玄関先で待っているという男はすぐに分かった。 本物かどうか怪しい大理石の大きな柱に、もたれ掛かっている奴がいる。 「今時、染めるのが当然のようだけどさ、あえて黒いままにしてあります」と言った髪。でも真ん中で何気なく分けてあるように見えて、あれはかなり計算されている。確かジャニーズのグループの誰かにこんな頭をした奴がいたぞ。
「あの〜?」 イヤホンをして、新聞に夢中だから、俺の来た事なんて気付くはずもない。だいたい呼び出しておいてなんたることだ。普通、人待ち顔にきょろきょろしてないか? コイツ、馬鹿? …いや、難しい新聞を読んでいるんだから、頭はいいのかも。 声を掛けると、彼は初めて気付いたように顔を上げた。 「あ、これはこれは…上條さん、ですよね?」 「何だ、写真写りが悪いのかと思ったのに。素材からして、イマイチだったか」
いきなりなんだよ、コイツはっ!! 俺を見た瞬間から、ばちばちと電波が飛んできてる。痛いぞ、刺すような視線というのは知ってるが、これはもうしびれるほどの視線だ。傷害罪で訴えることが出来るくらい痛いぞ。 俺が思わず画面をのぞき込もうとすると、男の方がくるんとこちらに返して見せてくれた。 …何じゃコレ、俺の顔じゃん。隠し撮りなのか? それにしても間抜けな顔…もうちょっとまともな顔を取れないのかっ!! …と怒ったところでもともとの素材との関わりも多分にあるため、あまり大きな事は言えないと考え直す。でも失礼だぞっ!! せめて「全然似てませんね、本物の方が数段マシです」とか、言えんのかっ!?
「申し遅れまして…私はこのような者です」 水色のシンプルな紙片。濃紺のインクで『私設・梨花さんを愛でる会・山ノ上OB支部長』と書いてある。何じゃコレ? 下の方にホームページのアドレスと、相川俊二とか言うこの男の名前らしき文字もある。俺が受け取ろうとした瞬間、彼は故意にすっと引っ込めた。 「あなたなどには、この名刺を受け取る権利も資格もありませんよ? ふてぶてしい…」 なっ、何だとっ〜〜〜!! 一体コイツ、何者? あ、そうか『私設・梨花さんを愛でる会』の…って、何だよ、一体それはっ!! 梨花さんって…梨花ちゃんのことだろうなあ。そうとしか考えられないけど、何だか変だ。 「私はこの春に山ノ上高校を卒業しましてね。…あ、もちろん主席ですからね、主席。天武賞も貰いました。え? 天武賞をご存じない。あなたの高校にはそんなものはなかったんですね? 文武に優れた生徒に贈られる特別な賞なんですよ。ま、私は生徒会長を務めましたし、妥当な線だったのでしょうね…ふふ。今はさる東京の有名な私立大学で、学んでおります。あ、大丈夫、あなたに何て、キャンパスでお目に掛かるようなことはないような学校ですから、ご心配なく…」 とか言いつつ。しっかり見えていたぞ、「橋」の文字。現役で入るのはかなり難度が高いんじゃないだろうか? いや、俺は浪人してても無理だけど。 「……」 だから、何なんだよっ! うざいなっ! 人の貴重な昼休みを無駄にさせないで欲しい。そっちは夏休みだろう? でも受験生にとっては天王山の夏だ。わざわざ呼び出しておいて、何が言いたいというんだ!? 「おお、私としたことが。失敬、失敬」 「私は高校時代、梨花さんとは個人的に、大変親しくさせて頂いておりまして。生徒会でご一緒させて頂いていたんですよ。私が会長を2期務めた間、彼女は書記と副会長でサポートしてくださいました。それはそれは、他の女子にはないほどの知的さと優美さで…生徒会室はいつも花園のようでしたね…梨花さんという大輪の花が咲き誇るオアシスで…ふふ」 へ〜、梨花ちゃんは生徒会だったのか。すげ〜、山ノ上で生徒会なんて。まあ彼女ならすごく似合いそうだ。いいなあ、ちょっと壇上の彼女を拝んでみたかったな。 俺が素直にその情報に感激していたので、男は満足げに微笑んだ。しかし、それも一瞬のこと。急に何かを思い出したように、ぴくぴくっと眉を震わせる。 「本当にっ! 非常に親密でした。生徒会室にふたりきりになったことだって、何度もあります。あの清らかで崇高な微笑みはいつも私だけのものでした。…そうですっ! 私たちは誰が見ても赤い糸で結ばれた運命のふたりだったのですっ! それをそれを…どういうことなんですかっ。会員から情報が入ったんですよっ! あなたのせいでっ! この数日、サイトの掲示板は荒れ放題、もう書き込みがありすぎてレスなんて返せませんよっ!!!」 だ〜か〜ら〜…何なんだろうな、こいつ。うざいぞ。一体何を考えているんだ。それに、梨花ちゃんと親密って…彼女は男と付き合ったことがないって、小杉の情報で…。 「一体どんな男が、梨花さんを…と、わざわざこんなところまで来てしまったじゃないですかっ! あなた、梨花さんに一体何をしたんですかっ!
