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…After Storys, 4…
『そして、やっぱり君が好き』

 

 

2002年12月28日(土)

「ち、ちょっと待てよっ!」
 いきなりなんだが、大声で叫んでいた。
 この凍りそうな寒空の下、必死で部活指導をして。ついでにボールを顔に当てた生徒を医者まで連れて行って。家まで送り届けたら「どうぞ、上がって御夕食でも」と言われたのに、丁重にお断りして。で、ようやっとアパートに戻ってきてドアを開けたら…。
「なっ、何してんだよっ! 日和っちゃん…っ!!」
 もうつっかけサンダルを脱ぐのももどかしい。俺は台所を横切って、そのままリビングに乗り込んだ。
「う? 何って。見りゃ、分かるでしょう? そんなに大声出さなくたって…」
 こちらに背を向けたまま作業していた彼女が振り返る。正真正銘、俺の彼女。まあ、色々あったりして成り行きではあるが、とにかく一緒に暮らしている。
 …だが、何だっ! この状況はっ!!
「そりゃ、分かるぜ。分かるから、聞いてんだろ〜がっ!!」
 座っている彼女に合わせて、俺も両手を床に置き、四つんばいになってにじり寄る。仕方ないなあと言うように日和は手を止めて、こちらを振り向いた。相変わらず綺麗に化粧して、髪もさらさらしてる。少し眉間にシワを寄せて、その視線は怒りの色を含んでいる。思わずひるむが、すぐに考え直す。
 …待て待て。俺は何もしてないぞ!? 飲み屋のねーちゃんに聞いた携帯ナンバーは削除したし、給料出たけどパチンコにも行ってない。ついでに有馬のチケットも買わなかった。偉いんだぞっ! 生活力のある男なんだからなっ!
「…私」
 俺の真剣な(?)まなざしにも動じず、彼女はしっかりした口調できっぱりと言い放つ。
「実家に帰るわ」
「えっ!? ええええええっっ〜〜〜〜〜!?」
 大の男がみっともないとは思う。でも叫ばずにはいられなかった。思いっきりのけぞった後、目の前の人の細い肩をがしっと鷲掴みにする。体重を掛けすぎたのか、彼女の身体が少し揺れた。
「ま、待ってくれよっ! どういうことだよっ!! 日和っちゃん…だって、この前1週間も戻ってきただろう? どうしてまた、帰るんだよ〜っ! 俺をひとりにするなよ〜〜〜っ!」
 年末押し迫って、もういくつ寝るとお正月の今日。
 外が寒かったからなんだけど、鼻をずくずくとすすり上げながら、必死に叫んでいたら、あんまりに悔しくて泣けてきた。

 日和と俺は同じ県立高校の職員だ。俺は期限付きの日本史教師で、彼女は非常勤の家庭科講師。いわゆる同棲で、籍は入っていない。校長も他の職員もみんな俺たちのことは知っているが、まあ、暗黙の了解という感じで。彼女も俺もここの高校に勤務するのは来年の3月までだから、どうにかやってる。4月から、俺は晴れて正規採用になるんだ。60歳の定年まで、教師の職が保証された。嬉しいことだ。
 …まあ、それはいいとして。
 12月20日に2学期の終業式があった。通知票を渡して、さようならという奴。その後、冬休みが年明けの6日まである。で、俺と違って時間講師の日和は期末テストの成績付けが終わった後、忘年会の翌日から実家に戻っていた。家の事情だから仕方ない。日和の実家はここから電車で2時間半、北上した地方都市にある。
 クリスマスイヴの日に、若手の職員でご苦労さん会があって。それに合わせて彼女は戻ってきた。何て言ったって1週間以上ぶりだ。もう嬉しくて。その夜は飲み会の後だったのにもかかわらず、燃え上がってしまった。
 彼女だから、という贔屓目で評価が甘くなっている訳ではない。日和はいい女だ。とりあえず家のことは何でもこなすし、食事も上手いし、その上ベッドの中だって最高にいい感じだ。
 あ、のろけるのもいい加減にしろって? ああ、分かったよ。
 で、日和はその日から俺がひとりで1週間分散らげた部屋をさっさと片づけにかかった。足の踏み場のなかった状況を半日で元通りにして(これだけでも、俺から見れば神業)、洗濯もがらがらと回して、布団も干して。その後、窓ふきやら、網戸の掃除やら、普段は片づけないモノ入れの中やら、とにかく家中の片づけに入った。
 俺も最初はびっくりしたが、よくよく考えると、それが暮れの大掃除だと合点がいった。ひとり暮らしが長かったせいか、その手の行事に疎い。もともとゴミの中で生活していた様なものだし…。
 もちろん、俺は冬休みだからって部活があるから学校に行く。だいたい8時、いつもの勤務と変わらない時間に家を出る。で、戻るのは日も暮れた5時過ぎだ。玄関に辿り着くと、いつもになく嬉しそうな顔をした日和が出迎える。そして、今日の実績を事細かに報告して、俺に感想を強要する。
 網戸がどれくらい綺麗になったかなんて、ぴかぴかの網戸ばかり見せられたって分かるものじゃない。TVのCMのように「使用前・使用後」で比べなくては。でもここで生返事をしたりしたら大変だ。一度、ぼーっとしながら相づちを打っていたら、その後へそを曲げてしまった日和が天照大神(アマテラスオオミカミ)よろしく寝室に籠もってしまい、途方に暮れたのだった。

