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…After Storys, 1…
『もうひとつの夜』 その1

 

 

2002年9月1日(日)の夜…

 プールのふちに当たるちゃぷちゃぷという水音と。それから熱い息づかいと。しばらくの間、耳に届くのはそのふたつの音だけだった。あんまりに静かな最後の夏休み。駆け抜けていった8月の残像が瞼の裏に流れていく。

 何度も何度も。気が遠くなるくらい唇を重ね合わせて。それでもその激しさを自分から振りほどくことはもう出来なかった。「求める」ことだけが自分に残された感情、その他の部分はどこかに行ってしまった。日和はそう感じでいた。

「…帰ろう?」
 高く波打つ胸に抱き寄せられて、呼吸を整える。膝がプールサイドのコンクリートにあたって痛い。長いこと手入れされていないこの場所は、あちこちから吹き込んだ砂や砂利でザラザラしていた。
「…ん…」
 久しぶりに人間の言葉を聞いたような気がする。すうっと引き上げられるように現実の水面まで浮上した。耳たぶに触れるひんやりとした空気に我に返る。急に気恥ずかしくなって、身体を剥がしていた。
「んにしても、ぐしょぐしょだな…着衣水泳なんて小学校の時以来かも」
 雄王は飛び込むときにTシャツを脱いでいる。少しでも泳ぎやすくしようと思ったのだろう。不意をつかれて突き落とされた日和に対して、彼は最初からここに飛び込む心づもりがあったのだ。そう思うとちょっと腹ただしい。
「誰のせいだと思っているのよ!?」
 すっと立ち上がる。ニットからはまだ水が滴っていた。でもニットで良かった、もしも綿の服だったら、下着が透けていたかも知れない。暗闇とは言え、ちょっとやだ。脇の髪の毛が束になってこごっている。置きっぱなしにしてあったバッグを手にすると金網の破れたところまでツカツカと歩いていった。動くたびに濡れた服が身体に触れて気持ち悪い。
「ちょっと待てよ〜」
 頭からTシャツを被った雄王が慌てて追いかけてくる。そして日和の前に割り込んで、先に金網に手をかけた。
「日和っちゃん、ここ、ひとりで降りたら、絶対に転がって落っこちるぞ?」
「…そんなことないもん」
 口ではそう言ったものの、実は不安だった。登るときですらあんなに大変だった。自分の影で暗がりになったそこを下っていくのは辛そうだ。雄王が先にどんどん降りて、手を伸ばしてくれる。抱きつくようにそれに従って、ようやく地上の人になった。

「高飛び込みのプールだったなんて。そんな危ない物、どうして壊してしまわないのよっ!? 子供でも落ちたら大事故よ? 大体、死体が上がっているのに…」
 照れ隠しに全然関係のないことをしゃべりながら、腕を解く。自分の心臓がばくばく言うのが恥ずかしかった。ただ、身体がちょっと触れただけじゃないか。今までだって何度も胸を借りたことがある、そりゃ不本意だったことの方が多いけど。それでも…あんな、緊迫した精神状態で、ついつい本音が出てしまった。自分でも信じられなかった。
「え? 潜ったときに分からなかった?」
 雄王の方はそんな日和に気付いているのか、いないのか。雄王の声も普通に戻っている。べちゃべちゃ音を立てながら、歩き出す。広い背中、Tシャツが張り付いていて、歩くたびに皺の出来方が変わる。
「何が?」
 んなこと、夢中だったから分かるはずないでしょ? ムッとしていると振り向いた人がふっといたずらっ子の笑顔になった。
「あそこ、使ってない割りに水がきれいだっただろ。井戸の水を入れて巡回させているんだよ? 災害時に利用するため池のひとつとして残されているんだ。だから、飲料水にもなるくらいなんだって」
「へえ…」
 冷たくて、透明な水だった。そう言えば、毎年使っている学校のプールですら、春すぎに水を払って洗うときはどろどろと水苔や泥でいっぱいになっている。水も臭くて独特の匂いがした。それがあのプールには感じられなかったから。
「日和ちゃん、暑い暑い言ってたから、涼めて良かったろ?」
 雄王は大股にどんどん歩いていく。車の通らない道路を渡ると、道のセンターラインの辺りでボーっと立ち尽くしていた日和を振り返って促す。
「ま、身体が冷えただろ? 早くシャワー浴びないと。新学期から風邪ひいてたら情けないからな」
「あ…うん…」

