TopNovel未来Top>キスから、夢まで。・8


…片側の未来☆梨花編その2…
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 ――で、一体、何?

 私の目の前に座る男は、突っ込み所満載の感じで、しどろもどろになっていた。地下鉄への階段を降りかけたら路上で大声で名前を呼ばれて、何事かと思って戻ってみたんだけど。そのあとはこちらが話しかけても「う〜」とか「あ〜」とかしゃべり初めの赤ん坊のように意味をなさない返答しか戻ってこない。もしかして……何も考えないで、ただ呼び止めたのかしら?

 普通さ、この次はどうしようとか、三つ先くらいまでのやり取りを頭に描いてから、行動を起こさない? それなのに……この男、どういうことなのよっ!

 

 外は短時間立っているだけで、頭の脳天からじりじりと焼け付いてしまいそうな夏の日差し。そんなところにいつまでも突っ立っていると脳みそが煮えたぎりそうだ。絶対に受験生にとっては好ましくない。だから、場所を移動しようと目に付いたハンバーガーショップに移動した。先日入ったところと名前は同じだが、店は違う。同じ駅前にいくつもあるらしい。

 私にだって、一応の忍耐力はある。

 だから、呼び止めた相手が何かしゃべり出すまで待とうと思った。でもさ、物事には限界というものがあるんだよ。私だって、暇じゃないんだからね? だいたい、呼び止めた時にこちらがどういう状況にあるのか、まず最初に確認するべきなんじゃないかしら。

 名前を呼ばれて、振り返って。そこから劇的な展開が始まる……そう言うシーンはドラマや漫画にはありがちだ。ひと目見た時からお互いに惹かれ合い、燃え上がるのだ。ただ、そんな都合のいい話は現実にはあまり起こらない。――にしても、この状況は頂けない。

 

「…で、話って…?」

 仕方ないから、こっちから声を掛けてやる。出来るだけ、冷静にさりげなく言ったつもりだったのに、ただそれだけのことで、奴はびくびくっと身体を震わせた。その上、こちらがちらっと時計を見たことを気にして、何か用があるのかと聞いてくる。

 おいおい、だからっ! それは最初の時点で訊ねることだろう。まったくねえ、何考えてるんだか。ここまで来たと言うことは、こちらには一応「話を聞こう」という意志があるわけで……それを察してくれて、どんどん進めて欲しいのにっ!

 いらいらいら。

 まあねえ。初対面が泥酔状態で情けない限りだったから、もうどんな風に出てきたところで驚きもしない。ただ、黙っていたらどうしたいのか分からないでしょ? わざわざ呼び止めてくれたなら、男らしくイニシアティブを取りなさいよっ!

「…で、話って、何?」
 さっきよりも不機嫌な声になっていたと思う。少し首を傾げるようにしたら、髪が流れてさらさらと肩から流れ落ちた。

 こちらの苛立ちにようやく気付いたのか、しばらくはじーっと見つめているだけだった男がようやく口を開く。

「え…、えとっ…。あの、その…」

 あれ? なによう。結局、言葉が意味をなしてないじゃないのっ! しかも「このたびは…その、とんだことを」 って、何? 不祥事を起こした会社の社長さんですかっ!?

 

 その後も、何だかな〜と言う感じで、のろのろと話が続く。まあ、私もただ地団駄踏んでた訳じゃない。途中から、だんだんそのまどろっこしい言葉の意味が読めてきた。

 言いにくいことを話そうとする時。人はその決定的なひとことを避けて、その周りをぐるりぐるりと迂回する。本人は上手にぼかしているつもりなんだろうけど、聞いてる人間からしたらこんなに分かりやすいことはないのよね。

 ――ようするに。

 この男、……あれだ。
 やっぱ、あの夜に何かあったんだと思っているのね。まあ、そんなところだろうなとは思っていたけど、そのことでびっくりしたんだと思ってはいたけど、それでわざわざ私のこと、呼び止めるかしら? …ああ、違う。もしかして、身体の関係を利用して、何か良からぬことを要求して来るとか? …ううん、そうじゃないみたいだよな。だったら、もうちょっと余裕の語りをしそうだし。