 …で? どういうコトだよっ! 聞いてないぞ!? 話を合わせた訳ではないけど、日和はこれから先、大晦日も元旦もずっとここに居るんだと思っていた。
 ふたりで紅白歌合戦を見ながら、日和のお手製のおいしい年越しそばをすする。その後、しっかり和装して(日和は自分では着物が着られません…:作者注)、近所の『誕生寺』にお参りに行くんだ。そこで熱い甘酒か何かすすって、おみくじ引いて。それを木の枝に結びながら、今年もいい年にしようねとか微笑み合うんだ。
 ――で。戻ったら、もうここは『お代官様、くるくる』しかないだろう。ああ、帯を解くのってやってみたかったんだよな〜きっとものすごく萌えるに違いないっ!(だから〜、日和は着物なんて着られないんだってば〜:しつこく作者注)ああ、これのために布団は床に敷こう。やはり、着物は敷き布団だ。ベッドじゃ気分が出ないっ!
 うす桃色の長襦袢からこぼれ出る白い肌。心細そうに俺を見つめながらも、これから起こる出来事に期待して上気した頬。細い身体をしっかりと抱きしめて言うんだ、「今年も宜しくな、日和…」 おおうっ! いいぞいいぞ〜〜〜っ!! 何てイカす姫はじめなんだっ!!
 …こんなにいろいろと考えてたんだ。部活で100本ノックとかしながら、頭の中では『お代官様、くるくる』で、いっぱいだったんだからなっ!! そりゃ、ないだろうがっ!!

