TopNovel未来Top>キスから、夢まで。・4


…片側の未来☆梨花編その2…
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 ――気がついたら、ひとりでボーっと座っていた。

 

 あれ? どこにいるんだろう…私。あまりきょろきょろするのもみっともないから、何ともない感じでぐるんと周りを見渡した。

 

 ざわざわざわ。

 ざわめく店内。赤を基調としたファーストフーズのお店。その店内お召し上がりコーナーの隅っこに私はいた。駅前なのに、店内はかなりゆったりとスペースを取っていて、2人用と4人用のテーブルが綺麗に並べられている。それは可動式で、たとえば8人とか10人とかの仲間になるとくっつけて使える。奥のパーティールームでは予約制でイベントも開けるんだ。何十もある客席は全て若者に埋め尽くされていた。

 そして私は、ドーナツ型になったカウンター席のひとつに座っていた。背の高い椅子。立ち上がっている時とあまり視線が変わらない気がする。目の前はいろんな観葉植物がぼさぼさと配置されていて、小さなジャングルみたいだった。夏だからトロピカルを気取っているんだろうか? バナナや椰子も見える。こういうのってずっと育てるのは大変だけど、レンタルグリーンなら簡単だ。前面が硝子張りになった表の壁、そこから見えるのは夜の街並みだった。

 …10時半。

 腕時計を確かめる。ああ、遅くなっちゃった。どうしようかな、これから。

 ふう、とため息を付いて目の前にあった紙コップを手にする。すかっと軽い感触。中身は入っていなかった。

 

 いつからここにいるんだろう。

 それすら思い出せない。席待ちをする人がトレーを持って数人は待ってるような賑わいだったけど、カウンター席のひとつをキープするくらいだったらお店の邪魔にもなっていなかったのかな? たまに店員が店内を見回って、空になった紙コップやトレーをさささっと片づけたりするけど、人手が足りないのか今夜はそれもない。

 自分の服装も確かめてみる。…あれ、制服のままだ。水色のチェックのひだスカート。白い開襟のシャツ。襟の見返しのところと半袖の折り返しがスカートと共布になっていて、胸にレモン色のバッチが付いている。学校指定の水色のソックスで紺色の革靴。学校に行く時以外も、塾や予備校に通う時は制服の着用が校則で定められている。
 この制服を着ていれば、私がどこの生徒かすぐ分かる。もちろん制服はそんな風に自分の身分を証明するために着るんだけど、ウチの高校のは特別だ。この界隈でも知らない人がいないほどのエリート進学校だから、みんな「ひょ〜、こんなところにあそこの生徒が…」みたいに遠くからじろじろと眺めてるんだ。
 夏休み中で、毎日予備校の夏期講習に通っていた。そして週末には模擬試験を受ける。かなりレベルの高いところで、入校するのに3段階の選抜試験がある。
 その難関をくぐり抜けて通うようになった顔ぶれも、この夏休みで随分様変わりした。授業内容が難しすぎて付いていけない生徒も多いみたい。必死に勉強してギリギリで受かった人なんて、絶対に無理。この一帯の中学から選りすぐったエリート集団と言われるウチの高校だって、学年上位50位以内に入ってなければまず無理だ。

 そう…、気がついたら。私は高校3年生になっていた。

 

***   ***   ***


 中学・高校の6年間。コドモ生活の中でもかなりめまぐるしく状況の変わる時間だと思う。

 それなのに、こうして高校3年生の夏が来ても、今まで一体何をしてきたのかあまり覚えていない。中学に行って、戻ってくると塾に行って。柔道の道場は中学に入ってからはあまり通わなくなっていた。同級生の男子たちはみんな中学で部活に入ってしまう。でも私の進んだ地元の公立中学には柔道部の女子部はなかった。
 ここでやる気のある子なら自分で仲間を集めて、同好会から始めたりするんだと思う。でも私はそこまでの気力がなかった。柔道の顧問の先生も全くの素人で、全然使い物にならなかったし。まあ、身体がなまらない程度に空いている時間に道場に出向き、後輩たちを相手に稽古付けたりしていた。

 高校受験の段階になって「西の杜をもう一度受けてみないか…?」と言う話が出た。私が中3になった時お姉ちゃんは高校3年生で受験組、そして弟の樹は西の杜学園の中等部の1年生になっていた。でも…私は少しも行きたいとは思わなかった。

