玄関先で待っているからと遠慮する彼女を、強引に部屋に上げる。 レンタルショップからここのアパートまでは近道を使っても20分掛かった。当たり障りのない世間話などする。梨花ちゃんは意外にも庶民的で、誰でも知っているようなイマドキのアーティストのファンだという。クラシックか洋楽でも好むのかと思っていた。こう言うのも「観念」と言うのだろうか? 「…アイスコーヒーでいい? ガムとかないんだけど…」 「あの…聖矢くん。本当にいいから。カード貸して貰ったら、一人で帰れるし…」 何となくだけど、彼女の表情からいつものゆとりが消えていた。もともと色白、真っ白を通り越して青光りしているような透明感のある肌。そこが少し青ざめている感じで。 でもそれは俺にしても同じこと。自分でも分かるくらい、全身からピリピリとしたものが発散されている。何なんだろう、これは。多分、怒りの粒子ではないかと思うんだけど。彼女だって、敏感にこれを感じ取るのだろう。気恥ずかしくて、つい冷たく言ってしまう。 「いいから。座っててと言っただろ?」
俺がどうにか氷入りのアイスコーヒーをいれて部屋の運ぶと、彼女はまだ所在なげに部屋の隅っこに立ちつくしていた。
俺は、ベッド脇に立ててあったテーブルを片手でセッティングすると、その上にお盆を乗っけた。そして、何気ない感じでカバーを掛けたベッドの上に腰掛ける。いつも友達が来た時なんかも、こうしてベッドがソファー代わりだったし、前の彼女もそうしていた。 「どうぞ」 俺の言葉に、彼女は困ったように微笑んで、でも言われた通りにベッドにちょこんと腰を下ろした。 短めのスカートは堅い素材だから、座ると少し短く見える。いつもよりも太股の見える割合が多い。でも、そこは俺が腕を伸ばしても届かないくらい遠い位置で、それがまたちょっとカンに触る。
…何なんだよ、全くもうっ! 梨花ちゃんはこの部屋が初めてじゃないんだろ? 忘れたとは言わせない。確かに彼女は俺と一夜を明かして朝を迎えたんだ。同じベッドで寝ていたんだから。今更、何だって言うんだよっ!?
「何、身構えてるんだよ? そんなに緊張することもないだろ」 少し身を乗り出すと、梨花ちゃんも身体をのけぞる。 「だってっ…」 「何だか、聖矢くんが変なんだもの。いつもと違うのっ…どうしたの? 私が何かした?」 頭のいい女の子なのだから、察しはいいはずだ。相手のちょっとした変化にも気付くのかも知れない。少し世間ずれをしてないなと思うこともあったけど、こちらの変化にさりげなく合わせてくれる柔軟さが可愛いなと思った。お高くとまっているような外見とは異なり、とてもやわらかい女の子らしさを持っているなと感じていた。 「何だよっ!?」 それなのに、今の俺にはそんな彼女の心配りですら禍々しいものに感じてしまう。何なんだよ、何が悪いんだっ、いい加減にしろよ! 「そっ…、そんな、ビクつくことないじゃないかっ! 梨花ちゃん、俺の彼女なんだろ!? だったら、俺の部屋に来るくらい何なんだよっ!」 睨み付けた先の瞳が哀しく揺らぐ。その理由も汲み取れないままに、俺は自分でも意図していなかった行動に出ていた。
「えっ…、やぁっ…!?」 いきなりの状況変化に梨花ちゃんが俺の下で悲鳴を上げる。押さえつけた細い手首が震える。思っていたよりも小さくて頼りない身体。気がついたら、俺は押し倒した彼女の上に覆い被さっていた。 艶やかに流れる幾重もの黒髪。白いシーツの上で怪しげな程の美しい輝きを放つ。大きく見開かれた瞳。桜色の唇が震える。 「ちょっ…、ちょっとっ!? 聖矢くんっ、どうしたのっ!! やだっ、やめてっ…!」 必死の抵抗を見せて身をよじる彼女に構わず、俺は制服のスカートから引っ張り出したシャツの裾から手のひらを滑り込ませた。