 いろいろな思考が頭の中を駆けめぐり、危ない人のように呼吸が鼻息が荒くなる。
「ひ、日和っ! 俺を置いてどこに行くんだよっ! 行くなよ、俺、日和の作ったお節が食べたいっ! パイナップルの入ったきんとんをどうしても食べたいっ!!」
 そうだよ、甘酸っぱいきんとんをほおばりながら、欽ちゃんの仮装大賞を観るんだ。いいよな〜、もうはまりすぎだよ。こたつがないのが寂しいが、まあいい。ホットカーペットの上でも日和といればパラダイスだから。
 しかし、俺がどんなに嘆こうとも、彼女の態度は変わらない。こいつには情というものがないのか? いいのか、こんなで…。
「あのね、実家から電話が来たの」
 ただ、事実だけを述べる、かわいらしい口元。こう言うときですら、色っぽくてゾクゾク来る。俺は変態か!?
「実家でね、母親がひとりで頑張りすぎてキレちゃったんだって。
 ほら、私の家、兄嫁はいるんだけど妊娠中だし。満足に掃除も出来ないらしいのね。だから母親がひとりで嫌味なぐらい頑張ったんだけど、日に日に表情が険しくなって、青筋立ってきたって。
 どうにかしろって、さっき、お兄ちゃんが泣きながら電話してきた」
 そう言うと、さっさと俺の腕を払って立ち上がろうとする。そんなことをさせるもんか、手首をぎゅうっと握りしめた。
「何なんだよっ! そんなのあっちの都合だろ? 日和が無理に関わらなくたって…お父さんだって、お兄さんだって、いるんだろ? どうして日和が戻るんだよ〜〜〜っ!」
「あのね、雄王」
 下から見上げてるのに、姉のような瞳の日和。本当にしっかり者なんだ、いい女なんだ。
「どうして私が家政学部に行って、家庭科の教員を目指したか、分かる?」
「…は?」
 思わず、瞬きしてしまう。何を言い出すんだ?
「んなの、知るわけないだろ!?」
 この緊急時に何を言い出すんだ。攪乱させようとしたって無駄だからなっ!
 でも日和の方は、まっすぐにこちらを見てる。しっかりとした意志を持って。
「ウチの母親、とにかく家事の苦手な人だったの。庭いじりとかは好きなんだけど、お掃除もお料理もからきしで。だから、私、小学生の頃から色々やっていたのよね。大掃除ともなれば、先頭切っていたし、お節だって私の担当。おかげで今の私があるんだわ」
「はあ」
 言われてみればそうだ。日和の家事は教え込まれた知識と言うより身体に染みついている感じなのだ。てきぱきと能率がいい。手慣れた印象を受ける。だが、それがなんとお母さんの影響だったとは…。
「私いないと、実家は正月が来ないわ。だから帰る。その手、離してっ!」
 言いこめられてしまって、手を緩めた。日和の細い手首が俺の手をすり抜けて、またバッグの中にいろいろと詰め始める。これは嫌いだ。身の回りの物をどんどん持ち帰るんだから。これでは日和の家がここなのか実家なのか分からないじゃないか。
「実家に帰る」と言ういい方も気に入らない。俺と暮らしているこの家がまがい物のような気がしてくるのだ。
「日和〜、またそうして、何もかも持っていくんだな? 俺、やだよっ! まるで今生の別れのようじゃないか。いつもそうだよっ! 日和が戻ってくるまで、俺は不安で不安で仕方ないんだから…っ!」
「…もう」
 心底、呆れた表情で、日和が小さくため息をつく。そして自分の左手の薬指に手をやる。
「どうして、あんたはいつもそうなの? そんなに心配なら、これ、置いていこうか? 私が持っている特に高価な貴重品だよ?」
 なななななっ! 何を言い出すんだっ! 白くて長い綺麗な指にはまっているのは、俺が贈った45万円の指輪だ。一応、エンゲージリングのつもりだった。これを渡して、この休み中に日和の両親の元に行くんだ、そう決めていた。年末は31日まで部活があるけど、年始は6日からになる。その間、時間を作って…。
 こっちがさあああっと青ざめたのが分かったのだろう。少し、余裕を浮かべて日和が続ける。
「前に言ったでしょう? お正月はウチに来ない? ってさ。そしたら、雄王、面倒くさいって言ったじゃない。だから無理に誘わなかったんだ」
「あ…」
 それは。日和が、彼女の家は『男正月』だと言うから。俺には経験ないから分からないけど、どうも正月三が日の朝食は男が早起きして作るんだと。日和のお父さんは大の箱根駅伝ファンで、朝の8時までに朝食を終わらせたいと言うそうだ。となると、食べ始めるのが7時で、起きるのは6時。新参者としては早く起きざるを得ない。そんな〜、どうするんだよ。正月早々、6時起き? まだ暗いぞっ!
 と言うことで、来年からはどうか知らないけど。今年の所はご遠慮申し上げようと言うことになった。
「大丈夫、箱根駅伝の復路がゴールするまでには戻ってくるって。ひとりでゆっくりしていてよ?」
 そんな風にしゃーしゃーと言ってのけると、彼女は立ち上がる。腕時計にちらりと視線をやって。
 おいおい、本当に行くのかい? 明日だっていいじゃないか!?
「ひ、日和っちゃん。だったら、俺が――」
 そう言いかけたら、彼女はああ、やっぱりと振り向く。
「まさか、家まで送るよとか言うんじゃないでしょうね?」
 …その、まさかだったんだけど。あまりにすごんでいるので言えなくなってしまった。
「あのね」
 彼女は大きめのボストンバッグを手にしている。ビトンだか、ベネトンだか忘れたけど、ブランド物のカバン。いつもの帰省スタイルだ。
「母親、キレてるの。
 そう言う状況であんたが出てきてご覧なさい。大変なことになるんだから。
 だいたい、ウチの親は、一緒に暮らしていることも知らないのよ? いきなりパニクっているところにいろんなコトを突き付けたら、まとまるものもまとまらなくなるわ。そう言うのは、年明けにしてちょうだい…」
「ま、待ってくれよ〜、日和っちゃん…っ!」
 俺はドラマのように右腕を前に差し出して、カムバーックの姿勢になった。
「いきなりで悪かったけど」
 日和の口調はここに来ても、悲しいくらいいつも通りだ。
「お鍋にたくさんおでんを煮たから。とりあえずそれを食べていて。子供じゃないんだし、あとは勝手にどうにかしてちょうだい。コンビニは年末年始も24時間営業でしょ? だから雄王がひからびるコトもないから…」
「え、駅まで送るよっ! 車出すからっ!」
 日和は歩きかけて、また振り向く。ふうっとため息。
「雄王、車は学校でしょう? 取りに行っている間に駅まで歩いちゃうわ。電車は1時間に1本なんだから、乗り遅れられないの。いいわ、ひとりで行くから」
 ばたん、とドアが閉まる。
 エアコンも全開で、暖かさに満ちている部屋の中。でも君が居なかったら、寒いんだっ! 分かってくれよ、ハニー…とかなんとか。今時の高校生でも言わないようなしょぼい台詞を思い浮かべる。
「日和っちゃん…」
 かくして。俺はまたもひとりぼっちになってしまったのである。