 お姉ちゃんが大学生になったら、もっとお金が必要になる。3人で私立に通ったらどうするんだろう。この3年間でウチの経済状態はかなり好転していた。だからといって、やはり子供3人の教育費は大変だ。

 進路の面接で、担任の先生が私立と公立の両方の候補を出してきた。そして私は迷わず公立の方を選んだのだ。「県立山ノ上高校」…自宅からは電車で30分くらい掛かるけど、地元でも有名な進学校。早朝や放課後に課外もしてくれる、しかもこれから通おうと思っている予備校もその途中の駅にあった。定期も無駄にならないと言うこと。確かに少し難しかったけど、弱音なんて吐かなかった。

 

 それに…それに。私の中にはほんのちょっとの希望が生まれていたのだ。

 岩男くんが関西の大学を受験する――、お姉ちゃんに涙混じりにそう告白された時、申し訳ないけど心の中でガッツポーズした。

 岩男くんのお祖母ちゃんが高齢になって、田舎に戻ることになった。だから関西にいるお父さんの元で暮らすことになったのだ。別に大学生になるんだから、ひとり暮らしだっていいだろう。でも岩男くんは今まで、お父さんの再三の誘いを断っていた。それに対する後ろめたさもあったんだと思う。

 農学部を受験する岩男くんは、尊敬する先生のいる大学を選んだ。農学部、と言っても直接畑を耕したりするんじゃない。農業試験場に入ったり、食品会社の研究員になったりするんだ。岩男くんの白衣姿は想像付かないけど、そんな彼も素敵かなと思った。普通、成績優秀って言ったらお医者さんを目指すわよね。でも研究員になりたいなんてところが岩男くんなんだな。

 

***   ***   ***


「…へえ、梨花ちゃんは獣医さんになりたいの?」

 夕方に近い頃。道場から続くなだらかな坂道。伸びていく2人の影。

 誰にも話したことがなかった夢を、一番最初に岩男くんに教えた。ちっちゃい頃から、動物が大好きだった。でもお姉ちゃんがアトピーで喘息持ちだったから、ウチではペットが飼えなかったのだ。お友達の家に行って、そこの犬や猫と遊んだら、家に入る前に全部毛を叩いて綺麗にしなくちゃいけない。思う存分、動物たちの世話がしたいと思った。

「うん、専門の学科も少ないし、合格するのはすごく大変だって言うけど…でもやってみたいの」

 そんな風に答えながら、私はその夢が現実になりそうな気がしていた。岩男くんが得意だから、私も理系に進むことにした。そして理系に進んだお陰で、将来の進路が拓けてくる。女の子だから普通に文学部や家政学部に行って…なんて、私は柄じゃない。

「獣医さんか…」

 そうやって呟く岩男くん。その向こうに広がる青い空。柔道場からの帰り道、たまにこうして隣を歩くのが楽しかった。もちろん私はその時も「菜花ちゃんの妹」でしかなかった。
 でも…いくら「新世紀のビック・カップル」とか呼ばれているお姉ちゃんと岩男くんだって、遠く離れたらどうなるか分からないでしょ? お姉ちゃんが目指しているのはウチからでも通える東京の私立女子短大。でもっ、女子大生なんて、合コンにサークル活動…そこには男がうじゃうじゃいる。

 そうよ、今に。

 ふたりにはきっとすきま風が吹くはずだ。会えない時間にヤキモキしたり、お互いに浮気しちゃったり…あ、岩男くんはそういうことしないかも知れない。でも…はっきり言って、お姉ちゃんは分からない。だって、岩男くんと付き合う前には、ボーイフレンドがたくさんいたもんね。

 大学生ともなれば、今までのようにのんびりしてないはずだ。飲み会とかに行って、酔った勢いで…って言うのも絶対にありそう。お姉ちゃんについては今までパパと岩男くんのダブルガードが付いていたけど、それが取り外されたら分かんないよ〜。

 お姉ちゃんと岩男くんが付き合いだして、西の杜学園でも有名なカップルになったあとも、私は諦めていなかった。これが他の女の子相手だったら無理かなと思っていたかも知れない。でも…お姉ちゃんだったら、絶対に引けない。岩男くんはお姉ちゃんのことがもちろん好きだと思う。だけど、少し持て余し気味でもあると思うんだ。

