―― あっ……! ちょっとっ!! 待てよっ!」
「君はいいかも知れないけど。俺の方は……その、そう言うの良くないと思うわけで……」 「え?」 「そのっ……出来ることなら、……ええと、何というか、双方が納得出来るような……」
彼女は、俺の前にもう一度、座った。テーブルにトレイを置き直す。それから、吸い込まれそうな瞳でじ〜っと俺を食い入るように見つめてから、ふっと顔を崩した。 「もしかして。私と、付き合いたいの? ……ナンパしてたりして?」 「……へ?」
床屋に行ってないから、伸びかけのぼさぼさの髪。かき上げながら、額の汗も拭う。その間も彼女の視線が俺に向かっているのをぴりぴりと感じ取っていた。あああ、どうしたらいいんだあっ!!
「……!?」
「付き合ってあげる。私、あなたの彼女になるわ」 目の前にいるはずの彼女の発する言葉が、俺の耳に届くまで…ものすごく時間がかかった。
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