2003年1月12日更新

 

2002年12月31日(火)

「たっだいま〜〜〜〜っ!」
 鍵穴にキーをつっこんでがちゃがちゃ回して。それで、ドアを開ける。明るい声でそう叫んだが、心は寒かった。
「…と、居るわけないか…」
 ひとりつっこみをしてドアを閉める。ひとり分には広く感じる玄関。いつもは隅にちょんと置かれている日和のブーツがない。それが彼女が居ないことを証明していて、胸が詰まる。そのまま、がさがさとコンビニの袋を揺らしながらリビングに向かった。
 買い物をテーブルの上に投げ出す。お湯をかければできあがりの天ぷらそばに、おにぎり3つ。それからトンカツ弁当。ビールが3本。スナック菓子とおつまみ。チョコレート。一番奥から、アイスのカップを取り出してそれだけは冷凍庫につっこむ。どうだ生活力があるだろう。俺だって、やれば出来るんだ。
 そう思いつつ、ふと見れば。わずか3日で足の踏み場のないリビング。借りてきたえっちビデオも見る気にならなくて袋のまま転がってる。試しに1本、つっこんでみたら、胸の大きなAV女優が日和に見えてきて悲しくなった。だから、そのままになってる。
 TVのスイッチを入れる。今日は早めに部活が終わったから、なんだかTVもいつもと違う感じ。見たいものも特にない。画面の向こうの人間たちが、無意味に浮かれて見えるのも気に入らないし。俺は、もう全てが面倒になって、ユニフォーム姿のままベッドに横になった。
 あれ以来、日和から連絡はない。まあ、いつもそうだから、慣れっこだけど。こっちから連絡も出来ないのだ。どうも日和の家は山の裾野にあるから、電波が届かない。携帯が通じないのだ。そんな馬鹿なと思ったが、やっぱりそうなんだ。いつでも『電波の届かないところにあります…』という無機質なアナウンスが入ってしまう。かといって、実家の電話にかける勇気もない。日和にもどやされそうだ。
「ううう…寂しいよ〜」
 我ながら、女々しいもんだと悲しくなってしまう。日和がいないと、まるで空気が薄まったように力が抜けてしまう。あのやわらかい笑顔、勝ち気な声。でもあったかくて、包み込んでくれて…こんな風にちょっと離れているだけで不安になるなんて、どうかしてる。彼女だって、そんな俺をうざったく思っているかも知れない。
 もとより、彼女はあんまりしつこくされるのが嫌いだ。だから前の男とも上手くいかなくなったと言っていたし。それだからこそ、俺はいろいろと気遣ってきた。この溢れんばかりの愛を少しは控えめにしていたつもりだし。
 指輪を渡して、プロポーズしても。それでも不安で。彼女が腕からするりと抜けていくような気がする。どこまで行けば、余裕になれるんだろう。もっと逞しい男にならないと日和にふさわしくない。
 ああ、でも。こんなコトなら…『男正月』でもなんでもお邪魔すれば良かったんだ。日和と一緒にいられるんだから。それが叶うなら、早起きだっておさんどんだって辛くない。そうは思っても後の祭り。今更、ひょこひょこと顔を出せるものでもない。
 ひとりではちょっと大きすぎる気のするベッド。布団の中に日和の香りが染みついていて、でも彼女は居ないから胸がぽっかりと空洞になる。ああ、空しい。ひとりの時より空しい。どうして、こうしてひとりぼっちで年越しをするんだろう…。これは、来年も日和と上手くいきませんって、神様がお告げしているんじゃないだろうなあ…。
 ずるずると、睡魔が襲ってくる。夕焼けに照らし出された部屋がだんだん遠くなる。俺は気付くと深い眠りについていた…。