 あの通りお姉ちゃんはぶっ飛んだ性格してるし、周りからの誘惑だって多い。いくら彼氏がいたからってみんな簡単には諦めたりしないもん。

 いつかふたりは上手く行かなくなる日が来る。その時に、岩男くんの隣に行くのは私なんだ。

 

「ねえ、梨花ちゃんは気になる男とかいないの? 実はさ、この前もクラスの奴に紹介してくれって言われて…断るのに苦労しちゃった。でも、いい奴なんだよ? 菜花ちゃんも彼のことはよく知ってるし――」

 人の気も知らないで、そんな風に言う。私は曖昧な笑みを浮かべて、岩男くんを見つめた。

「私、あまり知らない人とおつき合いなんて出来ないわ。きちんとその人を知ってなかったら…上手にやっていけないもん」

 

 ――そうよ。私にはひとりしかいないの。岩男くんしかいない。

 

 中学生になってから。じろじろと視線を感じることが増えてきた。

 私は帰宅部だったから、生徒会のない日にはまっすぐに家に戻る。でも、どう考えても帰る方向が反対のはずの男子が家の近くまであとを付けてくることが良くあった。でも、そんな男子に魅力なんて感じない。一度は担任の先生から、セクハラまがいのことをされそうになったりして。

「槇原さんが僕を見つめてくれると、もうたまらない気分になって…」

 なーんて気色悪いことをのたまって、もうちょっとで美術室に監禁されるところだった。絵のモデルになってくれなんて、普通教え子に言う? もう嫌になっちゃう。

 その時は、別に相談した訳じゃないけど、担任のおどろおどろしいオーラに気付いたクラスの友達の機転で、助かった。さも担任に用事があったように大声で探し回ってくれたんだ。先輩たちが卒業して、少し周りが静かになったなとホッとしていたところだったから焦ったけど。

 

 どうして世の中には勘違いな男が多いんだろう。みんな自分のことを過大評価してる。いい男なんだから、君の隣にふさわしいよ、なんて馬鹿馬鹿しい台詞、何度聞かされたか分からない。

 その辺に転がってる男なんて、みんな馬鹿。

 本当にいい男はね、自分で自分を誉めたりしないんだよ? そんなことしなくても、堂々とした貫禄が身体から滲み出ている。

 

「ふうん…梨花ちゃんがそう言うなら仕方ないね」
 岩男くんはそれ以上、無理に話を進めたりしなかった。

「それにしても」
 もう話はこれでおしまい、と言うように、岩男くんはするっと話題を差し替えた。

 こう言う時のさりげない心配りも普通の人には出来ないことだと思う。何についても岩男くんは秀でていて、他の人の追随を許さない。そんなに完ぺきなのに、おっとりしていて、さながら「能ある鷹は爪を隠す」なのだ。

「梨花ちゃん、やっぱり筋がいいよな。練習の成果、出てきたんじゃない?」

 岩男くんがう〜んと伸びをして、制服の袖口から出た腕に小さな青痣がある。それを見たら、ちょっと申し訳なくなって、私は目をそらしてしまった。

 その頃、私は岩男くんの受験勉強の妨げにならないように護身術を習っていた。と言っても、岩男くんも全くの素人だ。護身術は柔道よりも合気道とかそっちの流れなんだから。私も本を買ったりしてひとりで研究したんだけど、やっぱ実践がないとどうにもならない。そうなると頼めるのは岩男くんしかいなかった。

 美術室での担任とのこと。誰にも話すことは出来なかった。もちろん助けてくれた友達は知ってる、でも…その子たちにも口止めした。もしもパパに知れたりしたら、大変なことになっちゃう。パパはその頃、私の中学のPTA会長をしていたのだ。自分のことが元で、学校がざわつくなんて嫌だったし。担任も懲りたでしょうから、二度とやらないと思うんだ。

 ただ…次にあんな馬鹿なことを考える男が現れた時、私は自分の身を守らなくちゃいけない。いつも助けを呼べばやってくるスーパーマンかターザンの様な人が私にはいない。その候補だって見あたらない。

 岩男くんにだって、きちんと理由は言えなかった。でも、彼はすぐに承知してくれた。

 

***   ***   ***


 お姉ちゃんのものだけど。でも、時々は借りちゃう。弟の樹だって、岩男くんが大好きだ。だから同じように私も。私も岩男くんが大好きでいいんだから。

 お姉ちゃんの彼氏になった岩男くんも、以前と少しも変わらずに私たちに接してくれる。時々、ちっちゃいころの癖が抜けなくて、数学の問題がきちんと解けた時に頭を撫でられたりするけど…恥ずかしいとか振り払ったりもしなかったし。パパが同じことやったら「えっち〜!」とか、叫んじゃいそうだけど。