ずざざざざっっ!! 彼はすごいスピードで30メートルほど遠ざかった。しかし、炎天下であっても、そのインテリ眼鏡の下で俺を睨み付けてる。 「ひっ…、ひと目見てっ! 分かりましたからねっ!!」 「あなたなどっ、梨花さんの相手にふさわしくありませんっ! あなたがどんな卑怯な手段を用いて梨花さんを脅したか、そんなの会員たちの情報からすぐに明らかになりますっ! 会の運営委員会に訴えますからねっ! 私たちの梨花さんは永遠なのですっ! そして、相手としてふさわしいのは私を始め選ばれた会員だけですっ!!」
騒ぎに巻き込まれたこっちはいい迷惑だ。…それに、梨花ちゃんが俺にふさわしくないことぐらい、最初から分かってる。場違い男に言われるまでもない。大騒ぎをされても、全然痛くもかゆくもない。
よっぽどじんましんが酷かったのか、あっという間に彼は消えていた。ぽつんと千率予備校の玄関に取り残された俺。頭上から照りつける日差しで、足元にくっきりとした短い影が出来ていた。
*** *** ***
夕方、公園で落ち合った梨花ちゃんにちょっと聞いてみた。もちろん、彼が俺に会いに来て、訳の分からない暴言を吐いたことは言わない。ただ、相川某、と言う人間を梨花ちゃんが本当に知っているのかを確認したかったのだ。 「今年の春の卒業生よ? それが何か?」 小杉に聞いてみれば一発なんだろうけど、それはまた奴に情報を提供するようなものだ。これ以上情けない立場には陥りたくなかった。俺があの怪しげなファンクラブもどきに追われていることが分かれば、それこそ小杉は大喜びでネタ集めに奔走するだろうし。
…なんか、面白くない。 こうして梨花ちゃんと歩いていれば、通りすがる全ての人間たちの視線を感じることになる。徒歩の奴らはもちろん、時には車に乗っている奴まで徐行運転する。時速60キロで走っていても光り輝くオーラは回避出来ないらしい。
え…? 何? この男? 口に出して言わなくても、そんな声が聞こえてきそうだった。確かに俺は梨花ちゃんの相手としてあまりにもふさわしくないと思う。今日の昼、俺を呼び出したあの失礼インテリ男の方が、口惜しいけどずっとずっとお似合いだ。
今日は、何だか会話を続けることが出来ない。俺が梨花ちゃんに対して、すごく後ろめたい気持ちを抱いているからだ。
本当は聞いてみたいことがある。問いただしたいことがある。 梨花ちゃんは、どうして俺と付き合うと言い出したんだろう。いい加減な成り行きではない、ビデオ録画のように鮮明に思い出すことも出来る。あのとき、彼女は確かに言った。きっぱりと「あなたの彼女になるわ」と。そうなのだ、俺たちはただ単に並んで歩いてるだけじゃない。彼女の中でも俺はきちんと「彼氏」の位置にいるのだ。どうしてなのだ、全然説明が付かない。 どうして、俺を選んだのか、俺がいいと思ったのか…聞いてみたい気もする。何となく、と言うのなら、あのインテリ男の方が最適だっただろう。そのほうが周りの人たちだって納得する。こんなにあからさまに驚いた視線を投げてこないだろう。 …でも、それは出来なかった。それだけはしたくなかった。 だって、もし。彼女が「あらそうね」と言って、ふたりの関係を解消してしまったら、この夢心地の時間を二度と味わうことが出来なくなるのだ。自分でもとんでもない幸運だとは思う。でも一生に一度くらい、こんな時間を過ごしたっていいじゃないか。
「…聖矢くん?」 今までは会話をリードしてきた俺がいきなり黙りこくってしまったから。梨花ちゃんは不思議に思っているのだろう? 俺の顔をのぞき込んでくる。斜め下から見上げてくる瞳、やっぱり綺麗だ。俺の思いこみか、何だか心配そうに、不安そうに見えるのもこの上なく可愛い。 大丈夫なんだよ、何でもないんだよ。ちょっとした…うん、ちょっとだけ自信を喪失しただけで。でも、大丈夫だから。
…あれ。 その時、俺たちの歩く歩道をあちら側からカップルが歩いて来るのに気付いた。こちらが「にわかカップル」なのに比べて、あっちはとても親密だ。言葉にするといちゃいちゃ、そしてべったべたと言った感じ。身体をすり寄せたり、頬を近づけたり、この暑いのにすげーなーと思うくらい仲が良さそうだった。 ついつい、そっちを見てしまう。向こうもだんだん距離が近づいて、俺たちの存在に気付いたらしい。 まずは彼女がこっちを見た。梨花ちゃんの顔を一瞬見て、それから俺の方を見る。そして、あからさまに驚いて、隣りの彼氏に耳打ちする。すると、男の方もこちらを見た。やはり、見るのは梨花ちゃんだ。ヒョエ〜と言う感じでなめ回すようにじろじろ見ている。 何だよ、いやらしい、いい加減にしろよ。俺もむかついたが、隣にいる赤毛の彼女はもっとむかついたらしい。ぎゅーぎゅーと彼氏を引っ張って、俺たちの隣をすり抜けていった。