 今夜は自分の部屋に戻るつもりだった。当座の着替えなどはいくつか雄王のアパートに運んであったが、新学期用の改まったものはない。大体、もう浜谷の高校には行くつもりがなかった。実際、今もちょっと迷っている。だって…自分の過去が少しでも知られてしまった今、職場に帰るのは辛かったから。
 でも、目の前にある雄王のアパートに対して、日和の部屋は5分くらい歩かなくちゃならない。その道沿いにはコンビニや本屋、スーパーがある。ちょっとした地域の商店街だ。まだ、店が開いているところも多いだろう。そんな中を濡れ鼠で歩く勇気はちょっとなかった。

 シャワー、借りよう。そう思って、雄王の後を追いかけた。

◇◇◇

 先に鍵を開けて中に入ったこの部屋の住人が、水を滴らせながらタオルを取ってくれる。フローリングだから良いと言えばそこまでだが、あとで拭かなくちゃ。彼はさっさとトランクス1枚になって、肩からタオルをかけてソファーに寝そべった。そして、玄関に立ったままの日和に声をかけてくる。
「いいよ〜、先に使って」
「う…ん」
 何だか。この部屋を開けた瞬間に今まで通りの時間が流れ出した気がしていた。もう8月は終わったのに。あの男は来ないのに。連続殺人の悲劇も幕を閉じたのに。この部屋はそのままの時間が流れている。あんなに親密になったはずの男が、もう普段通りにTVを観ている。いつものナイター中継だ。
 初めて上がる部屋のような気がする。もう、この部屋にいる理由のない自分。その違和感が靴を脱ぐことすら躊躇させる。靴箱の影からリビングを覗くと、彼はそんな自分のことを気にも止めないようにTVに見入っていた。ひとつ、ため息付く。それから、隣りの和室に入って、外も歩ける程度の普段着を揃える。そして、バスルームに向かった。
 自分の中にある気持ちが何であるのかがよく分からない。でも、あまりに以前と変わらない姿に戻ってしまった雄王に落胆に似た気持ちを抱いているような気もする。

 …私ってば。何か、期待してた?

 服を脱ぎ捨てると、ランジェリーネットに入れて洗濯機に突っ込む。どうせ雄王の服も洗うんだから、一緒に回そう。そう言う風に考えてしまう自分。何か違う気がする。折り戸を開けてシャワーを力一杯出すと、頭からザンザン浴びた。ここのバスは白熱灯が妙に明るい。お風呂なんて必要以上に明るくする必要ないのに。
 その上、曇り止め加工された鏡が壁に掛かっている。どうしてしゃがむと身体全体が映る鏡がお風呂場に必要なのだろうか? ま、作りつけだから雄王の趣味ではないんだけど…設計者の真意を確かめたくなってくる。自分の身体を見るのは苦痛だったから、最初からとても嫌な気分だった。
 手足を思いっきり動かすと壁にガンガンぶつかる狭いバスでシャンプーして、身体をごしごし洗う。ずっとシャワーを出しっぱなしで。床に落ちる大きい水音を聞いていると、何も考えなくていい気がしてくる。