 


 春が来て。私もお姉ちゃんも岩男くんも、それぞれ進学した。岩男くんが、関西に行っちゃった夜、お姉ちゃんは携帯を握りしめてわんわん泣いていた。樹も遊び相手がいなくなるからすごく寂しそうだった。でも…私は嬉しかった。

 これで、お姉ちゃんと私は、岩男くんとの距離が同じになる。同じ学校にいて、岩男くんを独り占めすることなんてもう出来ないんだからね。そりゃ、お姉ちゃんも関西の大学に行きたいっ! とかパパにお願いしていた。でもすぐに却下されて。そりゃそうでしょ、お姉ちゃんがひとり暮らしなんて出来るわけないじゃない。そんなことしたら、パパは関西に引っ越しちゃうかも知れない。

 その辺、私はぬかりないから。お部屋のお掃除も、お料理もお洗濯も、一通りこなしていった。小学校の頃、お店を開店したてで忙しかったパパとママに代わって、お家の仕事をたくさん引き受けた。その頃からの習慣が身に付いてた。獣医学科のある大学が大阪にある。私は元より国立に行こうと思っていた。そこは府立の大学だから同じようなものだ。

 

 ――岩男くんの、そばに行くんだ。

 

 もう迷いなんてなかった。欲しいもの、自分の力で全部手に入れてみせる。動物のお医者さんになることも、岩男くんの特別の存在になることも。

 高校に入ってから、学校と予備校の掛け持ち。でも全然辛くはなかった。勉強しても勉強してもキリがないって、すごいことかも知れない。退屈するコトなんてなかったし。
 高校生になると友達との交流も盛んになる。泊まりで勉強会したり、ビデオ鑑賞会したり、そんな時間も持てるようになった。どうしてそんなに余裕があるのかなと考えたら…やっぱり、お姉ちゃんと岩男くんのことを考える時間がなくなったからだろうな。

 ふたりがデートに出かけたとか聞くと、今頃は何をしているだろうとか、つい考えてしまう。そんな自分が嫌だったけど、どうしてもそんなイライラを抜けられないんだ。パパみたいに玄関の前に仁王立ちになって帰りを待つようなことはしなかったけど(やりたかったけど、…ちょっとねえ)、心の中はハリケーンが吹き荒れていたんだ。

 

「梨花ちゃんは、男の人に興味ないの?」
 たまーに、無邪気にこんな質問をされることもあった。進学校ではあるけれど、クラスメイトたちは恋愛も適当に楽しんでいる。まあ、溺れない程度にセーブしているところが計算高くて、何だか鼻についたけど。

 そんなとき、いつも答えは一緒だった。

「う〜ん、そうねえ。私は自分より強い人じゃないと嫌」

 コレを言えば、どんな友達もたいがい黙ってしまう。私が中3の時に柔道で初段をとったのをみんな知ってる。山ノ上高校にも女子の柔道部はなかったから、たまに道場に通う程度だったけど、高校在学中に二段を取れたらなと思ってる。

 

 成績はもちろん、柔道だってピカイチで。ついでに性格も良くて。

 はっきりとそう言えたら楽だろうな。あんまりに高飛車な女になりそうで、とても言えないけど。それにきっと言われちゃう、そんな人、いるわけないでしょって。

 

 体育祭に文化祭、クリスマス会。さすがに文武両道をうたう高校だけあって、そういうレクレーション的イベントも派手だった。みんなここぞとばかりに工夫を凝らし、技の集大成になるから。そして、そんなときはすべからくして、うきうきしたムードに包まれる。季節に関係なく、辺り一面に花が咲き乱れるように、それまで「男なんて…」と言っていたクラスメイトまで彼氏を作ってるのだ。

 周りの浮ついた雰囲気を、私はいつでも取り残された気分で見つめていた。とても近くにそれはあるのに、弾けるような気分が伝わってこない。もちろん、1年生の後期からずっと生徒会をやっていたから、イベントになれば中心的役割をしてきた。それなのに…何故か思ってしまうのだ。

 

 ――ここも、違う。

 お姉ちゃんの幻影から抜け出したくて、公立高校に進んだ。私立の西の杜学園に劣らない、ううん卒業生の進学先では近頃こちらの方が勝っていると皆が自慢している高校に。だから、もう「菜花ちゃんの妹」なんて呼ばれない。私は「槇原梨花」として存在しているのだ。

 それなのに、この疎外感は何なんだろう。自分だけが蚊帳の外みたいな空虚な気持ち。たとえば自分の身体が透明なガラスケースの中に入っているみたいに、色もかたちもさざめきも聞こえるのに遠い。

 救い出して欲しい、早く私をこんな不安定な場所から。大丈夫だよって、肩を叩いて、にっこり微笑んで。どうして、どうして来てくれないの? 私を助けてくれないの…?