…梨花ちゃんは、俺の彼女なんだろうがっ!! 彼女なのに、自分でそう言ったのに、どうしてそんな目で見るんだ。梨花ちゃんも、俺のことを見限って捨てていくのかっ! そりゃ、俺は情けない男かも知れない。でもっ、でもっ…そんなのって、あんまりだ。俺だって、好きで二浪した訳じゃないっ! それなりに努力はしてきたんだっ! それを、それをっ!! みんなで笑いやがってっ! 人を見せ物みたいにあれこれ言い合ったりして、何が楽しいんだよ。そりゃ、梨花ちゃんの彼氏にはイマイチの俺かも知れない。でも、こうして今一番近くにいて、自由に触れられるのは俺だけじゃないかっ! …多分。 いや、もしや。 梨花ちゃんは俺の暗い予想の通り、ものすごい遊び人かも知れない。そこら中で男を引っかけ回っているとかそんな感じの裏の顔を持っていて。だから、俺ともほんの遊びのつもりで…っ! 信じたくはなかった。出来れば、彼女に対する綺麗なイメージだけを大切にしたかった。それくらい、会うたびに梨花ちゃんは素敵だったのだ。一緒にいるだけで、目の前の全てが明るい色に染まっている。自分が選ばれた特別な人間なのだと思えた。こんなの今までの人生でもあり得なかった初めての気分だ。 とうとう、夢のような未来が現実になるかと思ったのにっ…。
「聖矢くんっ! …いやっ…!!」 …馬鹿。分かってないのか。そうやってもがくともっと服が乱れるんだぞ? 身をのけぞらした瞬間にブラのフチに隙間が空く。そこに素早く手を滑り込ませた。そのまま、シャツの下でブラをたくし上げる。ずずっと音がして、丸いふくらみが手のひらに直に触れた。 「何でっ…どうしてっ…!!」 梨花ちゃんは潤んだ目で必死に訴えた。でも、そこまでして俺を拒絶しようとする彼女の態度がますます気にくわない。やっぱり、やっぱり、そうなのかっ! 人を舞い上がらせておいて、少しばかりいい気にさせておいて…すぐにこんな風に手のひらを返すんだなっ!! 「いっ、いいじゃんかよっ!」 「やらせろよっ! …彼女だって言うんなら、少しぐらい俺においしい思いをさせてくれたっていいじゃんかっ…別に今更、減るもんじゃないだろっ!?」
――予感がした。 多分、近い将来に梨花ちゃんは俺から去っていく。俺という人間を見限って、もっとレベルの高い男に乗り換えるのだ。もしかすると俺に声を掛けてきたのすら、ほんの遊びだったのかも知れない。 俺じゃあ、気の利いた会話なんて出来ない。彼女が喜んで話に乗ってくるような話題もなかなか思いつかない。ありきたりの事ばかりで、とっくに知識の浅さを認識されているのではないだろうか? 「ほんの一瞬、梨花ちゃんに情けを掛けられて、あっという間に捨てられた男」…きっとそんなレッテルが俺にくっついて回るんだ。情けない男としての勲章をまたひとつぶら下げて。 そんな風に笑い者にされた時、自分に何ひとつのおいしい記憶が残らなくていいのか? いいわけない、彼女ならそれなりのことをしてくれたっていいはずだ。バチなんて当たらない。
いい女をモノにする…いわゆる「征服欲」、それだけでも満たしたい。いくら暴れようと相手は所詮女の子、男の力に敵うもんじゃない。諦めて貰うしかない。