 リビングに戻ってくると、雄王は相変わらずTVとお友達していた。
「お先に」
「うん」
 決して広くない部屋に響く短い会話。いつも繰り返していた慣れっこの受け合いだ。それが何だか、悲しかった。TVがいいところなのか、彼はこっちを振り向こうともしない。髪を拭きながら、日和は次の言葉を口の中で何度も転がしていた。
「あのさ、寺嶋先生――」
「ん〜〜〜?」
 やっぱり向こうを向いたまんま。いいんだけどさ、普通話をする時って相手の目を見るもんじゃないの? そんなの教育者の基本だよ? 日和は小さくため息を付いて、それから音を立てないように深呼吸した。
「私、明日学校に行くんなら、今日は部屋に帰る。持っていく物まとめて、服を揃えなくちゃ行けないから。あの…先生が入っているうちに出ていくかも知れないから。一応、言っとく…」
 言い終わったんだから部屋に引っ込めばいいのに。何してんだろう、自分。知らないうちに雄王の答えを待っていることに気付いていた。足の裏が床にくっついて取れない。お風呂上がりにいつものようにお水を飲もうとするのに…それも出来ない。少し経ってから、雄王が後ろ向きのまま、ごそごそっと動いた。
「戻るんなら、明日の朝にすりゃ、いいじゃん。俺、起こしてやるよ?」
「…え?」
 自分の声が大袈裟にひっくり返っていた。やだ、何なのっ!? どうして…。でも高鳴った心臓は、次の雄王の言葉でしんとする。
「日和っちゃん、冷蔵庫の中に色々入れっぱなし。魚や生の野菜、残されても困るから。あれ、朝食で使いきっちゃえよ? どうせ出てくなら、すっきりさせていって…」
 雄王が、こっちを向かなくて良かった。自分が今、どんな顔をしているのか分からない。分かりたくもない。淡々と発せられた言葉を耳にしながら、日和はこみ上げてくるものを必死で押さえながら、ふすまの向こうに駆け込んでいた。

 …何? あれ…?

 後ろ手にふすまを合わせると、涙がぼろぼろとこぼれてきた。どういうこと? …そう言うこと? そうなのっ!? 声を上げたら気付かれちゃう、そのままベットにうつぶせに倒れ込んでしまった。
 私たちって…そう言う関係なの? あんたは、つい最近まではベタベタとまとわりついて、色々ちょっかい出したクセに。あの、山小屋の後から、本当にぴったりと止んでしまった。当然だと思った、口惜しかったけど仕方ない。だって…あの男とのこと、全部ばれちゃったんだもの。そうしたら、よそよそしくなることくらい分かっていた。だから、言いたくなかった。
 じゃあ、さっきの…あれは、何なの? 私のこと、好きだって言ってくれたじゃないの。確かに、やり方は過激で正直、びっくりしたけど…それでも、嬉しかったのに。あれ、何だったの? 冗談だっだの?
 あんな風に近づいて。それでここに戻ったら、どうなるんだろう? 期待していたのかも知れない、予想していたのかも知れない…自分がとても悲しかった。
 雄王にとって。自分はただの家政婦みたいな物だったのかも知れない。そりゃ、たくさん守ってもらった。だからそれに報いるのは当然だったし、きちんとやってのけていたと思う。でも…日和の心の中にはいつでも、わだかまりがあって、それと同じだけの期待があった気がする。雄王のことを言葉では冷たくあしらいながら、好意を寄せられるのが心地よかった。

 4月に浜谷高校にやってきて。すぐに雄王に声をかけられた。気さくな人なつっこい笑顔で、冷え切った心に中にずんずんと入り込んできた男。煩わしいと思いながらも嬉しかった。もうとっくに忘れていた普通の生活が戻ってきた気がして。それは彼の性格で、他の教員にも同じように接していると知ったときはちょっと悲しかった。彼のあの情熱が自分にだけ向けられたらいいのにと。
 正直、英語講師の美春などに、優しく声をかけている雄王を見るのは嫌だった。どういうわけか。自分の時とは声が違う気がする。もっともっと明るくて甘い気がして…胸がきゅーっと痛くなった。とても嫌だった。
 絡みついてくる腕を振り払いながら、その実、もっと強引にしてくれれば良かったのにと思っていた自分。もうちょっと、その指の力が強かったら、それのせいにして全てをまかせてしまってもいいのに…。仕事をしに来ている学校で、何てことを考えていたんだろう? 本当に情けない、そんな心内はどうしても知られたくなかった。雄王の方から、来て欲しかった。強引にでも奪って欲しかったのに――。