 

 周りのことばかり気にしつつ、要領得ない話を繰り返す男。それをぼんやりと眺めているうちに、だんだん苛立ちも消えて、その代わりに…なんて言うのかな、憐れみみたいなものが心に湧いてきた。

 二日酔いの朝、目覚めたら隣には見知らぬ女子高生が寝ていた。しかも裸で。そのことが彼にとってはよほどの衝撃で、慌てずにはいられない状況なのだ。

 馬鹿ねえ、何なんだろ? もしかして私が警察にでも訴えるのかと思ってるの? あることないこと並べ立てて、彼の立場を悪くするとか? んなはずないでしょう、面倒くさい。まあ、彼に素っ裸を見せられたのは、露出狂の恐れありだけど? いやぁ、あれって犯罪よね。本当にあまり好ましくない光景だったわ。

 そうよねえ…。私が困ったことと言えば、昨日の朝、寝坊してしまったために、犬の散歩のバイトが出来なかったことだけ。まあ前夜の大雨で道路は水浸しだったし、寝過ごしたと言ったら許して貰えたしな。

 

 ――馬鹿ね、気にしなくていいのに。

 

 そう思いつつ、もうひとつの考えが心に浮かぶ。

 私……この人を困らせたいかも知れない。どうしよう、一番、何を言ったら驚くかしら? 男の人が慌てたりするの情けないと思ってたけど、私の周りには自分の体裁ばかり気にする奴らばっかだったから、それも新鮮だった。赤くなったり、青くなったり、面白いんだもの。

 ……それにさ。この男、言ったじゃない。「今にいいことがある」って。本当なら、それを証明してみれば? 自分が言った言葉に責任を持ってよっ!

 そんなことを考えていたら、そのうちに、心がふううっと軽くなった。そして、頭で組み立てたんじゃない、心から湧いてきた言葉がそのまま口からこぼれ出ていた。こんなこと、今までになかったのに。

「もしかして。私と、付き合いたいの? …ナンパしてるの?」

 

「…へ?」
 彼は目に見えて分かるくらい、さああっと顔色を変えた。

 ふふふ、思い通りだわ。こんなに分かりやすいリアクションをしてくれるなんて、嬉しかったりして。いいな〜、「会話」って頭を複雑に使うものだと思っていた。だけど、こんな風に後先考えずに口から出任せで言うのも楽しいかも知れない。

 暑さのせいか、緊張のせいか、汗ばんだ額につううっと汗が流れていく。髪型、ちょっと格好悪いな。あまりおしゃれを気にする男は好きじゃないけど、一応小ぎれいにして欲しい。雨に打たれてぼろぼろになってるから情けないと思ってた。でも夏の光の中で見ても、やっぱイマイチだなあ。

 彼をもっと驚かせようと思ったら、すぐに次の言葉が決まった。

「…いいよ? 付き合ってあげる。私、あなたの彼女になるわ」

 口をOの字に開けたまま、次の言葉も浮かばない男。私は期待通りの反応に嬉しくなって、大満足。そのままがたんと席を立った。それほど広くない店内を突っ切って、出口に進む。その時初めて、私の背後にあったたくさんの視線に気付いた。これに彼は慌てていたのだろうか? でも、……まあいいや。とっても楽しい気分なんだもん。

 

 お店の外は思い切りの夏空。そのまぶしさにくらりと来て、目を細める。そして、初めて気付いた。

 ――あ、……名前、聞いてなかった。

 

***   ***   ***


 男なんて、みんなプライドばっかり高くて、一皮剥けば情けないばかりだと思っていた。

 何かな〜、こう言うのをトラウマって言うんだろうね。ちっちゃい頃から、鼻の下を伸ばしたみたいな変なおじさんやお兄さんにたくさん会ってきた。みんな「可愛いね」なんてありきたりのことを言いながら、目の色が気持ち悪いの。にやにやしていて、べとべとして、すごく嫌な目で私を見るの。