◆◆◆

 次に目覚めたのは、携帯のかしましい音がしたからだ。
「…うっ…?」
 目を開けても真っ暗。今何時だ?
 時計を見ようと寝返りを打つと、背中がざらりとする。ああ、ヤバイ。ユニフォームのまま布団に乗るなといつも言われているんだった。生徒と1日中部活動にいそしめば、体中がざらざらになる。今日は曇りがちで風も強かった。なおさらだ。
 自分が海の底に沈んでいる気がする。それくらい、ひとりだ。
 ぼーっとしている間にもけたたましく「アンパンマンマーチ」が鳴り響く。ああ、また女子マネがいたずらしたなっ! 携帯をそこら辺に置いたまんまにしておくといつもそうだ。いい加減にしろっ! と言いたいが俺が何か言ったところでイマドキの女子高生はのれんに腕押しだ。
「はい、――はいはい」
 一瞬だけ。日和かと期待した。俺のことを心配してかわいらしくもかけてきたのかと。でも小窓に表示された見慣れた名前に気が抜ける。
「何だぁ? お前、寝てたのか〜? 日和さんに逃げられたって、本当だったのか!?」
 …そんな。冗談にもならないことを。その一言で俺が小さくて繊細な胸を痛めたことを、電話の向こうの奴は知らないだろう。
「…で、何なんだよっ! 治ちゃんっ…」
 がりがりがり。ああ、頭をかくと、砂が落ちてくる。困ったもんだ。
 そう、電話を掛けてきたのは、幼なじみの中須治だ。「迷子の8月」本編でやたらと出張っていた交番のお巡りさん。さっき、コンビニで奥さんの香ちゃんと会ったんだ。ちょっと立ち話をしただけだけど、そんな風に話が伝わっていたとは…。
「まあまあ、そんなに当たるなよ。お前がひとりで寂しいだろうと、声を掛けてやったんじゃないか」
「あん?」
 電話の向こうで赤ん坊の泣いてる声がする。彼はもう自宅に戻っているらしい。
「紅白が終わったらさ、初詣に行こうかと思って。こっちは赤ん坊がいるから、香は行けないんだ。だから、ひとりも何だしさ…でも、家族の分、祈ってこなくちゃならね〜し」
 この年の瀬押し詰まって、こともあろうに幸せのろけをされてしまった。何だ、単にひとりが嫌なだけか。つまんねー奴っ! …そうは思ってもちょっと嬉しい。やはり持つべき物は友達か。真っ暗闇の部屋で少しだけ灯りが見えた気がした。
「で、帰りはウチに来いよ。香が色々作ってあるから、とてもふたりじゃ食べきれないんだ。しこたま呑んだって、明日は休みだろ?」
「お、行くっ…! 行くぞっ!」
 がばっと起きあがって、布団の上で正座した。忘れていたが、香ちゃんは日和の前任の家庭科講師だ。それなりの腕は期待できる。きっと上手い料理がテーブルに並ぶに違いない…っ!
 帯くるくると長襦袢は諦めた。でも、甘酒とごちそうだけはゲットしたい。そうじゃなかったら、あんまりにも空しいじゃないか。
「じゃあ、年が明ける12時頃、迎えに行くよ? 分かったな?」
 俺は携帯を握りしめたまま、こくんこくんと頷いた。もちろん、相手には見えないんだけど…。ぷつっと音声が途切れた後も、しばらくはその動作を繰り返していた。我ながらアホらしい姿だ、でも、この長い友情には心から感謝した。