「……」 あ〜あ、馬鹿な男。きっとこのあと一悶着あるだろうな。あの女嫉妬深そうだし…でも、気持ちは分かる。どんなに仲のいい彼女がいたって、こんなアイドル並みに可愛い子が目の前に現れたら、見つめてしまうのが男の本能だ。こう言うのはよりよい子孫を残すために、神が与えてくれた感情なのだから仕方ない。 そんなことを俺が考えている間、梨花ちゃんは振り返って遠ざかっていくそのカップルを不思議そうに眺めていた。そして、しばらくすると元の通りに前を向いて歩き出す。 「…あ、そうか」 「なっ、何っ…!?」 そ、そんな嬉しそうに笑わないでくれよっ!! すげー可愛いんだよ、その顔っ!! もしかしてどこかであいつらの隠しカメラが作動しているかも知れない。今の俺はどこをどう見ても、鼻の下を伸ばしきった変な男だ。 「私、聖矢くんの彼女なのに、どっか違うなと思ってたの。何か、足りないなって…」 「えっ…ええええっ!? そっ、そうっ!?」 心臓がばくばくする。気付いたって、気付いたって、本当に何に気付いたんだっ! もしや、俺が彼氏としてふさわしくないと言うことに突然気付いたんだろうか? 出来るだけ顔色を変えないように努力するが、それでも背筋を冷たい汗が流れていく。目の前には長く伸びたふたつの影。梨花ちゃんのと、もうちょっと長い俺のと。白い歩道。幾何学模様に組み合わされた上を歩く。黙ったままその影を見つめていると、梨花ちゃんの影がふっと俺に寄ってきた。 ……? ちょこん、と。滑らかなものが俺の指に触れた。一度離れて、もう一度、今度は少し長い時間。 何だろうって思って、思わずそっちを見てしまった。梨花ちゃんは前を見てる。その場所を見てない。自分の指先が触れる俺の指先を。 「…あのっ…」 「なななななっ…何っ!?」 たかだか、指先が触れただけじゃないか。たったそれだけのことなのに。俺はもう心臓が飛び出しそうになっていた。この真夏の夕暮れ。ムッとした外気の中で泳ぐ手。それなのに、梨花ちゃんの指はひんやりしている。もしかして、美人は汗をかかないのか? 脇の下とかも臭くなかったりするのかっ!? …いや、そんなことはないはず。人間なんだから。 「恋人同士って、あんな風に手を繋いだり、腕を組んだりするんだよね? どうしてなんだろう、ああやってもっと仲良くなるのかしら?」 ――梨花ちゃん? あのっ…もっともっと仲良くなれる方法がありますっ。と言うか俺たちの間にはそういう関係があったわけで…いや、覚えてないんだけど、あの状況で絶対なかったわけではないんだし。
記憶もないが、もしも無意識の世界であったとしても、俺ではあんな風に洗濯物を綺麗に干すことが出来ない。彼女がやってくれたのだと思う。そんな…見ず知らずの男の部屋で一夜過ごしただけではなく、洗濯までしてくれたのかっ!! 一体、何者なんだっ! …いや、普通の高校生のはずだが。でもっ…、でもっ!!
あああああ、梨花ちゃんっ! 君はもしかして、俺の夢を全部叶えてくれるんじゃないだろうか? もしかしたら、彼女のお陰で、俺は生まれ変われるんじゃないだろうか? 今までの冴えない男とはおさらばして、新しいドキドキわくわくの新しい人生がっ…!! 「…手、繋いでいい?」 うっわ〜〜〜〜〜。その恥ずかしそうにはにかむ仕草っ! メッチャ可愛いんだよぉ〜!! 一瞬だけ、俺を見上げて、それですぐに視線を落とす。制服のスカートが彼女の歩みにあわせてふわんふわんと揺れて。細かくもなく、粗くもないプリーツが、彼女の周りで踊ってる。すんなり伸びた長い足。本当に白くて…綺麗で。きっと触るとすべすべしているんだろうな…。 ぴとっ。 本当は音はしなかったけど、俺の胸にはそうやって響いてきた。確かな意志を持って、彼女の指先が触れる。どどど、どうしよう。手を繋ぎたいんだってっ! …で、でもさっ…汗くさいよ、すげ〜。いいのか? …いいのかっ…こんなでっ! 思いっきりグーに結んでいた手を、少し開く。パーじゃないけど…半開きという感じで。指と指の間に隙間を作る。そしたら、そこに彼女の指が絡みついてきた。 うっ、おおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ……っ!!!!! 全身の細胞が、ばちばちばちっと弾けた気がした。梨花ちゃんの滑らかでひんやりした指が、軽く俺の指に絡みつく。何だか、すごく…控えめで。でも、すごい感動する。もう、言葉も出ない。
手を繋いでいるために少しふたりの距離が近くなる。ふわっと風が通りすぎると、梨花ちゃんの髪が舞い上がって、俺の腕にさらさらと触れる。微妙なふれあいが、たまらなかった。
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