 子供だから分からないと思っていたんだろうね。だけど、子供の頃の方がそういうの、ずっと敏感だったんだよ。少し大きくなると、まとわりつくようなあの気色悪さは消えた。でも、それは表面上のこと。よーく観察すれば分かる。みんな「自分は潔白だ、やましいところは少しもない」みたいに取り繕ってるけど、バレバレなんだから。

 まあ、例外はいるわよ。その筆頭は岩男くんよね。岩男くんはどこから見ても素敵だし、素朴な感じだし、頭はいいし、柔道は師範級だし。だから、岩男くんがいいんじゃないの、岩男くんじゃなくちゃ嫌なんじゃないの。

 ……でも、岩男くんは私にとって遠すぎる人。それくらい分かってた。だって、お姉ちゃんの彼なんだもん。どうして私は岩男くんにもっと早く出会えなかったんだろう。お姉ちゃんに先を越されたんだろう。追いかけても追いかけても届かない距離まで、離されてしまったんだろう。

 

 どうして……ふたりはキスしてたの……?

 

 夕陽に照らし出されたふたりのシルエットが、一枚の絵のように私の瞼の裏に焼き付いてる。振り払っても振り払っても消えない残像。

 この悲しさ、どうしたらなくなるの? 私はどうしたら解放されるの? 岩男くんを思い出すと、一緒にお姉ちゃんを思い出しちゃう。こんなの、嫌。最低だわ。お姉ちゃんを思い出さない方法を教えて。お姉ちゃんを私の中から追い出す方法を教えてよ。

 全ての鍵を握っているのは……誰?

 


 その日、予備校の講義が終わったあと、私は朝と同じように千率予備校の入り口にいた。彼がここにいるのは分かっている。だから、待っていればそのうち現れるんだ。名前も何も知らないんだもの、直接聞くのがいいと思った。

 それに……何となく、何となくなんだけど。彼にはもう一度会いたかった。私のために何かしてくれるなら、一緒に答えを探して欲しいと思った。きっと……彼は何かを知ってるから。

 

***   ***   ***


 上條聖矢。それが彼の名前だった。

 もっとも彼の方は、あの再会の時から私の名前を知っていた。私から名乗った覚えもないんだけど、まあ、知ってる人は知ってるもんね。誰かに聞いたのかも知れない。槇原ファミリーの一員として、避けられないことなんだ。そのくらい諦めてる。見ず知らずの人にまで名前を知られてるのは日常茶飯事なんだから。

 

 付き合うようになって、毎日待ち合わせをして。

 私の姿を見つけるたびに、彼は信じられないと言うように何度も瞬きした。周りをきょろきょろ気にしながら、待ち合わせの公園の車止めを越えてくる。私を目の前にしても、やっぱりどこか信じられないような複雑な表情をしていた。

 それだけじゃなくて。歩いている間中、通りすぎる車や人の目を気にしてるんだ。会話というものが続くわけもなくて、私たちの言葉はいつも途切れ途切れ。もどかしくて気まずい空気が流れていく。お互いに困っていることは分かっていた。

 

「彼女」…って、何だろう?

 

 間の持たない不思議な時間を過ごしながら思っていた。何となく「彼女になるわ」と言ってしまったけど、実は何も分かっていなかった。今まで周りのカップルを外側から見ていた。みんなお互いがお互いしか見えていない感じで、不思議な異空間を形成しているなと思ってた。

「彼女」って、簡単になれるものだと思ったのに。だって、夫婦だって婚姻届を出したら、その瞬間から夫と妻になるんだよ? そう言うものなのに。恋人とそうじゃないの線引きって曖昧なんだなと初めて知った。彼女になるって宣言すれば、すぐにになれる訳じゃないのね。

 …だけどさ。こっちは初心者だけど、聖矢くんの方はそうじゃないはず。なのに、どうして慌てているばっかりなの? あの夜のことに対して(…あ、実際は何もやましいところはなかったのだけど、訂正するのも恥ずかしいので、なんとなくそのまんまになってしまった)引け目を感じているんならそれでもいいから。もうちょっと、リードしてくれないかなぁ。