 シーツに涙が染み込んでいく。顔を上げたら、頬を伝って、口に入ってくる。しょっぱい、涙と血は同じ味がする。あの男に殴られると良く口の中が切れた。しょっぱい味が広がって、生臭くて、もう死んでしまうのかと思った。でも、そう言うとき、不思議と涙が出なかった。人間、あまりに絶望すると涙も出なくなるのだと知った。
 ならば、こうして今、流れているものは何だろう? ベットの上で伸び上がって電気を引っ張る。いつもはひとつ残しておくのだけど、今日は真っ暗にした。隣りの部屋の灯りがふすまの隙間から線になって見える。それと一緒にTVの音が耳障りなくらい、響いている。
 隣りの部屋にいるのに、こんなに近くにいるのに。もう決して触れ合えない平行線のふたりのような気がした。やっぱり今更、始まることなんてないんだ。そう思えたら、また泣けた。

◇◇◇

 どれくらい時間が経ったのだろう?
 壁の方を向いて、目を閉じてうつらうつらしていた。ちょっと、とろとろっとしてまた目を覚ます。ライトのボタンを押して、目覚まし時計の時間を確認する。それを繰り返していた。時間が過ぎるのはあまりに遅くて、横になってから1時間も過ぎてない。野球も続いているようだ。お馴染みのマーチ音にアナウンサーの絶叫が被る。また目を閉じた。早く夜が明ければいいと思った。

 ずずっと。

 いきなり背後から灯りがさした。というか、ふすまが開いたのか? そう言えば、つっかえ棒も何もしていなかった。もうそんなことする必要がないと思っていたから。
「…日和ちゃん?」
 不思議そうな声がする。多分、自分の背中を眺めているであろう男の声。いつの間にかTVが消えている。
「ちょっと、待てよぉ〜。寝ちまったんじゃないだろうなあ〜、嘘だろ!?」
 日和が振り向かずにじっとしていたからだろう、そんな風にわめきながら、ズカズカと部屋に入ってくる。何なんだ? 確かにここはこの男の部屋で。だから入ってきても文句は言えないんだけど…でも。
 かちっと電気を付ける音。ぱあっと室内が明るくなった。
「――おいっ?」
 ぐいっと肩を掴まれて、仰向けにされる。そして、大きく目を見開いた男とばちっと目があった。

「え…?」
 そう口ごもると、慌てて手を離す。びっくりしたように少し後ずさった。
「どしたの? 何でぇ、泣いてんだよ!?」
「…何でもないわよっ!?」
 日和は手の甲でごしごしと顔を拭って、また雄王に背を向けた。どうして、いきなり来るのよっ…とと? 慌てて、がばっと向き直る。
「何でっ! 何も着てないのよ!? この野蛮人っ!!」
 どう見てもシャワーを浴びたての感じだ。髪の毛からもぽたぽたと水滴が落ちている。そして裸のままの上半身から湯気が沸き立っている。水滴が飛んでいる筋肉質の身体。あまりに生々しいから、次の瞬間、目をそらしていた。一応腰にバスタオルは巻いてるけど、その下はどうだか分かんない感じ。
「…そっちこそっ!? 何でそんなにしっかり着込んでるんだよ!?」
 雄王も負けじと応戦する。大きくジェスチャーするから、こっちにまで水滴が飛び散って来た。
「私はあんたみたいに、露出狂じゃないのっ!! 寝るときはちゃあんと服着てるんだからっ!」
「おいっ――!?」
 さっさと布団を被って寝の体勢に入る日和に、雄王が食ってかかる。
「こう言うときは、なあっ…! 素っ裸でシーツにくるまって、待ってるもんだろ!? どうしてお前はデリカシーがないんだよっ!!」
「…は!?」
 思わず、振り返ってしまった。仰向けになった日和の上に雄王が覆い被さってくる。
「ち…ちょっとぉっ!! 何言い出すのよっ!? …この淫乱男っ!!」
「服なんかしっかり着込まれたら、脱がせんのが面倒だろうがっ!? それぐらい分かんねえのかよっ!」
「へ…?」
 何が何だか分からない。分からないのかと聞かれるなら、分からないと答えるしかない。どうなっちゃってるのよ、この展開…!?
「だ…だってさ、寺嶋先生…」
 ずいっと暑苦しい顔が目前に迫るから、ついつい両手で押し返してしまう。それくらいの力では払いのけられるモンじゃないが、とりあえずガードにはなってる感じ。
「朝ご飯、作ってから出て行けって――」
 そうなんでしょ? 飯炊き女みたいに私のこと言って。それだけの存在みたいに…。そんな日和の戸惑った表情に、雄王が大きくため息を付いた。
「頼むよ〜お嬢さん。この期に及んでそんな呆けないでくれよ…」
「だって…」
 言葉の通りに取っただけだもん、私、悪くないものっ!? 日和はぷいと横を向いてしまった。
「じゃあ、何か? これから思い切り抱いてやるから期待して待ってろとか言えば良かったのかよ!? んなこと、言えるわけねえだろ? こっちだって滅茶苦茶緊張してんだからさっ!!」
「…いつもだったら、それくらいのこと、ばんばん言うじゃないのっ!?」