 

***   ***   ***


 長い休みになると岩男くんは戻ってくる。お祖母さんはもういないけど、お家はそのままになっていてお母さんのお仏壇もある。だからそこに帰ってくるのは岩男くんにとって当たり前のことだった。ウチの家族とも本当の家族の一員みたいにしていたし。

「やだなあ、…もうっ!」

 お姉ちゃんが晩ご飯の時、ぶうぶうと言った。今年の春、短大を卒業して就職したけど、学生時代とどこも変わっていない気がする。まあ、服装がスーツになったくらい? お勤めの時は綺麗にまとめている髪をお下げにしてるのもそう見える原因かな。

 みんなの耳と視線が自分に集まっていると知りながら、お姉ちゃんはぱくぱくとご飯をかき込む。口元に付いたご飯粒を指で払ってから、ふうっと大袈裟にため息を付いた。

「岩男くんてば、よりによって明後日こっちに戻ってくるって言うのよ。明後日って、あたし研修で出かけちゃうじゃない? しかも関西方面への視察なのよっ! もう間が悪いったらないわ」

「ふうん、…そりゃあ残念だねえ。でも仕方ないよ、菜花は社会人なんだから」

 …ねえ、パパ。言ってることと顔が合致してません。どうしてにこにこ笑ってるかな〜、あからさまなのよねぇ。

「ああん、パパの馬鹿っ! 酷いわっ、またあたしがいない隙に岩男くんと釣りに行ったり山登りに行ったりするんでしょっ!」

 ほらほら〜、お姉ちゃんもすぐに反応してる。本当に似てるんだから、この親子。

 

 ママは相変わらずにこにこと黙って笑っていて、樹に至っては「山登りだったら、俺も行く〜!」とかはしゃいでる。岩男くんがこっちに戻ってくるのは私たち家族にとってもとても嬉しいこと。みんなうきうきする。

 ――もちろん私も。

 口に出さなかったけど、すごく嬉しいのはみんなと一緒だ。そうだ、明日予備校から帰ったら、早速シチューの仕込みをしよう。牛のすね肉を香味野菜と一緒にコトコトととろけるくらいまで煮て、とびきりのビーフシチュー。昔からこれだけはママの得意料理だった。大概のものはパパが作った方がおいしいんだけど。でもその「秘伝」を私なりに研究して、今では肩を並べるくらいの出来になってると思う。

 

 その晩は嬉しくて嬉しくて、なかなか眠れなかった。お姉ちゃんがいないのに、岩男くんが戻ってくる。しばらくは独り占め出来るじゃないの。

 あんまり期待とかしないようにしていた。だって、それが叶わなかった時にとても辛いから。いつも最悪の場面を想定して、それよりもマシだったって思うようにしてた。

 …そう、してれば良かった。今回も諦めていれば良かったのに。

 

***   ***   ***


 ――どうして?

 夕暮れの庭先。大きな木の陰に、長い長い影が伸びていた。私が坂を登ってきたことなんて全然気付かないふたり。それが誰と誰なのか、確認するのに時間は掛からなかった。


 そして、気付いたらここにいた。制服のまま、気がついたらまた電車に乗っていたんだ。定期で行ける範囲でいい加減に降りて、賑やかな夜の街を歩いた。良く覚えてないけど。

 

 ――馬鹿みたい。

 帰ろう、と思った。いいじゃない、もう岩男くんは家に帰ってるはず。このまま友達の家に泊まりに行こうと思ったけど、運悪くみんな外出していた。ママには「文化祭の話し合いがあって…」と、泊まりになるかも知れないと匂わせて連絡いれたけど。

 

 空っぽの紙コップ、持ち上げて椅子から降りる。

 

 その時。

 私の隣りの席を陣取っていた「影」が、少しだけ動いた。


 

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