 岩男くんだったら、お姉ちゃんが力一杯体当たりしても、すべて受け止めてくれそう。

 でも……聖矢くんはそうじゃないね。もしも、私が感情を全て吐き出したらひっくり返って倒れてしまう。加減しながら付き合わなくちゃならない。相手の出方を見守って、手探りみたいに言葉を辿っていく。時々、ぱっと心が繋がることがあって、それはすごく嬉しい。でも次の瞬間、またふたりの距離が出来てしまう。

 

 学校の勉強なら、自分が努力すれば結果を残すことが出来た。柔道だって、そう。きちんと稽古に励めば目に見えた変化がすぐに現れる訳じゃないけど、それでもある瞬間に「あっ」と気付くほど伸びている自分に気付く。

 ……それが。人間相手だと、難しい。こちらが必死になるだけじゃ、埒があかない。難しいからこそ、やり甲斐があると言えばそうだけど、なかなか出てこない成果にちょっと疲れてきた。

 

 私の家がある地区へと続く街道を並んで歩いていた。長い長いふたつの影を踏みしめながら、どうしたらもっと自然に、ふたりきりの世界に入れるのかと考えていた。このぎこちない距離感をどうにかしたくて。

 今まで、岩男くんの一番近くに行きたいとそれだけを考えていた。でも、その先のことはあまり具体的に思い描いてなかったみたい。「彼女」という位置づけ、よく分からない。どうしたら一緒にいて楽しいと思える時間を過ごせるんだろう。きっと私がどうにかしなくても、岩男くんに任せていればいいと思っていたのかも。私って他力本願だったのねえと呆れてしまう。

 

 自分から「彼女になる」と言っちゃった訳だから。ここは努力してきちんと「彼女」しようかなと思った。

 だけど……とにかくその方法が分からないのだから、埒があかない。参考資料にしてみようかなと、部屋でこっそりとラブロマンスの小説を読み返してみたり、友達の家で観た洋画のDVDを映像ごと思い出したりする。でも、そう言うシーンはみんな男性側がエスコートしてくれる。戸惑うヒロインを包み込むような愛情で抱きとめて、あの「お互いがお互いしか見えてない」異空間を作り上げていくのだ。

 受験生が何やってるのかなと思っていたけど、それでも今までお姉ちゃんや岩男くんのことを考えてイライラしていた時間がそれに代わっただけ。少しは生産的になったかも知れない。

 

 ――自分から、レールを降りるのは嫌だった。だって、負けるみたいだから。彼が音を上げてしまうまで、付き合ってみよう。最初から逃げ腰の男。いつまで保つか分からないし。

 

***   ***   ***


 夏休みだけど、平日は予備校があって、休日は模試がある。でもって、予備校が休みの日にも友達と図書館に行ったりするからまとまった時間は取れない。同じ学校にいれば、同級生なら、すぐに会える。一緒にいる時間が長ければ、どんどんお互いを知り合えるのかも知れないな。だから、高校のカップルたちはあんなに仲がいいのかしら。

 

 今日は……来ないかも知れないな。

 そんなことを心の隅っこで考えながら、彼が来るのを待つ。鳴るはずのない携帯をいじりながら、時間が過ぎるのを待っていた。誰から見ても、私は人待ち顔。公園を行き来する人たちが、ちらりちらりと私を見ているのが分かる。…何よ、言いたいことがあるならはっきり言ったらどう? 遠巻きに観察するのはやめてよ。

 そうだな。こんな風な視線はいつも私の周りにあった。男の人たちのいやらしい視線も嫌だったけど、それと同じくらいこの微妙な感情を含んだ瞳は嫌いだった。

 

 ――槇原さんなら、どうするかしら?