「やぁっ…!」 胸を覆った手に力を込めると、手の余るほどのそれはすごい弾力で押し返してきた。それなのにやわらかい。そりゃ、最初のあの瞬間にとくと拝見させて頂いたシロモノ。今はシャツの布でその姿は見えないが、あのときと同じ美しさのはずだ。ま、あとで改めてじっくりと拝ませて貰おう。 感触を生で楽しみながら、そっと身を伸ばす。青筋の立った首筋に唇を押し当てた。感じてるのではない、もはや悲鳴にもならないかすれた喘ぎが彼女の口元から漏れている。すすり泣きにも似た絶望的な声。 …こんなの、演技かも知れないだろ…? 悲痛な訴えにも心を寄せる気にならない。今こうして彼女を好きにしなかったら、永遠に俺にそのチャンスはないかも知れない。そう思ったからこそ、走り出した欲求を止める気をなくした。 「せっ…、聖矢…くんっ…!」 彼女の肌からは甘くていい匂いがした。夏場だから汗もかいているはずなのに、そんなことを忘れるくらいそそられる香り。手首を掴んでいたもう片方の手を外し、彼女の身体に自分の身体を密着させたまま、するすると下に伸ばしていった。 ひんやりとした股。すべすべして、滑らかで。スカートをたくし上げながら、彼女の中心に手を伸ばす。布に覆われた、周りよりも体温の高い場所に触れた時、彼女の身体がびくっと跳ね上がった。 もう、ここまで来れば、こっちのもんだと思う。俺としてもやめることは出来ないと思った。どんなに軽蔑されたって、二度と会って貰えなくたって構わない。遅かれ早かれ、そうなる運命にあるんだから。だったら、それが今日であってもいいだろう。訴えられたところで、どうなることでもない。今更、傷の付く人生でもない。そんなことを気に病むよりも、今一瞬の快楽に身を投じることが先決。 …自暴自棄。 そんな単語がぴったりだ。彼女には可哀想だが、ここに居合わせてしまったんだから、今一度のお手合わせを願いたい。
『身の程知らずが、そろそろ自分をわきまえた方が宜しいのでは?』 あの男が送ってきた呪いのようなメール文。怒りを吐き出すのはここしかないのではないか? あの男に返したところで上手い具合にあしらわれてしまうに違いない。だったら、彼が、そして彼の仲間たちが大切にしている梨花ちゃんを好きにしてしまえば、鬱憤も晴れるというものだ。
頼りない布の端に指を引っかける。そのまま一気に引きずり降ろそうとした時…オレの腕を白い手がぎゅっと制した。その瞬間、よせばいいのに、つい彼女の顔を見てしまった。 「やめてっ…、こんなの、違う。聖矢くんじゃないっ…!」 青ざめきった頬。普通の女の子なら泣き叫んでいる状況かも知れない。でも彼女は瞳にたくさんの涙を溜めながらも、それを必死で堪えていた。 「うるさいなっ…!」 その手を振り払おうとそっちに意識が行ったので、彼女への束縛が緩んだ。振り解く瞬間に、身体をぐるんと横に一回転して、彼女がベッドの下に転がり落ちて俺から逃れていた。 だが、床に落ちたとしても背後はすぐ椅子の脚。あっという間に追いつめることが出来た。だいたいここは密室なんだ。俺がその気になりさえすれば、彼女に選択の余地はない。大人しくしていたほうが痛い目を見ずに済むのに。…まあ、今回に至っては痛い思いも何も、彼女に対するいたわりなんて微塵もない。目の前にいるのは格好の獲物だ。 「何だよっ! 人を馬鹿にするなよっ! いいじゃないか、やらせてくれよ? 構わないだろ、時間もそんなに掛からないしっ…一度くらいきちんとやりたいんだよっ!!」 目の前の彼女は、我が身を護る必死の体勢。膝を立ててぎゅっとくっつけ、腕は胸元と足を押さえている。 …なんだよっ! どういうことなんだよっ!! 俺といると楽しいって笑っていたじゃないか。本物の彼女みたいに、誰から見ても仲の良いカップルみたいに見えたはずだ。俺としても信じられないくらいの幸福感だったが、梨花ちゃんだってまんざらでもない感じだったじゃないか。あれも哀れな男に同情した演技だったのか? 浮かれている男に情けをかけただけなのか…っ!?