 雄王がこうしてきてくれたのは、正直嬉しかった。でも、素直になんてなれない。もう、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだ。首筋に息がかかる。自分じゃない人の。視界がふっと暗くなった。

「日和っちゃん――」
ずいっと顔が寄せられる。顎を掴まれて強引にむき直させられる。
「俺さ、決めてたんだからな。事件が全部解決したら、その褒美に日和ちゃんを頂いてやるって。もう、腰が立たないくらい突きまくって、メロメロにしてやるって…」
「ち…ちょっとぉっ!」
 ぐいっと胸元を引っ張られる。スナップボタンのTブラウスがぷちぷちと音を立てて開いていく。その下にはちゃんと下着も付けていた。だって、部屋に戻るつもりだったんだもん、いくら何でもノーブラじゃ外は歩けない。
「どれくらい待たされたと思ってんだよ…っ! もう限界だよ、頼むよ…!!」
「やっ…駄目っ…!!」

 その時、びくっと全身に戦慄が走った。慌てて男の力に逆らって、胸元を押さえる。はぎ取ろうと躍起になって引っ張る人と、一枚の布の取り合いみたいになってしまった。
「何だよっ!? その手離せよっ!! 服が裂けても知らないぞっ!!」
「…駄目っ…、あ、やっぱりやめて…やなのっ…!」
 必死で叫んだら、雄王の様子が変わった。こちらの真剣な気持ちが伝わったのかも知れない。
「何だよ…?」
 恨みがましいような悲しいような、何とも言えない表情が日和の潤んだ瞳を捕らえた。
「どうして、駄目なんだよ!? 俺のこと受け入れてくれたんじゃなかったのか? 俺はずっと日和ちゃんとやりたくてたまんなかったのに――っ!!」
 雄王の言いたいことはよく分かった。でも日和はふるふるっと首を振る。瞼を伏せると、涙がぽろっとこぼれ落ちた。

「日和…?」
 大きく息を吸って、吐いて。それから震える声で言う。
「…見ないで、駄目。こんなの見たら、寺嶋先生、私のこと嫌いになっちゃう…」
「日和ちゃ…」
「駄目なの、ごめんなさい。自分で見るのも嫌なのっ…もう、こんなの、誰にも見せられない…」
「え…?」
 日和は雄王をまっすぐに見た。その目からまた、新しい涙がこぼれる。
「見られたくないんだもの…」