 

 お手並み拝見といった感じで、みんなは遠巻きに見つめてる。そんな視線に晒されるたびに、私は周囲の人たちの心の中にある「期待」みたいなものを裏切らないようにと、必死になっていた気がする。

「槇原梨花」……この名前の向こうにはいつでも、パパがいて、ママがいて、お姉ちゃんがいた。場合によっては弟の樹もいたかも知れない。パパやママの娘として、お姉ちゃんの妹として、樹の姉として、私は存在していた。

 大好きだった岩男くんでさえ、私のことはお姉ちゃんの妹としてしか見てくれていなかった。いつでも、まるで本当の妹みたいに優しくしてくれたけど、それはお姉ちゃんに対するものとは全然違う。それが口惜しかった。

 

 小学校の5年生の時に、理科の授業でフナの解剖をやった。今の教育指導要領ではそこまで要求されないはずだけど、担任が理科の専門だったからそうなったらしい。
 生の魚を切り開くなんて、イマドキの子供には無理だ。何しろ「魚は切り身の状態で海を泳いでいる」と信じている子もいるくらいだ。目がギラギラしている魚に睨まれたら、ひとたまりもないだろう。その上、半殺し状態のフナはまな板の上で、ぴちぴちっと尾っぽを振っているのだ。

 その時に、クラスでひとり、魚に包丁を入れてみる役が必要になった。こう言う時は普通委員長とかがやるものよね? でも男のくせに恐がりな委員長は真っ青になってしくしくと泣き出してしまった。当然、クラスは騒然。まだ新任2年目の担任も焦ってしまったみたい。泡を飛ばしながら、いきなり言った。

「じゃあ、副委員長……槇原がやりなさい」

 ざわ。クラスがまたひと揺れして、私の周りにいた友達がさささっと数歩後ずさった。私の目の前には教壇のまな板まで続く、一本道が出来ていたんだ。

 …そうよ、梨花ちゃんなら大丈夫。…槇原なら、あれくらい朝飯前だろ。こそり、こそり。揺れる人垣から声がする。それに後押しされるように、私は歩き出していた。

 生の魚って、実は触ったことがなかったし、もちろんおろしたこともない。ただ、釣りが趣味のパパは、キャンプとかでもいつも自分で釣ってきて、みんなの前でさばいてくれた。だから、手順は知っている。まずはおなかの下、肛門からのど元にかけて包丁を入れて内臓を取り出すんだ。解剖だって、それでいいだろう。内臓はあまり傷つけない方がいいんだろうな。

 ぷうんと生臭い匂いがして、どろどろの内臓が出てきた時はマジで泣きたくなった。自分の指が血に染まっていく。殺人犯になった気分。でも、私は最後まで、先生に言われた通りのことをやり遂げた。

 ――そのあと、トイレに行って、思い切り戻してしまったけど、そのことを知ってるクラスメイトはいなかった。


「梨花ちゃんなら」「槇原さんなら」そう言われて。その後もいろんなことを押しつけられた。中学校の時はアジの三枚おろしを、クラスの半分くらいに頼まれてしまったし、高校の時なんて、鶏をさばくのまでやらされた。みんな「私、そんなことは出来ない〜」って、最初からやる気ナシ。誰かがやってくれるのを待ってるだけ。

 ……私だって、好きでやってるんじゃない。みんなと同じくらいやりたくないし、怖いんだよ。でも、期待されると断れなくなってしまう。だって、もしも「槇原さんが、どうして出来ないの?」なんて言われたら、しゃくだもん。


 そう言う意味では、聖矢くんは稀少な存在だった。何しろ、最初に会った時、私を知らなかったのだ。声に出さなくても「あ、梨花ちゃんだ」という空気は伝わってくる。それがなかったのが不思議だなと思った。

「槇原梨花」を知らない。と言うことは、私に対する先入観が全然ないと言うことだ。信じられない、今までになかったことだ。もちろん、全ての人が私や私の家族のことを知ってる訳じゃない。初対面だと分からないことも多い。でも、次に会う時までには必ずどこからか情報を仕入れて、目の色が変わっているのだ。

 出逢いが強烈だったから、なのかな? 聖矢くんは私のすることや言うことに、いちいち驚くけど、別にその裏に何かがある訳じゃない。「槇原梨花」なのに、どうして……というものではない。

 

「梨花ちゃん……」

 ハッとして、顔を上げた。車止めを越えてくる見慣れた姿。それを認めて、私は笑顔で立ち上がった。


 

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