いや、ぶつっと音を立てて、強引に引きちぎられたと言ってもいい。それくらい目の前の彼女はすごかった。 「…聖矢くん…」 途方に暮れた声。俺は目の前にいるのに、遙か遠くに思いを馳せるような響きだった。堪えきれなくなったひとしずくが頬を伝い流れる。キラキラした宝石がやがてシャツの襟に落ちた。 「何で? …聖矢くんは、したいだけなの? 私って、それだけの価値しかないの…? 『彼女』ってそう言うものなのっ…?」
服は乱れるだけ乱れ。学校指定の靴下も半分くらい脱げてる。綺麗な髪もさすがに乱れて。腫れぼったい瞼、頬に張り付いた髪。 それでも…綺麗だった。まっすぐにじっと見つめてくる。そこには軽蔑の色なんて微塵もなくて、やっぱり透き通った輝きの無垢な瞳。 内面からにじみ出る美しさを余すことなく輝かせて、自分を周りを照らし出す存在。梨花ちゃんは本当に…そんな風にどこまでも綺麗な女の子なんだ。
「…あ…」 もしかしたら、騙されているのかも知れない、とも思う。これだけのものを見せつけられても、俺の荒んだ心は簡単に癒されることはなかったから。 だが、伸ばしかけた腕は、そこで硬直してしまう。触れられる場所にいながら、梨花ちゃんはあまりに俺とかけ離れた遠い存在だった。こんな風に欲望に任せて好きにしていいような簡単な女の子じゃない。もっともっと…しっかりと、地に足を付けて、取りかからなくてはならない存在だったのに。 曖昧な、恋愛ごっこじゃなくて。適当に片方の欲望が満たされるのではなくて。 ただ…それを、今の俺に望まれても無理だと思う。そうなのだ、最初から、駄目だと見限れば良かったんだ。彼女がこの部屋を出て行った瞬間に、俺たちの関係はリセットされていたのに。どうして食い下がってしまったんだろう。忘れられない存在に惑わされていたのだろう…? …俺は最低だ。最低も最低、どん底な男だ。
よろよろと、後ずさりする。そして、足が当たったことを確認して、ベッドにどかっと座り込んだ。そのまま頭を抱えてうずくまる。 「…聖矢くん?」 梨花ちゃんが、俺の行動に驚いたらしく、ためらいがちにも口を開く。そこには蔑んだいやらしさなんて微塵もなくて。やっぱり俺を気遣ってくれている。あんな風に酷いことしようとしたのに、梨花ちゃんは少しも変わらないのだ。
…どうして。 どうして、俺は。そんな梨花ちゃんにふさわしい男になれないのだろう。彼女の望むような、いや、誰から見ても彼女に似合う男になれれば良かったのに。
「…帰れよっ…」 髪をぐしゃぐしゃっとかき混ぜる。もう胸の中は情けなさで一杯だ。俺を見下した奴への腹いせに、何てことをしようとしていたんだろう。 「…え…?」 「帰ってくれよっ! そうしないと、俺、本当に君に何をするか分からない。今なら、大丈夫だから、さっさと行ってくれっ…! そして、二度と俺の前に現れないようにしてくれっ…頼むからっ…」 ピンと張りつめた空気の向こうで。梨花ちゃんがこくっと息を飲む音が聞こえた。多分細い喉が震えて、肩が上がり下がりしたはずだ。そんな何気ない仕草も自由に思い描ける。俺の中で梨花ちゃんはとっくにみずみずしく動き始めていた。 …それなのに、どうして…っ!
「…聖矢くん」 やがて、信じられない程のやわらかい声が、辺りの空気を揺らす。導かれるままに、ゆっくりと頭を持ち上げた。服を整え、髪を綺麗にして、元通りに戻った彼女がふんわりと微笑んでる。 「お願いが、あるの」 良くできた立体映像みたいだ。あまりにも現実離れして綺麗に見える。俺は微かに瞳を揺らしただけで、何も言えなかった。 「あした、予備校、さぼれる? …私、聖矢くんと普通の恋人みたいに一日過ごしたい。…いい?」 不安げな瞳で、しかし精一杯に微笑む。地上に降りた女神様は、まぶしすぎるんだと思う。だから、誰の手にも届かないんだ。
…あの公園に、10時に。そう告げて彼女が去ったそのあとに、光る羽根が落ちていないのが、何だかとても不思議に思えた。
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