「あ、そうか。じゃあ、とりあえず」
 少し元気になったので、ベッドから降りて、リビングの電気を付ける。ぱあっと明るくなると、ごちゃごちゃの部屋とテーブルの上のコンビニ袋が目に入る。面倒なのでカーテンレールに突っかけた、バスタオルを手にする。とりあえず、シャワーでも浴びよう。それから、暖かくして、晩飯も食って。紅白見てひとりで笑おう。
 時計は9時半過ぎ。今から入れば余裕でサッチャンVS美川の対決までに出てこられる。確か、22時18分〜とかスポニチに書いてあった。平井堅も明菜ちゃんも中島みゆきもそのあとだから完ぺきだ。
 湯冷め防止のため、エアコンのスイッチも入れる。一応、部屋の電話も見たが、留守録の点滅はなかった。

◆◆◆

 身も心もすっきりして。やかんを火に掛けると、天ぷらそばのパッケージを破る。セロファンの上に乗った天ぷら(これで『エビ入り天ぷら』とか言うのは詐欺だと思う)とネギをどける。こぼさないように、こぼさないように…ひからびたネギだって貴重なビタミンだ。野菜を食べなくちゃいけないと、日和がいつも言っている。
 そして。準備を整えて、やかんを止めたところで、いきなりピンポーンが鳴った。
「…あん?」
 治ちゃんか? いや、まだ早いぞ!? これから世紀の対決だと言うのに、あのNHKびいきの治ちゃんがTVから離れるとは思えない。でも、もしかしたら、寂しい俺のためにTVの友になってくれるのかも知れない。俺は焦る気持ちを抑えてずかずかと玄関まで大股で進むと、サンダルを踏んづけ、ドアを開けた。
「…あ」
 う…嘘だろっ!?
 ドアノブを握りしめたまま、動きが止まる。髪からぽたぽたとしずくが垂れて、安っぽいコンクリートに丸いシミを作っていく。
「ただいま」
 常夜灯に浮かび上がった彼女がにっこり微笑む。それでもまだ呆然としていて、なんと言ったらいいのか、どういうリアクションをしたらいいのか、頭の中は大混乱していた。
「ひ、日和っちゃん…っ!!」
 そう叫んだ瞬間にぼろぼろときた。自分でもびっくりだ。なおも何か言おうとしたら、鼻が詰まって声にならなかった。しばらく、はあはあと息を整える。そんな間抜けな俺を彼女はきょとんと子犬みたいな目で見上げていた。
「どっ…どうしてっ!」
 寒空の中を駅から歩いてきた彼女は、頬をバラ色に染めている。それだけで、なんとも色っぽい。耳に付けた揺れるピアスが玄関の灯りにきらきらと反射する。俺がようやくドアから手を離すと、彼女は軽い足取りで中に滑り込んできた。
「慌てて来たら、鍵を忘れちゃったの。駅から電話したんだけど、出ないし。だから歩いて来ちゃった…」
 ぺろっと舌を出す。今夜の日和は見たこともない真っ白なコートを着ている。膝丈で全体がふわふわの綿みたいなやつ。まあ、よく見るとてるてる坊主のようでもあるんだが、すっごく似合っていて可愛い。
 恥ずかしそうに小首をかしげる頬にふわふわがまとわりつく。俺はまだ信じがたくて、そのふわふわの上から細い肩を捉えた。確かな存在に気付いて、ホッとする。ああ、日和だ、本当に戻ってきたんだ。
「だだ、だって、お前…戻ってこないって言ったじゃないかっ! 正月の3日まで、実家にいるって…」
 思わず動作が激しくなるから、ふわふわの上にもしずくがこぼれる。
「う…ん、よく考えたら、それまで居る必要もないだろうなって…」
 日和の手が俺の手首を掴む。そっと外されて、その後彼女は手袋を取ると、すっとかがんで、ブーツのファスナーを下ろした。ことん、ことんとかかとが音を立てる。長くて綺麗な足を包んでいるのは膝の上まである厚めの靴下。それまで真っ白。まるで、遅刻した天使が降りてきたみたいだ。後ろ手に持っていた紙袋を俺に差し出した。
「お節、詰めてきた。ちゃんとパイナップルのきんとんも作ったから。それから、おそばも少し持ってきたよ? ウチのは鶏ガラのスープで上に甘く煮た鶏肉をたくさん乗せるの。さすがにスープは持ってこなかったけど…すぐに出来るよ?」
「ひ、日和っちゃんっ!!」