 雄王が目を見開いた。それからこちらの言わんとしていることが全て分かったように、ふっと顔をほころばせる。
「…え、あの…やっ…!」
 身じろぎする暇もなく、抱き寄せられていた。見た目はカチカチに固いと思っていた雄王の胸が、実はとてもやわらかい。シャワーの後の火照ったそれはプールサイドの時よりももっと親密に張り付いてきた。
「なーに、心配してんだよ。俺が日和ちゃんのこと、嫌いになんてなるはずねえじゃん…」
「だって…」
 顎を持ち上げられて、静かに口づけられる。心をほぐしていく、やわらかいキス。大きくてごつごつした手のひらが日和の髪をかき上げて、耳元をなぞる。敏感な場所に指が這うと、思わす声が漏れてしまう。
「服の下が、全身ウロコだったとしても、この際、許す。それくらい好きだから」
「えっ…やあっ! そんなこと、あるわけないじゃないっ!!」
 腕の中で軽くもがいた隙に、雄王の右手がするするっとシャツの中に入ってくる。おなかからブラのフチ。そこをそろそろっと背中に回って、ホックを外す。探るようなぎこちない指の動き。
「すごく、やわらかいじゃん…気持ちいいよ…」
「やっ…!」

 素早く唇を塞がれる。舌がねじり込まれて、日和の食いしばった歯を舐めていく。つるつると何とも言えない感触。舌が歯茎に触れるとくすぐったくて、ぞくぞくする。大きな手のひらが胸を大きく揉みほぐす。頂を感触で探し当てて、周りからせめていく。背中にももう一方の手が差し込まれて、どんどん服をたくし上げていく。
「あっ…」
 服をはぎ取られて、泣きそうな声を上げた。
「やあ、電気、消してっ…」
「駄目」

 そのままシーツの上に仰向けに寝かされる。日和の怯えた視線を、雄王が優しくなぞっていく。その色は一点の曇りもなくて、ただ、やわらかいもので満たされていた。
「今夜は、日和ちゃんが余計なこと、何にも考えられないくらい、悦ばせてやるよ? 俺に浸かって俺だけの身体になるんだ。だから、もう…」
 我慢できないように口づけてくる。ねっとりしたキス。多分、この人はこんな風かなと思っていた。言葉を交わすたびに、視線がぶつかるたびに…心のどこかで、この人の感触を思い描いてきた気がする。舌が絡み合う、挨拶をするみたいに。心を探るように…。
 そして、その下で、大きな手のひらが片方ずつ、胸を包み込む。両方に波打つ感覚が走る。頂が固くなってきたのが分かる、手のひらにこすれて、何とも言えない感触が産まれる。それだけで気がおかしくなりそうだ。
「すっげー、日和ちゃん。もうこんなに感じちゃってる…もう、可愛いんだからなあっ〜」
「あっ…やあっ! そんなじゃないのっ!! あうんっ…!!」
 顔を横にして必死で叫ぶ。次の瞬間にはまた、舌に絡め取られているのに。雄王の口内へのせめは終わらない。同じ瞬間、胸元の蕾はその両方を同時に摘まれて、くにくにっと側面をさすられる。その指遣いの慎重さがいつものこの男のがさつさからは信じられないほど繊細で、身体がふんわり浮きそうになる。

 下腹部の奥が何かを求めるように熱くたぎり、沸々している。それが何であるか知らない日和ではない。でもそんな風に再び火を付けられた身体が信じられなかった。
 あの男の相手をしているとき、こんな気分になったことはなかった。だって、いつも自分本位のせめで、どちらかというとあっさりしたものだったと思う。言うことを聞かない日和を攻め立てるときもただただ強引に突き立てるだけだった。冷めた身体ではあまり反応できず、ただ、早く果ててくれることを祈っていた。そのために演技で喘ぎ声を出すことも少なくなかった。
 あまりの快感の波に早くもくったりしてしまう。そうだ、本当に忙しい日々だったのだ。身も心も安まる間などなくて。ようやく全ての幕が下りたのだ。出来ることなら、このままゆっくりと眠りたい気もする。それなのに、たかまっていく身体。

「まだ寝るなよ〜、夜は長いんだからな〜」
 念を押す声、でも嬉しそうだ。日和が反応していくのがたまらない、と言った感じ。笑いを堪えながら胸の間に顔を埋めて口づける。そして、両脇から日和の胸を寄せて、自分の頬に押し当てた。

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