 ばさり。紙袋が床に落ちる。もうなんだか嬉しくて嬉しくて仕方なくて。身体が濡れてるとか、髪がまだ乾いてないとか、そんなことも忘れて、思わず抱きしめていた。半袖のTシャツから出た腕にふわふわがまとわりついて、くすぐったい。
 そして。ふわっと匂い立つ、日和の香り。その中に、俺は違うものを見つけていた。
「…え? 嘘だろっ!?」
 胸元でボタン一つで止まっていたコートを手早く脱がせると、胸元に顔を埋める。
「や、やだっ…! 何するのよ〜!」
 身じろぎして抵抗する身体を両脇から押さえ込んで、俺は、ふるふるしながら、顔を上げて彼女を見た。
「な、何!? これって、もしかして、このままどうぞ、って…こと?」
 い、いいのかっ! 一足早い、お年玉か!? いんや、俺は成人している社会人だから、お年玉なんて貰えないんだけど…でもっ、でもっ!!
 日和の身体から、石鹸の匂いがする。実家の物なんだろう、俺のと違うから、間違える訳もない。ええっ! 嘘だろっ!? もしかして、お召し上がり状態になって、戻ってきたとか? 身体の方ももう凄いことになっているとか? ええええええっ…、どうしたんだ、大胆すぎるぞっ! 今日の日和ちゃんはっ!
「やぁん、違うの〜っ! 離してよ〜、やめてよっ!」
 止まれますか、ここまで来て。もう走り出してます、俺。サッチャンと美川の対決はちょっと名残惜しいけど、目の前の欲望には勝てそうにない。
「大掃除も終わって、お節も詰めて、おそばの準備までして。で、早めにお風呂に入ってたのっ! だって、紅白とか観るでしょ? そしたら、急に雄王のことが気になって…だから、お湯から上がって慌てて支度して。お兄ちゃんに頼んで、駅まで送ってもらったのよ。良かったわ、ちょうど電車があって…最後の特急だったわよ」
 おおう、コートの下は袖無しじゃん。もうどこからでも手が入るぞ? あまりの嬉しさに、じーんと来てしまう。…あ、そうだ。ふと思いだし、頭が標準モードに戻る。
「日和、治ちゃんが12時に迎えに来る。初詣に行こうって。一緒に行こうぜ? でもって、来年一年のコトをしっかりとお願いして…」
 そこまで言ったら、凄い力で腕を解かれた。ああ、名残惜しいぞ。
「もう、だったらっ! それまでにおそばを食べなくちゃならないでしょう? こんな風にしてる暇ないのっ! 駄目よ、今はっ!」
 彼女もまた、普通に戻っていた。紙袋を手にすると、すたすたとガス台の方に歩き出す。途中でふっと視線がリビングに行くので、びくっとした。彼女の視界に飛び込んできた、見るも無惨な荒れよう…袋からはみ出てる、怪しげなタイトルのAVまで丸分かりだ。でも、振り返った彼女の目は笑っている。ホッと胸をなで下ろした。
「…お掃除も、あるのね…ああ、ここまで来てまた大掃除かしら…」
 そんな女神様の微笑みに吸い寄せられて、もう一度後ろから抱きついてしまった。予期せぬ出来事だったらしく、きゃっ、と小さな悲鳴が上がる。
「大丈夫、すぐに終わるからっ! なあ、今年最後の、やろうよ〜」
 ほんの少しの空白があって。ふうっと、小さな吐息。腕にこぼれて。
「馬鹿…」
 彼女はシンクを背に振り返る。素早く頬に手を当てると、そっと口づけた。こうやって、急に素直になる、そんな日和が好きだ。普段の素っ気なさがあるからこそ、魅力的だと思ってしまう。
 背中に腕を回して、抱きすくめる。その後、思わず、ほおっとため息が漏れた。体中が暖かく満たされていく。
「…どうしたの?」
 腕の中の人が不思議そうに訊ねてくる。その声までが胸を揺らす音楽になる。
「日和のこと、やっぱ、最高に好きだなと、思ってさ…」

 付けっぱなしのTVからも音楽が流れてくる。でももう耳には届かない。そのあとは、柔らかな心音とかすれる声と。そんな中にしばし閉ざされる。
 鼓膜を揺らす振動。どこかで除夜の鐘が鳴り出したのだと、最後に残った理性で思った。

 

めでたし、めでたし (030114)


…なのですが、実はおまけが…>>


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